足元の人形が『こっち、こっち』と囁く声を聞きながら、セイルはこれ以上何も余計なことを考えないようにしながら歩み続ける。
すると、木々が途絶えて目の前に可愛らしい家が現れた。まるで絵本の世界から飛び出してきたかのような、おもちゃを思わせる木造の家だ。赤茶色の屋根を見る限り、これが先ほど森の奥に見えていたものらしいが……
『あるじさま、客人です』
扉の前でぴょこぴょこ飛び跳ねる人形たち。その声はとても小さかったが、扉の向こうにいる誰かはその声に気づいたのだろう。「はい、どなたでしょう」という声と共に、ゆっくりと扉が開く。
その向こうにいたのは、一人の女性だった。
つややかな黒髪を長く伸ばした女は、扉を開いたその瞬間の姿勢のまま限りなく黒に近い紫の瞳を見開き、呆気にとられたようにセイルたちを見た。年の頃は、二十代後半から三十代の前半くらいだろうか。特筆するほどに美しい顔をしているわけではないが、意志の強そうな目鼻立ちをしている。
この人が、村で「大魔道士」と呼ばれていた人なのだろうか、とセイルも呆然と女を見上げていると、セイルの背後に立っていたブランが小さく呟いた。
「リステリーア・ヴィオレ……やっぱり、ここにいたのか」
「この人が?」
セイルはブランを振り向いた。ブランはいつもと変わらぬ笑顔のまま、凍れる視線を女に向けていた。リステリーアと呼ばれた女はさっと表情を堅くして、ブランを睨み付ける。
「何者? まさか、私を」
それ以上の言葉はリステリーアの口から放たれることは無かったが、辺りにぴんと張り詰めた空気が流れる。自分たちは『エメス』の追手ではない、ということをセイルが伝えようとした時、今度は家の中から声が聞こえてきた。
「どうかしましたか、リステさん。お客様ですか?」
柔らかな女性の声に、リステリーアも微かに緊張の糸を緩めたようだった。それと同時に、セイルの足元に纏わり着いていた人形たちが『あるじさま』と声を合わせてリステの足元をすり抜けて家の中に駆け込んだ。シュンランが抱いている人形はなおもじたばたするだけで、シュンランの腕から逃れることは出来なかったが。
リステリーアは、視線だけはセイルたち……というよりも自分の名を呼んだブランから外そうとはせず、セイルたちからは見えない位置にいるらしい、家の中の人物に呼びかける。
「私への客のようです、お気になさらず……」
「あらあら、そうですか。立ち話も何でしょう、こちらへお招きいたしませんか? ちょうどパイも焼けたところですしね」
家の中の人物は、リステリーアの緊張に気づかないのか、あくまでのんびりした口調で語りかけてくる。リステリーアはどうしていいか一瞬判断が出来なかったのだろう、家の中に視線を投げかけてから、ブランに再び視線を戻す。
ブランはひらひらと両手を挙げて、武器を取っていないことを示してみせる。
「こちらにお前さんを害する意志はないわよ、リステちゃん。俺様はブラン・リーワード、異端研究者だ。お前さんに協力を求めに来た」
ブランは単刀直入に言った。リステリーアはブランの名を知っていたのだろう、微かに驚きの表情を浮かべてみせる。
「あなたが、『魔弾の射手』ブラン・リーワード……?」
「そ。とりあえず中に入れてくんねえ? 実は『エメス』の連中がそこまで来てる、立ち話はお前さんの利にもならんわよ」
リステリーアはブランをしばし睨めつけていたが、ブランの言葉をとりあえず信用することにしたのだろう、「どうぞ」と家の中に招いてくれた。
家の中は、柔らかな光に満ちていた。魔法光の青白い光でないから、魔法で火を起こしてそれを明かりとしているようだ。そこかしこに、火を入れた丸い形のランプが揺れている。
そして、セイルを驚かせたのは、部屋の壁一面に立てかけられた無数の人形だった。魔法の教本に書かれているような木造の人形や、人間と見まごうほどの精巧な顔立ちをした人形。それに、兎や猫といった動物を模った作り物もある。それらは命令の魔法を施されていないのだろう、静かにそこに佇むばかり。
きぃ、という音が聞こえてそちらを見れば、部屋の真ん中にあるテーブルを挟んだ向こうに、車椅子に座った小さな老女がいた。目を伏せ柔らかな微笑を浮かべた老女はリステリーアに車椅子を押されてテーブルにつくと、「どうぞ、座ってくださいな」と柔らかながらよく通る声で言った。
テーブルの上には、焼けたばかりらしいパイの皿があり、リステリーアが取り皿と茶を持ってくると言って奥に下がった。ブランはテーブルの上を一瞥し、老女に向かって言う。
「おもてなしは嬉しいけど、俺様たち急いでんだよね。のんびりしてると、変な奴らが上がりこんで来るかもしれねえんだが」
「大丈夫ですよ。あの方々がここまで来るには、もう少し時間がかかりますから」
老女はきっぱりと言い切った。その言葉はセイルを驚かせたし、ブランにとっても意外だったのだろう、露骨に驚きをあらわにした。
「わかんのか?」
「この森のことなら手に取るようにわかります。人形たちが私に伝えてくれますし、あの方々でもすぐにはあの子たちは倒せませんよ」
くすくす、とおかしそうに老女は笑う。あの子たち、というのはきっと木の上に見えた蜘蛛たちのことに違いない。チェインは小さな椅子に腰掛けながら、老女に語りかける。
「それではあなたが、この森の『大魔道士』ですか」
「村の方はそう呼ぶようですね。けれど、私はただの人形遣いです。『大魔道士』などという大層なものでもありませんよ」
『人形遣い』というのは魔道士の中でも、ゴーレムなどの作り物を操る命令魔法を専門とした者のことだ。それに対し人形を「操る」のでなく「作る」ことに特化した者は『人形師』と呼ばれる。もっとも、大体の人形遣いは人形師も兼ねているものだ、とセイルは兄から聞かされたことがある。この老女もおそらくそうなのだろう。
「これだけの広範囲に無数のゴーレムを配備して、その全てを一人で操る。それほどの使い手は、楽園広しといえどそうそういませんよ」
チェインの言葉には、感嘆と微かな畏怖の響きがあった。魔法を使えないセイルは単に「すごい」としか思えないが、実際に魔法を扱う者、特に専門的な知識を持つらしいチェインから見れば一種の脅威であるのかもしれなかった。
「この子も、あなたが作ったですか?」
椅子に座ったシュンランは、今の今まで抱えていた人形を持ち上げてみせる。老女は目は閉ざしたままで笑みを向ける。
「ええ、この子たちは独りだった頃に話し相手に作ったものですよ。もちろんお人形ですから、人と同じように考えたりすることは出来ませんけどね」
「よく出来てるです。可愛いですよ」
「ふふ、ありがとうございます」
老女はまるで少女のように無邪気に微笑んだ。その表情といい仕草といい、可愛らしいお婆さんだとセイルは思う。森の中に閉じこもっている『大魔道士』と聞いたからもっと恐ろしい人を想像していたけれど、見る限り優しい人のように見える。
そうしているうちに、リステリーアが戻ってきた。湯気を立てる紅茶のカップを各々の前に起き、パイを切り分けると自らは老女の横に座った。老女は「ありがとうございます、リステさん」と丁寧に頭を下げ、改めてセイルたちに向き直った。
「ええと、それでリステさんに御用とのことですが、まずはあなた方のことをお伺いしてよろしいですか?」
「ああ。俺様はブラン・リーワードという。無所属の異端研究者で『エメス』の頭を追ってる」
「ブラン!」
真っ先に己の名と立場を明かしたブランに対し、チェインが叱責の声を上げる。同じ異端であるリステリーアにならともかく、それ以外の者に対して異端であることを明かすのは、本来ならばあってはならないことだ。だがブランは肩を竦めて言う。
「だって婆さんは異端研究者を匿ってんだぜ。ここで隠しても仕方ないでしょうに。それに、この婆さんがんなこと気にするようにも見えんよ」
すると、ころころと老女が笑う。
「あらあら、随分と信頼されてますねえ。私が告げ口をするとも思わないのですか?」
「それこそありえねえな。こんな森の奥で人を遠ざけて暮らす厭世的な婆さんが、わざわざ告げ口して騒ぎを起こしたいと望むかね? 俺らを招いたことはともかく、リステちゃんを匿ってたことがバレりゃいくら『知らなかった』と言っても神殿の連中は婆さんを放ってはおかねえだろうし。違う?」
早口でブランは己の見解を述べる。それを聞いて、老女は満足そうに笑みを深めた。
「違いませんね。あ、私がリステさんを匿っていることは黙っていてくださいね? 私は何も見てませんし聞いていませんでした、ということでお願いします」
いたずらっぽく、老女は唇の前に一本指を立てる。ブランは「請け負った」と愉快そうに答えてみせた。
「話を戻すか。こっちがチェイン……影追い『連環の聖女』だ。リステちゃんも名前くらいはご存知でしょ?」
「ノーグ様の命を狙う不届き者でしょう」
兄の名に『様』をつけるリステリーアの言葉に、セイルはぞっとした。『エメス』の脱走者ということは、兄の下から逃げ出してきたということであるはずだ。そのリステリーアが何故今も『様』をつけて兄を呼ぶのかは理解できなかったのだ。
チェインも同じことを思ったのだろう、セイルの視界の端で確かに眉を寄せた。そして、ちらりとそちらを見たブランもリステリーアの言動に思うところがあったのかもしれないが、その点には言及せずに話を先に進める。
「そいで、こっちが賢者様が狙っている『棺の歌姫』シュンラン、あとそっちの青いガキんちょが『世界樹の鍵』現所有者でノーグの弟、セイル・カーティス」
「弟……?」
リステリーアの視線が、初めて真っ直ぐにセイルを捉えた。シュンランのすみれ色の瞳とはまた違う、深い紫の瞳がセイルの顔を覗き込む。そこには、明らかな戸惑いの色があった。セイルもまた、そうやって見られることに戸惑いを覚え、思わず視線を逸らしてしまう。
「ノーグ様に弟がいるなんて、聞いたことなかったわ」
「ノーグって異端研究者の例に漏れず、その辺は秘密主義だからなあ。ま、『エメス』は奴が世界樹の根元か海の底から生まれたとでも思ってんじゃねえの? リステちゃん、アンタがそうであるようにね」
ノーグであろうとも人の子であることは変わらないのにねえ、とブランは大げさに肩を竦めた。自然とリステリーアの視線がきつくなるが、ブランは構う様子もなく紅茶のカップを手に取り、その中身を舐める。
「んで、だ。俺様たちがここに来た理由はリステちゃんもわかってるよね?」
「私に、ノーグ様の居場所を聞こうというのかしら」
「そこまで教えてくれんなら嬉しいけど。ただ……それに関しては、お前さんに聞いても無駄かも、って気はした」
「どういうことだい」
そう問うたのはチェインだ。もちろん、セイルも全く同じ気持ちだったし、リステリーアさえ首を傾げてしまった。危険を冒してリステリーアに会いに来たのは、とにかく『エメス』の、そして兄の情報を得るためだったはずだ。しかし、ブランはほとんど話を聞かないままに「無駄かも」と言ったのだ。
「俺らを見ても、お前さんは俺らが『誰』なのかがわかんなかった。クラスタ兄弟や道化のティンクルちゃんが、賢者様に俺らの存在を報告しているはずなのに、さ」
それは、ひいてはリステリーアが直接ノーグに接触していないことになる。言外にブランがそう言っているのは、流石のセイルにも理解できた。
「もちろん、研究者のお前さんが俺様やチェインの動向を知らないってのならまだわかる。が、賢者様の側にいたなら『棺の歌姫』や『鍵』の持ち手、ノーグの弟の存在を知らないってのはおかしい。そういうことだ」
リステリーアはぐっと唇を噛んだ。それは、ブランの言葉が図星だということに他ならなかった。ブランはぎっと椅子の背もたれに寄りかかり、足を組む。
「ま、その上でも、お前さんに聞きたいことはいくらでもある。よかったら話してくれねえかなあと思うんだけど」
「……何故、話さなくてはならないの?」
リステリーアは俯いて、低い、微かに震える声で言った。
「あなた方がノーグ様を追っていることはわかったわ。そして、あなた方がノーグ様が望む『棺の歌姫』と『鍵』を握っていることも。けれど、何もかも今の私には関係ない。楽園のあり方も、『エメス』のあり方も否定する私には」
リステリーアは言って立ち上がる。老女が「あら」と不思議そうな顔をして彼女を見上げたが、リステリーアは硬い表情もそのままに老女に向けて頭を下げる。
「自室に戻ります。片付けの方は、後でいたしますので……失礼します」
そのまま、セイルたちに背を向け、奥の部屋に向かおうとする。何か言葉をかけるべきかと思ったが、何を言っていいかわからない。わかるはずもない、セイルはリステリーアのことを何も知らないのだから。
リステリーアの背が遠ざかっていく中、唐突にブランが声を上げた。
「そうやって逃げて何になる、リステリーア」
「……ブラン?」
セイルが思わず声を上げる。ブランは口元の笑みこそそのままだったが、真っ直ぐに氷色の瞳でリステリーアの背中を見据え、言葉を紡ぐ。
「確かに、一人が立ち上がったところで同じかもしれねえ。待ってるのは嘲笑、憐憫、そして大多数の無関心だ。当然、逃げちまった方が楽なのは、俺にもわかる。けどな」
――世界の果てまで逃げることなんて、出来やしないんだ。
ブランは言って、ゆらりと音も無く立ち上がる。
「頼む、協力してくれ、リステリーア・ヴィオレ。俺はどうしても『エメス』と賢者様を止めなきゃならねえ。手遅れになる前に」
「無駄よ」
立ち止まっていたリステリーアはブランに背を向けたまま、きっぱりと言った。
「私が何を言ったところで、もはやあの方の行く手を阻むことなど出来ないわ。ならば、もう逃げるしかないじゃない……!」
もう一度、「失礼します」と言って今度こそリステリーアは部屋の奥へ消えてしまった。ブランは立ち尽くしたまましばしその扉を見つめていたが、やがて「はあ」と大げさに息をついて椅子に座った。
「頑固な奴」
その呟きは、囁くようでいてはっきりとセイルの耳に届いた。
けれど、セイルはその呟きよりも、ブランが先ほど言った言葉が頭の中をぐるぐると巡っていた。
『俺はどうしても、「エメス」と賢者様を止めなきゃならねえ』
それは初めてブランがはっきりと示した、『エメス』と兄に対する姿勢だ。いつも笑みと装飾の多い言葉に霞ませてしまうブランには似合わぬ、酷く真っ直ぐで胸に突き刺さるような響き。
ブラン自身が言ったとおり、決して一人でどうにかなるような話ではない。兄は楽園全てを敵に回し、彼が率いる『エメス』は今や神殿でもその動きを掴みきれない存在になってしまっている。
それを、何故ブランが「止めなければならない」というのか。
聞いてみたくも思ったが、いつもに比べて遥かに硬い笑みを浮かべるブランにそれを問うことは出来なくて。部屋の中には、奇妙な沈黙が流れた。
そして、その沈黙を破ったのはシュンランだった。
「……ブラン、どうするですか? リステリーアはお話をしてくれませんでしたが」
「そうねえ、困った子よねえ、リステちゃんも」
ブランはへらへらと笑いながら言った。それこそ、一瞬前の真剣な表情などさっぱり忘れてしまったかのようだ。それを見て、チェインも肩を落として深く溜息をついてみせた。
「アンタの聞き方が悪いね。あんな聞き方じゃ、誰だって頑なにもなるよ」
「むう、それなら姐御が聞いてくれりゃよかったじゃんよ。俺様、交渉事苦手なんだからさあ」
「苦手なら大人しく黙ってればいいんだよ」
チェインの正論に、ブランはちぇっと舌打ちしてそれきり黙った。と言っても別に機嫌を損ねたようにも見えず、ただ下手糞な鼻歌を歌いながらフォークで手元のパイを切り崩している。ちなみに、崩すだけで一向に口には入れようとしない。
「フォークを入れたら、ちゃんと食べなさい」
それに気づいたチェインがブランに指摘する。ブランは素直に「はーい」と返事をして既にぼろぼろになってしまったパイを口に運び始めた。その一連のやり取りがまるで子供を相手にしているようで、セイルは少しだけ笑ってしまった。それは普段保護者面をしているブランの意外な側面であったからかも、しれない。
「さて……これからどうしようかね」
チェインが窓の外をちらりと見て言った。日は既に暮れかけていた。このままここを出るとしても、夜の森を歩くのは危険だ。いつ、『エメス』のクラスタ兄弟が襲い掛かってくるかもわからないのだ。
セイルたちが頭を悩ませかけたその時、老女がにっこりと微笑んで言った。
「あのお二方なら、先ほど森を出て行きましたよ」
「……本当?」
思わず聞き返すと、老女は「ええ、間違いありません」と自信ありげに言う。森のゴーレム全てを掌握する大魔道士なのだから、おそらくゴーレムの目を通してそれを確認したのだろう、とセイルもワンテンポ遅れて気づいた。
「夜にあの子達と戦うことを避けたのでしょう。また明日になれば来ると思いますが」
「そっか。なら、今のうちに出た方がいいのかなあ」
「しかし、セイル。わたしたちはよいですが、リステリーアはどうするでしょう」
シュンランが、人形を抱いたままぽつりと言った。
そう、あの二人はそもそもリステリーアを追いかけてきたに違いない。その点、セイルたちが自分たちだけ逃げることはさほど難しくないはずだ。だが、今はこの森のゴーレムが二人の足を阻んでいるからいいものの、突破されてしまえばリステリーアは二人に捕らえられてしまうに違いない。
「放っておく……という考え方もあるよ」
静かに、チェインは言った。シュンランは「しかし」と非難の声を上げたが、チェインはそれを遮って淡々と言う。
「彼女自身に任せるという選択肢もあるってことさ。実際、『エメス』を抜けてここまで逃げることが出来たんだ、ここから逃げることだって不可能じゃないと思う」
ただ、それはとても楽天的な物の見方だってことは否定できないけれど。
そう断ってから、チェインははっきりと言った。
「どうにせよ、今の彼女は私たちが協力することも望まないだろうさ。彼女から見れば『恩を売られる』形になるわけだから」
チェインの言うことももっともかもしれない。助けを望んでいない人を助ける、というのは恩の押し売りなのかもしれない、そうセイルも考えずにはいられない。
けれど。けれど。
空色少年物語