空色少年物語

18:鏡の中の道化師(3)

 躊躇の間も無く、突き出されてしまった『ディスコード』の刃は、ティンクルの左腕を斬り飛ばしていた。だが、それは骨と肉を裂いた感覚ではない。人を斬ったことのないセイルでも、そのくらいはわかった。
 思わず、斬った腕の断面を見つめ、セイルは息を飲んだ。
 そこから噴き出していたのは血に似た赤黒い液体であるが、覗くのは血管や筋肉、骨ではない。セイルにはわからない、金属と何であるかすらわからない素材で出来た何かが、腕の付け根から露出していた。
『機巧……だと……?』
 ディスが驚きの声を漏らす。その時、表情を失ったティンクルが右腕を振り上げた。左腕を失っても痛みを感じている様子はなく、握った凶器をセイルの頭の上に振り下ろそうとする。
 だが、その手が振り下ろされることは無かった。
 先端に鉤を持つ銀の鎖が、ティンクルの手首を捉えて巻きついたからだ。
「セイル、シュンラン、大丈夫かい!」
「チェイン!」
 壊れた鏡の向こうから、チェインが聖別の鎖を放っていたのだ。鼈甲縁の眼鏡をもう片方の手で押し上げながら、ティンクルを鋭く見据えている。
 ティンクルはぎり、と悔しそうに歯噛みしながらもその場から消え、セイルからもチェインからも少し離れた場所に現れた。チェインの鎖は以前と同様空を切ったが、チェインとしてもそれは織り込み済みだったのだろう、落ち着いた表情で鎖を袖の中に戻す。
 ティンクルの意識がチェインに向けられたのを見て取って、セイルはシュンランの元に駆け寄る。先ほどティンクルの放った一撃はぎりぎり抑えることに成功していたようで、鏡の刃はシュンランのほんの数歩手前で止まっていた。
「シュンラン……大丈夫?」
「はい、だいじょぶです」
 床の上に座り込んだまま、シュンランは歌うのを止めて言った。空色の花に囲まれているシュンランの体は、先ほど一瞬見えた青い光に包まれていたが、歌うのを止めた瞬間にふわりと光が空気に溶けた。
 ただ、シュンランの肩……『歌姫』の証だという石の嵌っている箇所では、服の上から青い花が咲いては散り、咲いては散りを繰り返していた。セイルはそっとその花に触れようとしたが、足元に揺れる花と違って実体が無いようで、指がすり抜けてしまった。
 シュンランはセイルを見上げて、安堵の表情で微笑む。
「心の中の形を、歌にしたです。ここまでの形になるとは、思わなかったですが」
「うん、すごいや。これが『棺の歌姫』の力、なんだ……」
 セイルは改めて目の前に広がる光景を目に焼き付ける。何処からともなく吹く春の風に揺れる花。セイルが生まれてからこの方見たことのない、青い、青い、空色の花。もはや鏡の迷宮の姿は跡形も無く、一面がシュンランの描いた歌の世界に書き換わっていた。
 ティンクルは舌打ちをして口を開きかけたが、シュンランがそれを認めて声を放つのが先だった。
「もう、逃がさないです」
 声は力になって、ティンクルの足元の花が急激に成長して、ティンクルの足を絡め取る。それはチェインの鎖のように、その場から消えてしまえば逃れられるもののように見えたが、ティンクルは露骨に表情を歪めてその場に膝を折る。
「ここは、もう、わたしの世界です。全てはわたしの法則に従うです」
「……っ」
 武器すらも絡め取られ、切り落とされた左の腕の付け根を押さえたティンクルはものすごい形相でシュンランを睨む。だが、シュンランは何処までも毅然として、ティンクルの前に歩み寄り、体を屈めてその目を真正面から見据える。
「ティンクル、答えてください。ノーグは……」
 シュンランの言葉は、最後まで放たれることは無かった。ティンクルが、唐突にシュンランの肩を掴んで押し倒したからだ。シュンランも、まさか突然物理的な行動に出られるとは思っていなかったのか、目を真ん丸くしてその場に組み伏せられる。
 片腕だけでも人並みはずれた力を持つらしいティンクルは、ぎりぎりと、青い花を咲かせるシュンランの肩を締め付ける。
 セイルは慌てて駆け出そうとしたが、チェインに視線で制されたことで、チェインが言わんとしていることに気づいた。シュンランもそれに気づいたのだろう、余計な抵抗はしないままにティンクルを見据え続けている。
 ティンクルだけが、何も気づかないままに、花畑の上に倒れたシュンランに向かってまくし立てる。
「何よ、ただ力が強いだけで粋がらないで、ワタシは、ワタシは……」
「粋がってるのはお前さんじゃねえの、嬢ちゃん」
 低い、ざらついた声が、花畑に響く。はっとして振り向いたティンクルの脳天に、いつの間にか目の前まで迫っていたブランが、銃の照準を合わせていた。
「その体でも、ここを撃たれたら困るんじゃない? 大人しく降参しなさいな」
 近頃セイルたちには見せていなかった酷薄な笑顔を浮かべるブランに対し、ティンクルは……何故か、不意に救いを求めるような視線を投げかけた。今までの、何かが決定的に歪んでいる、矛先の誤った怒りを押し込めた表情とは違う。道に迷った子供が浮かべるそれとよく似た顔で、ティンクルはブランを見上げていた。
 これには流石のブランも面食らったのだろう、銃口をティンクルに向けたまま「な、何よ」と戸惑いの声を上げる。
 ティンクルはしばしじっとブランを見つめた後……急にぱっと顔を明るくして、体を起こした。危うく銃の引き金を引きかけるブラン、すぐに動けるように構えるセイルとチェイン。その警戒に反し、ティンクルはシュンランの肩から手を外して高い声を上げる。
「そっか、いいこと思いついちゃった、ワタシってすごーい!」
「ティンクル……?」
 横たわったまま、微かな不安を滲ませるシュンランに、ティンクルはぐっと顔を近づける。唇が触れるか触れないかという距離まで近づいたティンクルは、声を弾ませる。
「ね、シュンラン、あなた、ノーグの居場所を探してるのよね? 教えたら、ワタシのこと、逃がしてくれる?」
「え?」
「逃がしてくれるって約束してくれたら、本当のことを教える。ね、悪くない条件でしょ?」
 シュンランは目を丸くした。もちろん、セイルも同様だ。チェインとブランだって、信じられないという顔をしている。
 『機巧の賢者』ノーグ・カーティスの居場所は、今までセイルたちがいくら探してもわからなかったことだ。確かに、ここで聞くことが出来るのであれば目的に限りなく近づく。だが、だが……
「信じて、いいのですか?」
『シュンラン!』
 シュンランの言葉に、聞こえないとわかっていてもディスが叫ぶ。セイルも、素直にティンクルの言葉を信じる気にはなれなかった。何処かおかしな発言を繰り返してセイルたちを、そして同じ『エメス』の者たちをも翻弄する道化なのだ。
 それに、何よりも、彼女はノーグ・カーティスに一番近しい者。正しい情報であれば重要な手がかりではあるが、ノーグに対して不利になる情報をそう簡単に渡すだろうか?
 疑いの視線を一身に受けながら、ティンクルは笑う。笑う。鈴の音を鳴らしてなお笑う。
「信じるも信じないも勝手。でもね、ワタシ、気が変わったの。あなたたちに、ノーグに会ってもらいたいなって思ったの」
「何故です?」
「ふふ、秘密っ」
 ティンクルは何処までも嬉しそうだった。シュンランはじっとティンクルのちぐはぐな色をした目を見据えて、彼女の真意を探ろうとしていたようだったが、ついに唇を開いた。
「教えてください。逃がすのは、それからです」
「シュンラン、いいの?」
 セイルは思わず声を上げてしまうが、チェインとブランは黙ったままだ。そして、シュンランはティンクルに押し倒される形のまま、凛とした声で言った。
「しかし、もし嘘だったなら、次はありません。わたしは、本気であなたを倒します」
「嘘じゃないもん。ワタシ、嘘は嫌いだもん」
 ティンクルはぷうと頬を膨らませながらも、シュンランから顔を離してセイルたちを見回した。その動きが何処かぎこちないもので、セイルの背筋に冷たいものが走る。そんなセイルには構わず、ティンクルは歌うように言葉を紡ぐ。
「ノーグのおうちはずーっと北の海の中。遠い時代のお話、海に沈んだ世界樹の苗木の奥の奥なの」
「世界樹の……苗木?」
 チェインが明らかな疑問を言葉に篭める。世界樹、ならわかるが苗木とはどういうことだろう。しかも、それが海の下にある、というのは……ブランもティンクルの言葉を捉えかねたのだろう、顎に手を当てて考え込むような仕草をしている。
 だが、唐突に。あまりに唐突に、ディスが脳裏で叫んだ。
『苗木……シルヴァエ・トゥリスだ!』
「シルヴァエ……って、そうか、そういや一基じゃねえって話だったな……」
 ブランもディスの声が聞こえたのか、声に出してそれに応える。だが、シュンランとチェインはディスの声が聞こえていないし、セイルには聞こえたところで二人が何を言っているのかさっぱり理解できない。
「どういうこと、ねえ、ディス、説明してよ」
『説明は後だ。まずはティンクルの話を最後まで聞こうぜ』
 ――悔しいけれど、正論だった。
 目をくりくりさせてセイルたちのやり取りを見ていたティンクルは、不意に「あっ」と声を上げた。
「だけどね、だけどね。ノーグは海の底だけど、『エメス』の皆は今、地上の苗木にいるよ。何か、でっかい実験をやるんだーってノーグが言ってた。きっと、放っておくと色々大変なことになるよ」
「でっかい……実験……?」
「うん。北のね、アンダーシュっていうところにも苗木があって、そこが『エメス』の拠点なの。それで、色々と邪魔してきた赤目のおじさんもそこに捕まえてあるの」
 その瞬間に、シュンランがさっと顔色を変えた。
「クラウディオ!」
 その名前には、セイルにも聞き覚えがあった。確か……
「クラウディオ、ってシュンランを海から引き上げて、俺の家まで連れてこようとしてた蜃気楼閣の偉い人だっけ?」
「はい。クラウディオが掴まったのは大変です。急いで助けなくては!」
 しかし、とちらりとシュンランはチェインとブランを見る。シュンランにとっては縁のある人物だが、チェインやブランにとっては違う。ノーグの居場所がわかったとなれば、真っ先にそっちに向かいたいのではないか。
 だが、チェインは微かに苦い顔をしながらも、言った。
「何かが起こるって言われちゃ、そっちに行かないわけにはいかないよ。ノーグのことはその後だ」
「そうでなくとも、クラウディオを助けるのが先決なのよね。蜃気楼閣に恩を売るのは、賢者様に近づく必要条件だ」
 ブランが溜息交じりに言う。ディスも『あー、そりゃそうだなー』と何とも気乗りのしない声で同意する。セイルにはその意味はわからなかったけれど、これからすべきことは決まった。
 シュンランは力強く頷いて、ティンクルに向かって言う。
「情報は、それだけですか」
「うーん、これ以上ワタシにもわからないかな。あ、ワタシが言ってたっていうの、ノーグには内緒ね!」
「……わかりました」
 微かな躊躇いを残しつつも、シュンランは小さな声で歌を歌う。その瞬間に、ティンクルの体に巻きついていた花がふわりと散った。ティンクルは花を蹴って宙に浮かび上がると、今まであれだけ憎悪の感情を向けてきたのが嘘のように、晴れ晴れとした笑顔で言った。
「それじゃ、またね! 今度は絶対に殺すからね!」
 前言撤回、完璧に憎まれてはいたらしい。
 そして、ティンクルは鈴の音を残し、その場から消え去った。
 しかし、何故ここまで自分たちが憎まれなければならないのだろう……その思いは、セイルの中に小骨のように引っかかる。相手はそもそも『エメス』の人間であり、自分たちにとっては敵なのだ。だから、敵に嫌われるのは当たり前、なのかもしれないけれど。
 この手で斬り飛ばした腕。機巧仕掛けの体。そしてシュンランと同質だという力。果たして、あの道化は何者で、何を思ってこんな行動を取ったのだろう……
 考えても答えは出ない。それは、またいつか、あの道化と再び邂逅したときにわかるのかもしれない。出来ればもう二度と出会いたくない相手ではあったが、そうもいかないだろう、とも思う。
 セイルは『ディスコード』を体の中に戻し、起き上がるシュンランに手を貸して、立たせてやる。シュンランは服の裾をぱんぱんとやりながら、チェインとブランに笑いかける。
「二人とも、無事でよかったです」
「まあね。何かよくわからない影に襲われたけど」
「そうそう。正直、ちょっとひやっとしたわあ」
 それでも、双方ともに無傷であるのがこの二人らしいともいえる。
「で、この空間は何なんだい。何だかすごい光景だけど」
「ティンクルが創った世界を、わたしが乗っ取ったです」
「……世界? どういうこと?」
 チェインが不可解そうに首を傾げながら、花畑に視線を走らせる。青い空に青い花畑。目も眩むような世界に四人だけが人の形をして立ち尽くしている、そんな光景だ。シュンランはちょっと困った顔になりながらも言葉を重ねる。
「ええと、ここは、心が創る、現実とは違う世界です。わたしの歌には、それを創って人を招く能力があります。そして……ティンクルの能力も、わたしとよく似ているようなのです」
「へえ、そりゃ興味深いな」
 ブランが目を細める。その瞳の奥には、確かに興味の色が覗いているように見えた。シュンランはもっとよい説明を探そうとしていたのか、しばらく虚空に視線を彷徨わせていたが、軽く首を振ってから前を向く。
「とにかく、まずはここを壊します。目を、閉じてください」
 その言葉に従って、セイルは目を閉じる。視界が闇に包まれた後でも、目の奥には空色がちらつく。あれだけの青い空間にずっと立ち尽くしていたのだから、当然とも言えよう。
『あれがシュンランの夢見た空の青、か。「歌姫」ってのはとんでもない力を振るうんだな、セイル』
 ――そう、だね。
『ま、どうでもいいこったな。シュンランが何であれ、手前は一緒にいるって決めたんだろ』
 頭の中に響くディスの声に、セイルは頷いた。頷いた……はずだ。その時、唐突に意識が遠くなって、周囲の空気の質ががらっと変わり、今までの静寂が嘘のような喧騒の中に放り出された。
 目を開くと、そこはティンクルと出会った場所、百貨店の婦人服売り場だった。チェインが床の上に置いていた紙袋も、シュンランが開けた試着室の扉もそのままで。思わず辺りをきょろきょろと見渡してしまうセイルに、目の前のシュンランが笑いかける。
「だいじょぶですか、セイル」
「う、うん。何か、吃驚しただけ。こうやって、戻ってくるんだ……」
「はい。わたしたちは、何処にもない場所から、現実に戻ってきたです。何かおかしいところは無いですか?」
「うん、大丈夫」
 言いながらも、一応軽く頭を振ってみたりするが、別段異常らしい異常は見当たらない。だが、それに対し、何故かブランは「っつー……」と顔を歪めて頭を抱えていた。「どうしたんだい」とこちらも異常は無さそうなチェインが問うと、ブランは顔を上げて「ああ」と応えた。
「や、問題ねえ。なるほど、向こうに行ってた間の時間は過ぎてねえのか」
「はい。あの……本当に、だいじょぶですか」
 心配の言葉を投げかけてくるシュンランに、ブランはへらりと笑い、大丈夫と手を振った。チェインはそんなブランを刺すような視線で見つめていたが、やがて深く溜息をついて言った。
「……さて、話は後だね。買うもの買って、向こうに帰ってから色々考えよう」
「賛成だ。というわけで嬢ちゃん、その服さっさと買ってきちゃいなさい」
「あ……そうですね!」
 そういえば、シュンランの服は試着した服のままだった。慌てて、今まで来ていた服に着替えなおして駆けていくシュンランを見送りながら、セイルはやっと危機が去ったのだと実感して肩の力を抜いた。
『全く、とんだ誕生日になっちまったな』
「うん……でも、色々わかったから。それは、良かったと思う」
『……ま、前向きなのはいいことだ。これからは忙しくなるだろうからな、覚悟しとけよ、セイル』
 ディスの声に力強く頷いて、考える。
 そうだ、ティンクルの言葉が真実かどうかはわからないが、この手がかりを逃すわけにはいかない。それに、『エメス』がどう動くかもわからないのだ。まずは『エメス』の企みを知るところから始める必要がある。それから、兄の待つ場所へ……
 兄……『機巧の賢者』ノーグ・カーティス。
 捜し求めていた存在ではあるけれど、いざその居場所がはっきりと示されると、微かに体が震えるのを抑えられない。期待と、不安。その双方がセイルの胸の中で複雑にせめぎあっているようであった。
 かくして、戻ってきたシュンランを迎えて、四人は誰からともなく店を出るべく歩き出す。ただ、誰もお互いに口を利くことはなかった。それぞれが、それぞれに考えることがあったのかもしれない。
 そんな中、唐突にシュンランが口を開いた。
「そういえば、セイル。ティンクルが来る前、わたしに用があるようでしたが」