空色少年物語

幕間:絵の中の空

 目を閉じるたびに。
 頭の奥深く、霞の向こうにあった記憶が、徐々に輪郭を結んでいく――
 どこかに置き忘れてきた、と思っていたものが、実はすぐそばにある気がする、ような。なのに、手を伸ばしても何かに阻まれて届かない、ような。そんな、もどかしい感覚が、シュンランの胸をくすぐっては消えていく。
 初めて目を覚ましたとき、シュンランは何ひとつ過去のことを覚えていなかった。ただ、『世界を救わなければならない』という強い思いだけが、小さな体をつき動かしていた。
 けれど、この世界は別段、滅びに瀕しているわけではない。『エメス』の台頭による混乱があちこちにみられるこの時代は、平和、という言葉からはほど遠いが、それでもシュンランのごく個人的な感覚からすれば、うらやましいくらいに満ち足りた世界だった。
 うらやましい、くらいに。
 一体何と比較しているのか、自分でもわからない。自分はこの世界に生きているのだから、何をうらやましいと思うのか。わからない。わからないけれど……
 頭上に広がる青い空を見上げるたびに。銀色の瞳をした少年の、揺れる髪を見るたびに思うのだ。
 これが、遠い日に、自分の夢見た色だったのだと。
「……シュンラン」
 ふと、後ろから声をかけられて、シュンランは振り向く。けれど、そこにいる人の姿は相変わらず霞の向こう、よく見通すことはできない。
 ああ、いつもの夢だ。シュンランは、やけに鮮明な意識で思う。いつからか、毎夜のように見ている、シュンランの知らない、なのにどこか懐かしいと感じる夢。その中にはいつも、決まった声を持つひとが出てきて、決まった名前を呼ぶのだ。
 けれど、目を覚ますとそれも霞の向こうに消えてしまって、どうしても思い出すことができない。これも、自分が目を覚ましていた時に失っていた記憶の一部なのだろうか。そう考えることもあるが、答えが出たことはない。
 よく知っている声の人物……それは、シュンランと同い年くらいの少年のようであった……は、シュンランの手元を覗きこむ。シュンランも、自分の視線を自然と手元に向けていた。
 小さな手が握っていたのは、一冊のスケッチブックだった。
 そこに描かれていたのは、空。
 風が踊る場所、悲しいほどに澄み渡った天弧。
 そして、もう一つ描かれていたのは、その青の頂点を目指して真っ直ぐに伸びる、一輪の大樹だった。
 地面から伸びたどっしりとした幹からは無数の枝が伸び、その一つ一つに青々とした葉が開き、太陽の光を浴びている。
 少年は、すう、と無骨な指でスケッチブックの表面を撫で、感嘆の息をついた。
「これ、あいつが描いたのか」
「うん」
「相変わらず、絵だけは上手いのな」
「だけ、ってことないもん」
 夢を見ている、と意識している自分自身とはまた別の自分が、ぷうと頬を膨らませる。
「ちょっと気は弱いし、いちいち考えすぎだし、すぐ俺なんかどうせって始まっちゃうし、鬱陶しいって思うこともあるけど……」
「おい、そいつは言い過ぎじゃねえか」
 呆れた少年の声を聞きながら、おかしくなる。
 夢の中の自分が言い放った言葉は、まるで、シュンランの横にいる空色の少年のことを言っているようで。
 もちろん、
「でも、どんな時でも、わたしの手を握っててくれる。あったかい気持ちにさせてくれる。いつだって、わたしの心を、守ってくれるんだよ」
 その言葉だって、今のシュンランの気持ちと、全く同じ。
 そんなシュンランの言葉を受け止めて、ぼんやりとした輪郭の――しかし、いつもよりは遥かにはっきりと見える気がする――少年は、がしがしと乱暴に頭をかいた。
「ったく、のろけんじゃねえよ。こっちまで暑くなっちまう」
「のろけじゃないもん。そっちの方が、のろけてばっかりじゃん」
「うるせえ」
 少年は、それきりぷいとそっぽを向いて黙ってしまった。夢の中のシュンランは、くすくすと笑いながらスケッチブックをめくっていく。
 紙の上に広がるのは、空、空、空。鱗雲に満ちた空、昼と夜との境界に広がる赤い空、かつて自分と似た顔をした姉から聞いた、天の川の流れる夜空。
 そんな、無数の空をひとつひとつ、一抹の寂しさを感じながら見つめて、それから、顎の下まで落ちてしまっていたマフラーを口元まで押し上げて、空を見上げる。
 そこには、現実の空がある。重たい灰色の雲に覆われた空。冷たい風が巻き上げる砂と灰に満ちた、永遠に晴れることはない、終わりゆく世界の空。
 ――そうだ、これが、私の救うべき世界の、空。
 空を見上げる夢の中の自分がどう思っていたのか、シュンランは知らない。ただ、今の自分には、確かに、それが『救うべき世界』なのだとわかった。
 そして、シュンランから目をそらしていたはずの少年も、いつしかシュンランと一緒に空を見上げて、ぽつりと呟いた。
「あいつが夢見る空、いつか、見せてやりてえな。お前らに」
「彼女さんにも、でしょ」
 シュンランが茶化すと、少年は顔を真っ赤にして両手を振る。
「だから、……は、……」
 その声は、何故か、壊れたラヂオのように雑音混じりで、やがて声すらも吹きすさぶ砂嵐にかき消されて。
 
 
 砂嵐は消え、シュンランの意識は覚醒する。
 闇に満ちた世界の中で、寝台の横に置かれた魔法のランプだけが、弱々しい光を放っている。柔らかな掛け布団を握りしめ、今見ていたものを思いだそうとする。
 スケッチブックにいっぱい描かれた、一枚の絵。
 透き通った、青い、青い、空。
 そんな、悲しいほどの青い空に向かって聳える巨大な樹。
 それは、今、シュンランが立っている場所の空、そのものだ。
 けれど、何かが違う――
 そんな思いがシュンランの胸の中をひゅう、と冷たい風になって吹き抜けていく。砂混じりの、ざらざらとした風。決して気持ちのよいものではないけれど……どうしてだろう、懐かしい。
 暖かな掛け布団をはねのけて、裸足で床の上に立つ。足を包み込む絨毯の感触を確かめて、シュンランはランプを手に取った。
 もう、眠れる気がしなかった。
 かつて、旅に出る前にも、こうやって夜な夜な部屋を抜け出して、クラウディオにやんわりとたしなめられる毎日だった。その頃のことを思い出して、口元にそっと笑みを浮かべる。
 当然、そんなに昔のことではない、ほんの、三ヶ月くらい前の話。それでも、ドライグを離れていた間に起こったことがあまりに多すぎて、すっかり頭から抜け落ちていたことに気づく。
 今宵も、また、クラウディオを困らせてしまうだろうか……そんなことを思いながらも、シュンランは止まらない。クラウディオの困り顔など、シュンランの足を止める理由にもならない。
 寝台の横にそろえていた靴を履き、そっと、音を立てないように部屋の扉を開けて。
 シュンランは眠りに落ちた蜃気楼閣を、行く。