夏の青亭

一九九九年七月三十一日

 その日の空は、腹立たしいほどに青かった。
 
 耳どころか体全体に染み込むような蝉の声に、一体、あの小さな体のどこからそんな声が出てくるのかと思わずにはいられない。
 七月の終わり。ノストラダムスの大予言は結局外れだったのか、今日も今日とて、空から殺人的な日差しが降り注いでいる。
 案外、恐怖の大王とは紫外線のことだったのかもしれない。この日差しが一年丸々続けば、確実に人類は衰退していくだろう。なるほどご明察、なんて下らないことを考え続ける気力も、とうに失せていて。浮かびかけた思考は、すぐに、汗と一緒に体の外へ流れ落ちてしまう。
 顎から滴り落ちる汗を拭いて、ペットボトルの蓋を開ける。しかし、五百ミリリットルのペットボトルでは、体から奪われていく水分を取り返すには到底足らなかった。さっき買ったばかりだというのに、もう最後の一滴となってしまったそれを、一抹の名残惜しさとともに飲み下す。
「帰りたいなー……」
 正直な感想が、つい、漏れる。
 別に帰る先は家じゃなくていい、日差しの差し込まない、クーラーの効いた部屋でさえあれば、それこそデスクに山と積まれた書類の山だって、喜んで受け入れてやる。
 だが、何度瞬きしても、ここは青い空の下。木陰とはいえ、熱はじりじりと肌を焼く。待つことがお仕事とはいえ、これは、本当に、辛い。
 もし、ここで倒れて救急車で運ばれたら、向こうさんの罪になってはくれないだろうか。「張り込み中の刑事を散々炎天下の下待たせ続けた挙句熱中症に侵した罪」とか。無理か。そうか。
 とにかく、今すぐこの状況を変える力は、俺にはないわけで。捜査の進展ないし中止を心から待ち望むしか、ない。
 すぐそこのコンビニで、スポーツドリンクとアイスでも買ってこようか、とポケットの中身の小銭を確かめたその時。
 ざあ、と。
 やけに冷たい、風が吹いた。じめじめと肌に張り付いてくる熱を一気に吹き払い、すうっとした、心地よい香りを伴う、涼風。
 蝉の声もぱたりと止み、妙な静寂に包まれた空間で、ふと、木の葉越しに空を見上げたその時。
「何、あれ?」
 思わず、声が出ていた。
 空からこちらに向かって、巨大な何かが落ちてくるのが見えた。長い翅を持った、青い、虫のような……。
 そんなことを考えている間に、「それ」はみるみるうちに高度を下げ、俺のいる公園のど真ん中にその巨体を叩きつけようとしていた。
 着地に音はなかった。ただ、身を切るような冷たい風が、落ちてきた「それ」を中心に巻き起こって、むき出しだった腕で、反射的に体を抱えていた。
 ――寒い。
 どうなってるんだ、と恐る恐る「それ」を窺う。
 公園の中心にだらりと伸びた「それ」はやっぱり虫だった。紛れもなく虫だった。空をそのまま透かしたような青い色と、細長い体をしていて、それこそまともに広げたら公園の端から端まで届いてしまいそうな翅をした、蜻蛉。
 ちらほらと公園で遊んでいたガキどもや、公園の前を通り過ぎる通行人は、急に涼しくなったことに驚いた顔をしながらも、この巨大な虫には構わず通り過ぎていく。
 もしかして、俺にしか見えていないのだろうか。こんな異常な光景、普通なら足を止めるか、逃げ出すかしてしかるべきだろうに。
 まあ、かく言う俺も、別に何をするでもなく、ただベンチに腰掛けたまま、微動だにしない「それ」を、ぼうっと見つめているだけではあったのだが。
 しかし……、本当に何だ、これ。
「恐怖の、大王?」
 まさか。頭の中で、ふざけたことを言わずにはいられない、もう一人の俺を軽く小突く。
 そんな不毛な一人芝居を脳内で繰り広げていた、その時。
「それ」が、ゆっくりと頭を上げて、こっちを見た。見た、んだと思う。俺の声が聞こえたのか、ぐるりと顔をこちらに向けたのだけは、わかった。
 見れば、片方の目は無残に潰れていて、片方だけの緑色の複眼が、磨き上げられた鏡のように、周囲の風景を幾重にも映しこんでいる。
 そういえば、蜻蛉は肉食の虫だったはずだ。ガキの頃、捕まえた蜻蛉に噛まれて痛い目に遭ったことを思い出し、ぞっとする。あんな小さな蜻蛉でも、指の肉を噛み千切られるかと思ったんだから、こいつの顎に噛まれたら、頭丸ごと持ってかれてもおかしくない。ロックオンか、ロックオンされてるのか、俺。
 どうやってこの場から逃げようか、と全力で頭を回転させてみるが、何しろ俺の体はベンチの上にあるわけで、まずここから立ち上がり、それからいずれかの方向に走る必要がある。その二拍の間に、「それ」が頭を伸ばしてぱくりとやれば即アウトである。おお、のんびり座っている場合ではなかった。
 ……なんて、下らないことをつらつら考えていられる程度には冷静だったし、こいつが本当にぱくりとやってくるとも思えなかった。何を言われたわけでもないのに、そんな確信が胸の中に浮かんでいたのだ。
 実際、「それ」はじっとこちらを見ているだけで、やがて、ゆっくり頭を地面の上に落とした。だらりと伸びた体や、重そうな頭を見る限り、どうも疲れきっているように見えた。
「どうしたの、暑いの?」
 声をかけてみると、「それ」は無言で、しかし確かに首を小さく縦に振った。こっちの言葉は聞こえているし、通じているらしかった。何となく面白くなって、ついつい、言葉を続けてしまう。
「最近、真夏日続きで嫌んなっちゃうよね。まだ八月にもなってないってのに」
 同意の頷きが返ってくる。それから、微かに首を傾げてきた。同時に漂う、すっとする薄荷に似た香り。それだけで、不思議と、「それ」の感情が伝わってくるようだった。明確な言葉にはなっていなかったけど、一定の指向性を伴ったそよ風。
 それをどこまで正しく読み取れてるかはわからなかったけれど、俺は、感じたとおりに答えを返す。
「変な光景だとは思うけど、目に見えてるものを疑う気はないよ。あんたは空から降ってきて、俺は偶然ここにいて、何故かあんたが見える。それだけ」
「それ」はやっぱりきょとんとしていた。言葉がわからないというわけではなさそうだが、果たして俺の意図は、どれだけ通じていたのだろうか。まあ、通じていようがいまいが、俺には関係のない話だけれど。
 まじまじと俺を見つめてくる「それ」の複眼に、明確な感情は見えない。ただ、周囲に漂うひんやりとした空気の温度や匂いが、徐々に、弱まっていることだけはわかった。よくよく見れば、最初から「それ」越しに後ろの風景が透けて見えていたけれど、更に「それ」の存在感が薄まっているような気がする。
 暑い、という言葉に頷いていたし、相当参っているのかもしれない。虫面から、それ以上のことを判断することは出来なかったけれど。
「辛いのか? あー、ちょっと待ってて……、ってわかる? ここで、待ってて」
 わかってるのかわかってないのか、「それ」はじっとしたまま動かなかった。
 俺が立ち上がっても、「それ」が追ってくるような気配はなかった。だから、そのまま公園を出て、公園の外の暑さに閉口した。「それ」の側にいる時には全く熱を感じなかったのに、一歩公園を出たらこれだ。乾き始めていた汗が、どっと溢れる嫌な気配を感じながら、何とかすぐ側のコンビニに辿り付く。
 そして、戻ってきた時には、さらに「それ」の形が薄れていて、ほとんど空気に溶け込んでいた。一瞬、「それ」の輪郭を、真面目に探してしまった。
「それ」は、少しだけ頭を持ち上げて、片側だけの複眼で俺を見た。だから、コンビニ袋から買ってきたものを取り出して、示してやる。
「ほら、水」
 二リットルペットボトルは重かった。これ一本で「それ」が満足してくれるとも思えないが、数本買う気にもなれなかった。俺の分も必要だったし。
「……って、あんた、飲めんのかな。何か透けてるけど」
 ペットボトルの蓋を開けて、とりあえず「それ」の口に持っていく。やっぱりというか何というか、突き出した腕は、口と思しき部分をすり抜けた。何かに触れた感触はなく、ただ、更に冷たい空気が肌を撫ぜただけだった。
 これでは買ってきた意味もないだろうか、そんな風に思いはしたが、「それ」の口の上辺りでペットボトルをひっくり返してみる。そのまま、水が「それ」をすり抜けて真下に落下していく光景を想像したが、現実は違った。
 何故か、水だけが、「それ」の体表を伝って口に運ばれていく。透き通った青い輪郭の上を、透明な水が流れていく光景はなかなか壮観だった。しかも、口の中に入った水は、どこへともなく消えてしまって、透き通った体の中には見えない。謎めいた仕組みで、「それ」は無言のままに水を飲み続けていた。
 もちろん、二リットルペットボトルの中身なんて、すぐに空になってしまうわけだが、そのことに文句を差し挟もうともせず、「それ」は先ほどよりも色を取り戻した頭を、ぺこりと下げた。感謝のつもりらしいことは、伝わってきた気配からも明らかだった。
「別に、こっちも涼しい思いさせてもらってるしね。こいつも食べてみる?」
 俺が食べたいから買ってきた、棒つきすいかアイスの袋を開けてみると、「それ」は興味津々といった様子で俺の手元を覗き込んできた。恐ろしげな顔の中に、奇妙な愛嬌も垣間見える辺り、俺の頭がどうかしてしまったのかもしれない。
 ともあれ、チョコの種が入った、すいかの形をしたアイスを差し出してみると、これまた器用にアイスの部分だけを顎で噛んで持っていった。あんな顎でよくやるもんだ。
「おいしい?」
 顎をもごりと動かして、重々しく頷いてみせる。どうやらお気に召したらしい。
 とはいえ、もう一つのすいかアイスは俺のものだ。自分用に買った方を開けて、再びベンチに腰掛けてもぐもぐやる。周囲の空気が冷たいから、火照っていた体もすっかり落ち着いていた。
 どうしてすいか味と主張できるのか不思議な味の赤いアイスをもぐもぐしていると、ぐったりとしていた「それ」がゆっくりと体を持ち上げた。よくよく見れば、皺のよっていた翅もすっかりぴんと伸びて、青すぎるほどに青い天を指している。
「行くの?」
 俺の問いに、「それ」はこくりと頷いた。
 この巨大な蜻蛉が、どこから来て、どこへ行こうとしているのか、俺は知らない。別に、特別知りたいとも思わない。だから、
「そう。じゃ、お達者で」
 それだけを言って、手を振った。
「それ」はもう一度だけ小さく頷いて、片方だけの複眼で空を見上げる。そうして、大きく、翅を震わせた。
 空気が渦巻くのは感じられたけれど、それ以上の衝撃はなかった。思わずそちらに駆け寄ると、墜ちてきた時と同じように、音もなく、ただ、冷たい空気だけを辺りに満たして、巨大な蜻蛉は空へと浮かび上がる。
 そして、こちらを振り返ることもなく空へと昇り、やがて、青の面色に溶け込んで消えてしまった。
 途端、冷たいそよ風も止み、一瞬前までの涼しさが嘘のような圧倒的な熱と、雨のごとく降り注ぐ蝉の大合唱が戻ってきた。思い出したように溢れてくる汗を拭って、ワンテンポ遅れて仕事中だったことを思い出す。
 まあ、連絡もないし、問題はないのだろう。そういうことにしておいて、改めてベンチの背もたれに寄りかかる。溶けてしまう前に、棒に残っていたすいかアイスの一欠けを舐め取って、それから、頭の中に浮かんだ言葉を何気なく呟く。
「……何だったんだろうなあ、あいつ」
 恐怖の大王、にしては人畜無害そうだったし。あの冷気を冬場に撒き散らされたらたまったもんじゃないが、今は夏だ。どこまでも夏だ。嫌んなっちゃうくらい夏だ。そんな中に現れた巨大な蜻蛉は、恐怖の大王どころか、恵みの神様か何かだったのかもしれない。
 とはいえ、俺は神も仏も、もちろんノストラダムスの大予言も信じない主義であって。
 それ故に。
「まあ、いいか」
 謎の生物との邂逅は、あっさりと、俺の中では無かったことになった。
 
 ……その時は。