空色少年物語

22:蜃気楼閣の長い夜(1)

 セイルは、柔らかな布団の上でごろりと寝返りを打つ。
 ……眠れない。
 心の中では、ディスが同じように眠れない意識を持て余しているのが、わかる。そもそも剣であるディスは眠る必要もないはずなのだが、人間とほとんど変わらぬ精神構造を持っているだけはあり、セイルが眠っている間は、一緒に思考を停止していることも多い。そのディスが今もなおじりじりとした気配を伝えているのだ、セイルと同じく眠れぬ夜を過ごしていると思っていい。
 ――ディス。
 そっと呼びかけてみる。ディスは、小さく身じろぎしたようだったが、『早く寝ろよ』とぼそりと呟き、そのまま奥深くに潜って沈黙してしまった。セイルとしては、少しばかり話し相手になってもらいたいところだったが、すぐに、その思いを打ち消す。
 ディスはディスで、言葉にはならない思いをぐるぐる巡らせているのだろう、ということが、何となくわかったから。
 ディスにとって、この蜃気楼閣は故郷であると同時に、辛い記憶を伴う場所であった。ディスが、薔薇園でクラウディオと向かい合ったあの時、セイルの心にもディスの抱えていたものがどっと流れ込んできたことを、思い出す。
 それは、痛み。息苦しくなるような、痛み。いつもならば痛みを嫌い、何もかもを沈黙に覆い隠してきたディスが、クラウディオに対しては己の思いを真っ直ぐにぶつけた。痛みを痛みのままに受け入れて、頭を下げて己の罪を悔いた。それは、ここまで共に歩んできた、セイルの知らないディスの姿だった。
 相棒、と認められたし、認めてももらえた。
 それでも、わからないことは、まだまだたくさんある。
 ディスが、この数百年の間、どんな思いをしてきたのか。かつての使い手はどんな人物だったのか。セイルは、『ディスコード』が二百五十年前の騒乱で振るわれていたことも、知らなかったのだ。確かに、ずっと封印されていたにしては当時のことに詳しいとは思っていたけれど。
 一度、思考を中断して、寝返り一つ。
 ただ、教えられていなかったことに対して、不思議と不満や憤りはなかった。今までは、どうして話してくれなかったのだ、と詰め寄っておかしくなかったと思う。実際、そうしたことも何度かあった。
 だが……ディスの抱えていた痛みを知ってしまった今は、ディスを責めるよりも先に「どうして言えずにいたのか」に思いを巡らせられるようになった。ディスは何も、セイルに全てを隠すつもりなんてないのだ。ただ、ただ、言葉にするのが辛いだけで。
 だから、セイルも、今は落ち着いた心持ちでディスのあり方を受け止めている。
 受け止めながら、少しずつ、ほんの少しずつでいいから知りたいと思う。ディスの過去、抱えてきた思い。それを、本当の意味で共有することはできなくても、ちょっとだけでも軽くできればいいなと思う、けれど。
 ――それは、思い上がりかな。
 ぽつり、と思念で呟く。すると、返事があった。
『いや』
 小さな、実際に鼓膜を震わせることもない、声。
『別に、悪かねえよ』
 何処までも、ぶっきらぼうな物言いではあったが、それがディスの照れ隠しであることは伝わった。素直じゃないなあ、と思いながらも、セイルは思わず喉を鳴らして笑ってしまった。そうでなければ、ディスではない。
 何処か不機嫌な音色を立てるディスに対して、今度は声に出して呼びかける。
「ディス」
『何だ』
「兄貴が見つかった後も、俺たち、一緒にいられるのかな」
 その問いに対して、ディスは一瞬、答えを躊躇った。その躊躇いこそが、セイルにとっては一番の答えだったけれど。
「……無理なんだ」
『俺は、役目が終われば再び封印されるだろうな。抑止力が誰かの手にあり続ける、ってのはいいことじゃねえ』
 別に、お前を信頼してないわけではないけれど、俺やお前が何を言おうと、周囲がそれを許さないだろう、と。ディスは静かに言った。微かな、引きつるような痛みの感覚を伴ってはいたが、それでも、ディスの心は凪いでいた。ディスは、最初から覚悟を決めているのだろう。
 それも当然だ、と。理性的な自分が言う。
 実際に、『ディスコード』を求めて『エメス』が追手を放ち、神殿も『ディスコード』を確保しようとチェインを寄越す。ディスは、それだけの存在であり……セイル一人が、握っていてよいものでも、ないのだ。
 理解はできるのだ。ただ、それと、感情がどうしても一致しない。
 ディスとの別れを想像するだけで、胸がきゅっとなる。避けがたい別れの予感ばかりが、頭の中をちらつく。『ディスコード』を握り、シュンランを兄の元まで導くのが自分の望みだったというのに、今、ここまで来て、胸を押しつぶそうとする。
 覚悟すべきだった。それに、セイル自身、覚悟しようとしてきたはずだ。それでも、
「離れたく、ないな」
 うつぶせになって、枕を抱く。
 とんでもなく、わがままなことを言っている。これでは、駄々を捏ねる小さな子供と何も変わりはしない。わかっていても、言わずにはいられなかった。
「知りたいことはいくらでもあるんだ。ディスのこと、シュンランのこと、チェインとブランのこと。でも、ここから先に進んだら、戻れないんだよな。何度も何度も、それが当たり前だって言い聞かせてるのに、まだ、俺、納得できてない」
 ブランにも、同じようなことを言ったけれど。
 こんな気持ちのままでは、兄に会うこともできないのではないか。そう、思う。いっそ、兄が見つからなければいい、という声が、頭の中を巡って離れようとしないのだ。
 それだけ、この旅の中でセイルが経験した出会いは、大きかった。その大きさを、セイル自身が自覚してしまった。
 ディスは、そんなセイルの言葉を、非難もせずに聞いていたが、セイルの言葉が途絶えたところで、あくまで淡々と声を放った。セイルの頭の中にだけ響く、少年の声を。
『俺は、剣だ』
「うん、知ってる」
『剣で鍵で、どうにせよ、道具だ。道具は正しく使われなきゃならん。使うのは人であって、俺じゃねえけど……間違わないように、導くために、俺はここにいるんだと思ってる』
 それは、ディアン・カリヨンという使い手を見届けたことから、ディスが誓った役目なのだろう。けれど、ディスは、そこに一言だけ付け加えた。
『……いや、思ってた、だな』
「思ってた?」
 あえて過去形で言い直したディスは、溜息交じりに言葉を続ける。
『俺が剣で鍵であることは覆せねえ。だが、俺は剣のくせに戦うのは嫌いだし、鍵のくせに世界樹とか女神さんとか、心の底じゃどうでもいいと思ってる。俺が、楽園のために力を振るうのは、ただリコの遺言を守りたいからで……結局は、「ディスコード」の役割の何もかもが、心から望んでることじゃねえ』
 そう言われてみると、確かにディスは出来る限り戦いを回避しようとしていたし、一貫して、楽園のあり方に対しては距離を置いた視点を持っていた。女神に対して懐疑の念を抱き、しかし『エメス』のやり方には批判的。穏健派の異端であるブランに近い立ち位置に見えたが、そのブランでも、ディスとは根本的な考え方が違うのだと言っていたことを思い出す。
 世界樹や女神がどうでもいい、という言葉には多少反感を覚えなくもなかったけれど――その言葉を、ディス自身も否定的に使っているのは、伝わってくる感情から確かだった。
 一体、ディスは何を言おうとしているのか。話の流れが見えずに戸惑うセイルに対し、ディスは、己自身に言い聞かせるかのように、ぽつりと、呟いた。
『そんな俺が、どうして「ディスコード」なのか……俺自身、ずっとわからずにいる』
 どうして、『ディスコード』なのか。
 ディスの問いかけは、セイルを絶句させるのに十分だった。
 セイルにとって、ディスはディスだ。大切な相棒『ディスコード』であり、それ以上でも以下でもない。だから、ディスの問いに答える言葉も、当然持ち合わせてはいない。
 しかし、ディスの今の言葉で、セイルはずっと胸の中につかえていたものが氷解するのを感じていた。
 ――俺は、剣だ。
 何度も何度も、言い聞かせるように呟いていた言葉。人のように扱われるたびに過剰なほどの拒絶反応を示し、最初は愛称で呼ばれることすら嫌がっていた。その頑なな態度がずっと不思議だった。
 だが、それは、ディス自身が、剣でありながら、そうなりきれない心を抱えていることに気づいていたから。剣になりきれず、さりとて人ではありえない自分を、見失わないために放っていた言葉だったのだと、今、初めてセイルも理解した。
『そんな風に思っていたら、お前と出会った。それで、考えるのを放棄してたことまで、考えなきゃならなくなった。そりゃあもう手前があまりに世間知らずで頼りねえ、どうしようもねえガキだったもんで』
「酷い!」
 いきなり暴言を吐かれて、セイルはおもわずがばっと体を起こしてしまう。だが、ディスはくつくつと喉の奥で笑うような気配をかもし出し、そっと続けた。
『ま、冗談はともかくとしても、お前のおかげで、俺も己を見直すことができたんだ』
「……え?」
『お前は、俺がいくら剣だって言い張ってもさっぱり聞きやしなかっただろ』
「そ、それは、ディスがすごい自然に人みたいに振舞ってたからで、その……」
『別に責めてねえよ。最初はもちろん嫌だったけどな。お前といると、俺が剣であるって事実を俺自身で忘れかけて、その次の瞬間には現実を強烈に思い知らされることになるから。けどな』
 慌てるセイルに向けられたディスの意識は、いつになく安らかな響きを帯びていた。
『剣とか、鍵とか、そういうのとは無関係に、お前は俺を相棒だと呼んでくれた。道具としての「ディスコード」じゃねえ、俺を「俺」として扱ってくれた最初の人間だったんだよ、お前は』
 そう、だったのか。
 セイルは、枕を抱える手に力を入れる。
 ディスはセイルを相棒として認めてくれたけれど、そこにはディスにしかわからない、強い思いが篭められていたのだ。
『そのあり方が、「ディスコード」として正しいのかはわからん。本来は己に与えられた役目を遂行することだけを考えるべきかもしれん』
 そして、そのためには、無駄なことは何一つ省くべきで……突き詰めれば、セイルと共に歩む意味は無くなる。『ディスコード』の使い手はセイルだけではない。セイルよりも使い手としての能力を心得ているブランがディスを手に取っていれば、とうに色々なことが解決していただろうことは、ディス自身も認めていたことだ。
 それでも――
『それでも俺は、今ここにいるお前を助けたいと思う。俺を必要としてくれた、お前を』
 それが今の「俺」の意志であり……俺が『ディスコード』である限りは、貫くべきことだ。
 そう、ディスは言い切った。
 様々な思いが、胸の奥から次から次へと溢れてくる。けれど、そのどれもが言葉にはなってくれなかった。それが酷くもどかしかったけれど、唯一、はっきりと言葉に出来ることを、声に出す。
「……ありがとう、ディス」
 闇に向かって放った言葉は、自分自身の胸の中にすうっと染み込んだ。ディスは、『む』と小さく唸ってから、いつも通りの、何処か憂鬱そうな声……彼なりの精一杯の照れ隠しのつもりなのだろうが……で言った。
『礼なんていらねえよ。俺は、俺がやりたいって思ったことを、勝手にやってるだけだからな。あー、何だ、さっぱり纏まらねえんだけどさ』
 きっと、セイルの体を使っていたなら、空色の髪をがりがりとかいていただろう。そんな気配をかもし出しながら、ディスは言葉を続ける。
『俺は、最後にはお前と別れることも知ってた。だが、そいつをくよくよ悩むよりは、やりてえことをやりきって、すっきり別れてえな、って思ってる。だから、手前もそうくよくよ悩むこたねえ。最低でも、今この瞬間はな』
 別れるその瞬間には、悲しむかもしれない。全てが終わった後になって、色々と思い出して、後悔するかもしれない。そうならない理由は、何処にもないから。
 それでも、今は、今だけは、出会ってから今まで歩んできた道と、その足取りの確かさを思い返しながら、前に進むべきだ。そう、ディスは言う。
『もちろん、それは俺の考え方にすぎん。手前が待ち構える未来に悩んでることを、否定したくもねえ。そいつは、手前が今まで辿ってきた道を大切にしてる証拠でもあるから……って、くそっ、上手く説明できねえ……』
「ううん」
 セイルは、心の内側で頭を抱えているディスに、笑顔を向ける。
 ディスの言葉は、確かに不器用で、すぐには何を伝えたかったのかわからなかった。ただ、どうしても、上手く言葉にならなくても、セイルに伝えたかったに違いない。そんなディスの心からの言葉を受け止めて、セイルはそっと、呟く。
「ディスが思ってること、伝わったよ。そうだ、今は前を向いてなきゃだ。納得できなくても、後悔することになっても……この時のために、俺たち、歩いてきたんだもんな」
 望んでいた兄との再会が、手放しに喜べるものにはならないことは、わかりきっているけれど……どのように出会い、何を話すのか。そして、どのように決着をつけるのか。それは、今のセイルにはわかるはずもない。
 もちろん、それよりも向こうに待っているはずの、別れのことだって。
 だから、今はその胸の痛みを、そっと奥の方にしまって。前を見よう。いつか必ず別れが来るとしても、今ここにある大切なものを、手放さないようにしよう。そう胸の奥で誓って、セイルは闇に包まれた天井を仰ぎ、凛と声を張る。
「悲しい終わり方になるかも、しれないけど……最後までよろしくね、ディス。俺、ディスが相棒で本当に良かった。それだけは、何もかもが終わっても、絶対だよ」
 ふ、と。ディスが、胸の奥で笑った気がした。普段、心から笑うことのないディスなりの、限りなく微かな「笑み」の雰囲気。
『ああ。お前と別れた後も、俺はずっと、それこそお前が死んだ後も生きていくことになるだろうが……お前のことは、忘れない』
 機巧仕掛けの剣は、剣らしからぬ、柔らかな声で言ってから……その声を、少しだけ落とした。
『忘れるときは、俺が俺でなくなる時だ。きっとな』