母さんへ。
連絡遅くなってごめんなさい。やっと身の周りが落ち着いてきたので手紙を書きます。
今頃、母さんは何をしているでしょうか。無事でいるでしょうか。いつも通りに、温かいスープを作っているでしょうか。
俺とシュンラン……あの白い女の子の名前です……は、何とか隣町に着いたのですが、その後また変な甲冑が襲いかかってきたり、影追いに追われたり、空賊にさらわれたり、本当に色々ありました。
心配しないで下さい、というのは無理だと思いますが、俺もシュンランも無事です。喋るナイフ『ディスコード』が何度も俺のことを助けてくれたからです。
ディスは、口は悪いけれどとても優しい人(取り消し線が引かれ、乱暴な筆跡で「剣」と書き直されている)で、すぐ落ち込みそうになる俺のことを励ましてくれます。
それに、今は俺たちの他に一緒に兄貴を探してくれる人がいます。
俺は元気にやっています。絶対に兄貴を連れて帰るから、心配しないで下さい――
何だかんだで作法にうるさいディスにつつかれながら、拙いながら必死に綴った手紙を自分の名前で締めると、不意に頭の中でディスが溜息混じりに言った。
『それにしても無責任なことを書くな、お前は。生きたノーグを連れて帰れるなんて保障もねえのに』
「ん……でも、こう書くしかないよ」
わかっていないわけではない。仮に兄に出会えたところで、兄の運命を握るのはセイルではなく、異端を狩る影追いであり、兄を恨み続けて生きてきたというチェインだ。わかっていても、何も知らずに家で帰りを待っているだろう母にはこう伝えるしかなかったし、セイル自身がそう信じたい、という思いも少なからずあった。
ディスはもう一度深く溜息をついて『まあお前がそう言うならいいけど』と投げやりに言った。
「セイル、書けましたか?」
不意にシュンランがセイルの手元をひょいとのぞき込む。セイルは「わっ」と慌てて手紙を隠す。別にシュンランにセイルの手紙を読む意図などなかったことくらいセイルにだってわかるが、何となく恥ずかしかったのだ。
シュンランもつられて驚いたのかすみれ色の瞳を丸くしたが、すぐに苦笑を浮かべた。
「隠さなくてもだいじょぶですよ、わたしは読めないです」
「あ……そっか、シュンランって、文字わからないんだっけ」
「はい。簡単な言葉しか知らないです」
記憶喪失のシュンランは、周りが話している言葉すらわからなかったのだという。喋るには不自由しない程度の言葉は教わったけれど、読み書きはほとんど身に付けられないままに、暮らしていた場所から逃げ出してきたはずだ。
ただでさえ、記憶がなくて不安なことばかりのはずなのに、言葉もわからないとなるとどれだけ心細いだろう。セイルは思いが誰にも伝えられない風景を想像して、シュンランに頭を下げた。
「ごめん、俺、無神経だったね」
「いいえ、気にしてないです。しかし、セイルが迷惑でなければ、今度読むことと書くことを教えてもらいたいです」
「で、でも、俺もあんまり言葉は知らないよ。ブランとかに聞いた方がいいんじゃないかな」
慌てて手を振るセイルに対し、シュンランは無邪気に笑う。
「わたしは、セイルに教わりたいです」
え、とセイルは目を丸くする。別に特別な意味も無い、何気ない言葉だけれども。その何気ない一言が嬉しくて、けれども少しだけ気恥ずかしくて。微かに頬が熱くなるのを感じながらも、はにかむように笑って「俺なんかでよければ」と応えた。
シュンランはにっこり微笑むと、セイルの手を取った。
「それでは、手紙を出しにいくのですよね?」
「うん。あ、あとさ」
セイルはシュンランの髪を見た。長く、真珠のような煌めきを宿した白銀の髪。何もしなくとも十分綺麗な髪ではあったけれど――そんなことを思いながら、今度はシュンランの服に目を向ける。
シュンランの服は、今までの白いワンピースやドレスとは全く異なっていた。
チェインがシュンランのために選んでくれたという、船乗りのような大きな紺色の襟を持つ上着に、ぴったりとした短い丈のズボン。動きやすさを重視した服装だが、襟元を飾るスカーフが柔らかなアクセントを添えている。この服を着た時に彼女が言っていた言葉を思い出していた。
「髪飾りが欲しいって言ってたよね。一緒に買いにいこっか」
その言葉を聞いた瞬間、シュンランはぱっと顔を輝かせた。
「わ、ありがとうございます、セイル! 嬉しいです!」
セイルの手を握ったままぶんぶん手を振り、今にも飛び上がらんほどの喜びようだったから、セイルは少しだけ驚いた。いつもふわふわと柔らかく微笑んでいるシュンランだが、こんな風に全身で「嬉しさ」を表現する彼女を見たのは初めてかもしれない。
そんないつもとちょっとだけ違うシュンランを見ることが出来たこともまた嬉しくて、セイルもつられて笑った。
シュンランを連れて、家を飛び出してから色々なことがあった。時に落ち込み、自分の居場所すら見失うこともあった。けれど、今この瞬間は、胸の中に生まれた温かな気持ちが笑顔をくれる。こんな何気ないやり取りではあるけれど、そんな「何気ないやり取り」の余裕すらなかったのだ、と今更ながらに気づく。
この、平穏な時間がいつまで続くかはわからない。ブランは「しばらくは奴らも大人しくしてるでしょ」と笑っていたが、いつ『エメス』の追手が再び目の前に現れるとも限らない。それに、兄が見つかれば、シュンランと一緒にいられる時間も終わり、セイルも一つの覚悟を迫られる。
兄が見つかればいい、そう思いながら、心の奥底では「そうならなければ」とも思ってしまう自分に気づいて、セイルは少しだけ眉を寄せる。
「セイル?」
「ううん、何でもない。行こうか」
小さく首を振って、シュンランの手を少しだけ強く握り返す。そう、今はそのことは考えなくてもいい。今の自分はここで、シュンランの手を握っている。何よりもこの時間を大切にしよう、と心に誓って部屋を出る。
すると。
「何処に行くんだい?」
背後から声をかけられて、セイルはびくりと体を震わせた。恐る恐る振り向けば、そこにはチェインが立っていて、分厚い眼鏡の下から鋭い視線を向けている。別にチェインにこちらを睨もうとする意図は無いのだと思うが、その透き通った青い瞳に見据えられると、思わず体に力が入ってしまう。
そして、チェインもセイルが身を強張らせていることに気づいたのだろう。「何も取って食いやしないよ」と目を細め、苦笑を浮かべる。それで、セイルも少しだけ肩の力を抜いた。
何もチェインが「怖い」というわけではないのだ。セイルの要求を聞き入れ、異端であるブランと共にいても口先で文句を言いつつも露骨に嫌悪するわけではない。それどころか、頼まれたからとはいえ、自分とは関係の無いはずの買い物にまで律儀に付き合ってくれるような人だ。
決して、悪い人ではない。
それはわかる。わかるけれど……
どうしても、「兄を殺す」と言い切ったこの女に対しては、素直に気を許せずにいた。
女性にしては背が高いチェインは、セイルの手に握られた便箋を見下ろしたかと思うと、小さく首を傾げた。
「手紙?」
「うん、母さんに出すんだ。シュンランを助ける時に家を飛び出しちゃったから……今頃心配してると思って」
「そっか、それはいいね。きっと、お母さんも喜ぶ」
チェインはぽん、とセイルの空色の頭に優しく手を置いた。その感覚は、母がいつもセイルの頭を撫でてくれる時の感覚によく似ていて、余計に複雑な気分になってくしゃりと顔を歪める。
数度、ぽんぽんとセイルの頭を軽く叩いてみせてから、チェインは穏やかに微笑む。
「それじゃ、行ってきなよ。少しアンタに話したいこともあったんだけどね、帰ってきてから聞いてくれるかな」
「話したい、こと?」
セイルは何となく不安な気持ちになって、眉を寄せる。監視の対象であるシュンランに話したい、というならともかく、本来影追いからしてみれば想定外の存在でしかない自分に何の話があるというのか。ブランではないが、シュンランや『ディスコード』に関わるのをやめて、家に帰れとでも言うつもりなのだろうか。
そんなこと、出来るはずもないというのに。
考えれば考えるほど悪い方向に向かっていく思考を止めたのは、シュンランの一言だった。
「それなら、チェインも一緒に来ますか?」
「え?」
セイルとチェインの疑問符が唱和した。だが、シュンランはにこにこ微笑みながら空いた片手でチェインの手を取る。
「わたしも、チェインのお話が聞きたいです。それとも、ここじゃないと話せないお話ですか?」
「いや、そんなことはないよ。本当に、大した話じゃないからさ」
けれど、とチェインはにやりと口元を笑みの形にした。
「いいの? デートのお邪魔になると思ったんだけどね」
「で、デートって! そ、そんなんじゃなくって……!」
顔に血が上るのを感じながら、セイルはぶんぶんと首を横に振る。それから、すがるような目でシュンランを見たが、シュンランはそもそも『デート』という言葉の意味がわからなかったらしくきょとんとするばかりだった。
「セイル、顔が赤いですよ。もしかして、具合悪いですか」
「な、ななな何でもない! 何でもないから大丈夫!」
とても見当違いなシュンランの言葉に対して、まともな答えを返すことも出来ない。すると、チェインが口元に手を当ててくつくつと笑い声をこぼした。
「全く、アンタたちは見てて飽きないね。それじゃ、ご一緒させてもらっていいかい?」
「はい。セイルも、いいですよね?」
本当は、ちょっとだけ不満ではあったけれど……シュンランが自らチェインを誘うのだから、それを断ることは出来なかったわけで。小さく唇を尖らせながらも、セイルはこくりと頷くしかなかった。
『脈無しもいいとこだな、セイル』
頭の中に響くからかうようなディスの声は、とりあえず黙殺することにした。
宿を出て、セイルは自然と空を見上げていた。今日はさほどレクス特有の魔力霧も濃くないらしく、見上げれば晴れた空が広がっている。春の空は、セイルの髪の色より少しだけ淡く、霞んだ色をしていた。そこを行過ぎる白い鳩を見送って、セイルはシュンランに視線を戻す。
「まずは手紙を出さないとだね」
「はい。ええと、どこに行けば届けてもらえるですか?」
聞かれて、セイルは言葉に詰まった。郵便局に持っていけばよいのはわかるが、そういえばこの町は初めてなのだ、セイルに郵便局の場所がわかるはずもない。どこかに地図は無いものか、と思った矢先にチェインが言った。
「確か、この町の郵便局は南通りだよ」
「チェイン、知ってるの?」
「ああ、仕事で来たことがあるからね」
セイルの問いに、チェインは南通りに向かって歩き出しながらあっさりと答えた。影追いはユーリス神殿が組織する異端審問官だが、その役割上各国を飛び回ることになるのだ、当然といえば当然とセイルも思う。ただ、シュンランだけは不思議そうに首を傾げてみせる。
「えと、チェインは影追いさん、なのですよね。影追いさん、というのはどういうお仕事なのですか? 異端を追う人、というのは聞きましたが」
「知らないのかい?」
今度は、チェインの方が不思議そうな顔をする番だった。それはそうだろう、楽園に生きる人間なら、実際に影追いに会うことはなくともその存在と恐ろしさは噂に聞いたことがあるはずなのだから。
だが、シュンランは「わからないのです」と申し訳なさそうにうつむいた。
「わたし、昔の記憶が無いのです。だから、当たり前もわからないです」
「あ……そうだったんだ。無神経なこと言ってごめんよ」
「いいえ、気にしてないです。知らないことは、今から知ればいいですから」
顔を上げたシュンランは明るく笑う。そうやって、すぐに笑ってみせるシュンランがすごい、とセイルはいつも感心する。何もわからないということがどういうことかセイルには想像することも出来ないけれど、時折シュンランが見せる不安げな表情を見る限り、とても心細いことだということくらいはわかる。
それでも、シュンランは背筋を伸ばし、決して後ろを振り返ることはない。そんな姿が、セイルにはやけに眩しく映る。自分が、過去の記憶に焼きついた兄の影を追っている分、余計にそう思うのかもしれない。
チェインも小さく感嘆の息をつき、紅を引いた唇を弧にして微笑む。
「アンタは、強い子だね」
「そう、ですか?」
「強いさ。そうやって、前を見据えることは案外難しいからね」
一瞬、そう呟いたチェインの表情に影が走ったように見えた。ただ、セイルがその表情の理由を問う前に、チェインは言葉を続けていた。
「ええと、影追いについてだったね。影追いっていうのは、ユーリス神殿が組織している、異端を狩る連中のことで……と、ユーリス神殿が何なのかはわかるのかい?」
「しんでん。ユーリスは神様の名前です。楽園を作った、女神様です」
「そう。で、神殿はそのユーリス様をお祀りする場所さ。この前『エメス』の連中が壊してたのも神殿の一つ。けれど、『ユーリス神殿』って言った場合には、ユーリス神聖国首都センツリーズにある、女神ユーリスが住まう本殿を指すことがほとんどさね」
セイルとシュンランは同時にチェインの視線の先を見た。南の空に向かってそびえる世界樹、その根元にユーリス神聖国の首都、センツリーズとユーリス神殿の本殿がある。そのくらいは世間知らずのセイルでも知っている。
だが、シュンランは更に深々と首を傾げた。
「その『ほんでん』には、女神様が、本当に住んでいるのですか?」
「そりゃそうだよ。そうじゃなかったら、どうして本殿って言えるんだい。アンタも成人の儀には直々に洗礼を受けることになるよ」
「せいじんのぎ……?」
「成人の儀っていうのは、十六歳の誕生日にセンツリーズの本殿で受ける儀式のことだよ。大人になった、って女神様に認めてもらうんだ」
言葉の意味がわからなかったらしく戸惑うシュンランに助け舟を出す。シュンランはチェインから一旦セイルに目を移し、すみれ色の瞳をぱちくりさせて問い返す。
「わたしも、セイルも、せいじんのぎを受けないと、大人になれないですか」
「うん、そうだよ。ユーリス様に認めてもらうことで、大人になるんだ」
「でも、それは何か変です」
セイルは、「え」と声を上げてしまった。シュンランは、真っ直ぐにセイルを見つめ返して、言った。
「それは誰かに決めてもらうことですか? 儀式をすれば大人になるですか? 大人は、そういうものではないと思うです。小さくても大人の人はいます。大きくても子供の人はいます。大人は『なる』ものじゃないです、きっと」
シュンランの言葉は、決して難しい言葉を並べ立てるようなものではない。どこまでも簡単な言葉でありながら、時にセイルが抱いている常識を軽々と飛び越える。それは、切り口こそ違えど自らを異端と言い切るブランと喋っている感覚に、何となく似ていた。
そして、そんなシュンランの言葉に心のどこかで共感する自分がいることも、確かだった。
当然のように、大人にはその時に『なる』ものだと思っていた。けれど、儀式を受けたからといって、本当に自分はその瞬間に子供から大人に変われるのだろうか。違うような気がする。
ならば、『大人』というのは何なのだろう?
ぐるぐると、頭の中に答えともいえないような、纏まらない考えが浮かんでは消えていく。どのように考えていいものかもわからずに自然と唇を噛むセイルの頭の中で、呆れ半分、感心半分の溜息が響いた。
『はー、んな当たり前なことも考えてみたことなかったんだな、お前』
「ディス?」
『や、それは俺のバイアスか。きっとお前の反応が「当たり前」なんだな。悩む余地がねえってのは、それはそれで幸せなのかもしれん』
バイアス、という言葉の意味もわからなかったが、それ以上にディスが何故そんなことを言い出したのかがわからなかった。
「ディスは、考えたことあるの?」
ディスの声を聞くことの出来ないチェインが怪訝な目を向けてきたから、セイルは声を落としてディスに問う。ディスは少しばかり沈黙して……それから低い声で言った。
『俺は剣だ。んなどうでもいいことを考える理由が無い』
「あ、そう、だよね。ごめん」
当然といえば当然の返答だ。こんな風に言葉を交わせるからいつも錯覚するが、『ディスコード』は剣だ。人ではない。大人や子供という枠組みだって存在しないのだろう。ディスは『ちぇっ』と小さく舌打ちをして、それきり再び黙った。
空色少年物語