「おやすみ」
耳元で囁く声は、眠りに誘われかけた俺の意識を、一気に覚醒させた。「おやすみ」って言ってるってのに、皮肉なもんだ。
いつにも増して痛む頭を片手で押さえて、窓の外を睨む。流れていく風景は、見慣れない田舎町。だが、目にするのは二度目だ。
檜山志郎が、発見された町に定住することになったと聞いたのは、檜山と面会した日から一ヶ月が過ぎた頃だった。天狗山の屋敷に住み込みで働いている、と聞いてあの小林とかいう奇天烈なガキの姿を思い浮かべたが、事実関係を確かめる気にはなれなかった。
以来、俺は檜山の顔を見ることはなく、無意味な一年を過ごしていた。
そして今、特に深い意味もなく、檜山のいる町へと向かうバスに揺られていた。
結局、檜山が例の事件とどう関わっていたかは、あれから一年以上が過ぎた今も不明。ただ、檜山が発見された後も、あちらこちらで、血を抜かれて殺されている人間が見つかったことから、檜山に対する疑いは薄れつつあるようだ。
そして、あの日小林から「行方を追え」と言われた橘信彦の行方も、未だわからないまま。警察側も、橘が単なる被害者ではないと思い始めてはいるが、しかし、捜査は遅々として進んでいない。
そうして、日々死体だけが増えている。今もなお、あいつと同じ思いをして死んでいく奴が、増えている。
――俺は、何をやっているのだろう。
あの事件から、噛み合わせが狂ってしまった歯車を、どうすることもできないまま。事件の真相を追い求めることも許されないまま。ただ、生きて、息をしているだけの日々を送っている。
何をやっているのだろう。本当に。
バスが目的地の名前を告げたから、とりあえず小銭を払って、熱したアスファルトの上に降り立つ。
今年も、しつこい暑さが続いている。足下に転がった蝉の死骸も、既にからからに干からびていた。
――どこへ行こうか。
檜山の顔を見たい、と思わないわけでもないのだが、何しろ檜山はこちらのことを覚えちゃいない。一年前に会った時、困惑と不安の色を浮かべていたこともはっきり覚えていたから、行き先からは除外することにした。
結局、あてもなく、ふらふらと道を行くことにする。そして、帽子を持ってくればよかった、と十歩歩いた時点で後悔した。この日差しを直接浴びるのは、冗談を抜きにして致命的だ。
早くどこか屋根の下に逃げ込むべきだ、と辺りを見回していると、突然、冷たい風が肌を撫ぜた。薄荷の香りを乗せた、場違いなほどの涼風。
その風が吹いてきた方向に、思わず視線を向けて、ぞっとした。
そこにあったものが、墓場であったから。
オカルトは信じない主義ではあるが、不気味なものは不気味だ。どうあれ、さっさとここを離れて、店にでも入ろう――と思いかけて、あることに気づく。
人気のない墓場に、誰かが立っている。
俺の視力は自慢じゃないがとことん低い。眼鏡がなければ、目の前にいる人間の顔も判別できない。眼鏡をかけていても、少し離れるだけで、ぼんやりとした像しか捉えられなくなる。眼鏡を直せ、と散々上司から言われているものの、どうも面倒くさくて先送りにしている。
ただ、そのぼんやりとした像でも、何となくわかることもある。
ぽつんと立っているその人が、金茶の髪をしているということ。
何も知らなければ、微かな違和感こそ覚えただろうが、何でもない風景の一部として通り過ぎていたはずだ。けれど、俺は、あの色をしたガキと、一度話したことがあった。檜山志郎のこと、あの事件のこと。俺が知りたかったこと。
それに思い至った瞬間に、ふらりと、そちらに向かって足を踏み出していた。一歩、また一歩と近づくにつれ、曖昧だった視界も記憶も鮮明になっていく。
そして、眼鏡越しに顔を把握できる位置まで近づいたところで、記憶に浮かんだ名前を呼ぶ。
「……コバヤシ?」
細い身体に浴衣を纏ったガキは、びくりと肩を震わせて振り向いた。見開かれた青と緑の目が、何のてらいもなくこちらを見つめてきて、何とも居心地の悪い心持ちになる。
が、それ以上に、小林の目が、さんざん泣きはらしたように、真っ赤になっていたことに驚く。
小林はすぐに目を浴衣の袖で拭いて、去年病院で出会った時に見せたのと同じ笑顔を浮かべてみせる。
「よう、兄さん! 一年と十四日ぶりだな」
「覚えてたのか」
「兄さんほど特徴的なら、誰だって忘れねえって。ま、そうでなくても、俺様、何もかも忘れられねんだけどさ」
忘れられない。その言葉の意味をはかりかねていると、小林はからころ下駄を鳴らして近寄ってきて、俺の目の前に指を突き立てた。
「兄さん、完全記憶能力ってご存知?」
「見聞きしたものを、丸ごと劣化なく記憶する能力だな。お前、そんな能力持ってんの?」
普通、そういう極端な能力者は、人として大切な部分を欠損していることが多い。いわゆる「サヴァン症候群」がわかりやすい例で、一部の知的障害者が、ある特定のジャンルには人間離れした才能を示す、というものだ。その中には、記憶能力も含まれる。
とはいえ、小林にそんな様子は見えなくて、外見と主張さえ除けばごく普通のガキだ。その「外見と主張」の時点で、大概おかしいと思わなくもないが。
そんな俺の思いを知ってか知らずか、小林は、自慢げに笑ってみせる。
「何、疑ってる?」
「疑ってしかるべきだが、んなつまらん嘘ついても仕方ないとも思うね」
「相変わらず、妙に物分りいいのな。俺様も楽だけど、ちょっと肩透かし食らった気分だ」
「疑ってもらいたければ疑ってあげるけど、捜査でもないのに人間を頭っから疑ってかかるのは疲れるだけだよ」
「そっか、人を疑うのが仕事だもんな。そればっかじゃ確かに辛えや」
人のことを言えないくらい物分りのよい納得の仕方をした小林は、改めて俺を真っ直ぐに見据えてきた。
「例の事件、捜査進んでる?」
「いや。俺が知ってる限り、全くだね。あれから一年以上も経ってるってのに、後手後手にもほどがある。警察は死体処理係か、なんて罵られる始末だ」
耳が痛いね、と言いながらも、実際の捜査に加わっているわけでもない俺は、どこか他人事としてその事実を受け止めている。仮に、捜査に加わったところで役に立てるとも思えなかったから、上の采配に異を唱える気はないが。
小林も、こちらの答えは想定の範囲内だったんだろう、「そ」と言って俺に背を向けた。からん、と一際高く鳴る下駄の音。長く伸ばされた金茶の髪が、浴衣の背中で尻尾みたいに揺れている。
小林の視線の先にある、ちいさく古そうな墓には、「小林」の文字があった。家族の墓なのだろうか、と思っていると、俺に背を向けたままの小林が、しゃがれた声で言った。
「折角、こんな田舎まで来たんだ。うちに寄ってかない?」
「いいのか」
「ん。ちょうど、今日は俺様一人だから誰に迷惑かけるってこともねえし。兄さんのお友達のシロウも、今日はちょいと用事があって不在なんよ」
その言葉に、露骨に安堵してしまう自分に気づく。どうやら俺は、本格的に檜山と顔を合わせたくないらしい。小林も、そんな俺の感情の遷移を目ざとく読み取ったのか、苦笑を浮かべてみせた。
「それに、兄さんとは、もう一度、きちんと話をしてみたいって思ってたんだ。兄さんは、そう思ってないかも知れないけどさ」
小林は、ちらりとこちらの表情を窺った。俺は、そんな小林に、どういう顔をしていいかわからなかった。だから、表情に出す代わりに、はっきりと言葉にする。
「いや。俺も、お前の話には興味があるからね。お邪魔させてもらえるなら、喜んで」
「はは、喜んでるようには見えねえけど」
小林は心底おかしそうに笑って、ちいさな墓に向かって声をかけた。
「じゃあな、お袋。明日また来るよ」
ちりん、と頭上で風鈴が鳴る。
案内されたのは、天狗山の中腹にある小林の家――屋敷、だった。森の中に忽然と現れた屋敷は、外界の熱など嘘のように、ひんやりとした空気に包まれていた。何とはなしに、小林だという巨大蜻蛉と出会った時の風と、よく似た匂いだと思う。
やたら広い割に人気のない屋敷の縁側で、ぼうっと風鈴の音を聞いていると、小林が盆を持って戻ってきた。
「麦茶、よかったらどうぞ。あ、酒の方がよかった? 缶ビールならあるけど」
「いや、酒はダメなのよね」
「その顔でかよ。本当に見かけによらねえのな、兄さん」
「よく言われる」
別に、自分ではそう凶悪な面構えのつもりはない……、嘘だ。最近、鏡に映った凶相に、自分の顔だというのに怯えてしまったことを思い出す。眼鏡をかけたまま、鏡を見るものじゃない。
自分自身でそうなんだから、外から見たら相当恐ろしい顔つきに見えているんだろうなあ、と他人事のように思いながら、盆に載っていた皿に目をやる。
「こっちは、羊羹?」
「そ、水羊羹。甘いもんは平気?」
「大好き」
「その顔……、や、もう何も言うまい」
同じ台詞を繰り返すことを避けたのだろう。賢明な判断だ。
どうぞ、と言われたので遠慮なく甘味をむさぼることにする。暑いときには甘いものに限る。寒いときも甘いものが恋しくなるが。要するに一年中甘いものがあればそれでいい。
小林が用意した羊羹は、なかなかに美味だった。甘すぎず、しっかり小豆の味がする。滑らかに舌の上で溶け出す感覚はたまらないものがある。相当高級な羊羹に違いない。ゆっくりと堪能することにする。
ただ、食っているばかりでも仕方ないので、適当に話を切り出すことにする。ふと目を上げて、目に映ったものを竹楊枝で指す。
「きれいな風鈴だな」
透き通った薄い硝子の上には、大きな鰭を持つ、銀色の魚が泳いでいる。空を飛ぶ鳥のように見えなくもない。
「いいだろ。俺様が選んできたんだぜ」
「意外とセンスいいんだねえ」
「何でほぼ初対面の相手に『意外』なんて言われなきゃならんの……」
いや、だって、何か阿呆っぽいじゃんお前。
そう言いたい気持ちは、胸の奥に閉じ込めておくことにした。流石にこれも、ほぼ初対面の相手に言っていい台詞じゃない。まあ、大方気づいてくれているとは思うが。
小林は、極めて微妙な目つきで俺のことを見つめていたが、やがて風鈴を見上げ、小さく息をついた。
「これ、お袋のために買ってきたんだ。お袋、今年入ってからずっと寝付いちまっててさ。今年も暑くなりそうだから、せめて、少しでも涼しい思いしてくれりゃいいなって」
そこまで言ってから、小林は「そうそう」と一瞬だけ俺に視線を向けて、いつになく弱々しく笑う。
「もちろん、お袋っつったって、実の母親じゃねえよ。俺様は、ここから遠く離れた世界からやってきたから、当然身寄りなんてねえ」
また例の妄言か。
そう、思いはしたけれど、これも口には出さなかった。出せなかった、と言った方が正しい。
風鈴をじっと見つめる小林の横顔が、初めて、脆く傷つきやすい年頃の子供に見えてしまったから。
「だけど、お袋は、嫌な顔一つせず俺様の『母親』になってくれた。この世界に生きていく上で大切なことを教えてくれた。母親ってこういうもんなんだな、って初めてわかった。いつの間にか、俺様にとって、一番大切な人になってた」
ぽつり、ぽつりと。乾いた声で落とされる言葉に、感情の色は見えなかった。けれど、顔を見なくたってわかる。小林は、堪えている。今にも溢れそうな感情を、理性で無理やり抑えつけて、言葉だけを俺に伝えようとしていた。
その姿が、やけに痛々しくて、俺はついその言葉に割って入っていた。
「……お袋さんは」
わかっている。さっき、墓を前にして、小林は確かに「お袋」と言っていたから。それでも、聞かずにはいられなかった。
そうして、小林は思っていたよりもずっと自然に、こう言った。
「死んだよ。二週間前の話」
「そうだったのか。冥福をお祈りするよ」
「ありがと」
そう言って、麦茶をぐいと飲み干した小林は、乱暴にグラスを盆の上に置いて、言葉を紡ぐ。
「わかってたんだ。お袋がそう長くないことくらい。人間が、どうしようもなく脆いことだって。それでも、駄目だな。距離が近くなればなるほど、別れは、辛いもんだ」
刹那の沈黙。それから、小林は風鈴に向けていた視線を俺の方に戻した。
「……本題に移ろうか」
そして、力なく笑った。
何と言うべきかわからなかったから、俺はただ、頷くことしかできなかった。
小林は、「ちょい待ち」と言ってぴょこんと立ち上がり、部屋の隅に置かれていた箪笥から、何かを引っ張り出して戻ってくる。
「兄さん、こいつらの顔、見たことある?」
見せられたのは、一枚の写真だった。
右下の日付は二〇〇〇年、七月二十三日。祭にでも行くつもりなのだろうか、黒板を背景に、浴衣に身を包んだ高校生くらいのガキが三人写っている。
そのうちの一人は、見間違えようもない、小林本人だ。三人の中でも一番浮かれた様子で、満面の笑みを浮かべている。
そして、もう一人の顔も知っていた。
「こっちは、タチバナ・ノブヒコか。一年前から行方不明になっている、当時高校一年生」
その言葉に、小林は「さすが、よく調べてらっしゃる」と俺の言葉を認めた。
昨年の時点では、小林巽と橘信彦の関係はわからなかった。あえて深く問うこともしなかった。だが、この写真を見る限り、この二人は友人同士であったらしい。俺と檜山が、そうであったように。
小林は、横合いから写真に写るもう一人、黒髪で色白の少女を指差す。浴衣がよく似合う、儚げな印象の美少女だ。
「こっちの子はわかる?」
「知らないな。俺が調べた範囲では、見覚えの無い顔」
事件に巻き込まれた連中の家族とか関係者というわけでもなさそうだし、ましてや被害者にもこの娘と同じ顔の奴はいなかったはずだ。
「そっか。記憶操作が働いてたんだから、当然といや当然か」
何のことかさっぱりわからないが、ろくな話にならなさそうなので、突っ込んで聞くのはやめた。説明を求めたところで、捜査の役に立たなきゃ意味がない。
「この子の名前は、シノダ・ユリってんだけど……。ああ、調べても多分無駄だぜ、記録上は数年前に死んでるはずだから」
「記録上ってことは、このお嬢さんは死んでるわけじゃないってこと?」
「ノーコメント。説明しても兄さんは信じない領域」
「わかった」
まだ三回目、言葉を交わしたのは二回目なんだが、このガキ、相当俺の扱いに慣れてきてるな。俺としても面倒くさくなくていいんだが。本当に気になるなら、もう少し突っ込んで聞けばいいだけだから、まずは話を先に進める。
「お前は、タチバナ・ノブヒコの知り合いだったんだな」
「そう。こいつらが、俺様の最初の友達なんだ」
もし、こいつが言ってることが全て正しいなら、小林は二年前に他の世界からここにやってきて、気づけばこの世界の住人になっていた。見かけは高校生くらいのガキだし、言ってることも年相応……、よりも少し上かもしれない。口調や仕草こそガキっぽいが、頭ん中は相当冷静で回転も速いみたいだから。
とにかく、見かけとは裏腹に、人並みに育ってきてないらしい小林が、同い年くらいのガキと付き合う機会なんて、今までそうそう無かったんだろう。
こいつの言葉をどこまで信じていいのかは、さっぱりわからないままなのだが。
信じられることといえば、この写真の中で、三人が三様の表情ではあるが、確かに笑っているということだけ。
「仲、よかったんだな」
多分な、と。小林は控えめに俺の言葉に応えて、それから言った。
「だけど、あの事件に関わっちまって、二人ともいなくなっちまった」
連続吸血殺人事件。俺の目から見る限り、徹頭徹尾意味不明な事件。小林から見る限りは、答えは大体わかっていても、どうすることもできないらしい、事件。
「もう、同じ形には戻れないと思う。ユリは消えて、ノブは、俺様の前から飛び立っていったから」
窓の外に広がる青い空を見上げて、小林は、硬い声で呟く。
「それでも、何もかもが手遅れになる前に、止めてやりたい。二度と元に戻れなくても、俺にとって、あいつらは大切な友達だから」
二度と、元に戻れなくても――。
あの頃と何一つ変わらない顔をしているのに、全くの別物になってしまった、檜山のことを思い出す。
正直、俺は今の檜山について、どう考えていいかわからないままでいる。小林のように、変わったところで友達だと言い切れるわけでもなく、だからと言って全くの他人だと割り切れるわけでもなく。
しかも、檜山はあの事件の関係者だ。犯人ではないかもしれないが、俺は確かにあの瞬間、青い光の翼を生やした檜山の姿を見ている。だというのに、何故檜山がそこにいたのかもわかっちゃいないから、ぐるぐると、答えの出ない問答を頭の内側で繰り返している。
そんな中途半端な思いを抱えたまま、檜山の前に立つことなんざ、できやしない。小林みたいに、無邪気に友達って言葉を認められるわけじゃないんだ。
面倒くさい。我ながら、しち面倒くさい奴だ。
いつの間にか自分のことに結びつけて、勝手に落ち込んでる俺に対し、小林は苦笑と共に小首を傾げてみせた。
「……なんて、兄さんには関係ない話だったな。悪い、変なこと言って」
「別に、悪いことなんてないよ」
「興味のない話聞かされても、迷惑じゃね?」
「興味ないってこともないし、迷惑だとも思ってない。ああ、つまらなそうな顔してるかもしれないけど、これは俺にもどうしようもなくってね」
よく言われるのだ、何を考えているのかわからない、だとか、こっちの話聞いてないんじゃないか、だとか、少しは面白そうな顔したらどうだ、だとか。
それが簡単に出来たら苦労はしない。昔はできてただろう、って言われても、今できないんだから仕方ない。ただ、それを言わないで相手に不愉快な思いをさせるのは、流石に本意じゃないから、念のため言っておく。
「お前が、友達のことを大事に思ってるのは、伝わったよ。できれば、協力だってしてやりたいけど……、どうにも、俺じゃ力不足だな」
一年間、特に進展の無い時間を過ごしてきてしまった身としては、小林の真っ直ぐな思いに応えるには、どうにも頼りなさすぎる。
そんな俺に、小林は一瞬呆気に取られたような顔をして、それからくしゃりと表情を歪めた。笑顔の中に、ほんの少しだけ、泣き出しそうな引きつりを混ぜて。
「兄さん、つくづくイイヤツだよな。俺様が嘘ついてるとか、思わないわけ?」
「お前の言葉を信じるかは別として、お前が嘘をついてるようには見えないよ。嘘つくの、下手そうだ」
あはは、と小林は愉快そうに笑って、俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「ありがとな、兄さん」
どうして、礼を言われるのかもわからず、首を傾げる。すると、小林は立ち上がって、俺を左右非対称の目で見下ろしてきた。
「兄さんの気持ちは嬉しいけど、これは俺様の問題だからさ。最終的には、俺自身でどうにかしなきゃならんことだ。ただ、もしノブの行方について何かわかったら、教えてくれ」
「ああ。そっちも、もし俺に言えることができれば、教えてくれると嬉しい」
もちろん、と小林は笑って、家の電話番号をメモして俺に寄越してきた。代わりに、俺もプライベート用の携帯番号を教えておいた。同じようにメモを書こうとしたら、一回言ってくれれば二度と忘れない、と言われてしまった。すごいな完全記憶能力者。
その後は、しばし下らない話を交わし、日が暮れる前に小林邸を後にして、帰途につく。
何を得たわけでもないけれど、小林と会話をしているうちに、気分が幾分楽になっていたことに驚いた。本当に、何が変わったわけでもないというのに。俺のこの行き場の無い感情を、どうにかできたわけでもないというのに。
電車の中で、やたら綺麗な文字で書かれたメモを眺めながら、そんなことを考える。明日からまた、代わり映えのしない毎日が待っているのだろうけれど、今だけは少しだけ、それを忘れていたかった。
そして――結局、小林からの連絡はなかった。
夏の青亭