「それでも、助けられないかな」
セイルは、パイを半分ほど平らげた皿を見つめて、口を開いた。全員の視線がこちらに向けられるのが、わかる。緊張しながらも、顔を上げて。全員の瞳を受け止めながら、セイルは背筋を伸ばして言葉を紡ぐ。
「リステリーアさんが望んでないかもしれない、ってのはわかったよ。でもさ、危険だってわかってるのに放っておくのは、何だろう、やっぱり違う気がするんだ」
――もちろん、自分に何が出来るってわけじゃないけれど。
セイルは口の中で言って、俯いた。
言っているうちに、自分は何てわがままなことを言っているのだろう、と思ってしまったのだ。思うことは、誰だって出来る。思うことだけならば。だが、それをどのように実行すればいいのかなど、セイルにはわからないのだ。
そう思うと、声も萎む。
すると、ブランが「はっ」と息を吐いて笑った。
「ガキが生意気なことを言いやがる」
セイルの言葉全てを笑い飛ばすような冷たい響き。それがまたセイルには胸を刺すような痛みをもたらしたが、次の瞬間にブランはセイルが思いもしない言葉を放った。
「だが、俺様もガキんちょと同意見ではある」
全員が、まさかブランがそう言い出すとは思わなかったのだろう、ブランの方を見た。同席する老女だけが、目を閉じたままにこにこと微笑みながらセイルたちの会話を聞いている。
ブランは手にしたフォークを揺らして、笑いながらも鋭い目を細める。
「ま、ガキんちょと全く同じことを考えてるってわけじゃあねえと思うが、リステちゃんを放っておけないってのは事実。一応、リステちゃんを逃がす方策も無いわけじゃねえが……」
それを実行するには、リステリーアの同意が必ず無ければならない。
ブランはそのようなことを言って、微かに笑みを歪めた。どうにせよ、もう一度彼女ときちんと話が出来なければこちらも動けないということなのだろう。
チェインが複雑な表情でブランを見やった。セイルも、何となくもやもやする心を抱えてブランを見ることしか出来ない。シュンランだけは、手元の人形と何やら小さな声で話しているようだったけれど。
この、どうにも停滞した空気を破ったのは、今まで黙って四人の話を聞いていた老女だった。
「それならば、とりあえず一日こちらに泊まってはいかがでしょう? 一晩経てば、きっとリステさんも落ち着かれるでしょうし、その間に私の方でもリステさんが無事でいられる方法を考えておきますよ」
「……いいのですか?」
チェインが驚きの表情で問うと、老女はにっこり微笑んだ。
「ええ。その代わりと言っては何ですが、あなた方のお話を聞かせてくださいな。リステさんにも色々なお話を伺いましたが、やはり人とお話をするのは楽しいことですから」
「ま、そりゃ別に構わねえけど……その前に婆さん、アンタのことを全然聞いてなかったけど、名前は何つうの?」
「名前、ですか。最近めっきり呼ばれなくなってしまいましたから、忘れてしまいましたね」
老女は「ふふ」とおかしそうに笑う。問いを投げかけたブランは少しだけ呆気に取られたようだったが、「じゃさ、もう一つ聞かせてよ」と壁の人形を指す。
「婆さん、目が見えてないのによくここまで精巧な人形を作れんな。これ、全部婆さんの作なんだろ?」
セイルは思わず老女とブランを交互に見やった。老女は確かにほとんど目を閉じてしまっているけれど、手元のカップを手探りする様子もなかったし、セイルたちの位置もきちんと認識しているように見える。目が「悪い」というならわかるが、「見えていない」と断じたブランの言葉に違和を覚えるのも当然だ。
しかし、ブランの言葉を否定することもなく、老女はゆったりと微笑んでティーカップを両手に持つ。
「目が見えないからこそ、『見える』ものもあります。私は、それを形にするだけですよ」
「お婆さんには、何が見えているですか?」
シュンランが、人形の手を取って遊びながら言う。セイルが気づいていない間に、あんなに暴れていた人形がシュンランに懐いているかのような動きになっていたのが何ともおかしかった。老女は「そうですねえ」と少し考えるような仕草をした上で、答えた。
「例えば、あなたの心の色」
「こころの、いろ?」
「私は、生まれつき盲だったわけではありませんから、『色』がどのようなものかは知っています。そして、人は一人ひとり、自分だけの『色』を持っているのですよ。その人自身は気づいていませんけどね」
それを使って、占いのようなことをしていた時期もあったのですよ、と老女は言う。思い返してみれば、村の人も「大魔道士様は人の未来が見える」と言っていた気がする。それを言ってみると、老女はまたおかしそうに笑った。
「私には未来など見えませんよ。その人の『色』から、その人が歩もうとする道を空想するだけ。そちらの方が持つ『アーレス』は、確かに『未来を見る』能力ですけどね」
「……っ」
ブランが笑顔を凍らせて、あからさまに息を飲んだ。老女は子供のような微笑みをブランに向ける。
「驚きましたか?」
「はは……や、まさか『見てない』のに言われるとは思ってなかったからさ。何でわかった?」
「あなたと同じ瞳を持った人に何人かお会いしたことがあります。あなたは彼らとよく似た『色』をしていますよ」
それを、あなた方にわかるよう説明するのは少し難しいのですが、と老女は言った。
自分が見えているものを説明するだけでも難しいのだ、ましてや『自分に見えていて相手に見えていないもの』を説明するのはもっと難しいに違いない。ただ、この老女の言葉だけ取っても老女が本当にセイルたちには見えていないものを『見ている』ことは間違いなかった。
シュンランは俄然老女の言葉に興味を引かれたのか、身を乗り出すようにして問いを投げかける。
「それでは、わたしの心はどのような色をしていますか?」
「あなたの色は、綺麗な青色ですよ。青空の色、と言うのが一番正しいかもしれません」
「青空の、色、ですか?」
「ええ、曇一つない、絵に描いたような青空」
それは恐ろしいくらいに、吸い込まれそうな青を湛えている。老女はそう言って、シュンランを見た。見た、と言っても実際には顔を向けただけで、その目は閉ざされたままだったけれど。
「あなたに言えることは何一つありませんね。あなたの行く先に何があろうとも、あなたはきっと揺るぎません。その曇りない青空が、あなたを確かに導いてくれるから」
「青空が、わたしを……」
シュンランは老女の言葉を繰り返し、唇に指を当てて沈黙した。何か、思うところがあったのかもしれないけれど……それは、セイルにはわからない。
それでも、シュンランの心が青空の色を湛えている、というのは言い得ていると思った。どんなことがあろうとも、シュンランは前を見据えて笑顔を絶やさない。それはさながら、光を満たした青い空のように。
話半分といった態度で聞いていたチェインも、「面白いね」と言って自分はどう見えるのかと問うた。老女は少しだけ考えるような仕草を見せてから、ぽつりと言った。
「あなたの色は、炎の赤。しかし猛々しく燃える炎ではありません。まるで、冬の闇に灯った埋み火のよう」
火は人に温もりを与えるけれど、一歩間違えばその命を奪うほどの力がある。
そう老女は言い置いて、チェインを見る。
「あなたはとても優しい人。きっと、その優しさがあなたの心に現れているのですね。あなたには譲れぬ強い思いがあるけれど、その思いが全てを焼き尽くさないように、と願ってもいる」
老女は何一つ、具体的なことを言わなかったけれど……チェインには、その意味がわかったのだと思う。微かに、表情を歪めた。それは、怒りのようにも悲しみのようにも見える、複雑な表情だった。
チェインの中に灯る炎の色は復讐の色であり、同時にチェインの持つ温もりでもあったのかもしれない。初めは恐ろしかったけれど、言葉を交わすたびに、チェインがとても優しい人だということはセイルにもわかってきていたから。
それにしても、不思議な力だ。実際にはどのように見えているのかわからないといえ、このように人の心に抱いているものを言い当ててしまう、ということがセイルには不思議で、恐ろしくて、けれどとても惹きつけられるものがあった。
ならば、自分はどう見えているだろう……
それを問おうと口を開こうとした時、ブランが席を立った。セイルが「どうしたの?」と聞くと、ブランはにやにやと笑顔を浮かべたまま言った。
「何、聞きたいことは聞けたしな。ちょいと外の空気を吸ってくるだけよん」
ひらひらと手を振って、部屋を出て行った。
呆然と、セイルはその背中を視線で追って……
「……逃げた?」
素直に思ったことを言葉にした。すると、老女がおかしそうに笑って言った。
「それを彼に直接言ってはダメですよ。しかし、おそらくそうでしょうね」
それから、老女は笑いを引っ込めブランが去っていった扉の方に顔を向ける。
「彼は己を心得ているのでしょう。心得ているからこそ、暴かれることを望まない」
暴かれることを恐れている、と言ってもいいかもしれません。
老女は言って、少しだけ苦笑のようなものを口の端に上らせた。その表情の意味をセイルは測りかねて、問うてみる。
「ブランのことは、どう見えてるんですか?」
「それは彼が望まない以上、私の口からは言えません。けれどよく見ていれば、自ずと理解できるでしょう。彼はとても、不器用な方のようですからね」
不器用、という言葉はブランに限っては似合わないものだ。自らを天才と称するあの男は何に対しても余裕を崩そうとはしない。セイルが不可能だ、と思うことも笑いながら軽く実行してみせるような男だ。そして、その笑顔の裏に何があるのか、未だにセイルには掴めずにいる。
ただ、その反面老女の言うことも、わかるような気がした。何故、そう思ってしまうのかは自分自身でもよくわからなかったけれど。
とりあえず、ブランの話はブラン自身の問題と自分に言い聞かせて、セイルははじめに聞こうとしていたことを老女に問う。
「それじゃあ、その……俺のことはどう見えていますか?」
老女はセイルの方に顔を向けた。シュンランやチェインに対していた時とは違い、答えが彼女の口から放たれるまでに、しばしの時間があった。そのしばしの時間が、セイルを否応無く緊張させる。
やがて、老女はゆっくりと口を開いた。
「あなたの中には、あなたのものともう一つ、違う心の色がたゆたっていますね」
もう一つの心の色……ディスのことだ。
セイルはそっと、左の手を握る。まだ、ディスの声は聞こえないけれど、自分の中にディスがいるのだということは確かにわかる。
「あなた自身の心の色は、とても不安定。そうですね、そちらの子が絵に描いたような青空ならば、あなたの心は変わりやすい空模様」
空は常にその色を変え、見せる表情を変える。セイルの心は、まさしく現実の空模様そのものだと老女は言う。
「あなたは、いつもどこかに不安を抱いていますね。それが、あなたの心の色を曇らせる要因かもしれません」
確かに、そうかもしれない。
セイルはぎゅっと胸元を掴む。不安なことはいくらだってある。シュンランのこと、兄のこと。自分はここにいていいのか、自分に何が為せるのかと考え続けているが、答えは出ない。今この瞬間にはディスの声が聞こえないだけに、尚更その思いは深まるばかりだ。
こんな思いを抱えていては、心が晴れるはずもない。けれど、考えずにはいられないではないか。
すると、老女はほんの少しだけ微笑んでセイルに手を差し伸べた。一体、何をしようというのかもわからなかったけれど、セイルは手を伸ばして老女の枯れ枝のような手をそっと握った。
老女の手は、見た目とは違い、優しい温もりがあった。
「迷い、悩むことは悪ではありませんよ……きっと、今のあなたはまだ指針を見つけていないだけ」
限りない空の一点を示す星、自らの進む道を指し示すもの。
それはきっと遠くない未来に見つかり、その時にはあなたの空も晴れるでしょう、と老女は言って微かに瞼を開き、セイルを盲いた目で見た。老女の盲いた瞳は大樹の幹のような色をしていた。
「だからそれまでは、あなたの中のもう一つの心を、よく見つめるといいですよ」
「もう一つの、心を?」
「あなたの色が空の色なら、もう一つの心は海の色。遠浅の海、空を映す鏡」
呪文のように、歌のように。
老女はセイルの手をそっと握り返して言葉を紡ぐ。
「あなたの心が曇り、雨を降らせるならば、海も荒れ狂います。しかし、あなたの心が晴れた時には、海も光を含んだ鮮やかな青色を見せるでしょう」
老女の言葉の一つ一つが、セイルの心に沁みた。
「……ディス」
思わず、セイルは呟いていた。
老女は、ディスの存在を知っているとは思わない。けれど、その言葉に誤りはないとセイルは感じていた。
セイルが迷えばディスは苛立ち、間違った道を選び取ろうとすれば、乱暴な言葉でセイルを叱責する。だが、ディスの言葉は何も理不尽なものではなく、セイルのことを案じているだけだということは、セイルも理解し始めていた。
ならば、いつか。
この心が晴れる日には、ディスも、笑ってくれるだろうか。
今は問いに対する答えも返ってはこない。もし問うたとしても「馬鹿なこと言うんじゃねえよ」と一蹴されて終わりだと思う。常に眉根を寄せ、珍しく笑ったと思えば人を小馬鹿にするよう笑い方をするディスの「心からの笑顔」というのが、ちょっと想像しがたいのも確かだ。
ぐるぐると巡る色んな思いを抱えたまま呆然とするセイルに対し、老女はにっこりと微笑を投げかける。
「難しく考えすぎないでくださいな。占いは当たるも八卦、当たらぬも八卦です」
「け、けど」
こんなに、はっきりと自分の心を言い当てられてしまっては、単なる「占い」と言うわけにもいくまい。セイルがそう言おうとした時、廊下の方に気配が生まれた。
リステリーアが、廊下からこちらの様子を伺っていたのだ。老女はそこにリステリーアがいることに気づいていたのか、セイルの手を離してリステリーアの方に顔を向けた。
「あら、リステさん。お帰りなさい」
リステリーアはどうやら落ち着いたのだろう、「先ほどは見苦しいところを見せて申し訳ありません」とセイルたちに向かって頭を下げた。そうして顔を上げた彼女の瞳には、先ほどには無かった意志の光が宿っていた。
そして、リステリーアは「 『エメス』について知っていることを話す」と、きっぱりと言った。
先ほどあれだけブランの要請を拒絶したリステリーアが、何故こうも簡単に言葉を翻したのかセイルは不思議で仕方なかった。チェインも不審げに目を細めて問う。
「どういう風の吹き回し?」
「危険を承知でここまで来たあなた方を無下に追い返すのは、失礼に値すると思ったのよ。それに」
リステリーアは微かに目を伏せて、セイルたちにぎりぎり聞こえるかのような声で小さく呟く。
「私が知っていることは確かに多くない。あなた方に話しても何も変わらないかもしれないけれど……それでも、もし、ノーグ様を止められるなら、止めてほしい。そう、思ってしまったのよ」
言って、ぎゅっと自らの体を抱く。そこに浮かぶ表情は確かな不安だった。おそらくは、その不安がリステリーアを駆り立てここまで連れてきたに違いない。だが、チェインはそんなリステリーアをじっと見据え、それからきっぱりと言った。
「悪いけれど、リステリーア・ヴィオレ。私は、影追いとしてアンタの話を簡単に信じるわけにはいかない。アンタがここにいるのが罠でないって証拠も無いしね」
リステリーアも、表情こそ不安をあらわにしていたが、紫の瞳は真っ直ぐにチェインを見据えていた。ただ、リステリーアはどう自らの身の潔白を証明すればいいのかわからなかったのだろう、唇を噛んだだけだった。
「けどさ」
チェインはそう言って、視線に宿した棘を不意に消す。
「話を聞かせてくれるというなら、是非お願いするよ。正直、私にとってもアンタの話が頼りなんだ。これは影追いとしてじゃなくて私個人の感情だけど、この場ではそれを優先させてもらう」
リステリーアは目を白黒させてチェインを見ていたが、やがてほんの少しだけ……笑った。
「 『連環の聖女』……ノーグ様に迫るためなら手段を選ばないと聞いていたけれど、誇張ではないのね」
そう呟くリステリーアは笑顔ではあったが、少しだけ寂しそうな表情でもあった。彼女の胸にどのような感情がしまわれているのか、それはセイルにはわからない。
詳しい話は夕食を食べながらにしませんか、という老女の勧めもあり、リステリーアはすぐに夕食の支度に取り掛かった。セイルたちも彼女を手伝い、そのうちに何処に行っていたのかわからなかったブランがふらふらと帰ってきた。
ブランはリステリーアを見て何事かを言おうとしたようだが、黙ったまま首を横に振り、自分の席に戻った。セイルは不思議に思い、ブランに問いかけてみる。
「……ブラン、何か言わないの?」
「や、せっかく話す気になったみたいなのに、余計なこと言っちゃまずいかなーと思って」
俺様デリカシー欠けてるからねえ、と他人事のように言って、ブランは人数分のコップに水差しから水を注いだ。チェインが睨むような視線を送っているように見えたが、ブランは気にした様子も無かった。
さしたる時間もかからずに、夕餉の準備は整った。
セイルたちはユーリスへの祈りを捧げ……リステリーアだけは、祈りを拒否したけれど……各々のペースで食事を始めた。
そして、その中で、静かにリステリーアが口を開いた。
空色少年物語