フレイザー邸についたところで、雨が降り出した。
降り出した雨は勢いを増すばかりで、セイルは窓越しに煙るような雨を見つめていた。旅に出てから、ぽつぽつと雨に降られることはあったが、ここまで強い雨は初めてかもしれない。
これからの季節は、少しずつ雨が増えていくだろう、そう言ったブランの声がやけに遠くから聞こえた気がした。
セイルと並んでソファに腰掛け、少しだけ遅いお茶の時間を楽しんでいたシュンランは、不意にティーカップを置いて立ち上がった。どうしたのだろう、と見上げるセイルを振り向くことはせず、台所から顔を覗かせたブランに向かって言う。
「ブラン、少しよいですか」
「ん、俺?」
「はい。ブランにだけ、話したいことがあります」
ブランに、だけ?
一体、何の話なのだろうか。何となく居心地の悪い気分になるセイルに対し、ブランもその言葉は想定していなかったのか微かに眉を上げたが、すぐににっと笑って言った。
「別にいいけど。ちょうど良かった、俺様も嬢ちゃんに用があったからさ」
ブランは「じゃ、向こうで話すか」と言ってシュンランを伴って部屋を出て行った。ブランと一緒に夕食の支度をしていたチェインが、訝しげにその背中を視線で追う。セイルも、扉の向こうに二人の姿が消えていくまで、じっとそちらを見つめていることしか出来なかった。
『話、なあ』
ディスが頭の中で呟く。セイルが「心当たりある?」と問いかけると、小さく唸った。
『……わからん。アイツが言葉で言うよりも色々考えてるだろうってのは、わかるけど』
シュンランは記憶喪失で言葉が不自由なせいもあって、何を考えているのか読み取りづらいことはある。だが、記憶が無い故に楽園の常識に囚われることのない彼女は、時にセイルには思いもつかない考えを披露する。
果たして、今のシュンランは何を思ってブランとの話に臨んだのだろうか――
答えは出ない。帰ってきてから、聞いてみればいいだろうか。ブランにだけ話したいことと言っていたけれど、自分には言えないようなことなのだとしたら、シュンランは困った顔をしてしまうだろうか。
そんなことを考えながら、再び意識を窓の外に戻す。雨が世界の音を上から塗りつぶしているようで、普段聞こえる無数の人の声や足音も届かない。この、音に満ちていながら普段にない「静寂」をもたらしてくれる雨が、セイルは決して嫌いではなかった。
人は嫌いではないけれど、旅に出るまでセイルはいつも人に対して恐怖に似た感情を抱いていたから。旅に出てから色々な人に出会って、それぞれの個人を好きになり始めてはいたけれど……今でも不特定の「人」が怖いのは、あまり変わらない。
雨は、そんな誰ともわからない人の声を消してくれる。それだけで、セイルは安心するのだ。
こんな後ろ向きの気持ちではいけない。そう自分に言い聞かせようとするけれど、なかなか身についてしまった恐怖は拭えずにいる。
「もう一杯、いるかい?」
物思いにふけるセイルの耳を、チェインの穏やかな声がくすぐる。見れば、チェインが白いポットを片手に立っていた。「いただきます」と言って空のカップに温かな紅茶を貰い、スプーン一杯だけ砂糖を入れてかき回す。
チェインもセイルの前に座り、己の茶を注いだ。湯気と共に、柔らかな茶の香りが部屋の中に広がる。
「……ねえ、セイル」
「何?」
まだ熱い茶を息で冷ましながら、チェインを見る。チェインは鼈甲縁の眼鏡を人差し指で持ち上げ、青い瞳でセイルを見つめるものだから、セイルは思わず背筋を伸ばした。
チェインは言葉を続けるのを躊躇っているようにも見えたが、セイルが無言でチェインを見つめていると、意を決したように唇を開いた。
「今、私がシュンランを神殿に連れて行くって言ったら、アンタはどうする」
「え……?」
冗談だろう、そう思いたかったけれど、チェインはこんな時に笑えない冗談を言うような性質ではない。そのくらいは、いつも一緒にいるのだからわかる。
「どうして、そんなこと聞くの?」
「アンタなら、どう答えるかなって思っただけさ。他意は無いよ」
チェインも、レイド博士との対談で思うことがあったのかもしれない。ディスはセイルの頭の中で微かに息を飲んだが、セイルはディスの意見とは別に自分なりに考えた答えを言葉にする。
「俺は、止めると思う。シュンランにとって、それが一番安全なのは知ってるよ。でも、やっぱり……シュンランの願いとは違うし、俺も、そんな形で終わるのは嫌だよ」
「そうかい。やっぱり、アンタはそう言うだろうと思ったけどね」
それでも、聞いておきたかったんだ。
チェインはそう言って、紅茶を一口啜った。
その時、扉を開ける音がして、雨の音が一際激しく聞こえてきた。誰かが帰ってきたのだろうか、そう思って部屋の扉に視線を向けると、すぐに見慣れた顔が現れた。
「はあ、いきなり降り出すとか勘弁してくれ」
ロジャーが学院から帰ってきたのだ。すっかり雨に濡れてしまい、いつもはふわふわの毛並みもすっかりしょぼくれてしまっている。チェインはすぐに奥からタオルを取り出して、ロジャーに投げかけてやる。ロジャーは「悪いな」と相変わらず全く悪いと思っていないような傲岸な態度で頷くと、濡れた眼鏡越しに二人を見て言った。
「しかし、こんな雨の中、あの二人は何しに行くつもりなんだか」
「ブランとシュンランが、外に出て行ったの?」
「ああ。何処に行くのか聞いたら、セイルが『港に行く』って言ってたが」
港、に?
セイルはブランの言葉の意味を測りかねて首を傾げるが、その瞬間にディスがはっとして叫んだ。
『セイル、やばいぞ! すぐに追え!』
「え、何が」
『あの野郎、俺たちを置いて、シュンランだけ連れて逃げる気だ!』
まさか。
セイルの思考が固まる。ブランは、セイルとシュンランを守りきると誓っていたではないか。嘘をつかないというあの男が、己の言葉を違えることなどありえない。そう思っていたのに、思っていたのに……
チェインがカップを乱暴に置いて、立ち上がる。
「セイル、追うよ!」
「う、うん!」
真偽は、己の目で確かめるしかない。セイルとチェインはフレイザー邸を飛び出して、港に向かって駆け出す。ディスの舌打ちを頭の中で聞きながら、セイルは全力で足を動かす。時には水溜りの水を跳ね上げ、時には人を突き飛ばし、罵声を浴びせかけられながらも咲く傘の間を駆け抜けて……見えてきたのは、大きな港。
そして、その入り口に集まる、白銀の集団。
『やっぱり……神殿か!』
ディスが叫ぶ。そうだ、言われなくてもわかる、白銀に輝くのは神聖騎士の象徴、女神ユーリスに祝福された聖別の鎧。傘も差さずに集う神殿の騎士たちは、セイルたちにはまだ気づいていないようで、視線を一点に向けている。
そこにいたのは、砂色の外套を雨に濡らす一人の男……ブラン・リーワード。彼の腕には、白い髪を垂らした少女が抱かれていた。
「シュンラン!」
シュンランはぐったりとした様子で、意識があるようには見えない。そのシュンランの体を、ブランは躊躇いも無く目の前に立っている騎士鎧の女に託す。
それを見た途端に、セイルは理解した。
ブランは――シュンランの決意を否定し、セイルの期待を踏みにじって、神殿にシュンランを引き渡すという決断を、下したのだ。
かっと、頭に血が上る。許せない、許すわけにはいかない。こんなところで、シュンランの旅を終わりにするわけにはいかないのだから!
セイルは喉が裂けんばかりの声でブランの名を叫ぶ。
やっとのことで、騎士たちも、そしてブランもセイルの存在に気づいたのだろう、保護の対象であるシュンランを守るように、素早く展開する。
「セイル! 駄目だよ!」
後ろから追いついてきたチェインが何処か非難するような声を上げるけれど、知ったことか。ブランの裏切りを見過ごす方がどうかしている。
並み居る騎士たちは無視して、ただ、ブランだけを見据えて拳を握り締めて――
『セイル! 冷静になれ!』
「なれるかよ! だって、ブランが、ブランが……!」
『ちっ、手前は本当に手のかかるガキだなっ!』
ディスは、声と共に、セイルの意識を無理やり心の奥底に押し込め、体の支配権を強制的に奪い取る。
『なっ、ディス! 何すんだよ、やめろ、出せよ!』
「無理だ、今の手前には任せられねえ」
ディスは静かに言って、騎士たちに囲まれたブランを見据える。
「で、手前は何やってんだよ」
「見ればわかるでしょう、嬢ちゃんを保護してもらおうと思ってね。これ以上危ない目に遭わせるのも可哀想でしょ」
雨に濡れながら、ブランはけらけらと楽しそうに笑う。ディスはぎりと歯噛みして、シュンランに視線をやる。もし、シュンランの意識があれば、この場を打開出来たかもしれないのに。そんなディスの思いは、セイルにも伝わった。
けれど、その思いはブランにも同様に伝わってたのだろう。すっと目を細め、低い声で言う。
「嬢ちゃんに歌われると、正直お前さんに妨害されるより厄介だからな」
「だろうな。だが……俺が暴れれば、最低でもここの連中はのせると思うぜ」
ディスは挑発するように左手を剣の形にする。騎士たちは、人の体を支配する『世界樹の鍵』、『ディスコード』を見るのは初めてだからだろう、驚きの声を上げる。シュンランの体を預かっている騎士の女も、微かに眉を上げた。
ただ、ブランは「それなら、俺様がお相手するまでよ」と笑って、左手を突き出す。普段は服に覆われて見えない左の手首には、銀の腕輪のようなものが嵌められていた。それを見たディスが、明らかに表情を強張らせる。
そんなディスを満足そうに睨めつけ、ブランは歌うように声を上げる。
「顕現しろ、『アワリティア』 」
白い光が腕輪から放たれ、次の瞬間には、ブランの手に刃から柄まで全てが白銀に輝く武器が握られていた。槍を思わせる長い柄を持つが、女神ユーリスの十字を模した先端からは、二枚の刃が微かな弧を描いて伸びている。その形は奇怪ではあるが――罪人の首を刈り取る「処刑鎌」のように、見えた。
「女神の剣! アンタ、まさか……」
チェインが驚愕の声を上げる。それに対し、ブランは余裕の笑みを崩すことなく、鎌を構えて普段と何も変わらぬ口調で言い放つ。
「そ。俺様は女神ユーリスから剣を受けし『虚絶ち』第五番、セイル・フレイザー」
虚絶ち。
話には聞いたことがある。楽園の平和を守るために、表舞台で活躍するのが神聖騎士。影で異端を狩るのが影追い。その影追いの中でも、女神ユーリスに直接会うことを許された特殊部隊があるという。その名も『虚絶ち』。虚妄を絶ち切るための銀の剣を手に、神殿の影追いたちにすら知られることなく暗躍する存在――
まさか、ブランがその虚絶ちだったというのか。
「異端研究者が神殿の虚絶ちだなんて、何かの冗談じゃねえのか?」
浮き上がろうとするセイルの意識を頭の上から押さえつけつつ、ディスが左手の刃を構えて問う。ブランはけらけらと笑って、両手で自らが『アワリティア』と呼んだ鎌を握りこむ。
「あら、魔道機関学者セイル・フレイザーは異端なんかじゃないわよ……って詭弁はともかく。女神ユーリスとしても、『エメス』の規模の拡大を受けて、立場を超えて力のある奴を抱え込みたかったんだろ」
異端の俺様にしてみりゃとても素敵なお話よねえ、とブランは笑顔のままにディスに鎌を突きつける。
「さて、ここで『ディスコード』様の実力を見せつけてみる?」
ディスはぎり、と歯噛みしながらも、ブランにかかっていこうとはしない。セイルは何とか自分を縛り付けるディスの意識を払いのけようと頭の中で暴れる。
出せ、ここから出せ。シュンランが危ないのに、何故黙っていられるんだ。ブランの裏切りを許せるわけない。神殿が何だ、『エメス』のおかしな連中相手に戦ってきた自分たちなのだから、負けるわけないじゃないか。ディスが行かないなら、自分がやる。
――だからここから出せよ、ディス!
叫ぶセイルの声が、聞こえなかったはずはない。だが、ディスは動かない。銀の瞳でブランを睨み付け、言い放つ。
「……聞かせろ。何故今になって動いた」
「わからないか? ガキんちょならともかく『ディスコード』、お前ならわかると思ったんだが」
「はっ、手前が神殿に直通で繋がってたってのは、予想外だったが」
ディスは言って、ぐっと右手を握り締める。あまりに強く握りこんだせいか、手に痛みが走る。それでも、ディスは動こうとはしない。頭の中で嵐のように荒れ狂うセイルの意識を、なおも押さえ込みながら言葉を続ける。
「それでも、手前はいつか、その決断を下すだろうとは思ってた」
ブランはくくっと愉快そうに笑う。ディスの首を刈ろうとする鎌の構えこそ、そのままで。
「それで、お前はどうするんだ? 『ディスコード』 」
「俺は剣で、使い手の刃だ。本来ならセイルに委ねるべきなんだろうな。だが……ここでセイルまで失うわけには、いかねえ」
言って、ディスは左手の刃を消した。ブランは少しだけ意外そうな表情をしたが、やがて苦笑した。そこには、何故か素直な賞賛の色が見えた。
「冷静だな、ディス」
「手前のおかげでな」
「ま、安心しろ。嬢ちゃんを神殿に保護した後は、手前を迎えに来るから」
安心? 何を安心と呼んでいるのだろうか、この男は。
安心など出来るはずもない。神殿に入れられてしまえば、シュンランは二度と兄に会うことが出来なくなる。望みも叶えられないままに、延々とただ生きているだけなんて、そんなことシュンランは望んでなどいない!
そう、自分だって望んでなんかいないのだ!
ディスは何をしている、このままではブランが逃げてしまう。シュンランは連れ去られて、二度と会えなくなってしまう! なのに、なのに……!
「……そうだ、逃がすんだよ」
ディスは、今度こそセイルに向けて言った。
「逃がすんだ。今は」
その声は、高ぶる感情を無理やり押さえ込んだ、低く掠れたものだった。
だが、ディスが何を考えているかなんて、今はどうでもいい。このままでは、シュンランは行ってしまう。遥か遠く、自分の手の届かない場所に。
ブランもディスに戦意が無いことを確かめて満足したのか、手に握っていた鎌を再び腕輪の形に戻す。そして、立ち尽くしていたチェインに声をかける。
「影追い第四六二七番、保護を手伝ってもらえるな?」
チェインは微かに俯いてブランの声を聞いていたが、やがてゆっくりと顔を上げる。そして、きっぱりとこう告げた。
「その言葉には、従えないよ」
これには、セイルも驚いて一瞬抵抗を止める。ブランにとっても意外だったのだろう、やれやれとばかりに溜息をつく。
「困ったことを言うな、姐御は。それがお前さんの『今の任務』だろ」
「やっぱり知ってたんだね。私の任務がシュンランの監視から保護に移ったこと」
――やはりか。ディスが小さく呟く。
先ほど、チェインがセイルに問うてきたことは、全て実行に移すべきことだったのだ。しかし、チェインは自分に課せられた全てをはねつけ、背筋を伸ばしてブランを睨みつける。
ブランはへらへら笑いながらも、真っ直ぐにチェインの視線を受け止める。
「知ってるさ。だから、これは明確な命令違反だぜ。下手をすれば、影追いとしての立場も追われる。それでもいいのか?」
ブランの問いに、チェインは微かな冷笑すらも伴わせて言い放つ。
「私が何故影追いになったか知っていれば、私の答えもわかるでしょう、ブラン・リーワード」
「……オーケイ、本気なのはわかった。ま、俺様としては嬢ちゃんの身柄が確保できりゃいいから、勝手にしな」
周りの騎士たちがざわめくが、ブランは彼らを一睨みで黙らせた。笑顔ながらもその視線は変わることのない氷点下だ、ブラン、セイル・フレイザーをよく知らない者なら、尚更恐怖を覚えてしかるべきだ。
ただ、一人だけ。ブランの視線を受けても表情一つ変えなかったのが、気絶するシュンランの体を大切そうに抱きとめていた騎士の女だった。女は鮮やかな金色の髪を雨に濡らしながら、硬い声で言った。
「話はその辺にしておけ。この少女の身柄を確保するのが先だ」
「はーいはいっと。ライラちゃんってば相変わらずお堅いんだからあ」
ふざけるブランに対し、ライラと呼ばれた女騎士は完全にその言葉を黙殺して、騎士たちにシュンランの体を慎重に運ぶよう命令する。ブランもまた、それについてセイルたちから離れていこうとするが……
セイルは『返せ!』と吼えて、なおもしつこく押さえつけてくるディスをやっとのことで振り切って駆け出した。
「言うこと聞けよ、『ディスコード』!」
言って、右手を振りかざす。ディスが反対するのにも構わず、『ディスコード』の刃を自力で組み上げる。それは、ディスがいつも出しているような短くも鋭い刃ではなく、上手く形にもなっていない、とても無骨な刃になってしまっていたけれど。
それでも構わない、ブランを切り伏せて、この騎士たちも切り倒してシュンランを取り戻すのだ。
チェインの制止の声が聞こえた気がするけれど、何故止めるのかわからない。驚きの声を上げる騎士たちに向かって、剣を振り下ろそうとして、
銀色の光が、セイルの刃をあらぬ方向に逸らした。
力で無理やり逸らされたのではない、セイルの力に合わせて放たれた一撃が、まるで見えない糸でセイルの腕を操るかのように、軽く刃をはじいたのだ。
何が起こったのか判断できずに銀の瞳を丸くするセイルだったが、次の瞬間横を走り抜ける影を認識するのと同時に後頭部を襲った鋭い痛みに、耐え切れず地面に倒れこむ。
霞む目を上げれば、先ほどまで徒手だったライラという女騎士が、倒れこんだセイルを冷たく見下ろしていた。槍は、先ほどブランが見せた『アワリティア』と同様、柄から刃まで、全てが白銀に輝いていた。
この女も、騎士の姿こそしているが、ブランと同様虚絶ちの一員だったのかもしれない。
だが、セイルはそれよりも、何とか立ち上がろうと全身に力を込める。頭はじんじん痛むが、まだ行けるはずだ――
見下ろす女騎士が、微かに表情を歪める。セイルにまだ戦意が残っていることに気づいたのかもしれない。だが、遅い。セイルは地面に手をつき、ライラに飛びかかろうと体のばねを伸ばそうとするが、その直前に何かが腕に絡みついて、セイルを再び地面へと縫い付けた。
見なくても、わかる。体に触れる冷たい感触、締め付ける銀の連環。セイルはそちらに視線を向けることも出来ないままに、泥だらけになりながら叫んだ。
「何で……何で止めるんだよ、チェイン!」
チェインは答えない。無言で、セイルを地面に縫いとめ続ける。
その間にも、女騎士はセイルから離れていく。そして、この一瞬の攻防の間に、ブランはシュンランを連れた騎士たちと共に雨の奥、港に泊まる巨大な白い船の中へ消えていこうとしていた。
「ブラン! 何で、何でだよ……」
セイルの声に、ブランは軽い調子で、背中を向けたまま手を振るばかり。これだけ見れば、普段と何も変わらない、何も変わらないだけに、セイルは体に食い込む鎖にも構わず顔を起こして叫ぶ。
「答えろよ、ブラン――!」
しかし、ブランは振り返らない。
雨の向こうに裏切り者の姿が掻き消え、全てが雨の音に隠されても。
白い船に火が入る音が響いても。
セイルはただ、叫び続けた。
叫ぶことしか、出来なかった。
空色少年物語