北へ、北へ。
純白の『凧』は風に乗り、速度を上げて戦闘空域からの脱出を目指す。
こちらの動きを察した機巧の鳥のうち一羽がこちらに向かってこようとしたが、その背骨に、何かが当たって爆発したのがセイルの視界の端に映った。『紅姫号』から放たれた魔道砲が、セイルたちの離脱を手助けしたのだ。
『紅姫号』は何羽もの機巧の鳥にたかられながらも、決して負けてはいなかった。時には煙幕と不可思議な金属片の吹雪で相手の視界を封じ、時には強烈な一撃を喰らわせる。前回、機巧の鳥と対峙した時とは比べ物にならない、機敏かつ的確な動きに、セイルも思わず見とれてしまう。
セイルの中で黙っていたディスが、ぼそりと呟く。
『……ブラン、お前、何仕込んできたんだ?』
「秘密」
操縦桿を握るブランが、口元だけでにやりと笑う。
「ま、現代の異端研究者が弄れる機巧の仕組みなんざ、たかが知れてっからな。仕組みさえわかってりゃ、いくらでも対策は立てられる」
鳥たちを誘導するように、『紅姫号』は少しずつ『凧』とは違う方向に船首を向け始める。煙と魔力に満たされた風が吹きすさぶ空を、『凧』は巧みに滑っていく。
風の音が耳の側を駆け抜け、爆発音がものすごい勢いで遠ざかっていく。『紅姫号』の無事を確かめたい気持ちもあったが、今は手にした飛空地図に意識を集中させる。
横のブランは、真っ直ぐに前を見据えたまま、操縦桿だけを動かしている。確かに本人が言うとおり、思考回路を全て利用して、複雑な風を読みつつ『凧』を操っているに違いなかった。
だからこそ、今は自分がブランを助けなければならない。『凧』の移動に合わせて、刻一刻と現在位置を表す数値を変えていく地図を睨む。
「何だか、とても難しそう、ですね」
耳元で、一緒になって飛空地図を覗き込んでいたシュンランが囁く。セイルはじっと地図を見つめたままではあったが、その言葉に応える。
「かなり難しいよ。正直、本物を見たのは俺も初めて。でも、いつか、自分で造った船を、自分で飛ばしてみたいって思って、読み方だけは勉強してたんだ」
勉強は決して好きではない。けれど、それが「飛空」に関係することであれば話は別だ。飛空艇技師の家に迎えられたその日から、常にセイルの周りには船があった。空と船を愛する人々がいた。そして、セイルも自然と空に憧れを抱いていた。家を継ぐ、という意識が無いわけでもなかったが、それ以上にセイルは空が好きだった。空を飛ぶ船が好きだった。
そして、いつか。
自分が思い描いた船が、青空を舞うことを、夢見続けていた。
「それが、こんなところで役に立つとは思わなかったけど……何も無駄にはならないんだ、って改めて思ったよ」
そう言ったところで、不意に手に何かが触れた。温かい指先の感触。シュンランが、地図を握るセイルの手に手を重ねたということに、一瞬遅れて気づいた。思わずそちらを見るセイルに、シュンランはすみれ色の瞳を細めて笑いかける。
「今日のセイルは、かっこいいですね」
「そ、そうかな」
真っ直ぐな賞賛の言葉に慣れていない……ましてや、「かっこいい」なんて言われたこともなかったセイルは、自然と頬が火照ってしまうのを感じていた。こんなに、身を切る風は冷たいのに。
シュンランは、微かな緑を含んだ白い髪を揺らして、笑う。青空に花が咲くように。
「いつも、そうしていてください。わたしは、前を向いているセイルが好きです」
「うん。ありがとう、シュンラン」
シュンランの言葉には不思議な力がある。それは、シュンランが『棺の歌姫』であることとはまた違う、純粋な、心の力。心に生まれた感情をそのまま乗せた、偽ることのない言葉は、いつもセイルの心を揺さぶり、奮い立たせてくれる。
だから、セイルも、今この場所で真っ直ぐ前を見据えることができる。
飛空地図に視線を戻し、光の線で描かれた航路から、現在位置を表す光点が微かにずれたことを確認して言う。
「ブラン、少しだけ航路から外れてきてる。十一時に修正して」
「了解」
ブランはひらりと手を振って、操縦桿をほんの少しだけ切る。ゆっくりと『凧』が傾ぎ、方向を変えるのがわかる。それでいて、決して高度を落とすようなことはない。目には見えない風を掴み、推進力を持たない『凧』を操る技術は、一朝一夕で身につけられるものではない……それを知っているセイルとしては、やはりブランが天才であることを再認識するしかなかった。
この風の中でも、呼吸と声は魔法によって確保されている。だから、後ろに座るチェインの言葉も、はっきりとセイルの耳に届いた。
「しかしアンタもアンタだよ、ブラン。セイルがそこまで飛空に関する知識を持ってるって、よくわかったね」
「普段の言動見てればわかるわよ。空と船に関してはよくよく勉強してるみてえだし。だから、地図くらいは読めるかなって踏んだの」
ブランは、振り向きもせずにチェインの言葉に応じる。チェインは「そう」と溜息と共に言葉を吐き出し、言った。
「それだけ?」
そこで、初めてブランはちらりとチェインに視線を走らせた。氷色の視線と、秋空色の視線が交錯するのがわかる。
「それ、どういう意味?」
「アンタは嘘をつかないけど、言葉は選ぶからね。本当に言葉通りの意味かな、って思っただけ」
そこに篭められた感情は、懐疑。ただ、チェインがどうしてそんなところに疑問を抱くのか、セイルにはわからなかった。とにかく、二人の間に漂っている空気にただならぬものを感じ、何か言わなければならないだろうか、と思ったその時。
ブランが、ふと目を細めた。笑ったようにも、見えた。
「そんな遠回しな言い方、しなくてもいいのに」
チェインは、目を丸くした。そのブランの答えは、予測していなかったに違いない。
「それはどっちの台詞よ」
「はは……そうね。俺様が言えたことじゃなかったわ。姐御が正しい」
チェインの表情が微かに歪んだ。ブランは、笑顔にも見える薄い表情のまま、すぐに視線を前に戻してしまったけれど、セイルはチェインから目が離せなかった。何か、痛みを堪えているかのような表情が、どうしてもセイルの心をちりちりさせる。
今のやり取りは、どういう意味だったのだろう。
ブランは、チェインの言っていることがわかっているようだった。わかった上で、意味深な答えを返し、チェインはチェインで、ブランのその答えを掴んでいるようではあった。
あった、けれど……
セイルたちの下にブランが戻ってきてから、四人と一振りの間の関係は、随分とよいものに変わった。そう、セイルは思っていた。
ただ、唯一。最近にわかにぎくしゃくして見えるのが、ブランとチェインの間の関係だ。それは、ブランが戻ってきてから僅かに感じていたものだったが、ブランがチェインに猫の形をした耳飾りを贈ったあたりから顕在化したように見える。
元々ブランとチェインは相容れない立場にある。異端研究者と影追いという、全く正反対の立場にいる二人が手を組んでいるのは、ひとえにノーグ・カーティスとの接触という目的の一致があるからだ。
だからだろう、二人の間には常に一定の距離があった。チェインは人格的にもブランを苦手としていたし、ブランはブランで、チェインのことをどう思っているかはわからなかったが、誰に対しても何処か突き放したような対応をしていた。
その距離感が、ブランの離反と和解によって、変わってしまったのかもしれない。
セイルにとっては何もかもがよい変化として働いているけれど、チェインにとって、ブランの心境の変化は調子を狂わされるもの、なのかもしれなかった。
それ以上のことは、セイルには判断することができない。いつか、チェインがブランの心境の変化をどう捉えているのか、今現在チェインが何を思ってセイルたちと共にいるのか、聞いてみたくはあったけれど……今はとにかく、この船を苗木まで届かせることに専念すべきだ。
そうしている間にも『凧』は風を切って飛ぶ。飛び続ける。
時々軌道を修正しながらも、『凧』は減速も降下もせず目的地を目指し続ける。このまま行けば、そろそろ目的のポイントに辿りつくはずだ。
そう思った瞬間、『凧』が一際強い風に煽られた。横に座るブランがひゅっと息を飲んだのがわかった。それはブランの目にも「見えて」いない風だったに違いない。大きく『凧』の船体が揺さぶられ、シュンランが小さく声を上げる。それでも、ブランは動揺を押し殺して正確に操縦桿を動かし、何とか『凧』の体勢を立て直す。
揺れも落ち着いたところで、セイルは後ろのシュンランを振り向いて問う。シュンランは目をぱちぱちさせながら、不安げな表情でセイルを見ていた。
「大丈夫? シュンラン」
「は、はい。びっくりしました……すごく、強い風でした」
「そうだね。でも、どうして急に……」
風の発生と消滅にはある程度の規則性があり、それを読み解くのが風読みの役目だ。決して天候が悪いわけでも、空気の流れが荒れているわけでもないのだから、ブランがそれを読み間違える、ということは考えづらかった。
その原因がセイルの目で見てわかるとも思えなかったが、つと虚空に視線を投げかけたその時。
空に浮かぶ、透き通った少女の姿が、目に入った。
セイルはその姿を認めた瞬間、己の目を疑った。まさか、こんなところで見かけるはずがない。けれど、その姿は見間違いようもなくて、反射的に叫んでいた。
「クー!」
それは、セイルにとって馴染みの深い、風を司る妖精の名前。
人違い……否、妖精違いでなかったことは、妖精、クーがにっこりと笑ってみせてくれたことで、はっきりとした。胸の中に懐かしさがこみ上げてくる。兄が消えたあの日から、ほとんど姿を見ていなかっただけに、尚更だ。
「セイル? 何が見えてるですか?」
その時、シュンランが疑問の言葉を投げかけてきた。チェインも、不思議そうな顔をして、セイルが見ている方向に細めた目を向けている。
妖精は、精霊視と呼ばれる特別な才能を持つ者にしか見えない。契約した妖精使いが望めば実体化させることもできるが、クーは実体化していない、風そのものの姿で、そこに浮かんでいるのだ。シュンランやチェインが知覚できていないのも当然だ。
セイルは、シュンランやチェインにもわかるように、クーのいる一点を指して言った。
「俺の友達。風の妖精で、姉貴が契約してる子なんだ」
「そういえば、アンタは精霊視を持ってたんだったね。けど……アンタの姉さんは、妖精使いなのかい?」
チェインの驚きの声に、セイルはにっと笑って頷きを返す。チェインが驚くのも無理もない、精霊視の才能は楽園でもそれなりに珍しいものであり、その中でも妖精と正式に契約を交わし、その力を操る精霊魔道士……俗にいう『妖精使い』は魔道士の中でも限りなく少数派だ。
そして、楽園を旅して回っているセイルの姉は、その少数派の一人なのだ。
クーはくるくる回りながら、セイルに何かを伝えようとしていた。クーは人間の言葉を操るのが苦手で、契約相手である姉以外との意思疎通は極めて難しい。ただ、小さな手を振り回して、セイルを導こうとしているように見える。
「もしかして、俺たちを、案内しようとしてるのかな……」
クーが身を動かすたびに起こる風に揺られる『凧』を制御しつつ、ブランは安堵の息をつく。
「よかった。一応、信用はしてもらえたみてえだな」
全員の視線がブランに注がれる。ブランは真っ直ぐに前を向いたまま……ブランにも、クーの姿は見えていないのだ……真剣な表情で言う。
「俺様が渡りをつけといたのよ。大事な弟のために協力してくれ、ってな」
確かに、ブランは最初に言っていた。『シエラちゃん以外にも強い味方がいる』と。
それは、楽園を彷徨っていて行方も知れないと思っていた、姉のことだったのだ。
「お前さんの姉貴も、独自にノーグと『エメス』の動向を追ってたんだよ。それで、あっちはあっちでアンダーシュの苗木の場所に心当たりがあるって聞いてな。だから、今回は向こうさんとの共同戦線だ」
セイルの胸が、一際高く鳴る。
ノーグを、兄を追いかけてカーティスの家を長らく離れていた姉。その姉が、すぐそばにいる。一緒に戦ってくれる。そう考えただけで、心が奮い立つ。
セイルは身を乗り出すようにして、ブランに問う。
「姉貴は? 姉貴は、今、どこにいるの?」
「妖精が来てるってことは、おそらく既に苗木の場所を特定して、仲間と一緒にそっちに向かってるはずだ。地上からな」
「それじゃあ……俺たちが空から、姉貴が地上から苗木を攻めるってこと?」
セイルが思ったことをそのまま言葉にすると、ブランはにぃと、歯を見せて笑った。
「そ。あっちが苗木の中をかき回してる間に、俺らは空からクラウディオを奪取する」
もちろん、そこで生まれる『エメス』側の隙は決して大きなものではないし、陽動もそう長時間保つものではないはずだ。『苗木』に降下してから、クラウディオを連れて脱出するまでにかけられる時間は、それこそ一刻に満たないはずだ、とブランは言う。
それでも。
「難しいけれど……力を合わせれば、不可能じゃないってことだね」
「そういうこった。ってなわけで、セイル、案内頼むぜ。こっからは完全にそっちの指示が頼りだ」
言われて、セイルは頷きと共に顔を上げる。セイルと目を合わせたクーはふわりと浮かび上がったかと思うと、心得たとばかりに微笑んで、真っ直ぐにある一点に向かって飛び始めた。その背中を見失わないように目を凝らしながら、指示を飛ばす。
実体を持たない妖精であるクーは何不自由なく空を駆けていくが、こちらは風に逆らうことのできない『凧』だ。クーの飛んでいく軌道をそのまま追いかけることはできず、危うく雲の間に隠れたスカートの裾を見落としそうになりながらも、何とかその背に追いすがる。
すると、辺りに立ち込めていた雲が急に晴れ、視界がぐんと広がった。
シュンランがセイルの背中から叫ぶ。
「セイル、あれは……!」
セイルの銀色の目にも、シュンランと同じものが映りこんでいたに違いない。
そこにあったのは、ごつごつとした岩肌を見せた山々。灰色の針を思わせる岩山に囲まれて、ぽっかりと空いた空間が目に入る。その空間の真ん中に、確かに何かが突き立っていた。
周囲に広がる岩とはまた違う、鈍色の質感を持つ円柱状の物体。『凧』の上からでもはっきりと視認できたそれは……
『 「シルヴァエ・トゥリス」だ。間違いねえ』
『世界樹の苗木』――『シルヴァエ・トゥリス』。
岩山よりも遥かに背の低い建造物は、塔と呼ぶにはあまりにも小さい。だが、それは地表に出ている部分がほんの一部に過ぎないからだ、とディスが脳裏で説明する。ディスに言わせてみれば、本来、『シルヴァエ・トゥリス』とはかなり巨大な建造物であるらしいから、目に見えていない部分の方がずっと多いようだ。
クーはセイルたちが目的の場所を認識したと見るや、すぐに身を翻して地上に向かって降下していく。きっと、姉のところへ帰るのだろう。
よく見てみれば、地上には何人もの人影がしきりにうごめいているのが見える。既に、姉たちは『シルヴァエ・トゥリス』に突入したのかもしれなかった。
「ありがとう、クー!」
声を張り上げると、クーはちらりとセイルの方を見て、ぶんぶんと両手を振った。多分、「頑張って」と言いたかったのだと思う。言葉は通じなくとも、思いはセイルの胸に確かに伝わった。セイルも勢いよく手を振り返して、ブランに向き直る。
ブランの視線は、『シルヴァエ・トゥリス』の頂点に向けられていた。流石に、上空も警戒はされているようで、何人かの見張りがこちらを見上げているのが、わかる。
操縦桿で微妙に方向を調節しながら、ブランがしゃがれた声で言う。
「しっかり捕まってろ。このまま『シルヴァエ・トゥリス』の上に落とす。シュンラン、姐御、頼むぜ」
空色少年物語