その声と同時に、『紅姫号』は滑るように空に浮かび上がった。始めは激しい揺れが船体を襲ったが、それもすぐに収まり……窓から見える地面はどんどん遠ざかっていく。ワイズの名物である時計塔が遠ざかっていくのをじっと見つめながら、セイルはフレイザー邸に残してきたチェインのことを考えた。
チェインは、きっと、飛び立つ『紅姫号』を見送ってくれていただろう――実際に彼女の姿を見たわけではないが、ほとんど確信に近くそう思う。チェインも、本当は一緒に来たかったはずだ。だが、彼女は難しい立場の中で、彼女なりのやり方でセイルとシュンランを助けてくれると約束してくれた。その彼女に報いるためにも、絶対に、負けるわけにはいかない。
シエラは船が問題なく飛行を始めたことを確認すると、セイルに向き直って言った。
「それじゃあ、これからの話をしようか」
「は、はいっ」
姿勢を正すセイルに、シエラは「そんなに緊張しなくてもいいわよ」と軽く笑う。
「陸の目撃情報によると、『白竜の翼』は相当速度を落としてユーリスに向かっているわ。今の調子だと、ユーリスに到着するのは明日の昼頃ね」
「……どうして?」
「南の空はこの時期相当気流が不安定だから、速度を出すのが難しいのよ。それに、誰も追ってきやしないって余裕もあるかもね」
なるほど、とセイルの頭の中でディスが唸る。セイルも一緒になって頷きかけて、すぐに聞き返さなければならないことに気づいた。
「でも、それならこの船も速度を上げるのは難しいんじゃないかな?」
「そこはアンタが心配することじゃないわ。アンタの親父さんが作った最高傑作に最高の船乗りが乗り合わせてるんだよ、浮かれた風精ごときに負けやしないわ」
シエラは獰猛に笑い、周りに集っていた船員たちも大声を上げて笑う。何も根拠があるわけではないけれど、セイルも彼らの笑顔を見ていれば何一つ心配なんていらない、そう信じることができた。
だが、問題はその先――シエラは言って、ぴっと人差し指を立てる。
「風読みによれば、全開で行って明日の朝には『白竜の翼』に追いつけるはず。そこから先はアンタ次第よ、セイル」
「俺、次第……」
セイルは、噛み締めるようにシエラの言葉を復唱する。
「アタシたちに出来ることは、アンタの行く手を邪魔する奴を足止めすることだけ。けれど、アンタがブランに辿りついて、あの子を助けるために全力を尽くすって約束したげる」
そうよね、とシエラが仲間たちに目配せすると、赤い船員たちがわっと声を上げる。
「神殿の天空戦艦に挑むなんてまたとねえ機会だからな、張り切るどころじゃねえぜ!」
「そうよ、お高く止まった連中に目にもの見せてやろうぜ!」
「っつか一度ブランのにやけ顔殴りたかったんだよな!」
「駄目駄目、殴るのは空色のの役目だろうが」
「頼むぜ、空色の! びしっと決めてくれよ!」
ばんばん、と大きな手で肩を叩かれて、セイルは銀色の目を真ん丸く開いて辺りを見回してしまう。誰もが『紅姫号』の活躍を疑わないのと同時に、誰もがセイルの勝利を疑っていなかった。それは躍り上がりたくなるような喜びだったが、決して浮かれてばかりもいられないものであった。
彼らはセイルのために道を切り開いてくれる。ただ、それに頼ってばかりではいけない。セイルが考えるべきなのは、自分を信じてくれる彼らと共に、セイル自身の目的を完全な形で果たすことだ。
それが難しくないわけはない、けれど逃げ道はもう、己から断ち切った。
息を吸って、吐いて。弱気の虫を息と一緒に追い出して。
セイルは真っ直ぐに彼らを見据えて、言葉を紡ぐ。
「俺も、皆の期待に応えられるように頑張る。だから、少しだけ……考える時間が欲しいんだ」
そんなセイルの言葉に、シエラは「了解だよ」と満足そうに頷き、片目を瞑って見せた。
「それじゃ皆は持ち場に戻りなさい! 変なちょっかい出してセイルの邪魔をするんじゃないよ!」
「応!」
赤い男たちはシエラの指示でめいめいの持ち場に散った。その一見ばらばらなように見えてしっかりと統制の取れた動きをじっと見つめるセイルに、ディスが語りかける。
『……答えは、出せそうか?』
「わからない。でも、諦めないで考えてみる」
きっと、それが今の俺に必要なことだから。心の中で付け加えて、窓の外の空を見る。
空には雲が多く、時に視界が真っ白に染まり、遠くからは雷のような音色まで聞こえてくる。高度を上げろ、という大きな声が聞こえてきた。先ほどよりも船が大きく揺れているから、気流が複雑な領域に入ったのかもしれない。
――あなたの心は、変わりやすい空模様。
不意に、ライブラの『ウルラの森』で出会った魔道士の老女の言葉がセイルの脳裏に蘇った。強い決意と昂ぶる心に反し、今にも震えに襲われそうな不安と恐怖。その思いはこれまでの曖昧な心持ちとは明らかに違ったが、確かに窓の外に映る激しく風が渦巻く空そのものだった。
『白竜の翼』との対峙までに、ブランへの切り札を見出さなければならない。果たして自分なんかに答えが出せるのか。すぐに弱気になりかけて、その弱気を振り払うように頭を激しく振って……再び脳裏に響くのはあの時の老女の優しい声。
――迷い、悩むことは悪ではありませんよ……きっと、今のあなたはまだ指針を見つけていないだけ。
だから、それまでは。そう言った老女の言葉を思い出して、セイルは窓の外を見つめたままぽつりと言った。
「……ディスは、さ」
『あん?』
「いつも、俺の代わりにやるべきことを考えてくれてたんだな。こうやって、自分で考えろって言われて初めて気づいた」
老女は言っていたはずだ。迷い、悩むならばもう一つの心を見つめろと。遠浅の海、空を映す鏡。セイル一人では見えてこないものを示してみせるのは、いつも心の中に潜む相棒だった。
ここに来て、セイルはその言葉を確かな重みを持って感じていた。
ディスは一瞬きょとんとしたようだが、すぐに『はっ』と軽く息を吐き、肩を竦めるような気配を見せる。
『仕方ねえだろ、手前は今までこんな経験したことなかったんだからよ。こんな局面に立たされちゃ、誰だって初めは尻込みするもんだ』
「ディスも?」
『俺なんざ、手前よりも覚悟の足らないガキだったさ……今も、かもな』
ディスの声が微かに自嘲の響きを帯びたのは、セイルにもわかった。
そういえば、ディスはセイルが聞いているかぎり少年のような声と喋り方をしていて、セイルも同い年か少し上くらいの友人だと思い込んでいる。ただ、実際には『ディスコード』とは世界樹と同じくらいの年月を重ねてきた禁忌機巧であるはずで、それを考えるとディスの言動はやけに奇妙でもあった。
「ディスって、本当はいくつなの?」
つい、聞いてみると、ディスはあからさまに機嫌を損ねた様子で声を高くした。
『ああん? 俺は剣だ、人の物差しで考えんなっつっただろ』
「ご、ごめん」
セイルは慌てて謝る。最近はほとんど言われなかったからすっかり失念していたが、ディスは人として扱われることをとことん嫌う。剣と使い手としてではなくお互いに相棒として認め合ったけれど、そこだけはディスにとって譲れない部分なのかもしれなかった。
とはいえ、ディスもディスでセイルが謝ったと見るとすぐに軽く咳払いをして質問には律儀に答えてくれる。
『前にも言ったとおり「ディスコード」がいつ作られたかって質問には答えられん。俺も正確なことは何一つ知らんからな。それと、精神年齢って話なら手前よりは少し上に設定されてんだろうな』
「設定?」
『俺は「ディスコード」の管理エーアイ……あー、確かアーティフィシャル・インテリジェンスだから、人工知能って言やいいのか? とにかく「ディスコード」を管理する機能の一環として、初めからこういう人格で設定されてんだ。だから正確な「年齢」って言われても困る、ってのが本音』
セイルは、ディスの言っていることの半分も理解できなかった。ディスがセイルのためにわかりやすく言葉を言い換えてくれたにも関わらず、だ。
人工、ということは人の手で作られたもの、ということ。だが人と何も変わらない「心」を人の手で作るなんて、それこそ兄が語ってくれた物語の中の出来事だ。あの『ウルラの森』の大魔道士ですら、人の心を持った人形を作ってはいなかったではないか。
それとも、禁忌の知恵を用いれば人の心まで作ることが可能なのだろうか。そうであれば、人の心を宿したディスは、もはや人でないとは言えないのではないか……それとも、禁忌の定義では人と同じ心があろうと何処までも「もの」なのだろうか。
ディスが、剣であることに固執するように。
ディスは戸惑いを浮かべるセイルを気にした様子もなく、『で、だ』と話をあっさり転換させる。
『俺のことはどうでもいい。今考えるべきは手前のやり方、だ』
「あ……う、うん。そうだね」
ぎゅっと、手を握る。体の中に息づくディスの気配を感じるように。
――まずは、頭の中を整理しなくてはならない。
セイルは呼吸を整えて、一つ、一つ、ごちゃごちゃになっていた意識から今必要なものを拾い上げていく。いつもディスがどうやって思考を整理していたのかはわからないけれど、自分なりの方法で思考を纏め上げようと試みる。
ブランを己の手で打ち倒し、シュンランを助ける。
言葉にすればそれだけだが、考えれば考えるほど今まで直面してきたどの問題よりも難しいものに思えた。それも当然、目の前にある状況は最悪、そしてここで手を誤ればセイルの旅も終わってしまう。その結末がどのような形であれ、だ。
今までのセイルなら考える前にとっくに諦めていただろう。自分には何も出来ない、出来るはずがないと決め付け、ただ周りがどう動くのかを目を丸くして見つめているだけだった……
『でも「見てるだけ」でも十分勉強にはなっただろ』
ディスはそんなセイルの心の声を汲み取って囁く。
『何もかも、何もかも、無駄なことなんざありゃしねえ。そうだろ、セイル?』
「……うん、そうだね。確かに、そうだ」
今、ここにいるのは何も知らないままに部屋の中で膝を抱えていたセイルではない。シュンランの手を取って駆け出したあの日から今までの経験は、確かにセイルの中に積み重ねられている。
手を握る。シュンランの手の温もりを思い出すように。目を閉じる。ブランの背中を思い出すように。その背中に伸ばした手で、今度こそ何もかもを掴むために……セイルは思考の渦の只中に立つ。
自分の答えを探して。自分の、自分にしか出来ないやり方を探して。
その時、周囲を監視していた船員の一人が大声を上げる。
「十時の方角に魔力反応! ものすごい速度で近づいてる!」
黙ってセイルの様子を見ていたシエラがはっと顔を上げた。何か指示を出そうとしたのだろう、唇を開きかけたが、結局言葉が出ることは無かった。
青い空と白い雲だけの世界であった窓の外が、急に鮮やかな光に包まれたのだ。
赤から紫に移り変わる光の六色が、セイルの足元に影を落とす。思わず立ち上がったセイルは息をするのも忘れて窓に張り付いた。
そこにいたのは――太陽を背にして空を泳ぐ、翼に虹の遊色を煌かせた巨大な白鳥だった。
その体の大きさは、『紅姫号』と匹敵するかもしれない。かなり遠くを飛んでいるようであったが、それでも力強い羽ばたき一つが風の波を起こし、『紅姫号』の船体を揺らす。
シエラはセイルの横からその鳥を見て、軽く肩を竦めた。
「何だ、渡虹鳥ね。全く、驚かせないで欲しいわ」
「渡虹鳥……あれが」
セイルも図鑑では見たことがあった。普通の鳥には決して許されない高度にまで舞い上がり、乱気流に乗って楽園中を飛び回る魔物の一種だ。魔物と言っても鷹翼獅子や飛蜥蜴のように船や他の鳥を襲うわけではない。ただただ、風に乗って舞い踊ることを喜びとする、虹の輝きを抱いた純白の大鳥。それが今、目の前に現れたのだ。
珍しいよ、とシエラは言う。渡虹鳥は基本的にワイズ・ユーリス間の航路には現れない。何故なら、ユーリス神聖国には世界樹を守る女神の獣『白き竜』がいる。竜は全ての獣の頂点に存在する生物であり、魔物全てを捕食する。故に船と同等の巨体を誇る渡虹鳥も普段は神聖国に近づこうとしないのだという。
だから、ここに渡虹鳥が現れるのは奇跡に近い――しかしそんなシエラの言葉は、ほとんどセイルの耳には入っていなかった。巨大な鳥の姿に、完全に意識を奪われていたのだ。
これは、「空を飛ぶ」ために完成された生き物だ。そう、セイルは思う。地上から普通に見られる鳥ともまた違う、無駄を極端に排した流線型を描く体。金属質で、それでいて生物的なしなやかさを兼ね備えた翼。おそらく、翼が虹色に輝くのは羽ばたきのたびに空気中の魔力と体内の膨大な魔力を反応させ、推進力に変換しているからだろうか……そんなことを考える。
渡虹鳥は『紅姫号』を仲間だと思ったのか、ごう、という風の音を思わせる鳴き声を放って横に並んだが、やがて翼を一際強く羽ばたかせ、あっと言う間にその姿は青い空の向こうに消えていった。
セイルは、呆然としたまま飛び去る鳥を見つめていた。
心の中には、青空に輝く虹の翼が焼きついていて……その輝きが、停滞しかけていたセイルの思考にも鮮やかな光を灯した。
「ディス」
空の色を映す瞳を見開き、窓に向けて、ゆっくりと右手を伸ばす。
「わかったかもしれない……俺の、やり方」
空色少年物語