空色少年物語

幕間:黒猫とリボン

 ――繋がってる。
 セイルから贈り物を貰ったシュンランは、そう言って、笑っていた。
 繋がる、というのはどういうことだろう。ブランはシエラ一味の隠れ家の一角、長い廊下に立ち尽くしたまま、窓の外に広がる夕暮れ空を見るともなしに見つめていた。
 答えてくれる人が昔はいた気がするけれど、今は何処にもいない。否、何処かにいるとは信じているけれど、要求に対して応答を返せる場所にはいない、ということだけは確かだった。
 かつて伸ばした髪を結っていた、髪を切った今は胸元を飾るのに使っている、褪せた緑のリボンを指先で弄る。別に意識していたわけではなく、自然と、そうしていた。
「……こんなところに突っ立って、何してるんだい」
 その時、不意に声をかけられて、思わず「あっ」と上ずった声をあげてしまう。
 目の前には、鼈甲縁の眼鏡をかけた女、チェインの姿があった。どうしてこんな距離に近づかれるまで気づけなかったのだ、と自分自身を叱咤する。
 神殿と内通することで『エメス』からシュンランを守ろうとして、それをセイルに止められて。己のやり方に己自身が疑問を持ち始めてから、どうにも思考が雑然として纏まりを欠くようになってしまった。それと並行して、外界の情報を正確に判断する能力も急激に衰えているように感じる。
 ――情けねえ。
 軽く息を吐いて、チェインを見やる。チェインはこちらから微かに視線を逸らす。一体チェインが自分のことをどう思っているのかは、ブランにはわからない。わからないけれど……多分、好かれてはいないのだろうな、と推測している。
 だから、こちらもチェインの目からは視線を外し、彼女の指先に視線を落とす。袖から覗く飾りは、いつか仇敵……ノーグ・カーティスを葬るための鎖の一部。それを認めて、ブランは止まりかけていた思考を回転させようと努める。
 ――そうだ、まだ、何も終わっちゃいねえってのに。
「ブラン?」
 再び無意識に胸元のリボンを弄りながら、ブランは何とかチェインの言葉に応える。
「すまん。ぼーっとしてた」
「……アンタ、最近本当に変だよ。熱でもあるんじゃない」
「体温は一般平均より下で推移してるけど」
「それはそれで問題な気もするよ」
 チェインは頭でも痛いのか、難しい顔をして眉間を指で押さえた。その表情の意味を考えて、きっと呆れられたのだな、と結論を下す。余計なことを言っただろうか、と思いながらも顔を上げ、ふと視点を一点に留める。
「それ、つけてくれてんだ」
「これかい?」
 チェインは耳を飾る黒猫に触れて、ほんの少しだけ、笑った。
「アンタがこういうものを贈ってくれるなんて意外だったけど、さ。贈られたものを至極大切にしまい込む趣味は無いからね。ありがたく使わせてもらってるよ」
「あ、やー……そうじゃなくてだな」
「アンタまでセイルと同じようなことを言うつもりかい?」
 上手い言葉が思いつかないで口ごもるブランに対し、チェインは今度こそ考えなくともわかる呆れの表情を見せた。
 ……そうではない。そうではない、けれど。
 いや、チェインの言う通りなのだろうか。自分の中に渦巻くもの、その意味がどうしてもわからなくてブランは戸惑う。
 この「理解の欠落」が、あの男が自分に残した二度と癒すことの出来ない傷の一つだということは、ブラン自身も理解している。ただ、今まではさしたる弊害とも思っていなかったのに、どうして今になってここまで自分を苦しめるのだろう、と思わずにはいられない。
 だが、単に思っているだけでは話は進まない。何かこの場を誤魔化せる言葉は無いだろうか、と思考を回転させようとしたが、その努力はチェインの声によって遮られた。
「アンタだって、誰かに気に留めてもらってるって思えば嬉しいもんだろ?」
「……どう、かな」
 自分だって、何が嬉しいか、ということくらいはわかる。ただし、その理解の幅は多分、通常より遥かに狭いだろうけれど。だから、それが必ずしも「嬉しい」ものなのかはわからない。わからない……と思っていると。
「そのリボン、大切にしてるじゃないか」
「どうしてこれが贈り物だってわかるの」
 ブランは小さく唇を尖らせる。チェインは「わかるさ」とあっさり言い切って、ブランの胸元に揺れるリボンを指した。
「緑は世界樹と女神ユーリスの色、緑のリボンは守り布。ユーリス神聖国の風習で、大切な人の安全を祈願して贈るものさ。アンタが似合いもしない褪せたリボンを肌身離さず身に着けてるんだ、意味を知らずにつけてるとも思えなくてね」
 ……そういえば、チェインはれっきとした聖職者なのだった。影追い、という肩書きだけ聞けば一般的には血も涙もない暗殺者を想像するが、その残忍さは本来異端研究者にのみ向けられるもので、その本質は聖職者なのだ。女神と世界樹にまつわる風習に詳しくても全くおかしくない。
 どうしてそんな当たり前のことまで失念していた? ブランは己に問いかけながら、曖昧に笑う。
「似合いもしない、っていうのは酷いわね。俺様、これ結構気に入ってるんだけど」
「そりゃ失礼したね」
 チェインは全く失礼と思っていない調子で言ってから、眼鏡の下の猫を思わせる目を細めた。
「……ただ、ちょっと気になっただけさ。アンタの身を案じてる奴についてね」
「あら、嫉妬?」
「まさか」
 渾身の冗談だったのだが、あっさりと交わされてしまって微妙な気分になる。もしかするとこれが切なさというやつだろうか、と半ば真面目に考え始めた時、チェインは静かに言った。
「ただ、アンタが辛そうにしていることを、リボンの送り主が望んでるのかと思ってね」
 それは、ブランの予測のどれとも違う言葉だった。『アーレス』が無くともある程度は予測できると思っていただけに、その齟齬はブランを戸惑わせた。
「辛い? 何がさ」
「私が気づいていないとでも思ったのかい? アンタ、今、とんでもない顔色してるよ」
「……チェイン、それ、何処までわかって言ってる?」
「全部、って言ったら?」
 チェインは顔を上げて、ブランを見上げた。
 今度こそ、チェインは真っ向からブランを見据えていた。その目の色は、青。セイルの髪を彩る鮮やかな夏の空色とは少しだけ違う、喩えるならば遠い、遠い、北の風を抱く秋の空。
 そこに篭められた感情を、ブランは知らない。理解できない。
 ただ……その目で見つめられると、途端に胸が苦しくなる。赤く染め上げられた部屋が、耳に響き渡る悲痛な叫び声が、そして闇に沈んでいく世界が脳裏に閃く。それは頭痛と吐き気すらも催すもので、必死にその記憶を意識の奥底に、記憶の倉庫に押し戻そうと努力する。
 けれど、けれど。
 どんなに記憶を閉じ込めて、鍵をかけても。
 目の前にある「現実」だけは、視界から消えてくれないのだ。
 眼鏡の硝子の向こうから、自分を責め立てる青い瞳。記憶と何一つ変わらない、瞳――
「別に。それで、何が変わるわけでもねえしな」
 言いながらも、たまらず目を逸らす。これが望んでいた道筋ではないのか、と頭の中の冷静な自分が囁くけれど、自分はそこまで強くない。強くはなかったのだ、という事実に今この瞬間気づかされた。
 その瞬間、チェインはブランの肩を強く掴み、壁に叩きつけた。息が詰まって咳き込むブランを釣りあがった目で見下ろし、ブランの目から見ても明らかに「怒り」だとわかる表情を浮かべて激しい語調で言った。
「アンタねえ、下らないこと言ってるんじゃないよ! アンタがそんなこと言ってるから、セイルやシュンランに余計な心配かけさせてるんだよ!」
 それでも……ブランは、何故チェインが怒っているのか、さっぱり理解できなかった。そこまで自分のことをわかっているなら、怒る理由だってない。そう、ブランは思う。確かに隠していたことは悪かったと思うが、チェインが隠していたことに対して怒っているわけでないことくらいは、わかったから。
 チェインの耳元で、黒猫が揺れる。チェインの怒りに合わせて、作り物の猫までがこちらを責め立てているようだと思うと、ちょっとだけおかしくなる。
「辛いなら辛いって言っていいんだよ! アンタがどんな弱音吐いたって誰も拒みはしない、なのに何を恐れてるんだい!」
 なおも激しく叫ぶチェインに対し、
「弱音なんて吐くわけねえだろ」
 ブランはやけに落ち着いた気分で、己の胸を指した。
「吐いたら、今度こそ、折れちまうもの」
 チェインははっとしたように目を見開いた。それを見届けて……おもむろに肩を押さえつけていたチェインの手を握る。柔らかく白い指先、磨き上げられた赤い爪。本来は人を傷つけるためでなく、救うための手だ。その手に篭められた温もりを感じ取るよりも先に、チェインの体をそっとつき離し、手も離す。
 きっと……今の自分は、とんでもなく不細工な顔をしているのだろうな。思いながら、ブランは口の端を歪める。
「姐御が俺様のことを気にすることは無えよ。俺は、俺のすべきことをやり遂げるだけだから。姐御も、姐御の目的を果たすことだけを考えていればいい……そうだろ?」
 もはや、チェインは何も言わなかった。ただ、青い瞳でブランを睨み付けているだけで。
「用事がないなら、俺様はこれで失礼するよ。また後でね」
 どうせ、後でこれからの話をしなければならないのだ。その時にチェインが追及してくるなら、その時に対応すればいい。チェインがこちらの状態を知っているという事実、それがわかっていればいくらでも答え方は考えられる。
 ブランはチェインに背を向けて、自室に向けて歩き出す。微かに咳が出るのは、先ほど壁に背中をしたたか打ったからだろうか。それとも。そんなことを考えていると、不意に背後からチェインの声が響いた。
「そんなになってまで、アンタは何を望んでるんだい」
 それに正しく答えるべきか、頭の中の冷静な部分は躊躇してみせたけれど。その間にも、勝手に唇が動いていた。
「俺の望みは」
 祈るように、胸元のリボンに触れて。
 ブランは――言った。
「この目に映る何もかもの、『幸せ』だ」