「……えっ?」
想像もしなかった言葉に、セイルは思わず間抜けな声を上げてしまった。セイルのよく知っている異端研究者といえば、ブランくらいしかいない。ただ、ガブリエッラはその人物を「彼女」と言った。全く見当がつかずに首を捻っていたセイルにとって、次のガブリエッラの言葉は耳を疑わざるを得ないものだった。
「君は聞かされていないだろうが……君の母は、ここドライグの研究者だったのさ」
「母さん、が?」
セイルの母。
涼やかな冬空色の瞳が、セイルの脳裏に蘇る。褪せた白髪を揺らし、いつもいたずらっぽく笑っていた母。実際、お茶目な人物ではある。旅に出てから、家族や家族の知り合い以外の人物と知り合うにつれ、彼女が世間的に見るとかなりの変わり者であるらしい、ということは何となくわかりはじめてきた。
だが、彼女がどういう素性の人物なのか、セイルは知らずにいた。テレイズの出身で、実家とは縁を切っている、ということを聞かされた程度で、父と結婚する前にどのような生き方をしていたのか、ということはずっと知らずにいた。
だが、母が、ドライグ出身で……なおかつ、異端研究者だったというのか。
信じられない、と思わずにはいられないセイルに対し、ディスは『あっ』と合点がいったように声を上げていた。
『そうか、やっぱりあいつか!』
「ディス、わかってたの?」
『お前のお袋、俺のこと知ってただろ。それに、俺もあの顔見覚えあると思ってたんだよ。そうだ、ディアンのとこにいたあいつだよ……正直、女だとは思ってなかったが』
セイルの母は女性にしては少々乱暴な言葉遣いが特徴だが、それでも男に見えるということはない。それとも、ここにいた頃はもっと酷かったのだろうか。どう、とは言わないが。
どうにせよ、俄かには信じられないことであり……セイルの胸の中に、もやもやとした思いを生む。
母が異端研究者だというなら、兄ノーグが汚名を背負って失踪した時も、何かしら思うところがあったに違いない。しかし、彼女は今まで一度も、異端としての姿をセイルには見せなかった。旅に出る時まで、セイルは異端と呼ばれるものについて、何一つ教えられることはなかったのだ。
――何故?
「どうして、母さんは、何も教えてくれなかったんだ……?」
もやもやとした思いは、暗い声となってセイルの唇から漏れた。
すると、ガブリエッラはそんなセイルの肩を軽く叩いた。自然と俯いてしまっていた顔を上げると、ガブリエッラは、口元を軽く歪めて苦笑を浮かべていた。
「彼女を責めないでやってくれたまえ。彼女はとうの昔に異端であることを止めているし、己の素性を語ることも禁じられている。君が知らないのは当然さ」
基本的に、異端研究者が己から異端であることを主張しないことは、セイルにだってわかる。それこそ、楽園の変革を公言する『エメス』のような存在でない限り、下手に異端であるという証拠を見せて神殿に追われるような真似は避けるべきだ。
そして、異端であると知られれば、その影響は自分だけでなくその周囲にも及ぶ。ノーグが出奔してからセイルの生活ががらっと変わってしまったように、チェインが姉の死を弔うことも許されなかったように、家族は最もその影響を大きく受けるものだ。
だから、母は何も言わなかったのだろうか――と、思ったが。ガブリエッラの表情を見る限り、ただそれだけではなさそうだった。
なら、どうして……と思ったところで、セイルはもう一つ、ガブリエッラの言葉に引っかかりを覚えた。見当違いのことかもしれないが、と思いながらも、奇怪な仮面を見つめて問いかける。
「母さんが異端研究者だったなら、どうして蜃気楼閣を出たんですか。研究を辞めてここを出て行くだけの理由があった、ってことですよね」
ガブリエッラは、「賢い子だ」と小さく微笑み、それから飛び切りの内緒話をするように、セイルの耳元に顔を寄せて囁いた。
「彼女は、ドライグの禁を犯して、蜃気楼閣からも放逐された研究者なのさ。故に、この蜃気楼閣で彼女の名を出すことも許されてはいない」
とはいえ、ガブリエッラやクラウディオは元々個人的に母と親しかったこともあり、時々、隠れて連絡を取り合っているらしい。
ガブリエッラといいクラウディオといい、王族というには妙に人間臭いのは、この蜃気楼閣の特徴なのだろうか。それとも、案外どの国の王族もこんなものなのだろうか。ともあれ、ガブリエッラが、そんな親しみやすい竜王であったから、セイルも、思ったことを素直に言葉に出来るのだが。
今、この瞬間のように。
「……母さんは、何を研究していたんですか?」
「それは、私の口から話すわけにはいかないな。ただ、蜃気楼閣の歴史の中で、唯一、人が侵してはならない領域に足を踏み入れようとしたのは確かだ」
人が、侵してはならない領域。それが、何を表しているのかセイルにはいまいちぴんと来ない。ガブリエッラの口ぶりからすると『エメス』が求めているものや、ディアンが犯した罪とはまた別種の禁忌であるようだが……シュンランはわかるだろうか、と視線を向けたが、目を丸くしてきょとんとしている。心の中のディスも、小さく唸るだけで、思い当たるふしはなさそうだ。
きっと、ガブリエッラをこれ以上問い詰めたところで、答えはもらえないだろう。だから、今はただ、軽く頭を下げる。
「その、教えてくれてありがとうございました。でも、どうして、俺に教えてくれたんですか? 本当は……伝えちゃいけないこと、なんですよね」
「もちろん、君が異端について何も知らないのであれば、永遠に、我々だけの秘密にしておくつもりだった。だが、君は既にこの世界の裏側を知っていて、この場所に立っている。故に、私の独断ではあるが、君に彼女のことを知って貰いたかった。そして、彼女を頼っていいということを覚えておいて欲しかったのさ」
「どういうことですか?」
「一度知ったことは、知らなかったことにはできない。『存在しないもの』が存在すると知ってしまった以上、君はこれから建前と現実にどう折り合いをつけるかを考えなければならない。戦いが終わって日常に戻れば尚更さ。そして、今までそうやって生きてきた彼女は、君に的確な助言をしてくれるはずだ。全てが終わったら、一度……きちんと、話してみるといい。今までのこと、これからのこと、全部な」
蜃気楼閣を追放され、己の研究を捨てた母。培ってきたものを全て失いながらも、セイルの前では、常に幸せそうに笑っていた母。
全てを黙っていたことには、憤りを感じないわけではないけれど……ガブリエッラの言葉を聞いているうちに、その怒りはすうっと消えていった。その代わりに、何処か、頼もしさすらも感じる。
家に帰れば、母が待っている。
きっと、色々な話をするだろう。旅のこと、出会いと別れのこと、兄のこと。きっと、その全てを、母は聞き届けてくれるだろう。そう思うと、少しだけ心が軽くなるような気がした。
「ありがとうございます、竜王様」
今度は、先ほどよりもしっかりと、礼が言えた。ガブリエッラはにっと笑い、セイルの空色の髪をぐしゃっとやった。
「なーに、単なるお節介さ」
ああ、そうか。やっと腑に落ちた。ガブリエッラの態度は、母のそれとよく似ているのだ。ガブリエッラにとっては、師であり、ある意味では姉のような存在だったのかもしれない。それは、想像することしかできなかった、けれど。
「さて、随分と長く立ち話をしてしまったね。そろそろ子供はお部屋に帰る時間だよ」
ガブリエッラの言葉に、シュンランは先ほどセイルに見せたのと同じように、ぷくーと頬を膨らませる。何だか、昔図鑑で見た、危険を感じると膨らんで威嚇するという魚を思い出す。
「ここまで来て、帰るのは嫌です」
「相変わらずわがままなお姫さんだ。けれど、ここから先は入れないのさ」
「入れない……ですか?」
廊下の先には、一つの扉がある。他の扉と変わらないように見える、横開きの扉。しかし、よくよく見ると、今までの扉とは違う奇妙な文様が描かれている。ガブリエッラは、扉の前まで歩いていくと、扉の文様が収束している場所に手を当てる。すると、するりと音もなく扉が開いた。
「まず、この扉は王族しか開けられない。まあ、私が開ければいいんだが」
「は、入っていいんですか?」
セイルたちに入るな、と言っておきながら、ガブリエッラの取った行動はセイルを戸惑わせるには十分だった。だが、ガブリエッラは鷹揚に笑い、親指で扉の奥を示す。
「はは、実は、私としては入れるなら入って欲しいところなんだ」
――入れるなら?
と、思いながら扉の向こうに足を踏み入れて、すぐにガブリエッラの言葉の意味を察することになった。
そこには、もっと狭い扉があった。いや、それは「扉」と形容するには少々躊躇われるものであった。部屋の奥には細い通路が続いているが、その入り口に当たる部分が、半透明の緑色をした光の幕で覆われている。
光の幕に見えるそれが、本来実体を持たないものであることも、見て取れる。
入り口の縁には、セイルが見たことのない奇妙な機巧が備え付けられていて、それが緑色の幕を生み出しているようだった。
ガブリエッラは、無造作にその光の幕に手を差し込もうとするが、ばちっ、という音と共に強烈な光が放たれる。思わず目を閉じてしまったセイルだったが、その光はすぐに収まった。目を開き、立ち尽くすガブリエッラの背中に向かって慌てて問いかける。
「だ、大丈夫ですか?」
すると、ガブリエッラはセイルの目の前で無傷の手をひらひらとさせる。
「ああ、この通り。しかし、誰もここを通れないのさ。故に、この先に何があるかもわからん」
いっそ、通路を破壊してしまえば早いのかもしれないが、何が起こるかわからない装置を壊すのも危険が伴うしなあ、とガブリエッラは腕を組む。シュンランは、こくりと首を傾げてガブリエッラに問いかける。
「ここは、ガブリエッラたちが作ったのではないですか?」
「使徒アルベルトと私の遠い遠いご先祖、とは聞いているがな。正直、蜃気楼閣の構造や設置されている装置の役割はほぼ失伝していて、我々自身で調査するしかないのだ。この扉も、その一つだな」
ガブリエッラの指先が、つうと通路の枠をなぞる。
「……過去に、『ディスコード』の使い手だった少年がここを通ったという記録はあるが、同じく使い手であるディアンは通れなかったと聞く。使い手であるかどうか、が鍵なのかと思われていたのだが」
と、いう言葉を最後まで聞くよりも先に、ディスがあっさりと言った。
『や、セイルなら多分入れるぞ、ここ』
「えっ? ディス、どういうこと?」
思わず声を上げてしまって、シュンランとガブリエッラの視線がこちらに向けられる。いたたまれない気分になって肩を竦めるセイルの内側で、ディスが大げさに嘆息した。
『あー……面倒だ、ちょっと代われ』
うん、と頷き、「ディスと代わります」と言い置いて目を閉じる。心の奥底に潜り込むセイルとすれ違うように浮き上がってきたディスは、相変わらずの半眼でガブリエッラを仰ぐ。
「ちょっと口を挟ませてもらうが、竜王さん、そいつは完璧な認識違いだ」
「……何?」
「こいつも失伝したのかもしれんが、この部屋を通る条件は『マナを持たない』ことだ。俺――のかつての使い手は、マナを持たないように造られてた。だから、ただ一人この先に通ったし、そこにあったものを見ている」
呟くように語られた言葉は、ガブリエッラを驚かせるには十分だったのだろう、息を飲む気配が伝わってくる。
「では『ディスコード』、君もこの先を知っているのか」
「一応な。だが俺の記憶も少々曖昧でな、セイルに見てもらった方が確実だろ」
軽く肩を竦め、「じゃ、言うことは言ったから」とすぐに内側に戻ろうとするディスだったが、それをガブリエッラが呼び止めた。不愉快そうに眉を顰めるディスに対し、ガブリエッラは真っ直ぐにその瞳を見据えて問いかける。
「何故、魔力を保有している者を拒絶するんだ? それでは、ほとんどの者が通れないということになるだろう」
ディスは、その答えを知っているのだろうか。ガブリエッラの視線を巧みに避けながら、しばし沈黙を守っていたディスだったが、やがて、ぽつりと言葉を落とした。
「そいつは蜃気楼閣の主、使徒アルベルト様の思し召し、って奴だ」
それを最後に、ディスは再びセイルの中に潜り込んで、本当に沈黙してしまった。ガブリエッラは、唇に指を当てて何かを考えていたようだったが、おもむろに顔を上げてセイルを見た。
「……まあいい、『ディスコード』がそう言うのであれば、信じてみようじゃないか。セイル、お願いしていいかな」
「は、はいっ」
セイルは、背すじを伸ばして返事をする。それから、恐る恐る、緑色の幕に手を伸ばす。先ほど、ガブリエッラは無傷ではあったが、あの時に見た強烈な光と音は恐怖を呼ぶには十分すぎた。これで、実はディスの言っていることも間違いだったらどうしよう。痛くないのだろうか。
そんなことをぐるぐる思いながらも……そのままではいられない、と判断してえいやっと腕を突き出した。
すると、セイルの腕は、あっさりと緑の幕を突き抜けた。激しい光や音の洗礼はなく、セイルの腕を中心に、波紋が幕の上を走っただけで、熱も感じなければ何かが圧迫してくる様子もない。本当に、空気の中に腕を伸ばしただけ、という実感だ。
おお、というガブリエッラの感嘆の声を背中に浴びながら、思い切って足を踏み出し、緑の幕をくぐる。幕の向こうには細い通路が延び、その奥には階段があった。ただ、それはセイルの目を通してみているからかろうじて見えるだけで、実際は完全な闇に包まれている、はずだ。
暗い中でもそれなりに見通せる目を持つセイルだが、流石に真っ暗となると、何かしら闇を照らすものが欲しい。そういえば、ランプはシュンランが持っていたのだった、と気づいた途端、セイルの横にランプが突き出された。
吃驚してそちらを見ると、シュンランが何事もなかったかのようにランプ片手に立っている。もちろん、行く手を阻んでいた幕はシュンランの背中にある。
「しゅ、シュンラン? 通れたの?」
「はい、通れました。不思議ですね」
ふわ、と微笑むシュンランだったが、不思議どころの話ではない。シュンランはマナを使って不思議な現象を起こす「歌」の歌い手だ。そのシュンランが、マナを持つ人間を選定する扉を通れるということが、不思議で仕方ない。
ディスの認識が間違っていたのだろうか、と首を傾げると、同じようなことを考えていたらしいディスが、ふと言葉を放った。
『……や、当然といや当然だ』
「当然?」
『シュンランは、マナを「生み出す」歌を歌うことで魔法に似た現象を起こす。こいつは当人の魔力の有無とは関係ねえ。自分が持ってなくても、その場で作っちまうんだから』
それに、とディスは声を潜める。この場ではセイルにしか聞こえていないと思うのだが、これに関しては気分の問題だろう。
『シュンランが、「存在しない時代」の遺跡から発掘されたってんなら、マナを持ってなくても不思議じゃねえ』
「そう、なの?」
「セイル、何を話してるですか? 仲間はずれはずるいです」
その、話題の中心のシュンランが、割って入ってくる。ディスは『む』と唸った後に、そのまま黙ってしまった。ディスにはよくあることだが、セイルたちに対する説明を面倒くさがったのだろう。後で、覚えていたら聞いてみることにしよう、と思いながらシュンランに弁解する。
「ごめんね。シュンランが、どうして扉を通れたのかなって、思ったから」
「わからないですが、通れたのだから先に進むです。行きましょう、セイル」
シュンランは、わからないことを、わからないものと割り切ることが得意なのかもしれない、とセイルは何とはなしに思う。もちろん、知りたいと望んではいるはずだ。だが、そこで立ち止まることはせずに、まずは前に進もうとする。
その力は、セイルにはないものだ。いちいち立ち止まって、あれこれ考えてしまう、セイルには。
そんなシュンランを羨ましいと思いながら、いつの間にか前に立って歩き出していたシュンランの後に続く。ランプの明かりに照らし出された急な階段は、それほど長いものではなかった。階段の奥にはもう一つだけ扉があったが、それは、シュンランが前に立つだけで開く。
そして、強い光が、扉から溢れ出す。
空色少年物語