空色少年物語

17:俺が生まれた日(3)

 それから、数刻の後。
 小型艇を借りてやってきたのは、シエラ一味が隠れ家としている島の隣に位置する小さな港町だった。港には水上艇と飛空艇がぽつぽつと停泊していて、船乗りたちが忙しそうに駆け回っている。
 セイルの手を借りて地面に降りたシュンランが、踊るようにくるりと回る。肩の上で白い髪が絹糸のようにさらりと揺れる。その顔に浮かぶのは満面の笑顔。今すぐにでもセイルと一緒に駆け出していきたい、という気持ちが結んだ手を通して伝わってくる。
「ブラン! まずは何処に行くですか?」
「そうだな……食い物とかは発つ前でいいから、お前らの買い物が先かな。何が欲しい?」
 今日ばかりはわがまま言ってもいいのだ、と張り切っていたけれど、改めてそう聞かれると答えに迷ってしまう。結局のところ、旅の途中なのだからそう無駄なものを買うのも躊躇われてしまうわけで、何と返答していいかまごついていると。
「これから暑くなるですよね? 新しい服が欲しいです!」
 シュンランが元気よく手を挙げて言った。ブランは「なるほど」と頷きながらも微かに口の端を歪める。
「……別に、それは誕生日じゃなくても叶えてやれるけどな」
「よいのです。お祝い、と思うが大切なのです。そうですよね、セイル?」
 問いかけと共に、シュンランがセイルの顔を覗き込んでくる。揺れる白い髪に仄かな紅色がさした白い肌。その中で、澄んだすみれ色の瞳が鮮やかにセイルの姿を映しこんでいた。セイルはいつも以上に明るい光に満ちたその瞳から目を離せなくなってしたが、何とか我に返って頷く。
「そ、そうだね。俺も、そう思う」
「ふうん? ま、いいか。お前さんの上着も新調しなきゃだし」
 全面的に俺が悪いんだけどな、とブランは別段悪びれた様子もなく、だからと言ってふざけた様子もなく言い放った。それで、セイルもはっと己の上着の肩口を見た。一週間前、ブランの持つ聖鎌『アワリティア』によって切り裂かれた袖の付け根は、ブラン自身の手によって繕われてはいた。けれど、縫い合わせた部分は脆く、今にもほつれてしまいそうだった。
 ただ。セイルはそっと肩口に手を当てて、思う。
 この白いジャケットを買ってくれたのも、他でもないブランだった。すぐにちょうどよくなるから、と言って少し大きめのものを買ってくれたあの日のことは、よく覚えている。ブランにとっては、何でもないことだったのかもしれないけれど――本当に、嬉しかったのだ。
 袖を指先で押さえて、短い付き合いになってしまった上着に心の中で別れを告げ……その時、ブランがじっとこちらを見ていることに気づいた。また何か言われるのだろうか、と思わず身構えてしまうセイルだったが、ブランは無言のままつかつかと歩み寄ってきて、セイルの横を通り過ぎざま、セイルの空色の髪の毛を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でた。
「わ、な、何すんだよ!」
 ちょっとむっとして頬を膨らませるけれど、ブランは一瞬セイルを何とも言えない表情で見ただけで、すぐに今にも飛び出しそうになっているシュンランの前に立って言った。
「よし、それじゃとっとと行くか。はぐれるんじゃねえぞ、探すの面倒だから」
「はい、だいじょぶです!」
「やたら元気なのが不安だけどね」
 手を思いっきり振るシュンランと、ちょっと呆れ顔のチェイン。色々と思うところはあったけれど、結局そのどれもが言葉にならないまま、セイルはシュンランに引きずられるように歩き始めた。
 歩きながら、ずっと黙り込んでいたディスがぽつりと言った。
『今日のブラン、めっちゃ気色悪ぃ』
「ディス、それはちょっと酷いと思うんだ……確かに今日は特にいつもと違う感じがするけど」
『浮かれてんのかもな。本人はそれに気づいてねえだろうけど』
「浮かれてって、何に?」
 誕生日であるセイルやシュンランが浮かれるのはわかるが、ブランが浮かれる理由がさっぱりわからない。それ以前にブランの淡々とした態度は「浮かれる」という言葉とは対極にあるように見える。
 言った本人であるディスは『さあなあ』とだけ言って、再びセイルの意識の奥底に潜っていってしまった。折角シュンランの危機に際してお互いに通じ合ったと思ったのに、大事を切り抜けたらこれだ。相変わらず、言葉が足りないにもほどがある。
 けれど……もしもセイルやシュンランの幸せな気分をブランにも分けられているなら。それはそれで、幸せなことなのかもしれない。
 ブランの背中を見つめて、ぎゅっと胸の前で手を握って。
 少しでもこの幸福が伝わっていればいい。そう、心から思う。
「どうかしましたか、セイル?」
 手を引いて歩いていたシュンランが、セイルを振り向く。浮き立つ気分は笑顔にもはっきりと表れていて、こちらまでつられて笑顔になる。
「何でもないよ、大丈夫」
「そうですか? あ、ここみたいですね」
 シュンランが足を止めて、セイルもその横に並ぶ。
 目の前に聳え立つのは、淡い赤色の煉瓦で造られた巨大な建物だ。ワイズの時計塔のように空に向けて高く伸びているというよりも、縦にも横にも大きいという印象。その窓や壁は色とりどりのポスターやきらきら輝く飾りで飾り立てられていて、見上げているだけで目に眩しい。そして、巨大な出入り口を見れば、寄せては返す波のごとく人が出入りしている。
 そういえば、近頃、何でも取り揃えているという触れ込みの巨大な店がユーリス神聖国の都市に進出しているのだと聞いたことがある。日用品から服や靴、果てには玩具や高度な魔法の媒体となる道具まで、まさしく「何でも」という言葉が相応しい品揃えなのだ、と言ったのは姉だった。各地を旅している姉の話は、いつもセイルの知らない世界の物語だったから、それが今目の前にある、というだけで胸が熱くなる。
『百貨店、ってやつか。この時代にはあるんだな、そういうの』
 煌びやかな建物を前に呆けるばかりのセイルとシュンランに対し、ディスは感心の声を上げる。そして、各地を旅して回っているブランやチェインにとっては初めての場所ではないのだろう、少々呆れ顔で手招きする。
「ったく、お上りさん丸出しにしてんじゃねえよ、お前ら」
「この中ではぐれたら、確かに面倒だね……とりあえず、私はシュンランを連れてくよ。それで構わないかい?」
 頼んだ、とブランは軽く手を挙げて応じ、もう片方の手でセイルの腕をぐいと引く。
「ほら、行くぞ」
「あ……えっと」
 一瞬躊躇ったのは、シュンランの手を離すのが無性に怖かったからだ。この人の波の中に飲まれて、見失ってしまったら二度と戻ってこないような気がして。シュンランが神殿に連れて行かれそうになったあの日から、どうしても不安が胸の中に渦巻いて止まないのだ。
 けれど、シュンランはそんなセイルの不安を察したのか、セイルの額をそっと人差し指で突いた。
「だいじょぶですよ、セイル。素敵な服を探してくるので、楽しみにしていてください」
 そのシュンランの笑顔を見て、セイルの不安も少しだけ和らいだ。そうだ、自分は心配しすぎなのだろう。そう思うことにして、手を離す。
「うん、楽しみにしてるね」
「はい! では行きましょう、チェイン」
「はいよ。それじゃ、終わったらまたここに戻ってくるってことで」
 セイルはこくりと頷いて、チェインとシュンランを見送った。見送る、と言ってもすぐにその姿は人の中に紛れて見えなくなってしまったのだけれども。
 そんなセイルの背中をつついて、ブランは溜息混じりに言う。
「んな不安がらなくてもいいってのに。心配性だなお前さんも」
「でも……その、また、攫われたりしたら困ると思ってさ。チェインがついてるから、平気だとは思ってるんだけど」
 恐る恐るブランを見上げると、ブランは腕を組み、何かを考えているのだろうか、すっと目を細めて視線を遠くに投げかけた。その氷色の瞳の中には苦いものが混ざっているように見えて、引っ込んでいた不安が蘇ってくる。
 ディスも流石にブランの反応を訝しく思ったのか、意識の奥底から浮上してきて問いを投げかける。
『どうした、ブラン』
「……や。この場で嬢ちゃんを攫うならどう動くべきかと思ってね」
 低い声で放たれた言葉に、セイルの背筋が凍る。鋭い視線、冷たい気配。その全てを受け止めながら、セイルは全身を緊張させて乾いた喉で問いかける。
「ブラン、もしかしてまだシュンランのこと……」
 言いかけたところで、ブランはセイルが言わんとしたことに気づいたらしく、「あ」と声を上げて慌てた様子で言葉を付け加える。
「言葉が足らなかった。ええと、相手さんの側に立って出方を考えてみたってこったな。別に俺様がシュンランをどうこうしようってわけじゃねえよ」
「そ、そっか、そうだよね! ごめん、疑ったりして」
 ブランを信じている、と言ったのは他でもない自分なのに、どうして一瞬ブランがシュンランを攫う可能性を考えてしまったのだろう。何とも情けない気分になって肩を縮めてしまうけれど、ブランは疑いの視線を向けられたことを怒るわけでもなく、淡々として言った。
「そこを疑われるのは当然だから、別に謝るこたねえ。実際……今でもお前らを置いといて、俺だけでどうにかしたいとは思ってるのよ。そっちの方が絶対に、お前らの身の安全は保障されるって事実は変わらねえ」
 ブランの言葉は、あくまで真っ直ぐで。セイルは軽く唇を噛まずにはいられない。ブランはそんなセイルの頭を軽く叩いて、苦笑する。
「んな顔すんなよ。そんなことしても誰も喜ばねえんだろ。それがわかってて、俺様一人でどうこうしようとは思わねえから。今となっては、俺一人ではどうにも出来ねえ状態でもあるしな」
「え?」
 疑問符を飛ばすセイルの腕を取って、ブランは人の間を縫うようにして歩き出す。セイルはつんのめるように足を前に出しながら、ブランの言葉の続きを待つ。行き交う人々がセイルの青い髪に目を留めて目を見開くのが目に入らなかったわけじゃない、だけどそんな知らない誰かの視線よりも、ブランの沈黙が気になって。
 ブランは歩きながら、やがてぽつりと言った。
「未来が見えねえ、ってのがここまで致命的だとは思わなかった。考えて結論を出しても、それに対する裏づけが足らない……ここで手を取っていいのか、一歩を踏み出していいのか、答えを示してくれるものがねえんだ」
 そんなもの、当たり前ではないか。
 セイルは言いかけて、その言葉を飲み込む。
 違うのだ。ブランにとっては「答えを示すものが無い」いうことが「異常」なのだ。セイルに視線を向けたブランは、未来を見る能力を失った氷河の色の瞳を、細める。
「全く、能力への依存を自覚させられるぜ。嫌ってほど」
 情けねえな、というブランの呟きは周囲の人の声に押しつぶされてほとんど聞こえなかったけれど。唇の動きで、そう言ったのだということだけは、わかった。
 言葉を失うセイルに対し、ディスは『はっ』と呆れたような声を立てる。
『弱音を吐けるようになっただけ、マシになったと思っておいてやる。「最低最悪の救いようのない馬鹿」から「最悪な馬鹿」に変わった程度だがな』
「ディスは相変わらず厳しいわね」
『厳しいのは、手前が駄目な奴だからだ』
 あまりにばっさりと言い切ってしまうものだから、セイルの方がびくびくしてしまう。ブランはディスの言葉に気を悪くした様子もなく、真っ直ぐにセイル……というよりもその奥に潜むディスを見つめているけれど。
 ディスは居心地悪そうにセイルの意識の中で身じろぎしながら、ぼそぼそと言う。
『それに、未来が見えねえからって、手前の全てが消えて無くなったわけじゃねえだろ。手前の最大の武器は未来視じゃなくて「記憶」と「経験」なんだ、そう弱気になるこたねえよ』
 内側から感じられるディスの気配は、不機嫌そうであり、怒っているようであり、それでいて妙な温かみもあった。ブランはそれを意外そうな顔で受け止めてから、微かに笑ったように見えた。いつになく、穏やかに。
 ディスは何か言い返されることを期待していたのかもしれない、『っつああああ、やりづれええええ!』と叫んでから、激しい口調で言う。
『とにかく! 手前は頭を使うのを止めんじゃねえ、思考停止させるくらいなら大人しく家帰って寝てやがれ!』
 ブランは、一瞬呆気に取られたようだった。何かを言おうとして口を開きかけて……それから、小さく首を振って言った。
「確かに、その通りだな。ありがとう、ディス」
『黙れ! 二度と俺に話しかけんな!』
「ディス、自分から話しかけといてそれは無いんじゃないかなあ……」
『お前も黙らっしゃい!』
 思わず呟いてしまったセイルにツッコミを入れることも忘れないのがディスらしいというか。とにかく、言うだけ言ってディスは不機嫌な態度もそのままに黙ってしまった。とはいえ、ディスの不機嫌さは態度に反してさほど長続きしないとわかっているので、いつものこととして放っておくことにする。
 ブランも、ディスの態度に面食らっていたようだったが、すぐにいつもの調子を取り戻して言う。
「ま、ちょっと余計な話だったな。……シュンランやお前さんのことは、俺様が出来うる限り守る。もちろん、そのためにお前さんに働いてもらうこともあるけどな」
「それは、覚悟してる。ブランに出来ないことは、俺がやることだよ」
「ありがとな。頼りにしてる」
 何の衒いもなく「ありがとう」を言えてしまう素直さが、セイルにはやけに眩しい。だが、よく考えてみればブランは最初からそうだった。セイルを「ガキ」と呼ぶ割には、常にセイルの言葉を聞いて応えてくれていた。子供としてでなく、己と同じ人として扱っていたはずだ。
 ただ、ブランにとってセイルとシュンランは絶対的な「保護対象」であった、というだけで。
 けれど、今は自分も、ブランも、同じものを見ている。分かり合おうと、している。その事実が嬉しくて、ふと笑ってしまう。もう、不安は無かった。お互いに、立ち止まりそうになったら腕を取る人がいる、それがわかったから。
「何笑ってんのよ?」
 怪訝そうな顔をするブランに「何でもないよ」と言いかけて、止める。その代わりに、にっと笑って言ってやる。
「嬉しいんだよ。ブランに、頼ってもらえるっていうのが」
「……そ、そうか」
 ブランは目を白黒させたけれど、きっと、嬉しいという気持ちは、伝わったと思う。そうだ、少しずつでいい。正しく言葉で伝えられるとも思わないけれど、こうやって、きちんと思いを伝えようとしていれば、いつか届くと信じている。
 そうしている間に、服が売っている場所に行き着いた。普通の町の服屋とは比べ物にならない広さに、普段あまり見ることの出来ないような豪華な服からセイルが着ているような普段着までが取り揃えられている。
 目がちかちかするのを感じながらあちこちを見渡していると、ブランが軽くセイルの肩を叩いた。
「ほら、好きなの選べ。俺様が選んでもいいけど、自分が欲しいと思ったものの方がいいでしょ」
「ブランは?」
 思わず見上げてしまうセイルだったが、ブランは「俺はこれでいいの」と己の外套を指す。長い砂色の外套はそろそろ季節はずれになりつつあるが、構う様子もない。
「暑くないの?」
「俺様、こう見えてとっても寒がりなの」
「……確かに、手、いつも冷たいもんね」
 言いながら、セイルは自分の体に合いそうな服をざっと見てみる。これからの季節のことを考えると、薄手で暑さに耐えられるようなものの方がいいと思いつつ、ある程度丈夫なものでなければ旅の中ですぐに駄目になってしまうとも思う。
 いくつか見た目で気になるものを取っては羽織ってみるけれど、なかなかこれ、と決められそうにない。そもそも、自分だけで服を選ぶなんてこと、今まで一度も無かったのだと今更ながらに気づく。
 助けを求めるようにブランを見てみると、ブランはやれやれとばかりに肩を竦めながらもセイルが今まさに手に取ろうとしていた一着を取り上げる。
「これ、いいんじゃねえの?」
 それは、真っ白の布に深い青とオレンジのラインが縫いとめられた、夏らしい半袖の上着だった。元々、セイルの空色の髪にオレンジ色はよく映えたが、深い青とのコントラストも悪くないのではないかとブランは言う。
 実際、羽織って鏡の前に立ってみると、確かに悪くない。白とオレンジ、という今までの上着と同じ色合いに深い青が入ったことで、引き締まった、涼しげな印象を生み出している。
「……どう、かな」
 似合ってんじゃねえか、とディスが内側から言う。
 それでセイルの新しい服は決まった。他にもいくつか必要なものを買い揃えて、シュンランたちと合流しようと移動を始めたところで……ふと、セイルの目に留まったものがあった。