空色少年物語

13:この背を押すのは(1)

 セイルは、雨の中、路地裏に一人で座り込んでいた。
 泥だらけの服もそのままに、ただ、雨の落ちる冷たさと耳の奥にまで染み付く雨の音を感じていた。
 チェインは、自分を探しているだろうか。
 探しているだろう、何も言わずに逃げ出してしまったのだから――そう思うと微かな良心が疼くけれど、今はチェインのことも考えたくなかった。
 チェインはセイルの邪魔をしたが、冷静に考えてみれば当然だ。あそこでブランにかかっていけば、セイルが一方的にやられるだけだった。本当ならば、礼を言ってもいいくらいだ。
 それは、セイルとて理解している。神殿の騎士が素人のセイルに大人しく負けてくれるはずもなかっただろうし、ブランの実力に至っては、身をもって理解しているのだから。だが、頭で理解できたところで、心はなおもブランに対する怒りと憎しみで燃え盛っていて、その炎がブランどころか周りにある何もかもを焼き尽くそうとしていて。
 目の前の現実にも、自分の中に燃える炎にも耐え切れずに、神殿の連中が去ってチェインの鎖から解放されたところでチェインが止めるのも聞かずに駆け出した。そして今、誰もいない場所に、たった一人で座っている。
『……頭、冷えたか?』
 ディスが頭の奥底から問いを投げかける。
 セイルは答えない。
『怒ってんのか、俺に』
 ディスは、よくわかっている。わかっているからこそ、セイルは答えない。答えられないのだ。
 ブランがシュンランを騎士たちに引き渡したあの時、ディスはセイルの行動を全力で阻止した。何とかブランを止めようとするセイルを頭から押さえつけて、結果的にブランたちを逃がす手助けをしたともいえる。
 その時のディスは冷静だったかもしれないけれど、セイルには納得が出来なかった。
『セイル、俺だってあの野郎の行動は許せねえよ』
 頭の中に響く声は、あくまで落ち着いていて。
 ディスはいつもそうだ、弱気になっているところを余計に折らんばかりに荒々しく責めたかと思えば、怒りに震える自分に対して冷静さを装って上から諭そうとする。
 それが……どうしても、気に入らない。
『だけどな』
「なら……っ」
『セイル?』
「なら、どうして俺を止めたんだよ! 意気地なし、どうせ怖かったんだろ、ディスだってブランには勝てないから!」
 気づけば、セイルは叫んでいた。ぎょっとするディスに対して、セイルは胸の中から溢れ出る言葉を重ねる。
「何が俺の剣だよ、剣は使い手に従うんじゃなかったのかよ! どうして、どうして一番大切な時に、俺の言うこと聞いてくれないんだよっ!」
 胸が痛い。張り裂けそうに痛い。頬を伝う熱い液体は、多分、雨じゃない。
 ブランに裏切られて、チェインに止められて、ディスまで自分に協力はしてくれなかった。
 誰も、連れて行かれるシュンランを助けてはくれなかったのだ。そして、他でもない自分も、あの瞬間にシュンランを助けることが出来なかった。
 わかっている、本当に悪いのはディスじゃない、ということくらい。
 けれど、けれど!
「ディスの馬鹿! もう、もう、何も信じられないよ……!」
 セイルは言って、頭を抱えた。何もかも、何もかも、自分の思ったようにはならない。そのまま、自分ひとりだけが置いていかれているような、そんな感覚が胸を支配していた。
 そんな中。
『なあ、セイル』
 ディスは穏やかな、しかし不思議と凄みのある声で、言った。
『信じられない、って言ったけどな。手前は、本当に俺たちを信じてたか?』
 セイルの思考が、ぴたりと止まる。怒りも、苛立ちも、悲しみも、全ての動きが一端止まり、意識はディスの言葉ただ一つに向けられる。
 ――自分が、ディスたちを信じていない?
「何だよ、それ……」
『言葉通りだ。手前は、一度でも俺を心から信じたことはあったか?』
「信じてたに決まってるだろ。だから、こんなに怒って……」
『わかってねえな、手前は』
 それを、信じてないっていうんだよ。
 ディスは確かに、そう言った。セイルはぎゅっと唇を噛んで、涙を目に溜めて吼える。
「わかるかよ! ディスはいつもそうだ、自分だけわかったような顔して、俺には何も言ってくれない!」
『そうだな、そうだった。それで信じてくれなんて、虫がいいにもほどがあるな』
 ディスは小さく溜息をついた。悪気はなかったんだ、と言い置いて、セイルが次の言葉を放つ前に言葉を続ける。
『俺もお前を信じきれてなかった。それは事実だ。お前の剣だなんて言っておいて、使い手を信用できてねえ剣なんて、役立たずにもほどがあらあな』
「ディス」
『聞いてくれ、セイル』
 頭の中に響く少年の声は、熱く燃えるような感情を押し殺して、静かに告げた。
『俺は、もう、間違いたくねえんだ』
「どういう、こと?」
『俺は昔、とある男の剣だった。そいつは誰にも嫌われたくないって怯えるあまりに、誰にも心を開けなかった。誰一人として、心から信じることが出来なかった』
 ――そして何よりも、そいつは自分自身を信じていなかった。
 ディスの言葉を、セイルは自然とオウム返しにしていた。
「自分、自身を?」
『ああ。自分は自分だって言えばそれだけで世界は変わったのに、そいつは己を信じられないが故に迷走した。その迷走の末に……傷つけなくていい奴まで、傷つけちまった』
 言って、ディスは小さく笑った。何かを嘲るように、何よりも自分を嘲るように。
『俺もそいつを信じられないまま、けれど何処までも「剣」だった。奴の手の中にある道具でしかなかった。奴が間違うのを止められない程度に、俺も、間違ってた』
 普段の彼からはかけ離れた、低く落ち着いた声で言って、ディスは小さく息をつく。セイルは言葉を失ったまま、ただ、ディスの言葉の続きを待つしかなかった。
『手前を見てると、どうしてもその頃を思い出しちまうんだ』
「俺が……人を、自分を、信じてないってこと?」
『そして、自分を見失ったまま、最悪の方向に駆け出しても気づかねえ、ってこと』
 確かに……ディスの言うとおりかも、しれなかった。
 嫌われたくない、裏切られたくない。人から冷たい目で見られることが当たり前だったセイルの心の中には、常にそういう思いが渦巻いていた。そして、信じた相手に裏切られるのは、一番、辛いことも、知っている。
 だから、心を許せない。本当の意味で、信じることが出来ない。胸の何処かで、いつか裏切られるのではないかと震える部分があるのだ。
 そうやって震えてしまうこと自体が、自分自身を信じていないということ。自分は何処までも自分だから、と胸を張っていられない証拠なのだということを、セイルは初めて理解した。
 すとんと、胸に落ちる思いと共に……他でもないディスにそれを言い当てられてしまったことに対する反発の感情もあった。けれど、先ほどまでのような、意味もなく当り散らしたくなる気持ちはいつの間にか消え失せていた。
 ディスも、セイルが落ち着いてきたことには気づいているのだろう、先ほどよりも少しだけ軽い口調で付け加える。
『俺は、手前から嫌われてもいい、泥でも何でも被ってやる。だから、お前は自分自身だけは見失うな。お前自身の未来を閉ざすような真似だけはするな』
「さっき、俺を止めたのも、俺のためだっていうのかよ」
 まだ、微かな棘を含んだ口調でセイルが問う。ディスは少しだけ躊躇ったが、ここで躊躇うのも無意味と思ったのだろう、小さな肯定の感情を返してよこした。
「やっぱり、俺じゃブランに勝てないって思ったから?」
『それもある。けどな、あの時はそれ以上に』
 ディスは言葉を切って息を吸う。言葉を待つセイルに向かって、低く、しかし良く響く声で言った。
『お前が誰かを殺しちまう可能性が恐ろしかったんだ』
 セイルは、ごくりと喉を鳴らした。
 自分が、誰かを殺す。そんなこと、考えたことなかった。そうだ、『ディスコード』を掲げた瞬間ですら、その刃が誰かの命を奪う可能性について考えていなかった。ただブランへの怒りだけが先に立って、それ以外のことに全く考えが及んでいなかったのだ。
 だが、落ち着いた今であればわかる。
 あのまま自分が『ディスコード』をまともに振りぬいていれば、最悪の事態を招いていたのだという、事実が。
『ブランとの手合わせでわかってるだろうが、手前の能力自体は俺を上回ってる。そのお前が手加減抜きで行けば、平和ボケした神殿の連中なんて簡単に殺せる。そう、殺すのなんて、簡単なことなんだ』
 ディスの言葉は、セイルの頭の中に一つ一つ、刻み込まれていくようで。セイルは濡れた体をぎゅっと抱きしめる。もし、あの場でチェインが止めてくれなかったら。そう思うだけで、体が震える。
『怖いか』
 ディスが淡々と問いかけてくる。セイルは、小さく頷いて、掠れた声で言った。
「俺、何しようとしてたんだろう。そうだよな、ブランを殺したかったんじゃない。なのに、取り返しのつかないこと、しようとしてたんだ……」
 自分の両手を見下ろす。今は、どちらも剣の形を成してはいなかったけれど、あの時自分の右手には、ディスを制して無理やりに形作った刃があった。あのイビツな刃が誰かの血に濡れるところを想像すると、微かな頭痛すら覚える。
 それで、仮にシュンランを助けられたとして。
 その血に塗れた剣を片手に、どんな顔をしてシュンランの手を握り返せただろう?
『……よかったよ。お前が本当の馬鹿じゃなくて』
 黙り込むセイルに対して、ディスは溜息をついて言った。
『言うまでも無いとは思うが、剣を持つってのは人を殺す可能性を高めることだ。本来的に武器は命を奪うためのもの、それを手にして「殺さない」方が難しい』
 殺さないように戦うには、それなりの高等な技術が必要になる。故に、戦うことそれ自体にも慣れていないセイルが『ディスコード』という武器を手にするには絶対的に早すぎるのだ。ブランも、それをわかっていて『ディスコード』抜きの訓練を徹底して課していたのだろう。
 まずは、目の前の相手にきちんと対応できるように。こちらを打ち負かそうという戦意を持った相手と、心でも体でも渡り合えるように。武器を手にするのは、それからでいい。
 ディスは、そう言って、声を落とす。
『俺はな、セイル。お前にだけは、人殺しにはなってもらいたくねえんだ』
「……剣であるディスが、そんなこと言うの?」
 剣が殺しの道具だと言ったのは他でもないディスだ。そのディスが、使い手のセイルに人殺しになって欲しくないと言う。その妙な齟齬が引っかかって、セイルは思わず問い返してしまう。ディスとしてもその問いは十分予測していたのだろう、「はっ」と何処か自嘲を込めた笑い声を放ち、言葉を続けた。
『剣だからこそ、かもな。俺は、何人かの使い手の間を渡り歩いてきた。そいつらは大体人殺しで、俺はその度に人が死んでいく瞬間を見せ付けられた』
 ああ、とセイルは呻く。
 何故、こんな簡単なことを想像できなかったのだろう。
 『ディスコード』は剣ではあるけれど、ただの剣ではないのだ。心を持った、世界で唯一つの『世界樹の鍵』。そこに宿った心は――生きとし生けるものの命を奪う剣としては不要ともいえる、人の苦しみや悲しみを感じ取ってしまう優しすぎる心だ。
『お前には、そんな思いはさせたくねえんだ。だからお前には「ディスコード」を握らせなかった。どうしても、握らせたく、なかった』
「そっか。だから俺が戦うって言い出した時も、喜んでくれなかったんだ……」
 返ってきたのは、『ああ』という短い肯定。ただそれだけだったけれど、セイルの中では全てが繋がったような気持ちだった。
 ディスは、ディスなりに、ずっとセイルのことを考えてくれていたのだ。セイルの手で周りの誰かが傷つかないように。誰かを傷つけてしまうことで、セイルの心が傷つかないように。
 そのために、ディスはセイルの剣であり続けると誓ったのだ。セイルの代わりに自分がシュンランを守って戦うことで、何よりも使い手であるセイルを守ろうとしてくれていた。
 それに気づいた途端に、止まったはずの涙がぼろぼろと零れだした。自分のことを本気で心配してくれていた、その気持ちが嬉しくないはずもない。けれど、何で、ディスはいつもこうなのだろう、と思わずにはいられない。
 おろおろするディスに対して、セイルは泣きじゃくりながら湿った声を上げる。
「それなら、そうって言ってくれればよかったのに。俺っ、最近ディスのこと全然わからなくて、嫌な気持ちになって、そんな自分も嫌だったんだ。何で、ディスはいつもきちんと話してくれないんだよ……!」