それは、町外れのとても小さな遊園地だった。
小さいけれど、それなりの賑わいを見せているそこで、彼女は彼と並んで歩いていた。
いつまでも、小さな子供のように無邪気な彼。本当は無邪気でなんていられないはずなのに、誰よりも優れた知識と能力を持っているはずのに、彼女の前の彼はいつも、ほんの小さな子供のようだった。
それが、愛しくもあった。
その時、一つの遊具が彼女の目を引いた。馬の形をした乗り物が、円盤状の台の上を回る、そんな自動式遊具。たくさんの子供たちが、絶えず回り続ける馬や馬車の上で、歓声を上げている。
回転木馬……メリー・ゴー・ラウンド。
そう、そんな名前だったと、思いだす。
横に立った彼は、首を傾げて彼女に問う。
「これ、好きなのか?」
「ううん」
彼女は首を横に振る。ただ、それ以上を彼に伝える気はなかった。きっと、彼を不安にさせてしまうだろうから。思いはそっと胸に閉じ込めて、答える代わりに彼の手を握る。その手の温もりを、感じるために。
それは、磨耗してゆく記憶の、ほんの断片。
「ノーグ!」
『エメス』の本拠地に舞い戻った極彩色の道化師ティンクルは、広い空間の真ん中に立ち尽くしていた男の姿を認めて、喜びの声を上げた。
「もう、起きて大丈夫なの?」
ゆっくりと振り向いた男は、重そうな眼鏡を押し上げて、ふと笑みを浮かべる。
「ああ。ずっと寝ているわけにもいかないからな」
長らく床についていた男の体は、酷く痩せ衰えていた。服から覗く手首など、枯れ枝のようですらあった。果たして、本当に大丈夫なのだろうか、とティンクルは思わずにはいられない。
彼は強い。強いということは、よく知っている。ティンクル以上に彼のことを知っている者などいるはずもないのだ。それがティンクルの自慢でもある。
けれど、知っているだけに。彼の強さが、何処か危うい強さであることも、わかってはいるのだ。
だから、ティンクルはことさら不安になる。彼が元気になってくれたのは嬉しい。素直に喜びたいのは山々だ。それでも、言わずにはいられない。
「無理はしないでね、ノーグ。ワタシ、ノーグのためなら、何だってするから」
「……ありがとう、ティンクル。でも」
そっと、伸ばされた男の手が、ティンクルの帽子をぽんぽんと叩いて。
「もう、いいんだ」
色の薄い唇が、そっと、残酷な言葉を告げる。
ティンクルは、その言葉の意味がわからず、呆然とその場に立ち尽くす。男は、眼鏡の下、鮮やかな色の両眼でティンクルを真っ直ぐに見つめて、微笑みかける。
「今、連絡が届いた。地上の拠点に、奴らが現れたらしい。もし奴らが捕縛できようと、失敗しようと、奴らは遅かれ早かれここに届くだろう。『棺の歌姫』……シュンランも」
シュンラン。その言葉が男の口から放たれるたびに、苛立ちが募る。シュンラン。春に咲く花の名前。シュンラン。シュンラン。何度も何度も聞かされてきた、『棺の歌姫』の名前。
ティンクル以上に男のことを知っている者など、いるはずもない。
だから、ティンクルは、それが彼の、今この瞬間、最も求めているものであることだって、知っていた。知っているからこそ、聞かずにはいられなかった。
「それなら……ワタシは、もう、いらないってこと?」
「どうしてそうなるんだ」
男は意外そうな顔をする。いつもそう。自分はこんなに彼のことを理解しているのに、彼はこちらの気持ちなどわかってくれない。最初はそれでもいいと思っていたけれど、側に長くいればいるほど、わかってほしいと思う気持ちが深まっていく。
それは、きっとわがままなんかじゃない。
――わがままじゃ、ないよね。
祈るように思いながら、男の手を握り締める。
「だって、そうでしょ? シュンランさえいれば、ノーグの願いは叶うもの。ワタシなんて、いらないってことだよね?」
「そうじゃない。シュンランを手に入れることは、俺と、君のために必要なことなんだ。わかってくれ、ティンクル」
わからないよ、と。答えたかった。答えたかったのに、言葉が出なかった。ぎゅっと唇を噛むことしかできない。どうして、言いたいことも言えないのだろう。そう思っているうちに、男はティンクルの手をそっと解き、彼女の横をすり抜けて扉に向けて歩き始める。
「すぐに、すぐにわかる。だから今は、少しだけ、待っててくれ」
――どれだけ、待てばいいの?
胸の中で、鈴が鳴る。
しかし男はそれには気づくこともなく、彼女に背を向けたまま、部屋と回廊を繋ぐ扉を開けて、
「それじゃ、また後でな、ティンクル」
そのまま、扉は閉まった。
その背中を追うことは、きっと簡単なこと。空間の制約を無視する能力を持つティンクルにとって、彼を抱きしめることはとても簡単なことであるはずだった。
なのに、ティンクルはその場から一歩も動けなかった。
胸の中にぐるぐると渦巻く思い。届くことのない思い。それは、遠い日に見た、メリー・ゴー・ラウンドのよう。
メリー・ゴー・ラウンドは好きじゃない。
追っても追っても、絶対に追いつけないから。
ぽつん、と広い空間に残されたティンクルは、己の胸の中から湧き上がってくる声を聞いた。
――泣いているの?
鈴を鳴らしたような、声。自分自身の声のはずなのに、知らない誰かの声に聞こえる。特に、歌うようなその響きが気に食わない。
歌、歌、歌。
ティンクルは歌が嫌いだ。歌姫と呼ばれるシュンランも嫌いだ。なのに、大好きな彼はいつも『歌』を求めている。歌が必要だ、歌姫が必要だ、だからシュンランが必要だ。そんな彼の言葉が、ティンクルの心を締め付ける。
――ねえ、泣いているの?
もう一度、歌うような声が耳の奥で響く。胸の中に渦巻く気持ちを、そのまま詞にしたような、声。頭の中に浮かび上がる、褪せた色の回転木馬を振り切るように、ぶんぶんと首を横に振る。
「泣かないよ」
黒く塗った唇を、笑みの形の歪める。それは、今にも泣き出しそうな笑顔であったけれど……確かに、ティンクルは笑っていた。白塗りの顔の上で、赤い炎を模した模様が、揺れるように歪む。
泣かないよ。その言葉に合わせて、ふわりとティンクルの体が浮かび上がる。彼女の背中には、金色の光を宿した、鏡の破片を重ねたような翼……それは奇しくも、セイルの右腕に宿る『ディスコード』の姿に似ていた……が現れていた。
「絶対に泣かないって、決めたの」
歪みきった笑みを浮かべたまま、彼が見つめていたものを見上げる。鮮やかに染め上げられた髪が揺れ、帽子につけられた鈴が、りんと鳴る。
黒と青の視線でティンクルが見据える先には、巨大な赤いものが、蹲っていた。
空色少年物語