そんなはずはない、今、自分は鏡を背にしているのだ、後ろに誰かが立てるとは思わない。思いながらも視線だけを自分の横に走らせれば、真っ白な手が鏡の向こうから突き出されていて、セイルの肩を掴んでいた。
「セイル、目を閉じてください!」
鏡越しに聞こえてくるのは、シュンランの声。既に、灰色の凶器は目の前に迫っていた。いたけれど、セイルはシュンランの声を信じて目を閉じる。
すると、耳の奥が突然きぃんと鳴り、水の中に飛び込んだような感覚に包まれる。思わず息を止めてしまうが周囲を満たす空想の海はすぐに消え去り、再び正常な感覚を取り戻す。
「もう、目を開けてだいじょぶ、です」
声が耳元で聞こえて、セイルははっと目を開ける。
目の前には、銀色の目を見開いた空色の少年。そして、その後ろには、すみれ色の瞳を細めて安堵の表情を浮かべるシュンランの姿があった。目をぱちくりさせる自分自身をしばし眺めてから、セイルはそっと後ろを向く。
シュンランは、後ろからセイルの肩に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。先ほどの影の少女たちには感じられなかった温かさが肌に伝わってきて、セイルも安心する。そうして落ち着いてみて……改めて鏡の中の自分たちを見て、途端に頬を上気させる。
「あ、しゅ、シュンラン! だ、大丈夫だから、離して……」
シュンランはセイルの反応の意味がわからなかったのか、セイルの体を抱きしめた格好のまま首を傾げたが、すぐにセイルの言うとおり手を離してくれた。何となく、鏡越しに自分が抱きしめられている姿を見るのは、恥ずかしかったのだ。
「よかったです。無事だった、ですね」
『危なかったけどな』
シュンランには聞こえないとわかっていても、ぼやかずにいられなかったのだろう。ディスのそんな呟きを聞きながら、セイルはシュンランに向き直り、それから周囲の異様な光景に気づいた。
今までセイルのいた場所は、人の姿こそ見えなくなっていたが、今までいた婦人服売り場と変わらない光景に見えた。しかし、今、セイルが降り立った場所はそれとも完全に一線を画した場所だった。
辺り一面を支配しているのは、鏡。鏡の壁が、まるで迷路のようにぐねぐねと折れ曲がって互いを映しあい、現実よりも更に複雑な世界を描いている。目が眩むような空間を前に、セイルは思わず唇を開く。
「ここ……何処?」
シュンランは、あくまで毅然とした声で言う。
「ティンクルの力で作られた空間、だと思います。わたしたちは、ティンクルに閉じ込められてしまったです。おそらく、一人ひとり、ばらばらに」
「ティンクルの……? 人を閉じ込めちゃうなんて、ああ見えてすごい魔道士なのかな」
魔法が使えないセイルには、ティンクルがやってのけたこと、今この場所が存在することがどのような意味を持つのかはわからない。ただ、今まで目にしたことが無いということは、それだけ難しい魔法なのだろう、と想像できるくらいで。
けれど、セイルの言葉に対してシュンランは難しい顔をして黙り込んでしまった。何故、シュンランがそんな顔をするのかわからず、セイルは「シュンラン?」とそのすみれ色の瞳を覗き込む。
すると、シュンランは顔を上げて、セイルを真っ直ぐに見つめた。
「……きっと、これは、魔法ではないです」
「魔法……じゃ、ない?」
「これは、わたしの『歌』とよく似ている、そう思うです」
そんなことまでわかるのか、と驚いていると、シュンランはふるふると首を横に振った。
「わかるではないです。ただ、胸の奥底で、響きあうものを感じるです」
言いながら、白い指先が肩に伸びる。真新しい服の下に隠された、先ほどセイルも目にした空色の石に触れるように。
「チェインが言っていました、わたしの『歌』は、今、楽園にあるどのような魔法とも違うのだと。魔法は、空気や体の中にあるマナを他の形に変える技術です。しかし、わたしの『歌』は何も無い場所からマナを生み出して、それを操る力なのだと教えてもらいました」
何も無い場所から、マナを。
生まれながらの魔法無能であるセイルには、マナを感じられるわけでもない。マナを結晶化したルーンやフォイル、不自然に濃いマナの気体なら目にすることがあるけれど、これらをどう魔法に昇華していくか、その仕組みは全く理解できない。
だから、シュンランの『歌』がどう魔法と違うのかも実感できなかったのだが、突然ディスが低い声で『話がしたい』と言い出した。そういえば、ディスが話をするために体を使おうとするのは久しぶりだ。思いながら、シュンランに言う。
「ちょっと、ディスに代わるね。話したいことがあるんだって」
「はい」
シュンランが頷くのを確認して、セイルはディスの体を明け渡し、自分が意識の奥底へ潜っていく。そして、セイルの体を乗っ取ったディスは、半眼になってシュンランを見据え……言った。
「さっきの話。マナを生む、そう言ったな」
「……はい。チェインが教えてくれたです」
「そいつは聞き捨てならねえぞ。マナを無から生成できるのは、楽園でただ一つ、世界樹だけだ」
――!
ディスが放った低い声に、セイルも意識の中で戦慄する。
それは、実は、とんでもないことなのではないか。
シュンランも、自分で言った言葉の意味を今まで理解しきれていなかったのだろう、ひゅっと息を飲んで目を丸くする。ディスが言わんとしていることを、理解した顔だった。
ディスはそんなシュンランから目を逸らし、小さく溜息をついて鏡の壁に寄りかかり……小さな声で、呟いた。
「ディーヴァ・プロジェクト……凍結されたザ・サード……か」
『……ディス?』
「楽園を転覆させるだけの力に、転覆させた後の世界の維持。『エメス』が血眼になって追い求めるだけの価値がお前にある。そういうことなんだろうな」
シュンランは、視界の端でぎゅっと肩に触れた指に力を入れたようだった。己の力のあり方、その強大さを初めて理解した、そんな表情だった。
チェインやブランはそこまでわかっていて、シュンランのことを神殿に報告していたのかもしれない。故に神殿もシュンランを保護する方向に動き出したのではないか。ディスはそう言葉を続けて……「それは無えな」と己で否定する。ディスの思考の流れがわからず戸惑うセイルだったが、伝わってくるディスの意識は、即座に別の思考へ頭を切り替えていたようだった。
「色々気になることはあるがそいつは後で聞く。今は状況を打開する方が先だ。それでいいな、シュンラン」
「……はい。それが、一番の大切です」
シュンランはすみれ色の瞳に力を篭めて、頷く。ディスも少しだけ満足そうに口の端を歪めて、それから普段どおりの不機嫌そうな表情に戻る。
「悪いが、俺もセイルも状況の打開に直接は役に立てねえだろう。こういうイカれた状況に対応できるのはお前だけだ……ティンクルが、同質の能力者だってんなら、尚更」
ディスはほとんど目蓋を伏せたまま、言葉を紡いでいく。
「 『エメス』にとっての切り札たる『歌姫』と同質っていうあの道化が何者なのか、ノーグが何を思って側に置いてんのか。気になることは多すぎるが、推論は無意味か……とにかく、考えるべきはチェインとブランを探すこと、ここから脱出すること」
その言葉は、シュンランに聞かせるというよりは、自分自身に言い聞かせるものだったのだろう。普段セイルの中に篭って独り言を呟いているのと同じように、今はセイルの声帯を使ってこれからすべきことを確認しているようだった。
やがて、ディスは顔を上げてシュンランを見た。シュンランのすみれ色の瞳からは、極力視線を逸らしていたけれど。ディスは相変わらず、戦いの場以外で人の目を見るのが苦手らしい。
「シュンラン、どうやってセイルを見つけた? それと同じやり方で、チェインたちを見つけられねえか」
「不可能でないと思います。セイルがいるとわかったのと同じように、チェインとブランがここにいる、ということはわかります。わたしなら、きっと助けるが可能です……しかし」
シュンランが逆接の言葉を放った瞬間、りん、と鈴の音が響き渡る。そして、ディスとシュンランが立っているすぐ側の鏡の向こうに、極彩色の道化が映し出された。
無数の鈴の音を響かせる道化師ティンクルは、不気味な微笑みを白塗りの顔に貼り付けて、鏡からその身をディスたちの前に躍らせた。反射的にシュンランを庇うディスに向かって、甲高い声で言う。
「ふうん、なかなかやるじゃん。そう簡単に死なれてもワタシが困っちゃうけどねっ」
ふわふわと、現実感の無い足取りでシュンランに向かってこようとするティンクルをディスが遮る。ただ、視界の焦点はティンクルではなく、周りの鏡に映し出された、幾重にも重なって見える像にあった。本来、目の前の極彩色の少女を映し出しているはずの鏡は、何故か同じようで少しずつ違う灰色の少女たちの影を幾重にも映し込んでいたのだ。
どのような仕掛けかはディスにもセイルにもわからない。けれど、一つだけ確かなのは……
「……あの影みたいなのを仕掛けてたのも、手前か」
ディスは左手を振り、『ディスコード』の刃を取り出す。ただし、意識の中では常にセイルと交代できるよう準備をしているのがわかった。セイルもすぐに飛び出せるよう、意識をディスと繋げる。
それに気づいているのかいないのか、ティンクルはにこにこ笑いながら鞄を振り回して言う。
「ワタシと勝負する? 本当はすぐにこの子を連れて帰らなきゃだけど……少しなら遊んであげていいよ? どうせあなたじゃワタシに勝てないんだもの」
ね、と人差し指を振って告げるティンクルに対し、ディスは無言で構えを取る。挑発に乗る気は無い、という意思表示だ。セイルも微かな苛立ちを覚えながらも、ディスに従ってその感情を押さえ込んだ。今はただ、シュンランのために、ティンクルを止める。それでいい、それだけでいいのだ。
実のところ……ティンクルとまともに交戦するのは、これが初めてだと気づく。いつもは交戦を始めると必ずブランがティンクルを退けていた。そのうち一回はディスが仕掛けたけれど、逆に弱点をつかれて窮地に陥ったのだった。
だが、今回は今までとは違う。セイル自身が戦うことで、ディスは己の弱点を守ることに専念できる。後は、セイルとディスの動き次第――ディスは銀色の瞳で真っ向からティンクルを見据え、よく響く声で宣言する。
「気張れよ、セイル。シュンランのために、時間を稼ぐ」
『……うん!』
意識で頷いた瞬間、ティンクルは赤い鞄を放り上げた。すると、空中に浮かんだまま鞄が割れて、途端、真っ赤な煙が溢れ、鞄と同じ曲線を描いた何かがティンクルの手の中に落ちてくる。
よく見れば、それは鋼の輪であり、その外周にぎざぎざした鋭い刃がいくつも取り付けられた武器であった。心臓を模る曲線の刃、それを半分に割って両手に構える。細い手には似合わぬ重たそうな凶器を握ったティンクルは、鈴の音とともに言う。
「シュンラン、シュンラン、シュンラン。皆そうやって『歌姫』を必要とする」
顔に笑顔を貼り付け、しかしその声は酷く冷え切っていて。セイルは意識の中でびくりと震える。ディスも、流石にその言葉には気になるところがあったのだろう、眉を跳ね上げてティンクルを睨む。背後のシュンランがどういう顔をしたのか、鏡越しに確かめようと思ったけれど……鏡に映りこむ灰色の影が、それを許さない。
「ノーグ……ねえ、ノーグ。あなたもそう」
うわごとのように、そこにはいない男の名を呟きながら一歩を踏み出す。りん、と一際高く響き渡る金属音。
「あなたの目に、ワタシは、映っていないの?」
刹那、ティンクルの姿が掻き消えて――
「セイル!」
ディスの呼び声と同時にセイルは己の体の主導権を取り戻す。咄嗟に『ディスコード』の翼を展開させて、己の背筋に走った感覚を信じて右を向く。
がきん、という思った以上に重たい衝撃が、『ディスコード』の翼越しに響く。目の前には白塗りの道化の顔がある。背中を狙ったティンクルの一撃を、何とか防いだのだ。ティンクルは青と黒の瞳をぱちぱちさせて、不思議そうな顔をして……それから、憎憎しげにセイルを睨み付けた。
ぐ、と刃を握る手に力を入れて、黒い唇を開く。
「あなたはいつもそう。シュンラン、シュンラン、って名前を呼んで。犬みたいにあの子の後を追いかけて。そうして、何もかも、何もかも、ワタシの大切なものを壊してく」
早口に放たれる呪詛の意味を捉えかねて、セイルは目を見開く。対峙するティンクルの瞳の中には、明らかな怒りが燃えていた。そして、その怒りの矛先は、明らかにセイルに向けられていて……
「ワタシから、もう、何も奪わないで!」
突如、とてつもない力が『ディスコード』の刃を叩き、セイルの体はあっけなく吹き飛ばされた。セイルは鏡に背中を強く打ちつけ、膝をつく。視線の先では、ティンクルがだらりと武器を握った両腕を下げたまま、セイルを睨み付けている。
全力で殴ってきたのだ、ということはわかったけれど、セイルを吹き飛ばすほどの力が目の前の道化にあるとも考えがたい。だが、腕が痺れるような感覚は、間違いなくティンクルがセイルの力を上回る怪力を振るったことを示していた。
そして、ティンクルの背後では……
「シュンラン!」
鏡から湧き出てきた無数の影が、シュンランに襲い掛かろうとしていた。
殺すな、という指示を受けているからだろう、影の手に先ほどのような凶器はない。だが、影という影がシュンランに殺到し、その動きを止めようとしている。
「ティンクル! シュンランに手を出すな!」
「あれえ、だってワタシ、しばらくあなたと遊んであげるってしか言ってないよ? 『歌姫』を連れ帰るのは変わらないもの」
「っ、くそっ!」
セイルは『ディスコード』を構えて、一歩を踏み出す。針を回してでも一撃でティンクルを蹴散らし、シュンランの周りの影を斬り払わなくては。思いかけたその時、
――大丈夫。
影に押し倒されそうになっていたシュンランの唇が、動いた。
灰色の影の隙間に見えたすみれ色の瞳が……いや、瞳だけじゃない。普段は真っ白な髪も、柔らかな肌も、うっすらと青い光を宿していて。セイルは驚きながらもシュンランの言葉に応えるように呼吸を整える。
セイルの態度が変わったのに気づいたのか、ティンクルは一瞬訝しげな表情になり、すぐにはっとしてシュンランの方に視線を向けて。
刹那。
世界に、青い光が満ちた。
八分の六拍子に乗せられた、意味のわからない不思議な音の羅列がシュンランの声で奏でられ、鏡の世界が青く染まる。そして。
「花……」
セイルは見た。
シュンランを中心に、青い花……それはシュンランの髪に咲く花飾りの花によく似ていた……が咲き乱れ、鏡の世界を塗り替えていくのを。空色の花弁を揺らす花畑は、床を埋め尽くし、鏡の壁を這い上がり、やがて鏡だったものは音もなく崩れて花弁を撒き散らす。
まるで、空の上にいるようだ。そう、セイルは思う。世界はシュンランの歌声に合わせて、天空の花畑に書き換わっていく。澱んでいた空気も、草の香りを含んだ爽やかな涼風に吹き散らされていく。
その時には、シュンランを取り囲んでいた影も、空色の花とシュンラン自身が放つ光によって、跡形も無くその場から消え去っていた。
呆然とその様子を見ていたセイルの前で、ティンクルは唇を噛み、足を三回踏み鳴らす。
「……っ、見えない、そんなもの見えない!」
ティンクルが踏み散らした空色の花が、その途端に鏡の破片に変化する。金色の光を映しこんだ鏡の破片は、巨大な刃に変化してティンクルの足元から歌うシュンランに向かって突き進んでいこうとする。
だが、刃がシュンランに届くその前にセイルが動いていた。『ディスコード』の刃を構え、真っ直ぐにティンクルに向けて駆ける。
「やめろ、ティンクル!」
声をかけられたティンクルは反射的にセイルを見た。この一撃を喰らいたくなければ、意識をシュンランから逸らすはず。セイルはそう踏んで、空色の花弁を撒き散らしながらティンクルに迫る。
だが、セイルの予測に反し、ティンクルは、一歩も、動かなかった。
空色少年物語