『紅姫号』が行く空にも夜が訪れ――やがて朝が来る。
簡素な寝台の上に丸まっていたセイルは日が昇ると同時に目を覚ました。誰が起こしたわけでもない、ただ、自然と目が覚めたのだ。
『ぐっすり寝られたみたいじゃねえか』
ディスの声に、セイルは体を起こし、目をこすって「うん」と頷く。緊張して眠れないかと思ったけれど、体も心もしっかりと休息を取ることが出来た。案外変なところで図太いのかもな、とディスがからかうように言う。セイルが軽く唇を尖らせたところで、頭の上から声がかかった。
「目が覚めたみたいだね、セイル」
シエラの声だ。顔を上げれば、梯子を滑るように降りてきたシエラがにっと笑みを浮かべ、セイルの顔を覗き込んだ。
「作戦開始は○八○○。食事を済ませたら準備だよ」
「うん、わかった。すぐ行く」
セイルはジャケットを羽織り、シエラの後を追った。食事を用意した部屋には、赤い飛行服の男たちが押し合いへし合いしながら料理の皿を取り合っていた。セイルも負けじと手を伸ばし、自分の分の皿を確保する。船の上ではあるが、なかなかに豪勢な食事だ。肉に野菜、パンにデザートの果物まで用意されている。これも愉快な船旅を旨とする『紅姫号』ならではの食卓なのかもしれない。
もぐもぐとパンを噛み締めながら、セイルはディスに意識を向けて問いかける。
――昨日考えたやり方で……本当に大丈夫かな。
渡虹鳥を見て思いついた、ブランへの対抗手段。それをディスに言った時、ディスは口をぱくぱくさせるばかりで……決して『ディスコード』にぱくぱくする口があるわけではないのだが……かろうじて『検討させてくれ』と言ったきりディスはそのことについては触れなかった。
セイルとしても、それが最善手であるかどうかはわからない。それだけに、ディスの意見は聞いておきたいところであった。
ディスは小さく頭の中で息をついて、言った。
『試してみる価値は、ある。俺としても未知の領域だが』
それはそれで、面白そうじゃねえか。
ディスの気配は、笑っているようでもあった。ディスがそうやって請け負ってくれるなら、セイルも自信を持って事に当たることができる。
これが一人でブランと戦えというならば、とっくに逃げ出していたと思うけれど……この手には『ディスコード』が宿っている。誰よりもセイルの側にいる、かけがえのない相棒が。
もはや、不安は無かった。
あとは、この青い空に飛び立つだけ、だ。
食事を終えようとしたその時、食堂に緊張が走った。
「 『白竜の翼』だ、追いついたぞ!」
駆け込んできた監視の声に、全員が慌てて食事を口の中に突っ込んで各々の持ち場に走っていく。セイルもシエラに連れられて、操舵室に駆け込んだ。
窓の外には雲がいくつも浮かんでいたが、一つの雲の向こうに確かに見えた。四角い特徴的なフォルムの、純白の船。太陽の光を浴びて輝く神殿の天空戦艦『白竜の翼』は、『紅姫号』に背を向ける形でゆったりと青い空に浮かんでいた。
向こうは『紅姫号』に気づいていないのだろうか、それとも気づいていて取るに足らない存在として何も仕掛けてこないのだろうか。セイルにはわからないけれど、『白竜の翼』はただただそこに漂うばかりに見えた。
だが、ゆっくりと動いているからといって、悠長なことは言っていられない。このまま放っておけば、あの中にいるシュンランは神殿に閉じ込められてしまう。もう、ユーリス神聖国の中心に立つ、楽園の世界樹はすぐそこまで迫っているのだから。
シエラはあちこちで駆け回る船員たちに向かって声を張り上げる。
「当初の予定通り、高度を上げて、羽ばたき船を用意して! それと機関室、魔力の供給を絶って、動力を機巧発動機に切り替えて!」
「機巧発動機?」
聞きなれない言葉に、セイルは思わず問いかけてしまう。シエラは「そう」と視線は窓の外の天空戦艦から逸らさぬままに言う。
「ブランの発明品よ。魔道発動機は莫大な魔力を消費するから、船が接近するとすぐにそれとわかっちゃうでしょ。でも、機巧発動機は魔力の代わりに蓄積した太陽熱を力に変換するの……そう長くは使えないけどね」
それでも、一時的に相手からこちらの存在を隠すには有効だ。そのくらいはセイルにもわかる。そう、相手から身を隠すのは、ほんの一時でいいのだ。その一時で、勝負は決まる。ブランも当然空における戦いを想定して『紅姫号』のために機巧発動機を開発したのであろう。
そのブランの発明品をもって、ブランの喉元に喰らいつこうというのだ。自然と、セイルの背筋が泡立つ。果たして、ブランは『紅姫号』が今まさにすぐそこにいることに、気づいているのだろうか。
――気づかれていたとしても、懐に飛び込むしかない。
その機会は、今この瞬間しかないのだ。
シエラは自分の帽子とゴーグルをセイルに投げ渡す。
「格納庫の場所はわかるね?」
セイルは帽子を被り、ゴーグルを額につけて力強く頷く。シエラもにっと笑みを浮かべて、セイルの頭をぽんぽんと撫でた。
「ここから先は、アンタ次第。しっかりね」
「ありがとう。行ってくる!」
セイルは頭を下げて、格納庫に向けて駆け出した。赤い船員たちがセイルのために道を開け、その度にセイルの肩を叩く。頑張れよ、という無数の声が頭の上から降ってきて、胸がぎゅっと締め付けられる。本当なら、一人ひとりときちんと言葉を交わしたいところだったけれど……残された時間は僅かだった。
無事に帰れたら、『紅姫号』の全員にきちんとお礼を言おう。そう心に誓うと、ディスもセイルの中で呟いた。
『そうだな。そのためにも……絶対にシュンランを連れ帰るぞ』
「言われなくても!」
笑顔すら浮かべて言い放ち、格納庫に飛び込む。そこには数台の羽ばたき船がすぐにでも飛び立てる状態でセイルを待ち構えていた。一際体格のいい船員が、「やっと来たか」とセイルの手を掴んで羽ばたき船に導く。
トニーと名乗った船員は、魔法の使えないセイルのために風避けの魔法……風の海でも地上と変わらぬ行動を可能とする、船乗りには必須の魔法だ……をかけ、白い歯を見せて言った。
「操舵は俺に任せろ。お前は、どうあの船に降りるかを考えろ。いいな?」
「わかった」
「いい返事だ――行くぞ!」
声と同時に、セイルを乗せた羽ばたき船は、勢いよく『紅姫号』を飛び出した。
ふわり、と体が浮き上がるような感覚の直後、容赦なく襲い掛かる下へと向けた力。このまま落下するのではないか、という不安に背筋が泡立つが、刹那、羽ばたき船が翼を羽ばたかせ始め、くるりと一回転して体勢を整える。セイルはトニーの体にしがみついてしばらくは目を閉じていたが、何とか不安定さが無くなったところで、目を開いた。
ごうごうと荒れ狂う風の音と、羽ばたきの音色だけが聞こえる、空漠の世界がそこにあった。
一度、ブランの操作する凧に乗って空から舞い降りたことはあったけれど……その時とはまた違う表情の空だと思う。おそらく、あの時よりも遥かに高い場所を飛んでいるからだろう、酷く寒く、息苦しい。風避けの魔法が無ければ、きっとまともに息をすることも出来ないはずだ。
振り向けば、太陽を背にして、セイルたちの乗った船を追いかけるように小さな赤い船が次々と『紅姫号』から出撃していた。目指すは眼下、雲に隠れるように飛ぶ天空戦艦『白竜の翼』。
戦艦の無数の砲門が目に入るけれど、それに火が灯っているようには見えない。向こうは魔力を絶った『紅姫号』の反応を捉えきれていないのだ。このまま行けば、『白竜の翼』の真上に貼り付けるはず、そう思ったけれど……やはりその考えは甘かった。
『白竜の翼』の上部には、当然といえば当然だが見張りのための空間があり、そこに三人の見張りが立っているのが視認できた。通常ならばまだそれが「人」であるかどうかもわからない距離ではあるが、セイルの視力はそれが神殿独自の飛行服を纏った騎士であることを捉えていた。
騎士たちは、接近する真紅の羽ばたき船の一団に気づいたようだった。一人が奥に引っ込み、二人は見張り台の上に留まっている。何をしようとしているのだろう、とセイルが訝しんでいると、
「来るぞ、しっかり捕まってろ!」
トニーが叫んだ。反射的にトニーの体に強くしがみつくと、羽ばたき船が大きく傾いだ。今にもひっくり返ってしまいそうな角度になった羽ばたき船の横を、光の矢が掠めて飛び去る。
『マジか……奴らも「砲台」か!』
セイルの瞳で矢の出所を追ったディスが叫ぶ。次々に放たれる矢は、見張り台に立つ騎士たちから放たれていた。一つ一つの威力は船を完全に穿つほどのものではないことは見て取れた。だが羽ばたき船は繊細な操作を要求される船、僅かな損傷で墜落することもあり得る、そう、セイルの知識は告げている。
見張り台に立つ騎士は、羽ばたき船の性質を理解し、距離と正確さで船を狙い打とうとしているのだ。
しかしこちらも百戦錬磨のシエラ一味。矢を巧みに避けながら、じわじわと見張り台との距離を詰めていく。それでも、見張り台に張り付く形にはなったが、なかなか高度を落とすことが出来ない。下手に距離を詰めてしまっては回避行動が間に合わなくなる。そう言ったトニーの声は苦しそうではあったが、酷く愉快そうでもあった。
そう、この場にいる誰もが、この厳しい状況でも希望を失ってはいない。一手誤れば死に直結するこの局面を、まるで遊戯のように楽しんでいた。
故に、セイルも諦めない。じっと見張り台の騎士たちを見つめ、自分に出来ることを考えはじめる。
「どうする?」
トニーの問いに、セイルは一瞬答えを躊躇った。思いついたことはあったが、それを実行に移してよいかわからなかったのだ。だがその時、ディスがいたって軽い口調で囁いた。
『大丈夫だ。手前なら出来るさ』
本来、手などないはずのディスから、背中をぽんと押された気がして。セイルは表情を引き締めてトニーの体から手を離す。
「飛ぶよ」
小さく唇でそう告げ――迷わず空中に身を躍らせていた。慌てたような制止の声が後ろから追ってきたが、セイルの体は既に落下を始めていた。
不思議と恐怖は無かった。大丈夫だ、というディスの声を、疑っていなかったから。
唖然とした表情でセイルを見上げる騎士たちを睨み、着地の瞬間を待つ。それはほんの一瞬ではあっただろうが……セイルにとっては、永遠のようにも感じられた。酷く緩慢に迫る木の床を見据え、全身に意識を巡らせて、着地の衝撃に備える。
そして、足が、床を叩く。
途端、体に襲い掛かる負荷。だが、十分予測の範囲内だ。全身をばねのようにしならせて衝撃を逃がし、無事、セイルは見張り台に降り立った。
『代われ!』
ディスの声に、セイルは即座に体を明け渡した。
一呼吸の間も無く意識を切り替えたディスは、我に返って魔法を放とうとした騎士の懐に飛び込み、鳩尾に蹴りを喰らわせる。その瞬間には既にディスの意識はもう一人の騎士に移っていて、そちらの騎士が魔法を放つ前に蹴りの痛みに悶絶する騎士の体をセイルの馬鹿力で持ち上げ、無造作に投げ放った。まさか人を投げてくるとは思わなかったのだろう、二人の騎士は悲鳴を上げてもつれるように床に転がる。
やっぱり咄嗟の判断力ではディスには敵わないな、とセイルは舌を巻く。セイルの持つ潜在能力を扱いきることは出来ない、そうブランに指摘されたディスだが、彼の一番の武器は戦闘能力そのものではなく、経験に裏打ちされた状況判断能力と行動決定の速度なのかもしれなかった。
それはセイルに最も足りないもので、だからこそ、力強い。
ディスから体を返してもらって背後を見れば、セイルの手で見張りが打ち倒されたのを見た『紅姫号』の面々が、鬨の声を上げて次々に降り立つところだった。異変に気づいた騎士たちが奥から駆けつけてくる気配を察知したのか、誰もが親指を立ててセイルに目配せする。
「神殿の連中は俺らに任せな」
「お前はとっととブランをぼこぼこにしてこい!」
「女の子を待ちぼうけさせちゃ、男が廃るってもんよ!」
めいめい、好き勝手なことを言いながら赤い服の男たちは騎士たちと対峙する。次から次へと湧いてくるように見える騎士たちを、『紅姫号』の船員たちは力と技で押さえ込み、それどころか見張り台の扉を越えて船の中にまで突入を始めた。
セイルは帽子とゴーグルを外し、全てを銀の瞳に焼きつけて深呼吸。
「ここからだね、ディス」
『ああ。気張れよ、相棒』
セイルは右手を伸ばして空を握る。
そこに、握りたいディスの手は無い。けれど、ディスの左手が、セイルの手を取った気配が確かにあった。
相棒は確かにここにいる。自分から、一番近い場所に。
「行こう」
決意の声と同時に、セイルは床を蹴った。普段無意識に押さえ込んでいる力を、推進力へと変える……それだけで、弾丸のような速度でセイルの体が前へと押し出される。シエラ一味が騎士を食い止めているその隙間を縫うように駆け抜け、戦艦の内部へと潜り込む。
『白竜の翼』の詳細な構造は明らかにされていない。それ故にここからは手探りになるが、セイルは迷わず前を目指す。南に向けられた戦艦の先頭に向けて。
ブランはきっと、自分が今から向かう場所……世界樹が見える場所にいる。そんな確信がセイルにはあった。
何故、そう思ったのかは、わからなかったけれど。
ただ、セイルの「確信」は誤りではないようだった。騎士たちを力任せに打ち倒しながら、『紅姫号』の船員を引き連れて駆けるセイル。その行く手を阻んで、次から次へと神殿の騎士たちが立ちはだかるが、彼らの手を逃れて進めば進むほど、相手の表情には焦りが見え始めていた。
このまま行けば、シュンランもそう遠くない。
自分の踏み出す一歩が待ち望んだ場所に近づいている、確かな感覚を得てセイルの心はにわかに沸き立つ。だが、それは決して楽な道ではなかった。時に騎士の剣が肩を掠め、魔法で足を縫いとめられそうになる。『紅姫号』の面々も、騎士たちの抵抗の前に徐々に脱落し始めていた。
それでも、それでも、前に進もうとする思いそのものを力に変えて、セイルはなおも前に進む。
振り返らずに、真っ直ぐに。
己の意思を貫くことが、全てに報いることだと信じて――
目の前の扉を、開け放つ。
扉の向こうは、長い通路だった。その向こうには、おそらく船の先頭に繋がる最後の扉がある。
だが、その扉をすぐに開くことは出来ない……セイルは初めてその場で足を止めていた。
今までのように無数の騎士たちが襲い掛かってくるようなことは無く、通路は、背後の喧騒が嘘のように静かだった。
ただ、そこには、たった一人。立ちはだかる者がいた。
空色少年物語