扉の向こうから現れたシュンランの姿を見て、セイルはわっと声を上げた。
セイルが驚くのも無理はないだろう。シュンランの服は、今までの白いワンピースやドレスとは全く異なったものだった。
船乗りのような大きな紺色の襟を持つ上着に、ぴったりとした短い丈のズボン。全体的にスマートかつシンプルなラインだが、襟元を飾るスカーフが柔らかなアクセントを添えている。
「あんなひらひらした汚れやすい服じゃ動きづらくて仕方ないでしょう。なるべく可愛いのを選んだつもりではあるけどね」
シュンランの着替えを手伝っていたチェインが言葉を加えた。確かに、買い換えてもらったばかりのワンピースも、すでに裾の方が汚れてしまっているようだった。旅をするとなれば、このくらいの格好がちょうどいいのだろう。
今までは可憐なイメージのシュンランだったけれど、活発さをイメージさせる服もよく似合っていた。服装を変えただけで、いつもと同じはずの表情も少しだけ変わって見えるのが不思議だ。
シュンランはセイルの前でくるりと回ってみせる。白い髪がふわりと揺れ、膝の上までを覆う長靴下を履いた細い足がステップを踏む。見とれるセイルに向かって、シュンランはちょっとだけ不安げな顔で問いかける。
「変じゃないですか?」
一瞬ぼうっとなっていたらしいセイルは激しく瞬きをして、慌てて言葉を返す。
「全然、変じゃないよ! すごく似合ってる! ね、ディスもそう思うだろ?」
『まー、素材がいいんだからかわいいに決まってるけどよ、俺に意見を求めんじゃねえよ』
どうせ聞こえてないんだからよ、とディスが溜息混じりに呟いたのを聞いて、部屋の隅で壁に寄り掛かっていたブランは思わずくつくつと笑ってしまった。シュンランに「ディスは何と言っているですか」と聞かれて戸惑うセイルの姿もまたおかしくて、なお喉から笑い声を漏らさずにはいられない。
すると、いつの間にか横に来ていたチェインが、呆れたような口調で言った。
「何、笑ってるんだい」
「いやあ、微笑ましいなあと思ってさ。いいよねえ、若いって」
「アンタも十分若いじゃないか」
「ま、確かに俺様、姐御よりは若いだろうけどさ」
「……それは暗に私が老けてるって言いたいのかい?」
「いやだなあ、んなこと言ってないじゃない。エルフの姐さんに比べれば、人間の俺様なんか若造に決まってる、って話よ」
「わかってる。冗談だよ」
本当に冗談と思っているのかいないのか、チェインはほんの少しだけ唇を尖らせて言う。エルフは、人間よりも遥かに長い寿命を持つ人族である。傍目にはブランと同じかそれより下に見えても、実際には十くらいは年上と見てよいはずだ。
生まれてこの方人間であったことしかないブランには、エルフの時間感覚がどう人間と違うのかは理解出来ないけれど……やはり、チェインの見ている風景と自分の見ている風景は明らかに違うのかもしれないな、とは思う。もちろんそれは、同じ人間であったって当然のごとく違うわけだが。
そこまで考えて、ブランは意識をセイルたちに戻す。笑いあう空色の少年と、白い少女。ベージュと茶を貴重とした部屋に一際映える二人の姿を見て、氷色の瞳を自然と細めていた。
――酷く、眩しかったから。
「……ねえ、ブラン」
「ん?」
「何で、そんなに離れたところから見てるの?」
チェインに言われて、ブランは無意識に自分の足下を見やる。決して物理的にそこまで離れているわけではない。けれど、一歩では絶対にあの二人の間には踏み入ることの出来ない距離だ。
それに、チェインが言っているのは、何も物理的な距離だけの話ではないだろう。あの二人を見つめていて不意に眩しさに目を細めてしまったことも、彼女の目には自分とは遥かに隔たったものを見ているように映ったに違いない。
それは決して間違いではないとも、頭の片隅で思った。
ブランは笑みを深めて、小さく「んー」と唸りながら言葉を選んで言った。
「俺様、あそこにいちゃいけねえなあって思ってね」
「何でさ」
チェインは微かに眉を寄せて、セイルの持つ空色とは少しだけ色合いの異なる、喩えるならば秋空を思わせる青の瞳を細めてブランを見上げた。ブランがついと視線をチェインに戻すと、チェインはすぐに視線を逸らしてしまったけれど。
それにしても、「何で」、か。
ブランは小さく笑う。そんなもの、決まりきっている。
「だってさ、俺様は」
言いかけた言葉は、ブランとチェイン、二人の名を呼ぶシュンランの声に遮られた。ブランがそちらを見れば、シュンランはすみれ色の瞳を明るい笑みに輝かせていた。
「似合うと言われました。とても嬉しいです。チェインとブランにも、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げるシュンランに、ブランはちょっとだけ困った笑みを浮かべて言う。
「チェインにはお世話になったかもしれないけど、俺様は何もしてないでしょうに」
「しかし、私のことを気遣ってくれたのはブランです。違うですか」
「淑女を気にかけるのは紳士として当然よ?」
誰が紳士だよ、とチェインがジト目で見るのも構わず、ブランは普段と何も変わらぬ笑顔で胸に手を当てる。すると、シュンランもそれを真似るように手を胸の上に当てて微笑んだ。
「はい。ブランはとても優しい人です。だから、ありがとうございますを言うです」
優しい――
その言葉を上手く心の中に落とし込むことが出来ず、言葉を継げなくなった。
優しい。それは、どのような意味の言葉だっただろうか。辞書に載っていた言葉は覚えているけれど、それが「何」であるのかわからない。当たり前のようでいて、自分の中からは完全に定義が抜け落ちてしまっていることに気づき、ブランは曖昧な笑みを浮かべることしか出来ない。
それに気づいているのかいないのか、シュンランはブランの顔を覗き込んだまま軽く首を傾げてから、「あ」と思い出したように言った。
「その、一つ、ブランとチェインにお願いがあるです」
「どした?」
「今度でよいですので、リボンを買ってよいですか」
ああ、とチェインが合点がいったように声を上げた。
「そうだね。その格好なら、髪は結んでた方がいいかもしれないね。気づいてやれなくて悪いね」
いいえ、とシュンランははにかむように笑う。ブランは少しだけ躊躇ってから、くしゃりとシュンランの白い髪に指を通す。
「折角だから、今度あのガキんちょとお気に入り選んでこいよ。リボンじゃなくて、髪飾りでも似合いそうだよな」
「確かにそうだね。綺麗な銀髪だから、少し派手なくらいでも可愛いかもしれないよ」
ブランとチェインの言葉に、シュンランはくすぐったそうに笑って、もう一度ぺこりと頭を下げた。そして、再びセイルに向かって「よいと言われました。セイルと一緒に選ぶですよ」と嬉しそうに報告する。
その姿をじっと見つめたまま、ブランは小さく息をつく。それが彼自身が思っていたよりもずっと深い溜息になってしまい、チェインが驚いてこちらを見やる。
「ブラン?」
「何でもない。何でもねえよ」
わざと明るく言い放ち、ブランは唇を笑みの形に戻す。
視線の先の少年と少女は、初々しく笑いあう。
それでいい、それでいいのだ。
ブランは自らに言い聞かせ、再び微かに目を細めた。
空色少年物語