『機巧の賢者』ノーグ・カーティスとの通信を追え、キルナ・クラスタは小さな安堵の息と共に通信機の電源を切った。
『棺の歌姫』と呼ばれる少女と、蜃気楼閣が封印していた『世界樹の鍵』――『ディスコード』。この二つを手にすることが出来れば、楽園のあり方を根本的に変えることができる。長らく楽園を縛り続けてきた嘘を暴き、女神を倒して真実を楽園全てに広めることが可能となる。
かつての長の死によって『エメス』の頂点に立った『賢者』はキルナをはじめとした『エメス』の面々にそう説いた。
そして、『歌姫』と『鍵』を求めて『エメス』は蜃気楼閣ドライグを襲撃した。だが、ドライグの抵抗は予想以上のものだった。長き平和の中にあり、戦いを忘れていたと想定されていた蜃気楼閣の守りは堅く、攻めあぐねている間に竜王の血族クラウディオ・ドライグが『歌姫』と『鍵』を蜃気楼閣の外に逃がすことを許してしまった。
しかし、ノーグは焦りを表に出すことなく、それどころか全てを面白がるような微かな笑みと共にキルナと双子の弟であるラグナに、『歌姫』を追い、捕らえろという命令を下し……以来一ヶ月間、キルナは『歌姫』を追い続けていた。
『棺の歌姫』はクラウディオと分断されながらも、空色の髪をした少年……話によれば、ノーグの義理の弟だという……と合流し、今では厄介なことに『エメス』の構成員と何度も争っている穏健派の異端研究者『魔弾の射手』ブラン・リーワードや、『機巧の賢者』の死を誰よりも強く願う影追い『連環の聖女』までを味方につけている。
しかも、戦いに関しては素人と思われていた空色の少年は、『世界樹の鍵』を扱うことのできる楽園でも稀有な『適合者』であり、その力で数度自分たちに抵抗している。
かくしてキルナとラグナは今の今まで、『歌姫』と『鍵』を手に入れることが出来ぬままでいる。ノーグと通信をするたびに、いつ『役立たず』として切り捨てられるかわからないという恐怖がキルナの胸の中に渦巻く。
けれど、今回はまだ切り捨てられたわけではなさそうだ。
今度こそ失敗は許されない。誰よりも現状の楽園を憂い、女神に騙され続けている民を憂う『機巧の賢者』が脳裏に描く『幸福な未来』のためにも、彼の信頼を裏切るような行為は許されないのだ。
「キルナ、賢者様は何だって?」
闇の中で押し殺した声が響く。弟、ラグナの声だ。キルナはラグナから見えないとわかっていながら、少しだけ笑って、言う。
「追加の任務をいただきました。裏切り者、リステリーア・ヴィオレの抹殺です」
「リステリーア・ヴィオレ? あの賢者様大好き女が『エメス』を裏切ったって?」
ラグナの声には微かな動揺があった。それも当然だろう、とキルナは冷静に分析する。
「ええ。彼女がノーグ様を裏切るなどということは無いと、思っていたのですがね」
キルナも、ノーグからその言葉を聞いたときには自分の耳を疑った。そのくらい、リステリーア・ヴィオレという女は『エメス』の根幹に近い場所にいて、『機巧の賢者』ノーグ・カーティスに心酔していた。
それが、何故『エメス』を裏切ることになったのかは……キルナの知る由も無いし、別に知りたいとも思わない。
「残念ですが」
本当は「残念」なんて思ってもいなかったけれど、社交辞令的に言葉を紡ぐ。
「彼女はもはやノーグ様の、『エメス』の敵です。そして、敵でありながら『エメス』について知りすぎている。生きていてもらっては困るということです。わかりますよね、ラグナ?」
キルナは淡々と、闇の中に息を潜める弟に問いかける。ラグナは数秒だけ沈黙してから、ぽつりと呟いた。
「……『抹殺』ってのはやり辛えな」
「殺すのは、嫌ですか? あの空色の少年に対して迷うことなど無かったでしょう」
キルナは意外に思った。『エメス』に属するようになってから、迷うことなく刃を振り続けていた弟が、初めてあからさまに戦うことを忌避したのだ。ラグナは小さく息をついて、言う。
「あのガキは、強え。強い奴と『戦う』のは楽しいに決まってら。けど、抵抗のしようもない奴を『殺す』のはやり辛え」
理解できない。
キルナは思った。
キルナは元より争うことを好まない。杖を振るうのは、全て『エメス』の、そして自らの心を捉えて離すことのない理想の存在、『機巧の賢者』ノーグ・カーティスの意志があってのことだ。
だが、今のラグナは「戦うために」任務を求めているのかもしれない。かつてのラグナを知っているキルナからすれば、その気持ち自体は、全く理解できないわけではない、が。
「それでも任務は任務ですよ、ラグナ。任務をこなすことが出来なければ、あなたも」
「いちいちうるせえな、わかってる。わかってるっつの……っ」
闇の中でラグナは呟き、微かに呻く。キルナは少しだけ眉を寄せ、弟の方に一歩歩み寄る。
「大丈夫ですか、ラグナ?」
「どうってことねえよ。で、リステはどこに逃げたんだ?」
その問いに、キルナは少しだけ答えを躊躇うことになった。
一瞬、かつての、地べたを這いずり回っていた頃の自分を思い出してしまったからだ。弟の手を引き、誰の目も届かないような場所で泣き暮らした自分は、本当に小さくて力のない、醜い子供だった。
だが、今はかつての自分たちではない。キルナは自分の理想の世界を目指すため。ラグナは己の『自由』を追い求めるため、秘密結社『エメス』の扉を叩きここにいるのだから。迷うことなど何一つない、『機巧の賢者』ノーグ・カーティスの背を追っていれば、いつかは彼と同じ『幸福な未来』に辿り着けると信じて。
静かに、しかしはっきりと、キルナは宣言する。
「ライブラ国南西、ウルラの森……あのお方が住む場所ですよ」
空色少年物語