空色少年物語

18:鏡の中の道化師(4)

「あ、そうだ、忘れるところだった!」
 セイルは慌ててポケットの中から包みを取り出して手渡す。シュンランはきょとんとした表情でセイルを見つめていたが、やがて包みをそっと開け……中に入っていた青い首飾りを見て、目を輝かせた。
「セイル、これ……!」
「その、お誕生日、おめでとう。気に入ってくれれば嬉しいんだけど」
 セイルは自分の首にかけた首飾りを見せる。セイルの手の中とシュンランの手の中、同じ色で揺れる二つの石。
「セイルとおそろいですね! 嬉しいです!」
 細い指で首飾りを握り締めたシュンランは、今にも飛び跳ねんばかりの喜びようで。思っていた以上の喜び方で、逆にセイルの方がちょっと面食らってしまう。そんなセイルをよそに、自分の首に首飾りをつけようと腕を回すシュンラン。もぞもぞと動きながら、何とか見えない首の後ろで金具を留めようとしていた。
「ん……」
「えっと、つけてあげようか?」
 セイルが手を伸ばすと、シュンランは「お願いします」と首飾りを手渡した。青い石の飾りをシュンランの胸の前に垂らし、後ろで金具を留める。振り返ったシュンランは、にっこりと笑って首飾りに指を触れる。
「これでまた一つ、おそろいが増えました」
 おそろい。
 シュンランはいつもそうやって言って嬉しそうに笑う。髪飾りを買ったときもそう。セイルとおそろいの、そらのあおだと言っていたことは今でも鮮やかに思い出せる。だから、今度は自分とシュンランとで、同じ気持ちを共有できたらきっと嬉しい、そう思ったのだった。今この瞬間、シュンランの笑顔を見るだけで胸の中に広がっていく温かな気持ちは、他の何にも代え難いもの、だと思っている。
 けれど……一つだけ、どうしても不思議で仕方ない。
 チェインに向けて、自慢げに首飾りを見せていたシュンランに対して、セイルは思い切って声をかける。
「あのさ、シュンラン」
 首飾りの石を握り締め、浮かび上がる問いを言葉に。
「俺とお揃いって、そんなに嬉しいのかな?」
 シュンランは、一瞬何を言われたのかわからない、といった風に首を傾げて……すぐにセイルの前につかつか歩み寄ってきて、その額にぴしりと指を突きつけた。
「嬉しいです。嬉しくなければ、喜ばないです」
「で、でもさ。その……前にも言ったかもだけど、俺なんかとお揃いでいいのかな、って」
 出会ったその日から、側にいるのが当たり前で。実のことを言えば、今までずっと考えてこなかった。考えないようにしていた。
 ――シュンランが、自分をどう思っているのか。
 いつもシュンランはセイルに笑顔を見せてくれる。背中を支えてくれて、時には強く押してくれる。そんなシュンランを、セイルはとても大切な存在だと思っている。無くてはならない存在だと思っている。
 だが、シュンランはどうなのだろう。そう思ってしまった瞬間に、不安が湧き上がってくる。嫌われているわけではない、そう信じたいけれど……途端に弱気になるセイルの顔を覗き込んでいたシュンランは、突然ぷうと頬を膨らませた。
「セイルだから嬉しいのです。セイルはわたしの大切です、大切な人とおそろいなのは、とても、とても幸せなことなのです」
 シュンランは……きっと、俺に怒ってる。
 セイルは呆然とシュンランを見つめて、思う。何に怒っているのか一瞬はわからなかったけれど、すみれ色の瞳に映る情けない自分の姿を見て、気づいた。
 シュンランの気持ちを疑ってしまったのは、自分だ。信じてもらえていない、そう思ったシュンランが怒るのは、当然のことではないか。セイルは慌てて「ごめん」と謝る。
「シュンランにそう言ってもらえると、俺もすごく嬉しい。でも、何か申し訳ないような気分になっちゃうんだ」
「それがセイルの悪い癖です」
 セイルの弱気を、シュンランの言葉がばっさりと断ち切った。
「セイルは、もっと自信を持つです。持っていいのです。うじうじは、見ている方もうじうじな気分になるです」
「あ、ご、ごめん、でも」
「 『ごめん』はいいです。『でも』もいらないです。背筋を伸ばすがいいです。セイルは、そうしているのが一番素敵です」
 きっぱり言い切って、シュンランは歯を見せてにっと笑う。
『……全く、言ってくれるじゃねえか。なあ、セイル?』
 ディスがからかい混じりの言葉を投げかけてきて、シュンランの横に立っていたチェインまでおかしそうにくすくす笑っている。
 こんなことを言われてしまっては、背筋を伸ばさずにはいられないではないか。ちょっとだけ顔を赤くしながらも、背中に力を篭めて、微かに影を落としていた弱い自分を追い出す。
 そんなセイルを、シュンランは笑顔で見上げていたが……不意に少しだけ躊躇うような顔をしてから、小さな唇を開いた。
「それに、これは、わたしの考えです。正しくはないのかもしれません。しかし、おそろいであることは、その人と何処かで繋がっているということ、そんな気がするです」
 それは、何も「もの」での繋がりではないのだとシュンランは言う。この手の中にあるのは、セイルとシュンランでお揃いの首飾り。けれど、シュンランの言う「おそろい」というのは、この首飾りがきっかけになって結びついた、セイルとシュンランで分け合った喜びの気持ちなのだ……そう、舌足らずな、しかし何処までも真っ直ぐな言葉で、シュンランは言う。
「繋がってる、と思えれば、独りの不安とさよならできます。わたしが不安とさよならできたのは、セイル、あなたのおかげなのです」
 独りの、不安。
 その言葉が、セイルの胸の中に響き渡った。その瞬間に、シュンランの言葉とセイルの感情が、同じ触れ幅で揺れた、そんな気がした。
「独りじゃない……か」
 共鳴。そう、それはきっと共鳴だったのだ。
 何もかもを忘れて、言葉すらもわからない世界に独りで目覚めたシュンランにとって、誰かと繋がっている感覚というのは何よりも大切なものに違いない。そして、今まで誰かと繋がっているという実感を持ったことのなかったセイルにとっても、この繋がりは決して失ってはいけないもの。
 この感覚を忘れないようにしよう。思いながら、首にかかった青い石をぎゅっと握り締める。シュンランも同じように首飾りを握り、花咲くように笑う。
「ありがとうございます、セイル。それから……これからも、よろしくお願いしますね」
「うん。こちらこそだよ」
 笑い合って、お互いの手を取り合う。けれど、その瞬間に胸の中に浮かぶのは、シュンランに必要されていないのではないか、という不安とはまた違う、小さくて、それでいて見過ごすことの出来ない影。
 何故、こんな気持ちになるのだろう。微かな息苦しさすら感じながら、何とかそれを払拭しようと前を向き、空いた手でポケットの中にしまっていたものを取り出す。
「そうだ、チェインにも、渡したいものがあったんだ」
「私に?」
 不思議な顔をするチェインに対し、セイルは包みを手渡した。その瞬間に、シュンランが露骨に横目で睨んできたのが気になったが、とにかくチェインが包みを開けてくれるのを待つ。
 チェインは手の上に載せられた包みを丁寧に開いて、中に入っていたもの……黒猫の耳飾りを摘み上げる。
「どうしたんだい、これ」
 当然予測された質問に対し、セイルは迷わずこう答えた。
「ブランが、チェインにって」
「えっ」
「えっ」
 チェインとブランの驚きの声が唱和した。特にブランはセイルがそんなことを言い出すなんて想像だにしていなかったのだろう、今まで我関せずといった様子だったのが一転して、セイルに向かってあからさまに焦った様子で言う。
「あのなあセイル、俺様はんなこと……」
「ブランが渡しづらそうだったから、俺からチェインに渡すって言ったんだよ。選んだのはブランで、『姐御に似合う』って言い出したのだってブランの方じゃないか」
 セイルがそう言うと、ブランは明らかに納得していない表情のまま、しかし黙り込んだ。セイルは何一つ間違ったことは言っていない。あくまで、嘘ではないのだ。ただ、そのまま伝えても絶対にブランは止めただろうから、あの瞬間には真意を言わなかったし、今この瞬間もあえて言葉を選んだけれど。
『ブランみたいなこと言ってんじゃねえよ、セイル』
 ディスの声が脳裏に響く。確かに、ブランもそうやって常に言葉を選びながら喋っていたのだろう……その事実に気づかされる。ただ、今はそれに対して何かを思うよりも、目の前のブランの慌てようが面白くてつい笑ってしまう。
 チェインは真意を探るように眼鏡の下からじろじろと口を噤んだままのブランの横顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いてブランに向かって耳飾りを載せた手を突き出した。
「で、これは、本当に私が貰っていいのかい?」
 チェインの言葉に、ブランは一瞬びくりと肩を跳ね上げて、恐る恐ると言った様子でチェインの顔を窺った。何をそんなに怯える必要があるのだろう、とセイルの方が不思議になってしまう。
 対するチェインもセイルと同じことを思っていたのだろう、「何でそんな顔をするんだい」と呆れた声を上げる。それでブランもやっと我に返ったのか、妙に難しい顔になりながらも頷いた。
 チェインはそんなブランを見上げたまま、少しだけ笑って、唇を動かした。
 セイルにはその声は聞こえなかったけれど……「ありがとう」、と。チェインの唇が動いたのは、見て取れた。
 呆然とするブランに対し、チェインはそっと黒猫の耳飾りを指で包み込む。壊れやすいものにそうするかのように。ブランはその様子を見届けて、微かに唇を開いて、言った。
「こちらこそ、ありがとう」
「何言ってんだい、変な奴だね」
 言われて、ブランは「はは、変ってのは酷えな」と笑った。ただ、それは無理に笑ってみせているようにセイルには見えた。何かを隠すような、誤魔化すような、そんな笑い方だったから。
 チェインも、ブランが何かを誤魔化したことは察したに違いない。訝しげな表情になって「ブラン?」と名前を呼ぶ。ブランはそれには応えずに言う。
「ま、とにかく面白い話も聞けたんだ、とりあえず帰ろうじゃないの。こんなところに突っ立ってても、お邪魔でしょ?」
 それもそうだね、とチェインが返し、セイルもシュンランもその言葉には頷くしかなかった。人の波に向けて歩き出したブランとチェインは、もういつも通りの言葉の応酬を始めていた。チェインは贈られた耳飾りを、握ったままだったけれど。
 そんな二人を見つめながら、シュンランはぽつりと言った。
「ブランは……きっと、どうすればいいかわからないのですね」
 それは、セイルに聞こえるか聞こえないかの、小さな声。
「心が揺れること。その意味がもし、ブランにわかっていたとしても、ブランは同じように困ったかもしれません。もしくは」
 そもそも、チェインに贈り物をしようなんて、思わなかったのかもしれません。
 シュンランの言葉に、セイルは驚く。何故、シュンランはそんなことを言い出したのだろう。思っていると、シュンランは大きなすみれ色の瞳でセイルを覗き込んできた。銀の瞳の奥の奥、セイルの心の奥底まで見通すかのように。
 自然と高鳴る胸を無意識に押さえていると、シュンランは淡い紅色の唇を開いた。
「セイル、どうしてでしょう。わたしは、少しだけ怖いのです」
 怖い、と言いながらもシュンランの表情は凛としたものだった。ただ、すみれ色の瞳が微かに揺れる。
「わたしたちが目指すものは、ただ一つです。しかし、そのただ一つが終わった後、どうなるのでしょうか。それを考えると、胸がざわざわするのです」
 ただ一つ。その言葉が意味するのは、セイルの兄……ノーグ・カーティスとの邂逅だ。
 ティンクルはノーグと『エメス』についての情報をセイルたちに与えて去った。彼女の意図が何処にあるかはわからないが、罠であろうとも何であろうとも、挑まない理由はない。だが、その先に待つものはセイルにもわからない。
 しかし……今は、わからないことが不安なのではない。
 自分の中にぽつりと生まれた影、その正体が今、はっきりした気がした。それはきっと、シュンランが「怖い」と言ってみせたものと一緒だ。目を見開いて、自分が今いる場所を確かめる。自分の手をシュンランが握り、目の前にはチェインとブランが立っていて、他愛ないことを喋っている。
 そんな、「いつもの」風景の中に、自分は立っている。
 ――今は。
 その事実を改めて噛み締めていると、シュンランは突然セイルの手を放してぱんぱんと自分の顔を叩いた。それから、笑顔になった。きっと……そうすることで、己の不安を振り切ったに違いない。そして、セイルに向き直って言う。
「チェインと、少し、お話をしてくるですね」
 わかった、とセイルが頷くと、シュンランはチェインのいる方に向かって駆け出した。セイルは離された手を見つめて、シュンランの背中に視線を戻して、それから首にかけられたお揃いの首飾りに指を触れた。
 シュンランがチェインの手を取って、何かを話している……その様子を見つめながら、セイルは歩調を緩めたブランに追いついた。しばらくは、二人とも無言でシュンランとチェインを見つめていた。見つめたまま、ゆっくりと歩いていた。
 店から一歩踏み出して、青空の下に出たところで――
「あのさ、ブラン」
「なあ、セイル」
 セイルが口を開くのと、ブランが声を上げたのはぴったり同時だった。
 思わず目を見合わせてしまい、セイルはちょっぴり気まずい思いをする。ブランもセイルと同じような気分だったのだろう、少々困った顔をしながらも、言った。
「悪い、何だ?」
「あ……ごめん。ブランの話が先でいいよ」
「こっちはんな急ぎの話じゃねえから。何か俺に用なんだろ?」
 用、というわけでもなかったのだけれども。それでも、ブランが話を促すような目でこちらを見つめていたから、躊躇いがちに口を開く。
「こんなこと、ブランに言うのは間違ってると思うんだ。ブランは嫌な気分になるかもしれない。シュンランやチェインだって、絶対にいい気持ちはしないと思う。でも、どうしても、誰かには伝えておきたくて」
 声は上ずり、掠れて、上手く言葉にならない。言い出さなければよかった、という思いが胸の中にむくむくと湧き上がってきそうになったけれど……あくまでブランは、冷たい色をしているのに酷く穏やかな瞳で、セイルを見下ろしていた。
「俺様でよければ、言ってみろよ。んな遠慮することはねえ、黙って聞いててやるから」
 言いながら、セイルの頭をくしゃりと撫でる。それで、セイルの心は決まった。震えそうになる心を律して、真っ直ぐにブランを見上げて、心の奥底からの思いを言葉にする。
「俺、さ……いっそ兄貴が見つからなければいいのにって、思っちゃったんだ」
『――セイル、お前』
 頭の中で、ディスが驚愕の声を上げる。セイルは慌てて両手を振って弁解する。
「あ、ち、違うんだ。兄貴に会いたいとは、今だって思ってる。会って、色んな話をしたいっていうのは、本当に本当なんだ。だけど、だけどさ」
 ブランは相槌を打つわけでもなく、頷くわけでもなく、何処までも淡々としてセイルの言葉を待っていた。だが、それが逆に今のセイルにとってはありがたかった。余計なことを考えずに済んだ分、胸の奥に渦巻いていた思いをそのまま言葉に出来たから。
「兄貴を見つけたら、もう二度と、俺たち一緒にはいられない、って。そう思った瞬間に、何か胸がぎゅっとなったんだ」
 言いながら、「わかっている」と冷静な自分が囁く。
 わかっている。これは自分のわがままだ。兄を見つければ旅は終わる。それぞれが、それぞれのすべきことをして、あるべき場所に帰っていく。元々そういう約束で集った四人と一振りなのだ。
 兄と出会った後にシュンランやブランがどうするつもりかは知らない。ただ、最低でもチェインは兄を殺してセイルの前から消えてしまうだろうし……そうとは言葉にしていないが、彼女の人柄を考えればノーグを殺してなおセイルの側にいるとは思えない……『ディスコード』は役目を果たしたら再び封印されてしまうのだろう。
 万が一そうならなかったとしても、今のままではいられない。それだけは確かだ。
 初めからわかりきっていたことで、セイルもそれを覚悟してここまで来た、はずだった。実際、今日この日を迎えるまでは「それで仕方ない」と思い極めていたのだ。
 けれど……
「寂しい。寂しいよ。折角出会えたのに。一緒にいるのが嬉しい、って思えるようになったのに。この時間が終わっちゃうくらいなら、兄貴が見つからない方がいいんじゃないか……って思っちゃったんだ」
 ごめんなさい。俯いて、そう付け加えずにはいられない。
 こんな思いを伝えられたって、迷惑なだけだ。自分たちのすべきことはただ一つ、ノーグ・カーティスを探すことだというのに。ブランはこんな自分をどう思うだろう。きっと、笑いはしないと思う。だが「覚悟が足らない」と初めて会った時のように冷たく突きつけてくるのではないか。
 思いながら、恐る恐る、ブランを見上げる。
 ブランは、予想通り笑ってはいなかった。ただ、セイルの弱さを貫く容赦のなさもその瞳の中にはなかった。鮮やかな氷河の緑が微かに揺れて……ブランの唇が開かれる。
「そうだな。俺もだ」
「え……?」
 思ってもいなかった言葉に、目を見開かずにはいられない。ブランは淡々と、表情を殺したままに呟く。
「お前らと一緒にいる間に、わかった気がするんだ」
 言葉を切って、視線をセイルから前を歩くシュンランとチェインに向ける。その瞳の奥に秘めた思いをセイルは知らない。心の在り処を失ってしまったこの男が考えていることを、正しく理解することはセイルには出来なかったから。
 だが、ブランの表情は穏やかだった。
 何処までも、何処までも、穏やかだった。
「今からでも、俺の願いは叶うのかな、ってな」
 ブランの、願い。
 それは一体何なのだろう……思って、口を開きかけたその時。
「セイルー! 早くしないと置いていきますよ!」
 明るいシュンランの声が響く。セイルは慌てて駆け出そうとして、ふとブランを振り返った。
「あ、そ、そういえば、ブランは何の話を」
「や、俺様の話はもういいんだ。お前の話が聞けただけで、よかった」
 ブランは目を細めた。笑っていたのかもしれない。それから、セイルを追い払うように手をちょいちょいと振った。早くシュンランの下へ行ってやれ、ということなのだろう。一体ブランが何を話す気だったのか、気にならなかったわけではないけれど……聞くのは今でなくてもよいだろう、と思い直す。
「変な話してごめん。その、話聞いてくれてありがとう!」
 言って、ブランに背を向け、道の向こうで待つシュンランの方へ駆け出した。
 まだ、心の整理がついたわけじゃない。けれど、少しだけ心が軽くなった気がした。あのブランが「俺もだ」と言ってくれたことが、複雑ではあったが嬉しかった。
 そう……何よりも、嬉しかったのだ。
 待っていてくれたシュンランの手を取って、心からの笑顔を浮かべる。これから先に何が待ち構えていても、せめて今この瞬間だけは笑っていようと思う。
 何しろ今日はセイルが生まれた祝福の日。今日この一日を幸せな気持ちで過ごすことを、誰が邪魔できるだろう。この幸せが永遠に続くことはない。それでも幸せであったという確かな記憶があれば、きっと……前に進めると信じている。
 シュンランとともに笑いあい、背中にチェインとブランの存在を確かに感じている、その幸福を心の中に刻み込む。消えないように。二度と忘れないように。
 そんな中、心の奥底でディスが小さく蠢いて……掠れた声で『畜生』と呟いた。
『これじゃ、誰を責めることも出来ねえじゃねえか……!』
 その言葉の意味は、今のセイルにはわからなかった。