「……? それって、どういう」
ディスの言い方に、少しばかり疑問を覚えてセイルが問い返した、その時。ディスが『しっ』と息を吐いた。セイルも、すぐにディスがそう言った理由を察して、息を潜める。
部屋の外から聞こえてくる、小さな、足音。
なるべく音を立てないようにして歩いているのか、セイルの聴覚でぎりぎり聞こえるか聞こえないか、といったところだったが……確かに、部屋の前を誰かが通過しようとしている。
巡回しているドライグの騎士なら、まず、足音を意識して殺す理由もない。
それならば、一体誰が?
不穏な予感を覚えたセイルは、ベッドから降りる。そして、別にそうする理由もないのだが、なるべく自分の足音も立てないようにしながら、扉に近づく。そうして、ゆっくりと扉を開いて……
「きゃっ」
「わっ」
大きく見開かれた、すみれ色の瞳を、覗き込む。
「シュンラン? どうしたの、こんな遅くに」
そこに立っていたのは、寝巻き姿のシュンランだった。片手には、部屋にあるものと同じ、魔法の光を閉じ込めたランプが提げられている。
シュンランは、いきなりセイルが顔を出してくるとは思っていなかったらしく目を白黒させていたが、やがて呼吸を整えて、小さな声で言った。
「探検です」
「……え?」
「眠れないので、探検をしているです」
探検。
確かに、昼間にクラウディオに連れられていくつかの施設は見せてもらったが、蜃気楼閣ドライグはあまりにも巨大な建造物であり、その全容はさっぱり理解できない。何しろ、城の中に、外から逃げてきた異端研究者とその家族を匿う小さな町があるくらいなのだから。
ただ、シュンランは、セイルと違って元々ここにいたはずだ。探検、の必要もないと思うのだが……そんなことをシュンランに問うてみると、シュンランは首を横に振り、ぷっくりと白い頬を膨らませた。
「クラウディオは、意地悪さんなのです。危ないからといって、探検しようとしても、いつもいつも、連れ戻されてしまったです」
『そいつは多分、クラウディオの方が正しいと思うが……』
ディスは、シュンランに聞こえていないとわかっているのだろうが、ぼそぼそとセイルの脳内で呟く。セイルも、クラウディオから『危険』については聞いている。女神降臨以前……『存在しない時代』の事物を研究するドライグでは、現代では失われている兵器などの研究も行っている。そのため、ドライグの一部の区画は王家に認められた者しか足を踏み入れることが許されていない。
実際、『ディスコード』が安置されている場所も、そういう進入禁止区域のひとつである、らしい。
現代では失われている、禁忌の兵器。それがどのようなものなのか、気にならないわけではない。しかし、禁じられていると言われれば、大人しく引き下がるべきなのだろう……と思ってしまうのは、間違っているのだろうか。
間違っていないよな、と思いながらも、目をきらきら輝かせているシュンランを見ていると、何故だか自分の方が間違っているような、気になる。
『お前……シュンランに弱いにもほどがあるぞ』
ディスの呆れた声は、とりあえず、聞かなかったことにする。そう、何も聞こえなかった。認めてしまうと、ちょっとだけ、悲しくなりそうだったから。
シュンランは、頬の膨らみを引っ込めて、小首を傾げてセイルを見つめる。
「しかし、セイルはこんな遅くにどうしたのです?」
「俺も、眠れなかったんだ。だから、今まではディスと喋ってたんだけど……シュンランの足音が聞こえたから」
「そうですか。なら、一緒に探検しませんか?」
シュンランは、ぱっと明るく顔を輝かせる。ただ、その大きく見開かれたすみれ色の瞳の中には、妙にいたずらっぽい光が瞬いているのが見える。
「セイルと一緒なら、クラウディオたちにも見つからないです。セイルは、目も耳もよいですから、きっと逃げるのも簡単です」
『つまるところ、共犯者になれ、と』
悔しいが、ディスの表現はいちいち的確だ。シュンランから頼られるのは嬉しいことだが、できることならばもう少しだけ違う場面で頼られたかった、とも思う。とにかく、確認しておくべきことは、きちんと確認しておくべし。声を潜めて、シュンランに問う。
「でも……もし、見つかったら怒られないかな」
「クラウディオは困った顔をするだけです」
「こ、困った顔、かあ……」
それは、下手に怒られるよりも、罪悪感が募るような気がする。しかしシュンランはしれっとしたもので、笑顔で「だから怖くないです」などとのたまってみせる。シュンランにはセイルの常識はとことん通用しないと見える。
ただ、セイルがなかなか返事を出来ずにいると、シュンランの表情が微かに曇り、もう一度、今度は不安げに首を傾げる。
「やっぱり、いや、ですか」
「い、嫌ってことはないよ! ただ、ちょっとだけ、いいのかなーって思っただけで」
慌てて言うと、シュンランは、にっと笑ってセイルの手を取った。
「だいじょぶです、見つかったら、わたしが謝ります。さ、行くですよ!」
片手で仄青い光を振りまくランプを振って、片手でセイルの手を引いて。シュンランは、足音を殺して廊下を歩き出す。行くとも行かないとも言ってはいないのだが、結局、こうなってしまってはシュンランについていくしかない、わけで。
『……セイル』
「ごめん、ディス、今は何も言わないで……」
ディスの、淡々とした呼びかけには、そう答えるしかなかった。
それ以上聞いてしまうと、自分があまりにも情けなくなってしまう、そんな気がして。
蜃気楼閣ドライグは、機巧仕掛けの城であり、異端研究者が集う町であり、そして、本来の役割は要塞であるらしい。故に、外敵の侵入を防ぐためだろう、内部構造は複雑を極める。いくつもの曲がり角を曲がった今、セイルは自分が何処にいるかさっぱりわからなくなっていた。
頼れるものは、自分の手を引くシュンランだけ。そのシュンランも、どれだけ蜃気楼閣の構造を熟知しているのかは、わからない。彼女の自信満々な足取りを信じるしかないのだが……少しだけ、不安が頭の中をよぎる。
そして、よぎった不安は、考えなかったことにする。
『シュンランも、適当に歩いてるだけなんじゃねえか?』
「言わないでよ、考えないようにしてたのに!」
頭の中で嘆息するディスに、小声で反論する。ディスはやれやれとばかりにあるはずもない首を振って、心の奥底に潜っていった。ディスの言葉が聞こえていないシュンランは、「どうしました?」とかわいらしく首を傾げ、それに対し、セイルは曖昧な笑みで誤魔化すしかなかった。
誤魔化してはみた、けれど……結局、耐え切れずに聞いてしまった。
「それで、シュンランは、何処に向かってるの?」
「わからないです。道があるから、歩いてるです」
「やっぱり!」
予想通りの答えを言い切られて、セイルは頭を抱えてしまった。これでは、探検ではなく迷子だ。下手をすると、遭難だ。こんな場所で遭難なんて、しゃれにならない。
最初は騎士やクラウディオに見つからないか、という不安が胸を占めていたが、今となってはむしろ、早く見つけてもらって、部屋に連れ戻された方が安心できるのではないか、とすら思えてくる。しかし、シュンランはセイルの不安など知ったことはないという様子で、ずんずん足を進めていく。闇に包まれた蜃気楼閣の、奥の奥に向かって。
導管の走る天井、金属の壁。変わりばえのしない風景が続くが、その中でも、いくつかセイルの気を惹くものはあった。特に、どうしても気になるものがあって、セイルはつと、足を止める。
「……どうしました? 誰か、いるですか?」
突然セイルが足を止めたことで、騎士の気配を感じたとでも思ったのか、シュンランが振り向いて鋭く声を投げかける。しかし、セイルの意識を奪ったのは、人の気配ではない。人の形は、していたけれど。
「いや……その、この像、何だろうって思って」
廊下に立っているのは、人の姿を模した像だった。何かはわからない金属で造られた等身大の像は、廊下のいたるところで見ることが出来る。そのどれもが、同じ人物を模っているのはわかるのだが、長い時を経ているからか、その表面はかなり腐食が進んでいて、顔立ちなど細かい部分を判別することはできない。
シュンランも、セイルの横に立って、像を見上げる。
「そういえば、廊下にたくさんあります。誰かは、わたしも知らないです」
そっか、と呟いて、改めて像に視線を戻す。のっぺりとした顔が、セイルを見下ろしている。体型からすると成人の男性と思われるが、背は低い。十五歳の平均より背が低いセイルよりも、小さいかもしれない。
もう一つ、気になるところがあるのだが……と、思ったところで、唐突に、声をかけられた。
「その像が気になるのかい?」
小さく、しかし確かに鼓膜を震わせる声。セイルとシュンランは、はっとなって同時にそちらを振り向いた。すると、廊下の曲がり角から、見覚えのある影が顔を覗かせていた。
「そいつは使徒アルベルト。陸の上じゃ『裏切りの使徒』って呼ばれてる、ドライグの建国者。異端研究者の始祖みたいなものさ」
「りゅ、竜王様……!」
しいっ、と人差し指を唇の前に立て、仮面の王はにやりと笑った。
竜王ガブリエッラは、昼間と同じ、奇妙な形の仮面を被ってはいたが、服装は玉座の間で見たような煌びやかなドレスではなく、男ものの寝巻きにガウンを羽織った姿だった。所作や言葉遣いが男性的なこともあり、そちらの方が似合っている、とつい思ってしまう。
像に気を取られていて、ガブリエッラが手にするランプの明かりにも気づかなかったのか。己の不覚に、セイルは軽く己の頭を叩く。だが、ガブリエッラはセイルたちを怒るでもなく、困った顔をするでもなく、ただニヤニヤと笑いながら二人の前に立った。
ガブリエッラに、自分を連れ戻す意志が感じられないと見たのか、シュンランは長身のガブリエッラを見上げて問いを投げかける。
「ガブリエッラも、眠れなかったですか」
「ま、そんなものさね。それと、君が部屋を抜け出すのを偶然見つけてね、後をつけてみたのさ」
いたずらっぽく笑うその表情は、何となく、セイルを探検に誘ったシュンランに似ていたし、それ以上に、セイルの知っている誰かの表情に似ていた。それが誰なのかは、思い出せなかったけれど。
それにしても、初めて見た時も親しみやすい態度の王様だとは思ったが、今は正式な形で見えているわけではないからだろう、玉座の間で言葉を交わした時よりもずっと、軽い雰囲気を纏っている。
だが、本来禁止されている場所への侵入を試みたという事実は変わらない。セイルは慌てて頭を下げる。
「そ、その……すみません、勝手にこんなとこに潜りこんじゃって」
「はは、好奇心を御するのは難しいものさ。私も子供の頃は、よく師の一人と進入禁止区域に潜りこんでは、父上にこっぴどく叱られたものだ」
「それって、ディアン、って人のことですか?」
ディアンは、ガブリエッラにとっては学問の師だったという。ドライグの王族は、彼ら自身が優秀な異端研究者であり、それらの知識は同じ蜃気楼閣で禁忌の技術を研究する学者たちから教授されるものである、らしい。
だが、ガブリエッラはセイルの問いに対し、首を横に振る。
「いや、ディアンはあれで生真面目な男で、己から禁を犯すことはほとんどなかったよ。私の学問の師は数人いてね、そのうちの一人さ。きっと、今となっては君の方が彼女には詳しいと思うがね」
空色少年物語