空色少年物語

20:シルヴァエ・トゥリスの攻防(3)

 シュンランの手を取って、駆け出す。先ほどのように、壁に進路や退路を塞がれることはなく、ただただ長い廊下を駆ける。第一実験室、第二倉庫、安置室……などなど、駆け抜ける間に目に入った言葉を、ディスが逐一頭の中で訳してくれる。
 研究施設。そう、ディスは作戦会議の時に言っていた。『シルヴァエ・トゥリス』とは、遠い昔に存在した研究施設なのだと。
 確かに、ここは何かを研究していた場所のようだ。だが、それが何なのかはセイルにはわからない。シュンランによれば「研究塔であり、大地に生命を育むための装置」であり、現代においてはその存在を知る異端の間で『世界樹の苗木』とも呼ばれる。ディスは、この世界の礎である世界樹と同じものではないか、とすら言ってのけた。
 しかし、こんな無機質な塔が、世界樹と同じものだとはとても考えられない。ディスの言葉に激しく反発したチェインの姿が、脳裏に蘇って消える。
 そう、セイルも決してディスのようには考えられないけれど……ディスがそう言うだけの理由が、ここにはあるのだと思う。ディスの目からは「真実」として見える何かが。
 突き詰めて考えれば、今は『エメス』と敵対しているけれど、彼らが求める「真理と真実」だって、ただの異端の思想というわけではないのかもしれない。それもまた、楽園の真実の一側面なのかもしれない。ここ数ヶ月の間、ディスや異端であるブランと接してきたセイルには、そんな風に思えてならない。
 ただ、追い求めるだけでなく、それを暴いて今の世界をひっくり返してしまおう、という考え方は間違っている、それだけははっきりとしていた。ただひっくり返すだけならともかく、それには多大な犠牲が伴うことも、容易に予測できるから。
 もちろん、何が本当に正しいかを論ずるには、セイルはものを知らなさ過ぎる。だから今は、まず兄の真意を知りたい。そして、そのためには、『エメス』の深部に迫らなければならない。そのための、一歩を力強く踏み出す。
 どのくらい走っただろう。階段を下る途中のような妨害もなく、不気味なまでの静けさを湛えた廊下は、突然途絶えた。
 廊下の終わりにあったのは、巨大な扉だった。先ほどの壁のように、『ディスコード』を阻む力が働いているのかとも思ったが、セイルが近づくと、逆にセイルを迎え入れるかのようにすっと音もなく扉が左右に開いた。
 そして、その先にあったのは、がらんとした空間だった。魔法の灯りとはまた違う光に照らされ、いやに明るい空間だ。そして、そのがらんとした空間の先に、扉が見える。
『罠か……?』
 ディスがくぐもった声を立てる。実際のところ、ディスの声を遮るものなどないので、あくまでディスの心境をそのまま声に反映させただけなのだろうが。
 確かに、罠のように見える。空間の向こうの扉は、まるでセイルたちを手招きしているかのようだ。それでも。
「行かなきゃ、わからないよ」
 ここで一歩を躊躇っている間にも、状況は変わっていく。罠であるかどうかを確かめるだけの知識も技術も、セイルとシュンランは持ち合わせてはいない。それならば、まずは踏み込んでみるしかない。
 ディスも溜息混じりに『だな』と返して、それきり黙った。黙ってはいたが、セイルの体の隅々にまで、意識を張り巡らせているのがセイルにもわかる。いつ、何が、どのように攻めてきたとしても、ディスはディスとしてそれに気づけるように。反応できるように。
 横に立つシュンランと目を合わせ、お互いに頷き合って。
 部屋への一歩を踏み込んだ瞬間、
「……っ!」
 シュンランが、急に蒼白になって膝をついた。
「シュンラン!」
 慌ててシュンランの横に屈みこむと、シュンランは頭を抱えて、苦しそうに息をつく。
「頭……痛い……」
「頭が痛いの? どうして、急に――」
 どうして、と聞きながら、セイルも体の中がぞわぞわするような感覚に囚われていた。シュンランのように、痛みを伴っているわけではない。しかし、体内に潜む『ディスコード』が、危険を訴えている、ような。
 シュンランが、唇を噛んで呟く。
「知っています。これは……『歌姫』の……」
「はーっははは、かかったなあ、空色のぉ!」
 その声を遮って、響き渡ったのは何処かで聞いた声。その声と同時に、セイルの背後で扉が音を立てて閉まり、何かが高い天井から降ってきた。
 耳障りな騒音を立てて次々と降り立ってきたそれは、甲冑を纏った、見上げるような大きさをした人型の機巧で……
『禁忌機兵? それに、このむかつく声は』
「今度こそ、『歌姫』を渡してもらうぜ!」
 何処からか響く声に合わせて、セイルたちを取り囲む五機の禁忌機兵は、黒い棒状の武器を高く掲げる。セイルはシュンランを庇うように一歩前に出て、体を低くして叫ぶ。
「ラグナ! シュンランに、何をした!」
 声はすれども姿は見えず。何処にいるかもわからない『エメス』の荒事屋、ラグナ・クラスタは、愉快そうに哄笑する。広い部屋の中に、下卑た笑い声がわんわんと響き渡る。
「歌われると厄介だってのはわかってんだから、黙ってもらったんだよ! この部屋には、『歌姫』の力を封じる仕組みが働いてるんだとさ!」
『……そりゃそうか。奇跡みたいな力をばかすか使う「歌姫」にいちいち暴れられてちゃ、研究も進まねえもんな』
 やけに冷静に、ディスが分析する。言葉の意味はセイルにはわからなかったが、ディスの言葉の響きに、何かを嘲るような、不穏な響きが混ざっていたことだけはわかった。
「ディス……?」
『来るぞ、構えろ!』
 セイルの胸の中に一瞬生まれた疑念は、ディスの声によって吹き飛ばされた。反射的に構えたセイルに向かって、五機の禁忌機兵が突進してくる。正確に言えば、狙いはセイルではなくてシュンランであったに違いない。
 セイルは咄嗟に苦しみ続けているシュンランの体を抱きしめ、「ごめんね」と耳元で囁いて、ぎりぎり二つの機兵の隙間を縫うように突進をかけた。次の瞬間、セイルがいた位置を黒い武器が打ちつけたのを背中で聞きながら、機兵の包囲を突破したセイルはシュンランもろとも床に倒れこんだ。
「シュンラン、大丈夫?」
「……は、はい」
 倒れた時の衝撃はそこまで大きくなかったようだが、やはり何よりもこの部屋に働いている目に見えない力がシュンランを苦しめていた。いつもは強い光を宿しているすみれ色の瞳が、朦朧とセイルを見上げている。
 早く、ここを突破しなくては。セイルはシュンランの体を抱きしめた姿勢のまま、入ってきた扉とは逆側の扉に近づく。
 だが。
『駄目だ。こいつに触れたら、やばい』
 ディスの警告に、上げかけた拳を下げるしかなかった。
 先ほど、セイルとブランたちを分断した扉と同じように、扉には『ディスコード』をも防ぐ力が働いていた。要するに、セイルたちをここから逃がす気はない、ということだ。
 どうしても、戦わなければならないのか。セイルはぐっと唇を引き締め、五機の禁忌機兵を見据える。
「来いよ、空色の! せいぜい楽しませてくれよなあっ!」
 きっと、ラグナはこの五機のどれかに潜んでいるに違いない。ディスはそう分析するし、セイルも同じ意見であった。ラグナは、必ず機巧の甲冑に身を包んで現れていた。この機兵も甲冑に似た姿をしているのだ、人が着るものであってもおかしくはない。
 だが、甲冑を纏ったラグナと自律的に動いているらしい残りの四機を、無傷であしらうのは限りなく難しい。単純に壊すだけならまだ勝機はある。だが、シュンランを守りながら戦うのは、セイルにとっても、ディスにとっても極めて難易度の高いものであった。
 以前も、ディスはシュンランの助けを借りて、ラグナと機兵一体の手からシュンランを守っていたのだ。今回はシュンランの力が借りられない以上、今まで以上に絶望的な状況であると思われた。
 じわじわと迫る機兵。彼らの手に握られている武器は、おそらく以前森で対峙した時に、ディスを無力化した武器に違いない。どうする、と思いかけたその時、腕の中でシュンランが小さく呻いた。
「ディス……あれを……っ」
 頭を抱えながらも、壁に書かれた文字を指差すシュンラン。当然ながら、セイルにはそこに書かれた文字を読み解くことができない。だが、ディスはセイルの心の中で獰猛な笑みを浮かべてみせた。
『はっ、可能性に賭けろ、ってか』
 ――どういうこと?
『御託は後だ。セイル、どいつでもいいから全力でぶち壊せ。もしかしたら、打開できるかもしれねえ』
 ディスが何を企んでいるかはわからなかったが、セイルがその言葉を疑う理由はない。ディスを信じて、セイルはシュンランを床の上に横たえると、右手に『ディスコード』の翼を展開させる。
「……何だぁ?」
 ラグナの呆気に取られたような声が耳に入った。そうだ、ラグナは、セイルの『ディスコード』を見るのは初めてだったはずだ。今まではずっと、ディスがラグナと対峙していたが、今のディスはセイルの内部で『ディスコード』を制御するのに全意識を傾けている。
 そして、セイルも今までのセイルとは、違う。
 たん、と軽く床を蹴って、一番近い位置に立っていた機兵の懐に飛び込む。ディスのように軽やかな動きで相手を翻弄することはできないが、今、セイルが翼を展開した瞬間に生まれた隙を突くくらいなら、できる。
 槍状になった『ディスコード』の翼を大きく引いて、機兵の胴体に叩き込む。叩き込んでから、ラグナが入ってなくてよかった、と一拍遅れて気づいた。何もかもを貫く『ディスコード』の一撃は、機兵のどてっ腹に大穴を開けてしまっていたから。
 場合によっては、腹に穴を開けられたところで動き続ける機兵だが、今の一撃は運よく動力源を破壊していたらしい。セイルにぶち抜かれた穴は火花を立て、濃いマナの気体を放つ。機兵を動かしていたマナが、流出しはじめたのだ。
 そして……ある一定の志向性を与えられたマナは、変質を開始する。
『下がれ!』
 魔力の性質を知らないわけではないセイルではあったが、ディスの方が判断は早かった。セイルはディスの声に導かれて考えるより前に一歩下がり、ふと問いかける。
 ――ディス、壁の言葉、何て書いてあったの?
 あ? とディスが気の抜けた声を上げて、それから何処か面白がるような声音で言い放った。
『火気厳禁』
 ディスの声が終わるか終わらないかのうちに、発生した火花によって連鎖的に「炎」の性質を与えられたマナは、爆発音と共に巨大な炎の花を咲かせる。
 その瞬間、甲高い警報音と共に、天井から勢いよく水が降り注いできた。セイルはシュンランを庇うように水を浴び、それ以上に不意を打たれた機兵はもろに膨大な量の水を被ってしまう。もちろん、セイルに壊された機兵に灯った炎は、即座に消火された。
 だが、ディスとシュンランの狙いはそれではなかったことは、すぐにわかった。水を被った機兵の動きが、にわかに鈍ったのだ。何とかセイルに向かってこようとする機兵たちだが、ぎちぎちと不愉快な音を立てるばかりでさっぱり前に進まない。
『火気厳禁とくりゃ、消火装置くらいはついてるわな。今も生きてたのは驚きだが……陸上の機巧にとっちゃ、水はまさしく天敵ってとこかな』
 細かい部品の間に入り込み、時にはマナの流れも阻害する。機巧にとって、水は、最も避けなければならないものの一つなのだとディスは言う。確かに、飛空艇を作る際も、水分が発動機の内部に入り込まないよう、細心の注意を払うのだ。それよりもずっと複雑な仕組みの禁忌機巧にとっては、致命的な痛打に違いない。
 そして、今の痛打はもう一つの変化を生んだ。セイルたちを包囲して、足並みを揃えて動いていた機兵たちの内、一体がその包囲から一歩身を引いたのだ。
「くそ……っ、禁忌機巧ってのは、万能じゃねえ……のかよ……っ」
 水を飲んだのか、咳き込む声が聞こえてくる。間違いなく、一歩引いたあれが、ラグナをその身の内に隠した機兵だ。それを見たシュンランが、水の溜まった床の上に座った姿勢のまま、叫ぶ。
「セイル!」
「任せて。『ディスコード』!」
 甲高い不協和音を響かせる白銀の翼は、動きを鈍らせた機兵に次々と穴を開けていく。降り注ぐ水が止んでも、一度入り込んでしまった水を取り除くことができずに、もたもたと動く機兵を捉えるのは、そう難しいことではなかった。
 四機目の機兵が、爆発しながら床の上に転がる。それを見届けて、セイルは顔を上げた。
 残されたのは、ただ一人……機巧の甲冑に身を包み、兜の下にその顔を隠したラグナ・クラスタ。
 白銀の翼を構え、セイルはラグナの前に立つ。今のラグナであれば、セイル一人でも太刀打ちできる。そう確信して、朗々と宣言する。
「降伏するんだ、ラグナ。俺たちの勝ちだ」
 すると、ラグナは酷く鈍い動きの腕で己の兜を掴むと、床に叩きつけた。そこから現れたのは、エルフ特有の緑がかった黒髪に、やはり緑を帯びた青い目をした男の顔。巨大な機兵から、セイルとほとんど変わらない大きさの頭が突き出している格好は滑稽ですらあった。だが、その顔は、勝利を確信したセイルを一歩退かせるほどの、強烈な憤怒に彩られていた。
「舐めんじゃねえ、ガキが……馬鹿にされたままで、黙ってられるかってんだよぉ!」
 何かが、来る。セイルは翼を構えて身構えるが、ゆっくりと挙げられた、武器を持たない側の手は、セイルに振り下ろされることはなく……自分自身の甲冑を突き破った。
「な、何を……」
「うおおおおおおっ!」
 ラグナは吼えた。そして、甲冑の奥にあった、巨大な甲冑を動かすために使われるマナの発生源、フォイルを握りつぶしたのが、セイルにもわかった。途端、甲冑に開いた穴から、莫大な量のマナが溢れ出す。
 そんなことをしたら、甲冑はただの鋼の塊になってしまう。セイルは思いかけたが、それが間違いであることにすぐに気づかされることになる。
 ぎらぎらと、燃える青い目でセイルを見据えたラグナは、掠れた声でその言葉を、放つ。
「我は呼ぶ、我は呼ぶ! 汝の名は……『英雄の衣』!」
 放出され、空気の中に溶けかけていたマナが、淡い緑の幕となってラグナの纏う甲冑の周りに収束していくのが、セイルの目に映った。魔法に詳しくないセイルは、ラグナが何をしようとしているのか判断できなかったが、背筋に走る悪寒に従って、翼に包まれた右手を振り上げていた。
 その瞬間、がきん、という音と共に、腕に激しい衝撃が走る。思わず歯を食いしばるセイルの目に映ったのは、一瞬前までだらりと垂れ下がっていた、ラグナの武器。だが、何もかもを裂く『ディスコード』の刃に触れたことで、武器は半ばから折れ、その先端はあらぬ方向に飛んでいって、遠くで乾いた音を響かせた。
 びりびりと、腕が痺れる。『ディスコード』に対して悪影響を及ぼす力が、武器を通して流れ込んできたのだ。以前はディスの意識を吹き飛ばした力だが、今回は違う。
「受け止めた、だと……っ」
 必殺の一撃だと思ったのだろう。淡い緑の光に包まれたラグナが呻く。セイルは銀色の瞳で真っ直ぐにラグナの瞳を見上げ、言い放つ。
「俺だって、考えなしに戦ってるわけじゃない。そんなものじゃ、俺も、ディスも止められない」
 今の一撃を受け止めた瞬間、ディスは己の能力を全て、『ディスコード』の維持に注ぎ込んだ。これは、ディスがセイルの体を操っていては不可能なことであり、セイル自身が戦うことによって初めて可能となる抵抗だ。
 ラグナは一瞬呆気に取られたようだったが、更なる怒りに打ち震え、今までの動きが嘘のような素早さで飛び退り、半ばで折れた武器を投げはなった。
 セイルの後ろで座り込んでいる、シュンランに向かって。
 とっさに射線に割り込んだセイルは、翼を展開させて武器を弾き飛ばす。腕が痺れる感触は、これが直接シュンランに当たればシュンランの命を奪いかねないものであったことを示していた。
「シュンランを殺す気かよ、どうして……」
 言いかけたところで、気づいた。既に、一度下がったと思われていたラグナの体は、セイルのすぐ目の前まで迫っていた。シュンランを守るために、翼で視界が覆われたその一瞬が致命的だった。
 セイルが反応する前に、胴体に叩き込まれる重い拳の一撃。それを予測したディスが『ディスコード』の組成を咄嗟に胴体部に持っていくことで何とか致命傷は避けたが、骨が折れる激痛と、酷い吐き気に見舞われて水浸しの床に倒れこむ。
 ひゅうひゅうと、己の意思に反して、喉から嫌な息が漏れる。頭がぐらぐらして、正常な判断力が奪われていることを、やけに客観的に見つめている自分がいる。そうしている間にも、ラグナは迫ってきているというのに。
 死。この旅を始めてからも、可能性として考えながら、本当に「意識」したことのなかったそれが、目前に迫っているのが本能的にわかってしまう。それは、酷く冷たい感覚を伴って、セイルの喉を締め上げようと床から這い上がってくる何かであって……
 その時、もはや何処が痛いのかもよくわからない体に、何かが触れた気配がした。その瞬間に、すうっと嘘のように痛みが引く。
「まだ、です……セイル、まだ、終わってない、です」
 それは、シュンランの声。ぼやけた視界に映るシュンランは、自分も苦しいはずであるというのに、何処までも毅然とセイルを見据えていた。