それから、一時間後。
――それにしても、買いすぎじゃなかろうか。
セイルはぎっしりと菓子の詰まった袋を両手に抱え、うんざりした顔を浮かべていた。チェインも明らかに呆れた顔をして、セイルをじっと見つめている。だが、何もセイルが悪いのではない。
「な、何か文句あんのかよ! いくらでも買っていいって言っただろ!」
流石に気まずい空気に気づいたのだろう、セイルの唇を借りて、ディスが喚く。
確かに言った。言ったけれど、限度というものはあるはずだ。そもそも味覚も無いはずのディスが菓子をねだる地点で何だかおかしいというのに、自分で食べきれないほどの菓子を買い占めるなんて、想像できるはずもない。
チェインは諦めたように小さく息をつき、それからくすりと笑った。
「いや、別に悪かないけどね。『世界樹の鍵』が甘いもの好きだなんて、誰も知らないだろうなと思ってね」
「……む」
ディスは小さく唇を尖らせた。からかわれたと思ったのだろう、不機嫌な気配がセイルの方にも伝わってきたけれど、それはすぐに消えた。その代わり、微かに眉を寄せて口の端を歪める。
「その呼び方は止めてくれねえか。『世界樹の鍵』ってのは間違ってねえが正しくもねえ」
「どういうこと?」
チェインの問いに、ディスは声を低くして言った。
「俺が世界樹を制御する兵器だってのは間違ってねえが、そもそも俺は禁忌機巧だ。アンタが思うような、神聖な代物じゃねえ」
「何だって? 『鍵』が禁忌機巧だなんて……」
聞いたことない、というチェインの声は掠れていた。セイルはあらかじめディスから聞いていたし、禁忌に対してそこまでの嫌悪感を持っているわけでもなかったからすんなり受け入れられたが、神殿の聖職者であるチェインには驚きだったに違いない。
だが、ディスはチェインの反応も十分に想定していたのだろう、小さく溜息をついて肩をすくめる。
「神殿は適当な作り話でもでっち上げてんだろうな。上の連中が俺が禁忌の代物だって知らないとは思えんが」
俺のことに限らず、真実を隠すのは今も昔も神殿の得意技だからな、とディスは皮肉を言ってみせる。チェインは複雑な表情でディスを見返すことしかできなかった。
「ま、禁忌だろうがそうでなかろうが、神殿は確保したいだろうよ。何しろ、女神様しか操れないはずの世界樹を操れるわけだからな。『エメス』の手に渡れば、まあろくなことにはならん。たとえ使い手が限定されていたとしても、だ」
まるで他人事のように話すディスだが、その中心はあくまでディス……『ディスコード』自身にある。チェインは唇に指を当て、何かを考えるような素振りを見せた。その間も鋭い視線は真っ直ぐにディスに向けられていて、ディスは見られているのに慣れないのか、すぐに視線を逸らしてしまった。
少しの沈黙の後、チェインは紅色の唇を開く。
「アンタは、セイルの体を使って、何かを成そうとしているのかい?」
ディスは両手の袋を抱えなおして、視線を逸らしたまま言う。
「まさか。俺は剣、それ以上でも以下でもねえ。剣は使い手に従うだけだ」
『ぜ、全然従ってないだろ!』
セイルは思わず叫んでいた。今までのディスの行動を見ている限り、ディスが好き勝手やっているようにしか見えない。時には、セイルの意思に反してその体を乗っ取ることだってあったのだ。
そんなセイルの抗議の声を聞いても、ディスは「はっ」と笑うだけで取り合わない。だがその時、セイルの心の中に、ディスの不思議な思いが伝わってきた。それは、何か言いたげな、しかし喉元で飲み込むようなもの。頭の隅で首を傾げるセイルだったが、ディスはそれを無視して言葉を放つ。
「とにかく、こいつ一人じゃ頼りねえしな。シュンランを連れてくついで、ってやつだ。そんだけ」
早口に言うだけ言って、ディスはそのままセイルの中に潜ってしまった。いきなり体を返されたセイルは目を白黒させるばかりだったが、チェインはしげしげとセイルを見下ろしてから、小さく笑った。
「何だ、案外可愛い奴なんだね」
「可愛い……かなあ」
使い手のセイルからすれば、ちょっと口うるさい同居人というところだから「可愛い」というには程遠い。けれど、チェインはくすくすと笑いながら言う。
「ちょっと素直じゃないけれど、いい奴っぽいじゃないか。まあ、もっと聞きたいことが無いわけじゃないけど、それは後でもいいさ」
「でも、チェインは影追いなんだよね? ディスが禁忌機巧って聞いて、嫌な気分にはならないんだ?」
「言っただろう? 私の姉は異端研究者だったし、私も異端や禁忌を忌み嫌っているわけじゃない。どんなものも、使う者の匙加減じゃないか」
それは、魔法であろうと禁忌だろうと同じ。そう、チェインは言い切った。
「だから、別段『鍵』……いや、ディスを忌む理由もない。神殿が確保しろといえばするけどね、監視でよいと言われた限りは無理にアンタと引き離そうとも思わないさ。アンタが、禁忌たるディスを忌むなら話は別だけどね」
「……俺が、ディスを?」
そういえば、自分はディスが禁忌の兵器であると聞いても、そこで驚いたわけではなかったのだと、思い出す。確かにすごい力を持った兵器であることはわかったけれど、体の中でディスがくだらないことをぶつぶつ呟いているのを聞いているうちに、そんなことはすぐに忘れてしまう。
体の中に潜む禁忌の剣と、その使い手。お互いの関係は側から見れば奇妙かもしれないけれども、出自や形は関係ないとセイルは思う。思いながら、唇を開く。
「そんなことはないよ。俺にとって、ディスは、初めての友達だから」
「友達?」
こういう言い方をすると、ディスは嫌がるだろうか。思いながらも、セイルははにかむように笑う。
「俺、こんな外見だから気味悪がられて、今まで家族以外に話せる相手なんていなかったんだ。でも、ディスはいつも見た目なんて気にしないできちんと俺に向き合ってくれる。そういう相手を友達、って言うんだと俺は思ってる」
「わたしも、友達の仲間に入るですか?」
シュンランがすみれ色の瞳をまん丸くしてセイルの顔を覗き込む。セイルは笑顔でこくりと頷きを返す。
「もちろん、シュンランも大切な友達だよ。だから、辛いことだって色々あるけど、こうやって旅に出たことを後悔したくないんだ。ここにいなきゃ、俺はずっとあの家で塞ぎこんでることしか出来なかったから」
チェインは、目を細めてセイルを見下ろし、それから小さく息をついて「そうかい」と言った。その表情は、笑っているようであったが、微かに鈍い痛みを堪えているようにも見えた。
「アンタは本当にいい子だね。いい子すぎて不安になるよ」
それは、どういうことだろう。
セイルには、チェインがそんな表情をする理由も、その言葉の裏側の意味もわからずに首をかしげて、疑問の言葉を口に出そうとする。だが、その言葉は喉から飛び出す前に降ってきたしゃがれた声に打ち消されることになる。
「あー? 何だ、お前らも外に出てたのか」
そちらを向けば、ひょろりとしたコート姿の影……ブランが立っていた。ブランもちょうど宿に戻るところだったのだろう。手に何も持っていないところを見ると、自分たちのように買い物をしてきた、というわけではないようだが。
「何してたんだい、勝手に出て行ってさ」
「何処で何しようと俺様の勝手でしょうに。ガキじゃねえんだからさあ」
チェインの追及にはいつも通りののらりくらりとした態度で返し、ブランはセイルが持っていた袋の一つを無造作に持ち上げた。
「何だ、これ。菓子?」
「う、うん。ディスが欲しいっていうからさ」
「ははっ、そりゃ傑作だ。剣が菓子食おうってのかよ?」
思い切り笑い飛ばされてディスはセイルの中でむくれる。セイルと同じディスの使い手であるブランはその気配を感じ取ったのだろうか、少しだけ笑みを緩めてセイルの頭をぽんぽんと撫でる。それから、セイルではなく、その銀の瞳の奥に潜むディスに向かって静かに語りかける。
「見失うなよ、『ディスコード』 」
『うるせえ。俺だってガキじゃねえんだ、何を言おうと俺の勝手だろう』
ディスはブランの口ぶりをわざと真似て、しかしふざける風でもなく、はっきりと言った。ブランは一瞬目を丸くして、それからくつくつと笑った。
「ならいいけどねえ。……で、と」
ブランはセイルから視線を外すと長い前髪をかき上げて、シュンランの髪飾りに目を留めて言った。
「それも、買ってきたのか?」
「はい、セイルが選んでくれました。綺麗ですよね?」
シュンランは無邪気に笑い、花を模った髪飾りを示す。すると、ブランは視線をシュンランに合わせるように頭を下げ、短い指先で髪飾りを形作る花弁の一枚を摘み、目を細めて笑った。
「ガキんちょの髪と同じ夏の空色、幸せの色か。いい色だ」
ブランはシュンランとセイルを交互に見て、笑う。セイルは無意識に自分の髪の先端を指先で摘んでいた。
夏の空色、幸せの色――
誰かが、自分の髪の色を眩しそうに見つめて、今のブランと全く同じことを言っていたような気がする。いつ、何処で聞いたものだったかは、覚えていなかったけれど。
そして「夏の空色」という言葉は、かつての記憶と同じように、セイルの心に小さな温もりを生んだ。ブランの言葉が、いつものようなからかうような響きでなく、やけに真っ直ぐなものだったからかもしれない。
ブランの言葉の意味がわからなかったのか、シュンランは首を傾げて問う。
「しあわせのいろ?」
「昔っから、空の青ってのは『幸せ』の象徴なんよ。一説によれば、『手で触れられないけれど、常に側にあるもの』って意味とも言われてるがな、そうでなくとも晴れた空の青ってのは、それだけで気持ちいいもんでしょ?」
ねえ、とチェインに同意を求めるブランだったが、チェインは不機嫌そうに眼鏡の下の空色の瞳でブランをじろりと睨むのみだった。「つれないねえ」とブランはへらへら笑うが、多分それは日ごろの行いのせいだろうとセイルは真面目に思う。
「幸せの、空色……」
そんなブランをよそに、シュンランはその言葉を噛み締めるように数度呟いて、それこそ花が咲くように笑った。
「そうですね。空の色は、幸せです。わたしの幸せです」
その表情に、セイルはどきりとする。
何故だろう。その笑顔が眩しいのはいつものことだったけれど、今この瞬間だけは何故か「懐かしい」と感じてしまった。それは、シュンランの歌を初めて聞いた時の感覚に似ていた。
空色の髪を引っ張る指先に、微かに力をこめる。無意識に。
ブランはそんなシュンランの頭をそっと撫でると、セイルから奪った荷物を片手に宿の扉の前に立つ。
「さて、立ち話も何だし、茶でも飲みながらこれ食おうぜ。少し、話したいこともあるしね」
「話したいこと?」
セイルが首を傾げると、ブランはふっと目を細めた。その目に宿った光が不意に冷たいものになったので、セイルは反射的に背筋を伸ばしてしまう。だが、その冷ややかな光は何もセイルに向けられたものではない、ということは次の瞬間にわかった。
ブランはにやりと薄い唇を歪め、老人のような声を更に低くしながらも、セイルの耳にははっきりと響く声で、言った。
「賢者様の手がかり。聞きてえだろ?」
空色少年物語