空色少年物語

20:シルヴァエ・トゥリスの攻防(2)

 あらかじめ、ここからの動きは決めてある。シュンランは小さく頷き、チェインは「任せて」と短く言って、座席にしがみついた姿勢のまま、何かを唱え始めた。セイルには理解できない魔法の構成式、呪文。その間にも、『凧』はゆっくりと、しかし確かに『シルヴァエ・トゥリス』に向かって降下していく。
 以前、『凧』を使った時には森に不時着させることで、衝撃を緩和させて助かった。だが、今回は衝撃を緩和させるようなものは一つもない。『シルヴァエ・トゥリス』の表面は明らかに硬質な素材でできており、いくらブランの腕が良かったとしても『凧』を上手く着陸させるのは難しいはずだ。
 その上、今回は単純に着陸させるだけではなく、下からの攻撃を防ぎながらの操縦になる。
 だからこそ、シュンランとチェインに協力を求めたに違いなかった。
 チェインは言葉によって魔法を紡ぐ。降下する『凧』の勢いは止まらない。それを見て取ったらしい見張りたちが、一斉に魔法を放ってきた。『白竜の翼』と同じように、彼らは見張りであって同時に砲台でもあったらしい
 無数の炎の矢が、『凧』の翼を貫き、そのまま焼きつくさんとばかりに襲い掛かってくる。セイルは思わず目を閉じてしまいそうになるが、
「我は呼ぶ、汝の名は『水晶の盾』 」
 凛、としたチェインの声が、空気を裂く轟音すらも貫いて響き渡る。
 その瞬間、『凧』の前に、六角形の硝子板をつなぎ合わせた透き通った盾が構築される。それらが、炎の矢をことごとく弾き、軌道を逸らしていく。すぐ目の前が真っ赤に燃え、激しい爆発音が響くが、セイルの元にまでその熱気が届くことはなかった。
 チェインは魔法の盾を展開させたまま、虚空に吼える。
「連結命名、汝の名は『方舟の裁き』!」
 連結命名。呪文の仕組みすらよくわかっていないセイルだが、父から教わったことはある。
 チェインが得意とする『命名魔法』は、周囲に漂う魔力……マナと、自身の体内にあるマナを結合、反応させ、「炎」や「光」といった別の物質に変質させる技術である。その時に必要とされるのが、『汝の名』と呼ばれる呪文。マナに別の姿を与えるための、簡易的な儀式。
 そして、連結命名とは、二つの命名魔法を同時に発動させるための技法の一つ、らしい。マナに別の変質を定義する二つの呪文を一度要素ごとに分解し、再構築する。そうすることで、マナに対して同時に二つの特徴を指示し、変化させることが可能になる。
 例えば、今この瞬間のように。
 硝子の盾は、チェインが二つ目の『汝の名』を唱えた瞬間に、眩い光を放った。それぞれの六角形がレンズのように光を収束させ、光線を放つ。目標はもちろん、眼下で矢を放ち続ける『エメス』の見張りに向けて。
 炎を防ぎながら、同時に撃ち出された光の雨は、的確に見張りたちのいる場所を穿ったようだった。その証拠に、撃ちかけられていた炎の矢がぱたりと止み、視界が晴れる。
「すごいです、チェイン!」
 シュンランが賞賛の声を上げる。セイルも、目を丸くしてその光景を見つめていた。
 連結命名は、魔法を体系的に学ぶ魔道士たちの中でも、命名魔法を極めた者しか扱えない技術なのだ。マナに形を与える『汝の名』の要素を知り尽くし、既存の呪文を一度分解して、効率的に組み立てなおすだけの知識。そして、連結させた分、約二倍の負荷がかかる魔法を制御するだけの魔力と意志力。それらが揃って初めて実現する奥義なのだと、セイルは父から聞かされてきた。
 だが、チェインは消耗を表に現すこともなく、なおも前を真っ直ぐに見つめ続けている。
 魔法の技術だけで言えは、チェインに並ぶ者はそう多くない――かつてブランはそんなことを言っていたが、それは決して誇張ではなかったのだ。
 ブランはチェインには目を向けないまま、にぃと歯を見せて笑う。
「派手にやってくれるぜ」
「……アンタがやれって言ったんでしょうが」
「やれって言ってできるのがすげえのよ。姐御がいてくれて、よかった」
 それは、セイルからしてもあまりに素直な賞賛の言葉で。チェインは目を点にして固まった。何となくいたたまれない気分になって、セイルはブランとチェインを交互に見るが、ブランは何事もなかったかのように真顔で操縦桿を握り続けていた。
 チェインも気を取り直すためだろう、軽く首を振って、シュンランの方を叩く。
「シュンラン」
 盾を張り巡らせた『凧』は、塔の頂点に迫る。
「次は、そっちの番だよ」
「……はい!」
 シュンランはすうと息を吸って、『棺の歌姫』に与えられた力……歌を高らかに響かせた。
 鈴の鳴るような音色。天上から降り注ぐ響き。それはセイルの知らない言葉であったにも関わらず、セイルの心の中に、一つの言葉を生み出した。
 ――『咲いて』。
 その歌が響き渡った瞬間、既に直下に迫っていた塔の頂点に、変化が起こる。鈍色の表面をさらしていたそこに、緑の点が無数に生まれたかと思うと、緑の部分が爆発的に広がっていく。よくよく見れば、それは葉であり、茎であり、蔦であった。根を張る場所を求めてか、頂点から壁をつたい、地面に向かって緑が下りていくのがわかる。そして、緑が広がった場所から、かつてティンクルとの戦闘で見た青い花が緑の色を追うがごとく、次々に花開いていくのがわかった。
 シュンランの歌は、奇跡を起こす。
 本来芽吹くはずもない場所に芽を生み出し、みるみるうちに成長して、鮮やかな空色の花を咲かせる。
 それはまるで、遠い昔に聞いた、御伽噺のように……
 シュンランは歌う。歌い続ける。セイルの知らない旋律と、セイルの知らない言葉で。歌に応えるように生み出された植物は、地面に根を張り、今度は上に向かって育っていく。呆然とする見張りを包み込み、『凧』に触れるか触れないかの位置までその蔦を伸ばす。
 落とすぞ、とブランが言った言葉も、シュンランの歌にかき消された。
 その瞬間、『凧』に、セイルたちが座る場所に、衝撃が走った。だが、そのほとんどは『凧』を受け止めた葉や蔦、そしてチェインが展開している盾が吸収し、瑞々しい青い花びらがセイルの目の前でぱっと散った。
 既に、塔は緑に覆い尽くされていた。無事着陸した『凧』には、傷一つない。蔦があちらこちらに絡み付いてはいたが、それが『凧』の翼や骨を折るようなことはなかった。
 セイルは、すぐに『凧』から飛び降り、シュンランに手を貸す。そっとセイルの手を掴んだシュンランは、危なっかしい動きで『凧』の座席を蹴って、セイルの胸の中に飛び込んできた。満面の笑みを浮かべて。
「セイル、上手く行きました! わたしにもできました!」
 無邪気に喜ぶシュンラン。そのすみれ色の瞳は、いつになくきらきらと輝いていた。その顔を見ていると、セイルまで嬉しくなって、ついつい頬を緩めてしまう。
「うん、すごいよ。こんなことまで、できるんだ……」
 一体、シュンランの歌はどこまで進化していくのだろう。不思議な空間を作り上げ、空気を凍らせ、何もない場所から青い花を咲かせる。どれもこれも、魔法では実現できない『奇跡』。
 その時。
 ぱん、と乾いた音が響き、続けて呻き声が緑の奥から響いた。音の出所を見れば、いつの間にか『凧』から降り立っていたブランが、硝煙立ち上る銃を握っていた。
 そうだ、まだここには見張りがいる。チェインの攻撃とシュンランの歌は、相手を殺すためのものではない以上、完全に相手の動きを止めてはいない。
 チェインもまた、腕から鎖を放ち、視界の通りづらい緑の中に目を凝らして警戒している。ブランはじり、と下がりながら指示を飛ばす。
「立ち止まってる場合じゃねえな。走るぞ、セイル!」
「……わかった! 行こう、シュンラン!」
「はい!」
 セイルはシュンランの手を取って駆け出す。緑に隠されてわかりづらくなってしまっているが、塔への入り口は一箇所。その後ろを、追撃を警戒しながらブランとチェインが追う。
 固く閉ざされた扉には、鍵がかかっているようだったが……そこは、セイルの力の見せ所だ。
「ディス!」
『あいよ』
 気の無い返事ではあったが、普段はセイルの体の中に散逸している『ディスコード』が、右手に集中する気配を感じながら、セイルは右腕を振り上げる。右手の指先から展開される無数の刃の羽が、やがて腕全体を覆う巨大な翼となる。
 不協和音を奏でる銀の翼は、セイルが少し力を入れただけで、立ちはだかる金属の扉を木っ端微塵に突き崩した。
 そのまま、右手には翼を抱き、左手でシュンランの手を引いて塔の中に駆け込む。
 そこにあったのは、気が遠くなるような長い階段。無機質な金属の壁のあちこちに赤や黄色のランプが灯り、薄暗い、不可思議な空間を作り上げている。何処からか風が吹いているのか、乾いた空気の流れが感じられる。
 セイルたちの侵入に気づかれたのか、それとも地上からセイルの姉たちが侵入したことによるものか、無数の声や剣戟が階下から響いている。時折、銃声や爆発音も聞こえてくる。
 姉は、何処にいるのだろう。一目会いたいという気持ちもあったが、まずはクラウディオ・ドライグを助けるのが先決だ。
「クラウディオは十五階にいるはずだ。ディス、シュンラン、表示に気をつけろ」
 ブランの声が後ろから飛ぶ。何故ディスとシュンランなのか、と思ったが、その理由はすぐにわかった。ランプに照らされた壁には、何かが書いてあり……それは、セイルには単なる模様にしか見えない。しかし、ディスとシュンランは壁に目を向けた瞬間、即座に答えた。
『最上階が二十八階……ってことは、かなり下ることになるな』
「十三階下、ですね。行きましょう、セイル」
 シュンランに、逆に手を引かれながら、セイルは慌てて問い返す。
「もしかして……あれ、読めるの?」
「はい。わたしの知っている言葉です」
 それに続けて、シュンランの唇がセイルの知らない音を紡ぐ。かろうじて『シルヴァエ・トゥリス』だけは聞き取ることができたが、それ以上のことは何もわからない。それを、ディスが通訳してくれる。
『 「シルヴァエ・トゥリス」第四番塔、二十八階……だな。ここに書かれてる文字は、この塔に生きていた連中の間で使われていたもんだ。おそらくは、シュンランが元々使ってた言葉でもあるはずだ』
 ――ディスもわかるんだ?
 セイルが心の中で問い返すと、ディスは『んー』と微かに躊躇うような様子を見せた。
『俺も、読めるは読めるが、全部読めるわけじゃねえ。シュンランほど正確じゃないだろうな。それでも、致命的にわからねえってことはないはずだ』
 シュンランは元々セイルたちの言葉を全く理解できない状態で棺から見出された、と聞くが、『ディスコード』はまた違う形で言葉を理解しているのだろうか。それとも、長らくセイルや他の持ち手と一緒にいるうちに、元々の言葉を忘れてしまったのだろうか。
 そんなことが一瞬頭の中をよぎったが、シュンランが弾むような足取りで先に進もうとするものだから、セイルは慌てて思考を断ち切って、シュンランを庇うように前に出て階段を降り始める。
 後ろから、ブランとチェインが追ってくる足音を確かめながら、降りる、降りる、降りる。二十七階、二十六階、と読めないまでもある程度の規則性を持っているように見える、壁の表示を確認しながら。
 時々、奇妙な形をした機巧の兵隊や、『エメス』の紋章を掲げた異端研究者たちが襲い掛かってきたが、その全ては『ディスコード』の一振りや、咄嗟に出た蹴りで退けていった。上から襲ってくる輩は、セイルたちの背後を守るブランとチェインがことごとく対処しているようだった。セイルは振り返ることもできなかったから、後ろの気配を感じることしかできなかったけれど。
 あまりの階段の長さに、シュンランは疲労の色をあらわにしていたが、それでも決して足を止めようとはしなかった。セイルたちの足手まといにはなりたくない、そんな強い意志がすみれ色の瞳に宿っていた。
 何故、そんなに強くいられるのだろう。その真っ直ぐさが、セイルには眩しく、同時にセイルを力づけてくれる。絶対に、シュンランを、その瞳に宿った強さを守り通してみせる、そんな気分にさせてくれる。
 そして、十六階にまで辿りついたその時、だった。
 耳を劈く轟音。巻き起こる気圧の変化。
 踊り場から十五階に向けて一歩踏み出していたセイルが振り返ると、今まで歩いてきた道を塞ぐように、金属の壁が、すぐ背後に現れていた。
『……退路を、塞がれた?』
 ディスが微かな焦りを滲ませるが、すぐに『いや』と己の言葉を打ち消す。今度こそ、その打ち消しの理由はセイルにもわかった。
 元々『凧』は乗り捨てるつもりのものだ。ここで上への階段を塞がれたところで、脱出は別の方法を考えている。だが、ここでの一番の問題は……
「分断された! ブラン、チェイン……!」
 一歩遅れて追ってきていた、ブランとチェインがその向こうにいることだ。先ほどと同じように、『ディスコード』を使って壁を壊せば、きっと合流できるはず。そう思って『ディスコード』を振り上げようとしたその時、ブランの声が突然に響いた。
「やめろ、セイル!」
 その声が余りに鋭くて、セイルはぴたりと動きを止める。その動きがブランにも伝わったのか、壁の向こうからしゃがれた声が流れてくる。
「その壁に触れるな。『ディスコード』に悪影響を及ぼす力が働いてる。多分、普通に触れてもまずい」
 だろうな、とディスも同意する。落ち着いてみれば、『ディスコード』からぴりぴりといやな感覚が伝わってくる。下手に触れていいことはない、ということだけは、直感的にわかる。
「そんな。それじゃあ」
「先にクラウディオのとこに向かっててくれ。俺らは別のルートを探しながら、ついでに塔の仕掛けを解除する方法を探してみるとするわ」
 ブランの声は、あくまで淡々としていた。いつものとおりに。
 そこに、焦りも不安もない。心の内を正しく表現できないブランだから、当然といえば当然なのかもしれないが、今は逆に、落ち着き払ったその声がセイルにとっては心強かった。
 もちろん、自分とシュンランだけでこの先に進むのは、怖い。怖くはあったが、あらかじめ作戦は打ち合わせてある。もちろん、分断されたときや不測の事態に取るべき行動も、セイルとシュンランには伝えられている。
「……わかった。気をつけてね、ブラン、チェイン」
「おうよ。行けるか、チェイン」
「ああ。少し息苦しいけどね」
 息を切らせたチェインの声が聞こえ、セイルはにわかに不安になって、壁の向こう側に声をかける。
「チェイン、大丈夫?」
「ここはマナが極端に薄いから、エルフの姐御にはきついんだろうな。人間以外の人族は、マナを摂取しねえと生きていけねえから」
 そんなことは、初耳だ。シュンランは当然ながら不思議そうな顔をしているし、セイルよりずっと物知りなディスも『そうなのか?』とセイルの中で首を傾げている。ブランは一瞬言葉を切ってから、ほんの少しだけおどけた響きを混ぜた。
「女神ユーリスの思し召しってやつかもね」
「どういう」
「ま、難しい話は後回しだ。急げよ、セイル。俺らの動きも完全に察知された、封殺されたら仕舞いだ」
 その言葉とほぼ同時に、セイルの背後にあるものと同じ金属の壁が十五階の踊り場の前にも落下し始めていた。セイルとシュンランを、完全に十五階と十六階の間に閉じ込めるつもりだ。
 それを頭で理解する前に、セイルの視界は色を失っていた。
 ――針を、回す。
 それは、セイルに与えられた『加速』の能力。セイルから見れば、世界は動きを止めているようであり……周囲から見れば、セイルだけが人の数倍の速さで動いているように見える、他の誰にも真似のできない、不可思議な力。
 白黒の世界の中、セイルは右手の『ディスコード』を解除してシュンランの体を抱き上げ、階段を駆け下りた。そして、既に人一人がやっと通れる程度の高さにまで落ちてきていた扉の下を、滑るように潜り抜ける。
 その間、セイルの感覚で「二拍」。
 加速を解いた瞬間、セイルの背後で扉が閉まる轟音が響いた。シュンランは、セイルに抱きかかえられた姿のまま、呆然とセイルを見上げていた。セイルが針を回している間の出来事は、他人からすれば「目にも留まらぬ」出来事だ。一体、何が起こったのかわからなかったに違いない。
 シュンランはきょろきょろと辺りを見渡して、壁に表示された文字を確認して、やっと合点がいったようにセイルに視線を戻した。
「針を、回したのですね」
「うん。何とか、十五階には着いた、けど……」
 セイルは分厚い壁を見やる。ブランとチェインの声はもう聞こえない。辛そうだったチェインの声を思い出して、唇を噛むけれど……
「あの二人なら、だいじょぶです」
 シュンランが、ぎゅっとセイルの首に腕を回して、耳元で囁く。それは、彼女の歌と同じように、不思議な力を持って聞こえた。不安に押しつぶされそうになる心を、ふわりと受け止めてくれるような。
「わたしたちで、クラウディオを助けるです」
「……そうだね。行こう」
 シュンランの温もりを確かめるように、けれど、その細い体を壊さないように、そっと抱きしめた腕に力を篭めて、それからシュンランの体を下ろした。シュンランは真っ白な髪を揺らして、踊り場から伸びる長い廊下を見据えた。
 薄暗い廊下は、真っ直ぐに闇に向かって伸びている。果たして、この先に、本当にクラウディオがいるのだろうか。いたとしても、クラウディオの前に、何が立ちはだかっているのだろう。考えれば考えるほど不安になるけれど、今はただ、駆け抜けるのみ。