ライブラ共和国の南端に位置する、港町クバーク。
人で溢れる大通りから一つ外れた細い道を、背の低い人影が肩で風を切るようにして歩いていた。
首狩りか墓暴きか、もしくはそれに類する冒険者なのだろう。纏う服や身に着けた飾りは決して目立つものではない上に長旅の傷や汚れが染み付いていたが、見るものが見ればそれらが魔道的な加工が施された実用的なものであり、またどれも一級の品であることがわかる。
その横には、普通には目に見ることが出来ない「何か」が浮かんでいた。
今にも空気の中に溶け込んでしまいそうな半透明の体を持つ、手のひら大の可憐な少女――それは「精霊」、もしくは「妖精」と呼ばれる存在った。
楽園に当たり前のように存在し、意思と知恵を持ちながら女神が定義する「人」ともまた違う、不可思議な存在だ。その存在は根本的に人とかけ離れた次元に位置しているため、ほとんどの人の目には見えないが、稀に妖精を「見る」ことの出来る瞳、精霊視を持って生まれる者がいる。
そのような者たちは、妖精と契約を交わすことで「精霊魔道士」……俗に「妖精使い」と呼ばれる魔道士として、普段は決して人の間では振るわれることのない妖精の力を扱うことが出来るようになる。妖精の力を借りるという点で厳密には女神の定義する「魔法」とは異なる技術ではあるが、妖精は魔力、マナが無ければこの世に影響を及ぼすことが出来ないため、魔法の一種として扱われる。
この妖精は、おそらく風の妖精なのだろう。横を歩くその人の褪せた銀の髪を引っ張ったり、ふわふわと風に乗って離れたり、近寄ったりと落ち着きが無い。だが、不意に何かに気づいたのか、小さな小さな唇を開く。
「ルネ」
ひゅう、と吹く風の音に似た声が紡いだ言葉。それが道行く妖精使いの名前だった。ルネはぴたりと立ち止まり、妖精が示す方角を見据える。
道を挟むようにして立ち並ぶ家々、その屋根の一つで、白い鳩が羽を休めていた。
雨雲に覆われた空を背景に、鮮やかに浮かび上がる鳩の姿。それはありふれた光景のようにも見えたが、しかしルネは鳩から目を逸らそうとはしなかった。鳩も不思議と理性の感じられる瞳で、じっとルネの大きな琥珀色の瞳を見据えている。
「……なぁに高みの見物決め込んでんだよ、馬鹿野郎が」
ルネの唇から漏れたのは、掠れ気味の低い声。ぱっと見る限り年齢も性別も判じがたい見た目には、妙によく似合う声音だ。
鳩が小さく鳴いて、翼を広げる。その瞬間に、ルネも動いた。
「クー!」
クー、と呼ばれた妖精が、鳩を追って高く舞う。希薄だった体がルネの意志に応えて風を纏い、一つの質量ある弾丸となって鳩に向かって放たれる。
だが、鳩はルネが何を仕掛けてくるのかも既に見通していたかのように、いとも簡単にクーの突進を避け、そのまま高く、高く、空の上へと飛び上がっていった。クーが追いかけようとするのを引きとめ、ルネはあっさりと意識を鳩から外した。
どうせ、撃ち落したところであの鳩を操っている張本人には届かない。
何処にでもいるような伝書鳩を教育し、自分の魔力を通わせることで己の「目」として操る技術は、ルネのよく知るとある男の十八番だ。命名魔法や命令魔法など、通常「魔法」と呼ばれるものを極端に苦手とするあの男が、唯一得意としている魔法だった。
ルネの記憶の中で、あの男は常に鳥と共にあった。
自分は飛べないから、と言い訳のように呟く少年のような声が脳裏に蘇る。青空に白い羽を散らす鳩を見上げた彼は、確かにその時は小さな少年だったはずだが、気づけばルネの身長など軽々と追い越して、眼鏡の下からこちらを見下ろす可愛くない野郎になっていた。
それでも、あの声だけは、変わらなかったはずだ。空を見上げてその高さと青さに憧れる、子供のような声だけは。
しかし――その声は、今や楽園に恐怖と疑心を呼ぶものとなってしまった。
声の主は、誰もがその名を知る楽園の反逆者、『機巧の賢者』ノーグ・カーティス。冷たい血の流れる、機巧の如き異端の長は、誰の目にも留まらぬ場所で今まさに女神を打倒するための計画を組み立てているに違いない。
違いない、と言われている。
ルネは、全く信じていなかったが。
どうして奴がそんな大それたことを考えるだろう。そう、ルネは思っている。
空に憧れながら、鳥に願いをかけることしか出来なかった、愚かな弟。
そう、ルネにとって、ノーグ・カーティスは「弟」だった。
血こそ繋がらないが、絆で結ばれた家族の一人。今のノーグがどう思っているかなど知ったことではないが、ルネは、そう思っている。自分が信じていられるうちは、ノーグは自分の弟だ。何処までも。
そして、ノーグのことを思えば、自然ともう一人の、ずっと年の離れた弟のことも考えずにはいられない。
セイル・カーティス。
楽園の誰一人として持ち得ないはずの色と、人には無い力を持って生まれた少年。
それでいて、ルネが今まで出会った誰とも変わらない、それどころかずっと傷つきやすい心を持った少年。
ルネを初めとした「家族」以外に頼ることの出来る者もなく、常に膝を抱えて森の中、カーティスの屋敷に引きこもっていたあのセイルがノーグを追って家を飛び出した。そう母から聞かされたのは、つい最近のことだった。
セイルを連れていったのは、一人の少女だという。可愛いセイルをたぶらかす女は許すまじ、と冗談半分で思いながらも、セイルの行方に思いを馳せる。
セイルは、森とその外にある町しか知らずに育った。世間知らずに世間知らずを上塗りして、ついでに箱入りにしたようなものだ。そんな彼が今なお悪い奴に捕まらずに無事でいるのだろうか、と心配するのは姉馬鹿に過ぎるだろうか。
その反面、セイルの無事を何処かで確信しても、いる。
実際、旅先でセイルを見たという者の話もちらほら聞いている。本人は厭う空色の髪だが、その行方を追う側からすれば立派な目印だ。彼らの話を聞く限り、今のところセイルは無事であるらしい。
ルネもまた、ノーグを探すために家を飛び出してここにいるのだ。いつか、旅先でセイルと出会うこともあるはずだ。
その時に、ノーグはそこにいるのだろうか。
そこまで考えて、ルネは「はっ」と声を立てて笑う。
いてもらわなければ困る。そうでなければ、誰も幸せにはなれない。セイルも、ノーグも、そしてルネ自身も。
遠くから、ルネの名を呼ぶ声が聞こえた。少年と青年の境を揺らぐ、何処かで聞いたような声に、ルネは現実に引き戻される。どうやら旅の連れが呼びに来たようだ。
横を舞うクーの実体とも幻ともつかない柔らかな髪をそっと撫で、ルネは踵を返そうとした。
その時、不意に世界が翳った。
「ん……?」
顔を上げると、ちょうどルネの頭上を巨大な何かが通り過ぎようとしていたのだ、と気づく。驚きの声を上げるクー。ルネもまた、驚きに目を丸くするしかなかった。
雨雲の間を縫うように、南に向かって飛ぶそれは……長らく楽園を旅するルネですら一度も見たことのない、超弩級の、飛空艇だった。
空色少年物語