夏の青亭

二〇〇〇年八月十二日

「おやすみ、幸せな夢を見てね」
 
「いっ……!」
 頭を刺し貫く痛みと声に、息を止めて瞼を開ける。
 知らない場所。まず、思ったのはそれだった。ポスターの貼られた白い壁、リノリウムの床、行き交う白い服の看護師、まで認識して、やっと、ここが病院の待合所であることを思い出す。その認識に結びついて、何のためにここにいるのかも、澱む意識の中から、緩慢ながら浮かび上がってくる。
 ……いつの間に、眠っていたのか。
 目を開けた瞬間に、頭の痛みは消えていた。それでも、つい、こめかみを押さえずにはいられない。
「あー……」
 つい、声に出しかけた悪態を飲み込んで、無機質な天井を仰ぐ。
 ――おやすみ、幸せな夢を見てね。
 耳元で囁く声。忘れられないままの、声。
 強烈な痛みを伴うあの声を、何とか頭の中から追い出そうと、強く、強く、こめかみを押す。爪を立てた痛みで、今だけでも、優しく甘い響きを忘れさせてほしいと願う。
 そんなことで、消えてくれるはずもないというのに。
 その時。
「おーい、兄さん、大丈夫?」
 しわがれた声が、横合いから聞こえた。何かと思ってそちらを見て、ちょっと自分の視力と、認識能力を疑った。
 いつの間に、横に座っていたのだろう。そこにいたのは、爺さんのような声音に反して、中学生か高校生辺りと思しきガキだった。
 しかも、そいつは、真夏にも関わらず真っ白な肌をしていて、長く伸ばした稲穂色の髪に、あおい目を持っていた。それも、ただの「あお」じゃない。片目が空色で、もう片方が青みの緑。
 まるで、漫画から出てきたような、突飛にすぎるカラーリングにこっちが呆気に取られていると、ガキは三白眼気味の目を見開いて、極めて流暢な日本語で喋りかけてくる。
「兄さん、見舞いに来たんじゃねえの? それとも実は患者さん? すっげ顔色悪いけど」
「悪い、寝ぼけてただけ。別に具合は悪くない」
 何とか声を絞り出したが、ガキの質問に対する答えとしては不十分だと気づく。だが、それを補足するより前に、目の前のガキが突然目を丸くした。
「あれ、兄さん、前にどっかで会った?」
「は?」
 まさか。そんなこと、あるはずがない。こんな奇天烈な見かけのガキ、一度見たら忘れるはずもない。どんなに腐ってたって、記憶力にはそれなりに自信がある、というかそれ以外に取り得なんざないんだから。
 だというのに、ガキんちょはちぐはぐな色の目で、俺のことをじろじろ見つめてくる。不躾な奴だな、と思いながら、つい視線を逸らしてしまう。真っ正面から見つめられることなんてしばらく無縁だったから、居心地が悪くて仕方ない。
 一体いつまでこの視線に耐えていればいいんだろう、と思っていると、突然ガキが大声を上げて立ち上がった。
「ああっ、わかった!」
「何がだよ」
「兄さん、俺様と一年前に会ってるよな!? ぱっと見同定できなかったけど、顔も声も同じだもんよ!」
「……はあ?」
 待て待て待て、やっぱり記憶にございませんけど。一体俺と誰を取り違えているんだ。確かにこの世の中には同じ顔をした人間が三人はいるって聞くが、その貴重な三人のうち二人に出会ってしまったのか、このガキは。
 そんな下らないことをつらつら考えかけて、ふと、我に返る。
 その場にいた看護師、患者に見舞いの連中が、迷惑そうにこちらを見ていることに気づいてしまったのだ。
 そりゃあそうだ、ここは病院。ガキがぎゃあぎゃあ騒いでいい場所じゃない。それが、どう見ても病人とも怪我人とも思えないガキんちょなら、尚更だ。
 しかも、その視線は俺にまで向けられている。俺が顔を上げた途端、大体の連中は気まずそうに目を背けてくれたが、しかし迷惑がられていることには変わりない、はずだ。
 これ以上、この場所にいるのもいたたまれなくて、俺は無言で席を立つ。実のところ、用事はとっくに終わっているのだ、このままのんびり涼んでいる理由もない。
 ――しかし、俺は何も悪くないのに、どうしてくれる。
 そんな思いを篭めて、何故か当たり前のようについて来たガキを睨むと、眉毛をハの字にして、両手を合わせて頭を下げてきた。別に、悪気が無かったことは、疑う気もない。単に場と空気が読めない奴なんだろう。それはそれで、厄介だとは思うが。
 変な奴に絡まれてしまったなあ、と思いながら、ポケットの中に入れておいた薄荷飴を口に放り込み、病院を出る。すると、途端にガキが話しかけてきた。
「ほんっとーに悪い! こんなとこで知った顔に会うとは思ってなかったからさ!」
「あのなあ……。まあ、別に怒っちゃいないけどね、次から気をつけろよ」
 それから、きちんと言っておくべきことを、言っておくことにする。
「っていうか、俺はお前のこと知らないんだけど、誰かと間違ってない?」
 その言葉に、ガキはきょとんと首を傾げた。
「間違えようもねえよ。随分人相は変わっちまってるけど、兄さん、一年前に俺様のこと助けてくれただろ」
「一年前……?」
 そうだ、さっきもこのガキ、一年前って言ってた。俺と別の誰かを間違えるのも難しいと思うが、一年前の俺と今の俺を同一人物だと判断するのも、そう簡単じゃない。毎日会ってるならともかく、出会ったことがあるかもわからん相手なら、尚更。それを「人相が変わった」とした上で間違えようもなく「俺」だというのだから、それなりの自信があるんだろう。俺はさっぱり思い出せないというのに。
 しかも、当時の俺はこのガキを「助けた」と来た。まあ、人を傷つけたり助けたりするのが仕事だから、そういう相手はいないわけじゃないが、それにしたってこのガキとは結びつかない。
「悪い、本当に思い出せない。お前くらい特徴的なら、そうそう忘れないと思うんだけど」
「あ、そっか、俺様、当時人の形してなかったもんな」
「何言ってんの、頭沸いてんの?」
「ばっさり切って落とさないでさ、ほら、俺様、やたら暑い日に兄さんに助けてもらった蜻蛉だって」
 ――はあ?
 と言いかけて、思い出す。
 一年前、七月の終わり。雲ひとつない空から落ちてきた巨大な蜻蛉。
「あれ、暑さで頭が茹だってて見た幻じゃなかったのか」
「あそこまでやってくれて幻だと思ってた!? アイス美味かったぜ!?」
 そういえばすいかアイスもあげた気がする。俺としては相当大盤振る舞いだったはずだ。
 あの日のことは覚えている。言われてみれば、仔細まで思い出せる。けれど、そのどれもが現実離れしていて、結局俺の中ではなかったことになったのだった。なかったことにしておいても、俺が日々を平穏に過ごす上で特に問題はなかったから。
 俺の発言がそんなに意外だったのか、なんともいえない表情を浮かべていたガキだったが、すぐに気を取り直して笑いかけてくる。細められた片目の緑色は、確かにあの蜻蛉の複眼と同じ色だった。
「あの時は本当にありがとな。兄さんが助けてくれなきゃ、俺様本気で力尽きてたからさ」
「……まあ、助かったならよかった。それじゃ、俺はこれで」
「ちょーっと待ったあ!」
 くるりと背を向けようとした俺の首根っこを、自称蜻蛉のガキが掴んできやがった。
「何すんのよ」
「兄さん、別に俺の話は信じなくていいから、一つ、質問に答えてもらっていいか」
 信じてないってことは伝わってたらしい。案外わかってるじゃないか。その物分りのよさに免じて、「どうぞ」と話を促す。
「さっきも聞いたけど、兄さん、さっき病室から出てくるの見たけど、あいつの見舞いに来たんだよな?」
「あいつって?」
「ヒヤマ・シロウ」
 檜山志郎。
 俺が、わざわざ、地元から遠く離れたこの町に来た理由。
「ああ、確かにヒヤマの見舞いだよ。残念ながら、さっぱり話にならなかったが」
「そりゃ、あの状態じゃ話にはならんよな。記憶を全部投げ捨てちまったんだから」
 そう。俺がここに辿りついた時点で、檜山は自分の名前すらも覚えていなかった。この町の海辺に倒れているところを発見されたという檜山志郎は、自分がどこから来て、何故こんな辺鄙な町にいるのかもわからないまま、ぼんやりとベッドの上に座っていた。
 もちろん、何人もの医者が奴を診たようだったが、答えは同じ。言葉をはじめとした、生活に必要な能力こそ残ってはいるが、自分の「過去」をすっかりどこかに置いてきてしまったらしい。
 だから、あそこにいる奴は、もう、俺の知っている奴ではない。あの事件の「真実」を知る、檜山志郎ではなかった。
 思い出した途端に、無力感と苛立ち、それと鈍い頭痛が襲い掛かってきて、反射的にこめかみを強く爪で押す。そんな俺の一挙一動から目を離そうとしないガキは、いつの間にか、真剣な表情になっていた。
「兄さん、シロウの友達?」
「かつては友人だったねえ。お前さんもヒヤマの知り合い?」
 正直、檜山にこんなちょっと危ない知り合いがいる、とも思えなかったのだが。
 すると、ガキは首を横に振る。
「シロウとは、この病院で知り合ったんだ。どうしても、聞きたいことがあってさ」
「何を聞こうとしてたんだ?」
「どうしてここに来たのか、どうやってここに来たのか、それから、何をしてきたのか」
 何を――。
 その言葉を聞いた途端に、脳裏に閃くイメージ。床の上に転がるもの、それを鋭く見下ろす檜山の横顔。部屋を包む青い光。その時、俺は。
 何とかそのイメージを追い払おうと首を振る俺を見ていたガキの、青と緑の目が、すうと細められる。その瞬間に、妙な寒気が背筋を走った。一瞬、そう、ほんの一瞬だが、目の前のガキが、得体の知れない何かに見えて。
 けれど、瞬きをすれば、そこにいるのは、色彩こそ尋常でないが、Tシャツとジーンズという、いたって平凡な服装をしたガキでしかない。
 そんなガキの薄い唇から、決定的な言葉が零れ落ちる。
「……兄さんも、あの事件の関係者?」
「あの事件って?」
 問わなくとも、何のことを言っているのかは、わかっていた。それでも、問わずにはいられなかった。
 案の定、ガキは目を細めたままで言った。
「連続吸血殺人事件」
 連続吸血殺人事件。その言葉だけ聞けば、作り話としても三流以下な、悪趣味に過ぎる空想の産物でしかない。だが、事件に直面してみれば、そうとしか言いようがないのも、確かだった。
 事件が初めて起こったのは昨年末、C県の北西部の閑静な住宅街――という、ありがちな舞台設定だが、とにかくそういう場所だった。当時、地方から上京し、一人暮らしをしていた大学生が死体となって発見された。
 それを皮切りに、数ヶ月の間、年齢も性別もまちまちな人間が、無差別に殺され続けた。
 すぐにわかる共通点はただ一つ。
 死体から、体液が一滴残らず抜かれていること。
 捜査の結果、容疑者として浮かび上がってきたのは、当時大学院生だった檜山志郎だったが、その事実が判明する前後に失踪。その後数か月間は、全く足取りが掴めなかった。
 そして、つい先日、全く同じ手口による殺人事件が発生したこの町の海辺に、重傷で倒れているところを発見された。
 結局、事件の因果関係も、死体から体液を抜き取る手段も、本当に檜山が犯人であるのかも、何もかもが、わからないままだ。
「あの事件の犯人として、シロウを追っかけてきたんじゃねえの、兄さん」
「……その問いにはノーコメントだ」
「それはほとんど肯定のようなもんじゃね?」
「イエスともノーとも言いがたい、って意味だ」
 あの事件を目の前にして、檜山が犯人かもしれないと疑っているのは事実だ。ただ、それ以上にわからないことが多すぎる。だから、俺は首を縦にも横にも振れない。振っては、いけないのだ。
 しかし、こっちの事情を、いちいち見ず知らずのガキに話してやる義理もない。
 だから、ガキが口を開く前に、こちらから言葉を投げかける。
「それにしても、お前、随分詳しいな。ヒヤマが事件の関係者だってのは、警察内部の認識と思ってたけど」
「それを言ったら、兄さんだって、事件のあらましは把握してるみたいに見えるけど」
「俺は警察の人間だからさ」
「へ? そうなん?」
 余計なことを言ってしまった、と一拍遅れて気づいたが、一度言ってしまったものを取り下げることはできない。仕方なしに、言葉を続ける。
「いわゆる刑事だよ」
 ガキは「えー……」と不審の目をこちらに向けてくる。わかっている、俺が刑事なんて肩書きとは到底かけ離れた印象しか与えないことくらい。
 ガキも、今まで出会ってきた大半の連中と同じく、真顔で言った。
「ヤのつくお仕事の人かと思ってた」
「よく言われる」
「けど、刑事ってことは、兄さん、この事件を仕事で追いかけてるってこと?」
「いや、それとこれとは別。俺自身は、プライベートな理由でこの事件を追ってる」
 そのために、仕事上のコネや情報網を利用していることは、否定しないけれど。
 また、余計なことまで口走りそうになったところで、口を噤む。奇妙なことに、このガキを前にしていると、いらないことまで話してしまいそうになる。完全に向こうのペースに乗せられる前に話を切り戻す。
「で、お前、俺の疑問には答えてないよね? お前はどっからこの情報仕入れたんだ」
「ん、俺様は、兄さんとは違う世界を見てっから。あんたの思う『公』と俺様が生きてる世界の『公』はちと違う」
「何が言いたい?」
 突然、煙に巻くようなことを言い出したガキを睨むと、「やだな、怖いんだけど」とわざとらしく身をよじってから、すぐに真顔になって言った。
「おかしいとは思わねえか、兄さん。全身の体液が抜かれた死体なんて、普通に作ろうとして作れるもんじゃねえ」
「そうだな。どうすればあんな死体になるかは、俺が聞きたいくらいだ」
 その方法は、想像もできないし、未だ、解明もされていないはずだ。俺が知りうる範囲では、半年以上の捜査にも関わらず、あの事件の謎は何一つ明らかにされてはいない。
 あいつが何故、ああも無惨に殺されなければならなかったのか。檜山が何故、あの瞬間に俺の前に姿を現して、青い光に包まれて消えたのか。何一つ、何一つ。
 ガキは、白い指を俺の前に突き出して、口の端を歪める。
「けど、そんな現実離れしたことができる連中が、確かにいるんだ。兄さんが『現実でない』と認識している領域には、な」
「現実でない、ってどういうこと」
「つまり、兄さんが夢や幻、作り話だって思いこんでる領域だ。神に悪魔、妖怪や妖精、幽霊の類。そういうもんが、ある種の事件には確かに関わってる。今回の事件も、その一つなんよ」
 一体、何を言い出したのか、このガキは。
 呆気に取られている間にも、口上は続く。
「俺様は、そういう『現実でない』連中が関わる事件を専門に追ってる。それで、事件の当事者である、シロウに話を聞きにきたんよ。俺様自身、向こう側に片足突っ込んでるから、どうも放っておけなくてな」
 現実でないもの。神や悪魔のような、架空の存在。それが、現実に人を殺している。俺の目の前で死んだあいつも、そんな、得体の知れないものに殺されたっていうのか。
 馬鹿げている。奥歯で飴を噛み潰して、ガキを睨む。
「ガキが、大人をからかうもんじゃないよ」
「からかってるつもりはねえよ。兄さんは、俺様のことも視えてたから、信じないまでも理解があるかと思ったんだけどな」
 唇を尖らせるガキに対し、俺は意識して苦笑を浮かべる。どれだけ上手く笑えたかは、自分にはわからないけれど。
「お前さんが主張するのは勝手だし、それ自体を非難はしない。人に迷惑かけない限り、主義主張は自由だ。けれど、俺は、それが真実かどうか俺自身が判断できない限り信じない。それだけの話」
「たとえ、目に見えていても?」
「そう。俺自身の知覚だって、相当曖昧なもんだしねえ」
 ただでさえ、ぼんやりとした視界なんだ。何をどう見間違えたところで、不思議じゃない。あの日見た蜻蛉がこのガキである証拠も、あの蜻蛉がそもそも現実だったという証拠もない以上、こいつの言葉を頭から信じてやる理由は無い。
 ガキは「難儀な奴ぅ」とこれまたよく言われる言葉を呟きながらも、気の抜けた顔で笑ってみせた。
「ま、信じる信じないは別として、ちょいとだけ、俺様の話を聞いてってくれねえかな。兄さんにとっても、そう悪い話じゃねえはずだから」
「俺にとっても?」
「そ。兄さん、事件の手がかり、少しでも知りてえんだろ。嘘でもデマでも妄想でも、手がかりは手がかりだ。それをどう判断するかは、それこそ兄さん次第」
「……なるほど」
 このガキ、見た目の印象ほど阿呆じゃない。普通、こういう連中は信用を得ようと無闇に言葉を重ねてくるものだが、こいつは俺が素直に信じないと見るや、話の方向性を変えて、興味を誘おうとしてくる。
 なかなか面白い奴だと思いつつ、日陰の壁に寄りかかってひらひらと手を振る。
「暑いんだ、手短に頼む」
「サンキュ」
 俺が聞く気になったと見るや、ガキも心から安堵したように息をついた。
「まず、手短に自己紹介させてくれ。俺様は、コバヤシ・タツミ。小さい林で『小林』、名前は一文字で『巽』って書く。以後お見知り置きを」
「その顔で、べったべたの日本名?」
「そうそう、俺様、こう見えて戸籍上は正真正銘の日本人だぜ?」
「蜻蛉の化け物に戸籍とかあんのかよ」
 そこはこう、ちょっと大きな声では言えない手段で、とガキ――小林が小声で言ったので、そういうものだと思うことにする。どうも、ツッコミ入れたら面倒くさくなる話っぽかったから。
「俺様はあそこの山に世話になってんだけどさ」
 言って、小林は指を伸ばす。指した先を見れば、嫌んなるくらい青い空が広がっていて、その下にちいさな山が聳えていた。あの山には、正式な名前が別にあるらしいが、町の人間からは「天狗山」と呼ばれ、恐れられている場所なのだそうで。
「何、お前、天狗なの?」
「蜻蛉の形した天狗って見たことある?」
「ないねえ。けど、あの山に住んでるってことは、天狗なんじゃないの?」
「違えよ。あの山には、代々、俺様みたいな『現実でない』連中を観測して記録する一族が住んでるんよ。その性質上、変な現象が起きやすくてさ、それで山に天狗が住んでるとか噂されちまったんだよな」
 まあ、それはそれとして、と小林は笑って言った。
「俺様は、色々あって一年前にふらりとこの世界にやってきて、消えそうになってたところを、兄さんに助けられた。んで、元の世界には帰るに帰れねえし、帰る気もなかったから、天狗山に居つかせてもらったんだ」
「なるほど。で、お前は結局何なの?」
「兄さんの感覚で言うと『神様』が近いな」
「かみさま?」
「今は、人の形と引き換えに能力手放しちまったから、ただの人、『元神様』ってとこ」
 にへら、と気の抜けた笑みを浮かべる小林。こうやって見てると阿呆っぽいし、言ってることも阿呆っぽいんだが。それでも、氷の色をした視線を受け止めていると、こんな阿呆な話すら信じてしまいそうになるから、案外すごい奴なのかもしれん。
「ま、自己紹介はこの辺にして。俺様は、普段はあの山で幽霊やら妖怪やらを観測してる。で、さっき言ったとおり、今回の事件も俺みたいな連中が関わってるって認識してる」
「それが、どんな奴なのかもわかってるのか」
「大体は。ただ、事細かに説明したところで、兄さんは信じねえだろ」
「まあ、そりゃあな」
「だから、今俺からはっきり言えることだけ、伝えときたいと思う」
 きゅっと、表情を引き締めて、小林はしゃがれてる割によく通る声で言った。
「今のシロウに何を聞いても、事件に関しては何もわからねえ。この事件を追いかけていくなら、消えたタチバナ・ノブヒコの行方を追うべきだ」
「タチバナ・ノブヒコ……。行方不明になった、この町のガキだったな」
 橘信彦。
 檜山志郎がこの町で発見された前後に、入れ違うように行方不明になった高校生の名前だ。ただ、この町での吸血事件の被害者は、現場に死体が残されるC県の事件と違って、まず行方不明となり、その後死体で発見されている。そのため、警察は未だ発見されてない被害者と考えている。
 だが、小林は、そうではないと考えているようだ。
「お前は、タチバナが一連の事件の犯人、もしくは、それに近い人物だと考えている、と。それだけの理由があるのか」
 俺の問いに、小林は、露骨に唇を噛んだ。ちぐはぐな色の視線を虚空に泳がせ、何かを堪えるような表情を浮かべている。おそらく、小林はそれ以上のことを知っている。ただ、それを俺に話すべきかどうか、躊躇っているように見えた。わかりやすい奴。
 なら、俺が言えることはただ一つだ。
「お前にはお前の事情があんのね。了解、これ以上は問わんよ」
「……いいのか?」
「こういう仕事してると、根掘り葉掘り聞かれることの煩わしさも嫌ってほどわかるから。仕事で来ているわけでもない以上、そこまで問い詰める気もないよ。聞かせてくれただけで、ありがたい」
 捜査に利用できる情報かはともかくとして、そういう見解もあるとわかっただけで十分だ。実際に捜査している連中にも、それとなく示唆はしておくべきかもしれない。今の俺の話を、連中が信じてくれるかどうかは別として。
 そんな風に考えていると、小林は深く頭を下げた。
「すまん。ありがとう、兄さん」
「礼を言うのはこっちだろ。俺に話したところで、お前には何の得も無いのに」
「全く無いってこともねえよ。俺様は、タチバナ・ノブヒコさえ見つかればそれでいい。兄さんたち警察が動いてくれることで、それが少しでも早まることを、期待しないでもない」
 と、言う小林の声に、全く期待の感情が篭っていないことも容易に理解できた。つまりこのガキは、警察ではこの事件は解決できないと見ている。そりゃ、何だかよくわからない化け物が関わっていると言い張るガキなんだから、普通の人間には解決できない事件だとでも思いこんでるんだろう。
 そう思っていること自体に、文句を差し挟む気はない。どこまでも、思想信条は自由だ。俺が、神も仏も信じようとしないのと、何も変わらない。
「でも、何よりもさ」
 小林は、俺の沈黙をどう捉えたのか知らないが、にっと白い歯を見せて笑った。
「兄さんには、感謝してるから。ささやかな恩返しってやつだ」
「恩返し、って俺は大したことしてないでしょ」
「や、本当に嬉しかったんだ。見ず知らずの場所で、誰にも気づかれずに消えていくんだって思ってたからさ」
 そんな中で、俺だけが、気づいたのだろう。青い空から涼風を連れて来た、空と同じ色をした蜻蛉。何もかも、ただの偶然に過ぎない。そこに俺がいたことも、俺が気まぐれを起こしたことも。
 それでも。
「俺様は、まだ、生きていていいんだって、思えたんよ」
 その偶然が、どうやら、この小林とかいうガキを、生かしたらしい。
 ――まあ、そういうこともあるんだろう。
「そりゃよかった」
「兄さん、本当に無関心極まりねえよな。前に見た時も思ったけど」
「意識的に無関心にならんと、やってらんないことが多すぎてね」
 小林のどこか非難混じりの視線を、軽く受け流す。そういう風に言われることには、慣れていたから。
 小林は、俺の言葉が意外だったのか、青と緑の目をきょときょとさせてこっちを見ていた。だが、すぐに気を取り直したのか、苦笑交じりの笑みを浮かべて言う。
「ま、話はそれだけ。引き止めて悪かったな」
「いや、興味深い話ではあった。ありがとな、コバヤシ」
「こちらこそ。んじゃ、またな、兄さん」
 ひらり、と手を振って、小林はほとんど駆け出すような早足で、日の光に満ちた町に向かっていった。
 またな、ってことはまた顔を合わせるとでも思ってるんだろうか。まあ、同じ事件を追っていれば、そのうち鉢合うこともあるのかもしれない。かつて蜻蛉で、今は人間になったと言い張る、異相のガキんちょに。
「しかしまあ……、蜻蛉の恩返し、ってのもなかなかオツなもんだねえ」
 恩返し、として与えられた情報をどう使うかは、俺次第だけれども。
 単なる妄想しか思えない『元神様』という主張、それにしては妙な確信に満ちた、もう一人の重要参考人についての情報。それらを、どのように判断すべきか、まだ、わからないでいる。
 俺の頭の中に居座るあの記憶を、どう扱っていいのかわからないのと、同じように。
 ポケットの中で溶けかけていた飴を、もう一つ口に放り込んで。入道雲の立ち上る空を見上げて、溜息一つ、熱に満ちた町へと一歩を踏み出した。