空色少年物語

17:俺が生まれた日(2)

 そして、食堂の扉を開いた途端。
『誕生日、おめでとう!』
 空賊、シエラ一味の声が唱和した。
 銀色の目を真ん丸くするセイルを、赤い服を着た男たちがたちまちもみくちゃにしてしまう。「今日は何てめでたい日なんだ!」 「何で教えてくれなかったんだよ、水臭え!」などと口々に言いながら、セイルの空色の髪を寄ってたかってぐちゃぐちゃと撫でていく。
 目を白黒させて、「え、あ」なんて言葉にならない声しか出せなくなっているセイルの中で、ディスが感心半分、呆れ半分の溜息をつく。
『情報、伝わるの速すぎるだろ……』
「はは、お祭り騒ぎ大好きな『紅姫号』のシエラ一味が、こんな愉快な話放っておくわけがねえだろ?」
 扉の横の壁にもたれかかるように立っていたブランが、ディスの言葉に的確な答えを返す。ディスは『正論』とだけ言って逃げるように意識の奥底に潜り込んだ。こういう場が苦手なのは、実はブランではなくディスの方なのかもしれなかった。
 ほとんど担ぎ上げられるような形になりながら、セイルは気づけば食卓の一番奥の席……普段は船長シエラの特等席となっている席だ……に座らされていた。ぼさぼさになってしまった空色の髪を手の平で何とか元の形に戻しながら、ちらりと横を見る。すると、シュンランが短い髪を揺らしてにっこりと笑った。その髪には、一つだけになった空色の花飾りが咲いていた。
「お誕生日おめでとうございます、セイル」
「あ、ありがと」
 セイルもシュンランの笑顔を見て、やっと祝ってもらっているのだ、という実感が湧いてきた。何しろ、こうやって盛大に誕生日を祝ったことなんて一度もなかったのだ、まるで朝から夢の続きを見ているよう。
 そう、今までの誕生日はいつもあの林の中に一つだけある家の中で。兄がいた頃は家族全員と、たまに遊びに来てくれる母や姉の友人たちがささやかなパーティを開いてくれたのだった。その日の兄は必ず、美味しい料理とケーキを作ってくれたことを思い出す。けれど、兄が消えてからは、ぽっかりと空いた兄の席を何ともいえない気分で眺める、そんな誕生日を毎年過ごし続けてきたのだ。
 だから。まさか、こんな誕生日が来るなんて、考えてみたことすらなかった。気恥ずかしさとそれ以上の喜びが入り混じった、笑っているようにも、ちょっと怒っているようにも見える真っ赤な顔で肩を縮めてしまう。
 すると、いつもとは逆側の席についているシエラが、騒ぐ男たちの声すらも貫いて宣言する。
「さあて、今日はうちの可愛い客人、セイルの誕生日だよ!」
 その手には、まだ朝だというのに麦酒がなみなみと注がれたジョッキが握られていた。もちろん、食卓を囲む男たちの手にも。流石に、セイルとその横のシュンラン、それにちょっと呆気に取られたような顔をしているチェインの前には酒ではなく果実のジュースが置かれていたけれど。
「こんな素敵な日に居合わせることができた幸せを、女神様に感謝!」
『我らが女神ユーリスに感謝!』
「そしてセイル、誕生日おめでとう!」
『おめでとう!』
 声をそろえて、空賊の男たちがジョッキを打ち鳴らす。主賓のセイルも慌ててジュースの入ったグラスを持ち上げてその輪に加わった。その音にかき消されるような声で……そもそもこの場ではセイルとブランにしか聞こえないのだが……不意に奥底に潜っていたはずのディスが呟いた。
『……空賊も女神さんに感謝はするんだな』
「ディス、聞こえないからって罰当たりなこと言うなよ……」
 セイルはジュースに口をつけながら、ディスをやんわり咎める。『世界樹の鍵』と呼ばれながら全く女神ユーリスに敬意を表さないのは、『ディスコード』が女神とは相容れない存在である禁忌機巧だからなのか、それとも常に斜めに世界を見ようとするディス自身の性格故か。そのどちらも、かもしれないが。
 食卓に用意された、朝食にしてはやたら豪勢な食事を前に、何処から食べようかと思案していると、シュンランがすみれ色の瞳でセイルの顔を覗き込んできた。
「セイルは、今日でいくつになるのですか?」
「あれ、言ってなかったっけ……俺、今日で十五になるんだ」
 シュンランからは見えないように、兄からの手紙をポケットの中でもてあそびながら答えて、
「そういえば、シュンランの誕生日って」
 言いかけたところでセイルははっとした。シュンランが、微かにすみれ色の瞳を曇らせたからだ。そうだ、シュンランが答えられるはずもない。
「思い、出せないんだよね……ごめん、無神経だった」
「いいえ、気にしてないです」
 シュンランはすぐに笑顔を取り戻し、大騒ぎをする『紅姫号』の乗組員たちを眺める。その中から置き忘れた記憶を探しているかのようでもあった。
「きっと、春の日であると思うです。シュンランは、春に咲くからシュンランなのです」
 セイルは『シュンラン』という名を持つ花を知らない。何故、シュンランという名前が春に咲く花を意味するのかもわからない。シュンランの横に座っていたチェインも不思議そうな顔をしている。ディスだけは『そうだろうな』と何故か納得していたみたいだったけれど。
 ただ――シュンランの言葉を聞いて、セイルの頭の中には一つの考えが浮かび上がってきた。
「春の、日……」
 それは、確かに名案に思われた。けれど、果たしてシュンランはそう思ってくれるだろうか。不安はあったけれど、意を決して口を開く。
「あのさ! それなら、今日この日を、シュンランの誕生日にすればいいんじゃないかな?」
「今日、この日を?」
「その……思い出せたならそれでいいと思うんだ。でも、それまでは、一緒に誕生日を祝えばいいんじゃないかな、って。ほら、緑の月は暦の上では春の月だしさ」
 シュンランはもとから大きなすみれ色の瞳を更に真ん丸くした。嬉しそうに頬を赤くして……それから、でも、と言い掛けたように見えた。
 確かに、本当は誕生日かどうかもわからない日を誕生日ということにしてしまうなんて、随分乱暴な提案だったかもしれない。ただ、そもそもセイルは「生まれたその日」というもの、それ自体にはあまり意味を感じてはいなかった。
 何故なら――
「それにね。俺も、本当の誕生日は知らないんだ」
 セイルは小さな声で付け加えた。シュンラン、そしてその声が聞こえたのであろうチェインもはっとセイルを見た。
「俺、本当の親に捨てられてたところを、父さんに拾われたから。父さんに連れられてカーティスの家に来たその日を俺の誕生日ってことにしてる、って教えてもらった」
 その時には本当に大騒ぎだったのだ――家族から聞いた話を、セイルは包み隠さずシュンランとチェインに話した。
 十五年前の今日、父が見知らぬ赤子を連れて帰ったものだから、母はかんかんになって怒り、そして誰よりも深く悲しんだという。その空色の赤子を父と他の女との間の子供である、と思い込んだらしい。父はそんな母を説得するのに恐ろしく骨を折ったのだ……そう言っていたのは両親でなく兄であった。あの兄には珍しく、そのことを語る声には何かを面白がるような響きがあったことをよく覚えている。
 結局、長い時間をかけて父は母を説得することに成功し……それよりもずっと前から、母はセイルを己の子として受け入れていた。もし不義の末の子であろうとも、子供そのものには罪はないから、と言って子供の異様な見た目にも能力にも構うことなく惜しみない愛情を注いだ。その間の父の扱いについては気になるところだが、きちんと聞いたことはない。何とはなしに、怖かったから。
 とにかく、今となっては両親ともにその話を笑い話として聞かせてくれる。セイルの知る限り、両親ほどに仲のよい夫婦はいないのではなかろうか。
 そこまで話してみせたところで、ぽつり、とシュンランが言葉を落とす。
「セイルは……本当の誕生日を、知りたいと思うですか?」
 シュンランは、微かな戸惑いを浮かべてセイルを見つめていた。すみれ色の瞳の中に映りこむ自分の姿を認め、セイルはほんの少しだけ微笑んで、
「ううん」
 ときっぱり首を横に振った。
「色々と考えてもみた時期もあったよ。自分はいつ何処で生まれて、誰の子供なのか。何で自分だけ誰とも違うんだろうって……今でも、考えはする」
 言いながら、耳の前に垂らした空色の髪を引っ張る。これはもはや癖のようなものになってしまっていた。
「でもね、カーティスの家に連れて来てもらって、名前をつけてもらって、今日からセイル・カーティスとして生きていいんだよ、って言ってもらえた……その日が『俺が生まれた日』だと思ってる。俺の家はカーティスのあの屋敷で、俺はあの日からずっとセイル・カーティスだから」
 もちろん、その頃のことをセイルが覚えているわけではない。
 それでも、カーティスの家族に愛されているという実感が、何もわからない自分の背を支えてくれていた。何もかもに自信を持てないセイルが唯一胸を張って言えること、それが「自分がセイル・カーティスであること」だったのだ。
 チェインがジュースの入ったグラスを置いて、微笑む。
「……本当に、いい家族を持ったんだね、セイル」
 その微笑みに、微かな影が見えたのは、きっと気のせいではなかったのだと思う。チェインがこれからやろうとしていることは、セイルと……セイルの家族を悲しませることだと、彼女が気づいていないはずもなかったから。
 セイルは、小さな胸の痛みを覚えつつも、眼鏡の下から投げかけられる視線から逃げなかった。銀色の瞳を瞼で隠すことなく、チェインの言葉に応えるように一つ、頷く。お互いに、強い意志を篭めた視線を交錯させて。それから、セイルはシュンランに向き直って手を差し出した。
「だからさ、一緒にお祝いしようよ、シュンラン。君が、今ここにいることを祝って」
 シュンランはふわりと笑ってその手を取る。細くて白い指がぎゅっとセイルの手を握り締める。
「はい。セイルと一緒なら、嬉しいです」
 その、笑顔が。シュンランの髪に咲く飾りよりも、更に鮮やかな空の色を咲かせた花のように見えて……セイルは途端に気恥ずかしさを覚えて顔を赤くする。その気恥ずかしさを振り払うようにシュンランの手を取ったまま立ち上がると、騒ぐ『紅姫号』の面々に向かって腹の底から声を上げる。
「皆、今日はありがとう! それと……一緒に誕生日を迎えたシュンランのことも、お祝いしてあげて欲しいんだ! いいかな?」
 もちろん、と『紅姫号』の船員たちがもう一度杯を掲げる。杯と杯がぶつかり合う音、女神への感謝の言葉、そしてセイルとシュンラン、二人が生まれた日を祝う声、声、声。波のように寄せては返す熱気に煽られながら、セイルとシュンランは目を合わせる。
「シュンラン、誕生日おめでとう」
「セイルも、おめでとうございます」
 こつん、と改めて杯を合わせる。
 シュンランと出会ってから二ヶ月、色々なことがあった。『ディスコード』の使い手として、兄ノーグ・カーティス率いる『エメス』と敵対し、同時にユーリス神殿にも追われる身になって。考えてみればまだ二ヶ月しか経っていないのだ、という事実に驚かされる。
 それは十五年生きてきて始めての旅の記憶であり……そして、きっとこれから先も、ここまで凝縮された二ヶ月を過ごすことは出来ない、そんな記憶であった。
 ――それでも。
 セイルはいつの間にやら赤い服の男たちに囲まれ、楽しげに言葉を交わしているシュンランを横目に、思う。
 願わくは、出来る限り、この時間が続きますように。シュンランとディス、チェイン、それにブランと一緒にいられる時間が続いて欲しいと、願わずにはいられなかった。
 いつかは終わってしまうとわかっているからこそ、尚更。
 少しだけきゅっと痛みを覚える胸を押さえる。今は、この温かい人たちに囲まれている時間を大切にしよう。そう思って、俯きかけていた顔を上げて――
「全く、朝っぱらからよくそんな元気が出るもんだよなあ」
「ブラン」
 この大騒ぎをけしかけた張本人であるブランが、追加の料理の載った盆を無造作にセイルの前に置いた。食堂に入ってから姿が見えないと思っていたが、どうやら台所で料理の手伝いをしていたようだ。
 つられて顔を上げたチェインが、珍しく露骨に驚きの表情を浮かべて言った。
「アンタ、その髪どうしたんだい」
「切っただけだけど……何で姐御までそんなに驚くのよ」
 ブランの不可解そうな表情を見ると、彼にとって「髪を切る」ということは普段羽織っている上着を別のものに変える程度の感覚しかないのかもしれない。そう、セイルは思う。そうでなければシュンランにあんな仕打ちは出来なかったに違いない。
 ブランはしばし短くなった前髪を無骨な指で弄っていたが、やがてほとんど聞こえないようなしゃがれた声で呟いた。
「そんなに似合わねえか?」
 その声だけを聞く限りでは、質問にそれ以上の意図はなく、客観的な評価を求めているだけに思える。思えたけれど……チェインは慌ててブランの質問に答える。
「い、いや、前の鬱陶しそうな髪型よりは断然いいよ。よく、似合ってる」
「そっか。よかった」
 ブランは眩しそうに目を細めた。笑おうとしたのかもしれなかった。チェインはそんなブランを、奇妙なものを見た、というような顔でまじまじと見つめていた。
「……どしたん、チェイン?」
 目を細めたままのブランがこくりと首を傾げたことで、チェインも我に返ったようだった。手を振って早口に言う。
「何でもない。何でもないから」
「そう? ま、いいけどさ」
 チェインの態度に不可解そうな色を浮かべながらもセイルとシュンランに向き直ったブランは、軽く肩を竦めながら言った。
「お前ら、これから町に買出しに出るから付き合えよ。折角の誕生日だ、欲しいものは何でも買ってやるからさ」
「本当?」
 セイルは思わず高い声を上げてしまう。普段から必要であると思ったものに対しては簡単に金を使うが、それ以外の……それこそ、セイルやシュンランが求めるような……ものに対しては、全くと言っていいほど財布の紐を緩めてくれないブランなのだ。その彼が「何でも」と言ったことに喜びを隠せなくなるのも無理はない、というものだろう。
 ブランも、流石にセイルの示す感情が「喜び」であることはわかったのだろう、苦笑に似た表情を浮かべて手をひらひらさせる、
「もちろん、俺様の所持金も考えてくれよ。これからまた『エメス』とあの馬鹿を追っかけなきゃならんわけだしな」
「わ、わかってるって」
 セイルは軽く頬を膨らませる。そんなセイルの頭を、ブランはぐちゃぐちゃと乱暴に撫でて、「それじゃ、食い終わったら準備しろよ」と言って去っていった。セイルはぼさぼさになってしまった空色の髪を整えながら、ブランの後姿を睨む。
 すると、チェインが小さな溜息混じりに言った。
「アイツ、何かがらっと雰囲気変わっちまったね。調子狂うよ」
「でも、あれが本当のブランと思うです。本当を見せるのは、ブランにとっても、わたしたちにとってもよいことと思うです」
 シュンランはふわりと微笑んで、シエラと買出しの算段を始めたらしいブランの背中をすみれ色の瞳で見詰めた。チェインはそんなシュンランの視線を追いかけるように秋空色の瞳を細めて、紅を引いた唇を開く。
「本当……ね。どれだけの『本当』を胸の内にしまいこんでるんだろうね、アイツは」
「……チェイン?」
 その声が、妙に感傷的なものに聞こえて、セイルは思わず問い返してしまう。チェインは軽く首を振り、口の端を歪める。
「答えの出ないことを考えてみるもんじゃないね。さ、とっとと食べちまって、私たちも準備しようじゃないか」
 うん、と答えながらも。
 セイルはどうしてもチェインの横顔から目が離せなかった。
 その何でもないような微笑みが、何故か仄暗い影を伴っているように、見えたから。