「すっげぇな……」
思わず、感嘆の息も漏れるってもんだ。
これが、世界樹か。近くで見てみると全然違うな。雲よりもずっと高く伸びている樹なんて、俺の世界には存在しない。
じっと樹を見ていると、樹の周囲を何かが飛んでいる。白い……鳥? いや、鳥にしては妙にデカくないか。樹があまりにもデカいもんだから、どうも遠近感が狂っていけない。
「なあ、アレは何だ?」
俺が指差すと、テレサが世界樹に目を向けたまま教えてくれた。
「ああ、アレが竜だよ。ユーリスを守る白き竜」
竜。ドラゴン。
ファンタジーの代名詞的存在だ。ここからじゃ遠すぎて、白くて翼を持った何かにしか見えないが、竜が生まれた経緯は鋼鉄狂の研究所で少し調べたから知っている。女神ユーリスと世界樹の世界創造に関わる、結構重要な話だ。
まず女神ユーリスは世界を創り、世界樹から生み出された生き物の一部に知恵と言葉を与えた。それが『人族』である。
女神様は自ら手を下すことなく、人族の皆様に『楽園』をよりよくしてもらおうと思ったのだが、どうもてんでバラバラ、好き勝手に動くだけで上手くいかない。果てにはお互いに争いあい、折角の『楽園』を荒らしていく始末。
しかも、その頃には動物や植物が濃い魔力に汚染され変質した生物、『魔物』が人族をはじめとした生物を脅かし始めていた。
そんなわけで女神様も重い腰を上げたわけだ。
まず空の上に船を浮かべ、そこに五人の人間を創った。そいつらは『使徒』と呼ばれている。第三新東京に現れる謎の生命体じゃねえぞ……ってこれもネタとしては古いな。新劇場版だって十年くらい前の話だろ、確か。
空の上で生み出された五人の使徒は、『楽園』の人間よりも遥かに高い知識と力を女神から与えられた。
そして、同時に女神様は『楽園』を守るための新たな生物を創りあげることにした。
それが、この空を飛んでいる竜を初めとした五色の竜である。どうやらこの世界で竜と呼べるのは、この世界創造時に創られた五匹だけのようだ。
女神様はいくら力があっても一人しかいない。そんなわけで、自分の腕や目となるものが欲しかったらしい。かくして五人の使徒にそれぞれ竜を与えた女神は、どうか自分の代わりに空の上から人族を導き、『楽園』をその名に相応しい平穏な世界にしてくれ、と頼んだ。
しかし色々あって使徒は散り散りになり、また竜も一体また一体と滅びていき、結局現在『楽園』に残っているのはユーリスと世界樹を守る白き竜、そして空に浮かぶ船に残った青き竜のみだとされている。
その、超レアな竜が今俺の視界の中を飛んでいる、というわけだ。
「あの竜が空を守っているお陰で、戦時中飛行船を多用したレクスも、ユーリスを空から攻められなかったという話だよ。ただ、今も空を飛ぶものを見境無く落としにかかってくるから、ユーリスでは飛行船はご法度なのさ」
「なるほど、だから船で移動だったんだな……」
まあ、俺の場合船だろうと飛行船だろうと船酔いの度合いはきっと変わらなかっただろうが。そして船酔い、という言葉を思い出すとすぐに気持ち悪くなれる現金な俺の体。忘れていればよかったのに、また何か胃の中がぐらぐらしてきたぞ。
再びしゃがみこみ、意味不明の唸り声を上げながら、俺はただただユーリスへの到着を待つことしかできなかった。
無言で俺を見下ろす、澄み渡った何処までも青い空が今日ばかりはちょっとばかり恨めしい。ま、この様子じゃ曇り空でも雨空でも関係なく恨めしかったんだろうがな。
それから少しして。
船は無事にユーリス神聖国の玄関口、サンプロトに到着したのであった。
「ふふ、揺れない地面って、こんなにありがたかったんだな……ふふふ」
「シン……何だか見ているこっちまで情けなくなってくるよ」
仕方ないだろ、これは体質だ。努力でどうこうできるもんでもない。そんな反論も頭の中に浮かびはしたが、とりあえず俺は硬い地面を踏みしめた喜びを堪能することで精一杯だった。
もう、船旅なんて二度としたくない。だが、これからレクスに渡る時にも間違いなく船か何かに乗るハメになるんだろうな。今からちょっと覚悟しとく必要がありそうだ。何でこの世界、大陸が存在しないんだ……
俺は気を取り直して港を見渡す。港の造り自体はワイズの港とそう大きく変わりはなかったが、建物は全体的に鮮やかな白を基調としていて、空や海の色と相まって不思議なコントラストを生み出している。イメージとしては、ギリシアの町並みって感じだな。
また、辺りに生えた植物の色も、ライブラに比べたら随分鮮やかだ。この辺は、ユーリス国が世界樹を擁していて、世界樹が発するマナが植物や動物の成育を活性化させていることも影響していると思われる。
元々マナというのは魔力の源だが、それ以上に生物を育成するために必要不可欠な成分でもある。もちろん多すぎると魔物になってしまったり、人間であれば肉体や精神を蝕まれたりと色々問題があるのだが。
ただその辺は、他の養分だってそうだろう。例えば糖分は人間の体を動かす大切なエネルギーだが、甘い物が好きだからって甘いものばっか摂取してると太るし体の調子壊すし果てには病も併発するしでろくなことにならん。それと変わらない。
俺は甘い物大好きだが、その辺はきちんと調整しているぞ。
ともあれ、俺の世界にはないマナも、結局はこの『楽園』においてはその程度の「当たり前」な存在なのだ。ただそれが「魔法」という俺の世界からすれば異様極まりないものを生み出す力である、というだけ。
こんなこと言ってはいるが、例えば、ヒナから見れば俺の世界は相当異様なようだし、異世界っていうのはそういうもの。世界が違うのだからそのくらい当然で、むしろこの程度の違いでしかないという方が不思議なのかもしれない。
俺は相も変わらず不毛な思考を脳内で繰り広げながら、視界に見覚えのある姿が含まれていたことに気づく。
ぶんぶんと、こちらに向かって楽しげに手を振りながら駆けてくる、銀髪に青いマントの男。あれは見間違えようもない。
「ルクス」
「よーう、少年に嬢ちゃん。無事についたみたいだな」
『影追い』のはずであるルクスは、歩く禁忌である俺の顔を覗き込みながら、ワイズにいた時と何ら変わらぬ人好きのする笑みを浮かべてみせる。気をつけなきゃならない相手のはずだが……
ルクスは俺の緊張なんかに構わず、ぽんぽんと大きな手で俺の頭を叩く。
「ん? 少年、顔色悪いなー。もしかして、船酔いか?」
「うるせえ、悪いか」
ああもう、どうにもペースを崩される、っつか何つか。
何度も助けてもらっちまってるだけに、あからさまな敵意を向ける理由もないしなあ。
それよりも、だ。
「やあ、ルクス」
俺の後ろから聞こえてきた声に、俺は反射的にルクスを盾にして隠れる。テレサも珍しく俺と全く同じ動きで素早くルクスの背後に退避した。かくして一人押し出される形になったルクスは、目の前に現れた奴を見て息を飲んだ。
「……ちょっと待て。赤いのが何でここにいる?」
「やだなあ、君が俺におつかい頼んだんじゃないか。それとも俺も一緒にこっちに帰ってきちゃダメだった?」
英雄、ウィル様は潮風に赤い髪を揺らしながら笑うけれど、その笑顔が妙に怖い。ルクスの背中に隠れてるせいで俺にはルクスの表情は見えなかったが、小さくルクスが唸ったのは聞こえた。
ルクスは、もしかしてウィルが俺らと一緒に来ることを知らなかったのか? だが、ウィルにチケットを託したのは他でもないルクスのはず、だよな。事情はわからんが、ルクスの反応がちょっと引っかかったのは確か。
ルクスはしばらく唸っていたが、次の瞬間にはがっしりとウィルの肩を掴んでいた。その横顔を盗み見ると、すっげえ引きつった笑みを浮かべていた。いつも何処か余裕のあるこの男には珍しい、明らかな動揺を含んだ笑い方だった。
「ちょーっと二人きりでお話しようじゃないか、ウィルさんよ」
「ははは、どうしたんだい、今日の君は随分積極的だねってちょっと痛い痛い、ルクス今首絞まったんだけど!」
「少しくらいは黙ってろ!」
笑顔で笑えないジョークを飛ばしながら、ウィルはルクスによって路地裏に引きずられていく。俺とテレサはそんな二人をぽかんと見つめていることしか出来なかった。
「……えっと、あの二人、どんな関係なんだい?」
「知らねえよ。最低でも、恋人同士じゃねえだろうな」
「センスの欠片もない冗談だね」
「俺もそう思う。ただ、本当に友達なのか? あいつら」
冗談を抜きにすれば、ルクスとウィルが知り合い同士ってのは嘘じゃないらしい。ただ、どうしてもルクスのウィルに対する反応が気になる。ウィルを見ただけであれだけ動揺するんだ、何もない、ってことはないはずだ。
一体どういう意味で動揺したのかはさっぱり想像できないが。
「シン、ちょっと聞いてくれば」
「は? 俺が?」
テレサの唐突と言えば唐突な提案に、俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。だが、テレサは当たり前のように一つ頷き、青い目で俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「だって、気になるって顔してるじゃないか」
う、そうやって見られると目を逸らすことも出来ないじゃねえか。盗み聞きって辺りで既に人としてどうかと思うが……気になるってのは間違いじゃないしな。
そそのかされるままに、俺はルクスとウィルが向かった路地裏へと足を運ぶ。
ちなみにテレサは少しだけ離れた場所に留まって俺の様子を見ているようだった。あいつ、俺にやらせるだけやらせて、失敗しても知らず存ぜぬを貫き通すつもりだ。そういう奴だってのはわかってるので、溜息一つだけ漏らして意識をルクスたちの方へ向ける。
恐る恐る路地裏を覗き込んでみる。気配の殺し方なんかはよくわからんが、出来る限り物音とかは立てないように気をつけつつ。
薄暗い路地裏には、煤けた木箱が壁の横に積みあがっていた。おそらく、船で運ばれてきた荷物をつめていた箱だろう。そして、それらが並ぶ道の奥にルクスとウィルの姿が見える。
くそっ、この距離だといくら感覚が鋭い俺でも声はほとんど聞こえないか。少し移動して物陰に隠れようにも、移動している間にウィルに見つかりそうだぞこの位置じゃ。
ただ、いくつか単語は聞こえる。女神、とか禁忌、とか。かなーり不穏な単語だ。
もしかするとウィルは、ルクスが『影追い』だってことを知っているのか。ウィルはユーリス側の英雄だという話だし、十分ありえる話だ。禁忌を滅する『影追い』にレクス帝国を倒した英雄。歩く禁忌の天敵が揃い踏み、マジでぞっとしねえ。
もしかして、ここで俺を倒す算段とかじゃないだろうな。女神の名において、正式に禁忌の俺を倒し『ディスコード』を破壊する、とかだったら俺は全力でこの場から逃亡する。逃亡できる気もしないんだが。ルクスはともかくウィルは俺なんかより絶対に強いはずだ。『アーレス』を使っても勝てる気がしない。
ルクスに限って、いきなり俺を殺すと言い出すとも思えないが……ってルクスを信じようとしちまう辺り、俺は甘いのかな。ただ、一度は俺を助けてルーザを見逃したあの男が突然俺に刃を向ける姿は想像できない。
ウィルなら想像できるのかって? 俺の直感を信じるなら、その通りと言わざるを得ない。
あの男はちょっとヤバイ。普通に話してる時はそうでもないが、時折見せる視線が俺の背筋を凍らせる。流石は前戦争の英雄、ってところか。油断すれば俺の首と胴が離れていてもおかしくない、と確信させるだけの何かがある。
俺が歩く禁忌だってバレていないことを願うしかないな。友人が俺の正体を知っているルクスだという地点でその願いも儚く潰えそうだが。
と、考えている間に二人の話は終わってしまったらしい。結局得られたのは嫌な単語と俺の嫌な妄想、それだけってわけだ。俺は二人がこちらに来てしまう前に慌ててその場を離れた。
一瞬俺とウィルの目が合ったように見えたのは、気のせいだと思いたい。
「おかえり。どうだった?」
「全然。何も聞こえなかった」
俺はテレサに向かって肩を竦めて見せる。テレサも「まあ、そんなもんだよね」と俺が何も聞いてこなかったことに関してはそれ以上ツッコんではこなかった。テレサとしても大して期待はしてなかったのだろう。
「いやあ、待たせて悪いなー」
そして、戻ってきたルクスは俺が見ていたことにも気づいていなかったようで、ひらひらと手を振りながら笑っている。
「とりあえず、これから首都センツリーズまで案内するが、今日ここを発つと次の町に着く前に日が暮れちまう」
ルクスの言うとおり、空を見上げてみれば日はもう水平線近くまで沈み始めていた。西の空は綺麗な青から赤へのグラデーションに染め上げられつつある。
「だから、今日はこの町で宿を取ろうと思う。異存はないよな?」
「僕は別に。そこまで急ぎってわけでもないしね」
「ああ、俺も異存はねえよ」
俺もテレサに目配せされて、頷く。ちょうどいい、センツリーズに行く前にルクスには色々聞かなきゃならないこともあるから。テレサも同じだろう。
そんな俺たちを見ていたウィルは、微笑みを浮かべたまま言った。
「それじゃあ、俺はこれで。行かなきゃならない場所もあるしね」
ああよかった、こいつまでついてくるわけじゃないのか。思わず安堵に胸を撫で下ろしかけた俺だったが、ウィルは俺に近づいてくると耳元でいたずらっぽく囁いた。
「盗み聞きするなら、もっと上手くやらなきゃだめだよ?」
ぐ……普通に気づかれてたし。
反射的に睨んでみせると、英雄様は「怖い怖い」とおどけて見せてから、少しだけ真面目な顔をして俺を見やった。色は炎のような赤だっていうのに、そこに含まれているのは熱どころか零度よりも冷たい何かに見えて、ぞっとする。
だが、その視線に負けるわけにはいかない。力じゃ勝てないのはわかりきってるんだ、せめて目を逸らさない程度には強がってやる。
「ユーリスはいいところだけど、下手をすればライブラよりよっぽど危険な場所だからね。これからの旅、君は特に気をつけた方がいいよ」
「はっ、んなこと、言われなくたって覚悟してるさ」
ウィルがそう言い出したってことは、間違いなく俺がユーリスにおいては危険な存在……禁忌だと知ってるってことだ。どういう経緯で知ったのかはともかく、こいつに対して油断してはならないということだけは確かになった。
「やだなあ、今にも俺を刺し殺すような目で見ないでよ」
「別に、んなつもりはねえよ。手前が俺に刃をむけるならともかく、な」
「ははっ、敵でもないのにそんなことするわけないじゃないか」
それは。
敵であれば躊躇いもなく剣を抜ける、ということでもある。
つまり、「今は敵ではないから見逃す」と。ウィルの目はそう言っている。正直気に食わないし何処まで信用できるかわからないが、今はウィルのお言葉に甘えるしかない。下手に逆らってゲームオーバーになる必要は、どこにもないのだ。
俺が「死ね」ば、俺はともかくテレサに迷惑がかかる。ルーザ騒動で嫌ってほど理解したのだから、こんなどうでもいいところで誤る気にもなれない。
「それじゃあ、またね」
「じゃあな」
……嫌でも、また会うハメになるんだろうな。相手は英雄様、魔女を追う者。そういう意味では俺と目的自体は同じなのだから。
俺は遠ざかりつつある赤い後姿を見つめながら、そんなことを思う。
少しだけ強く吹いた潮風が、俺の緑色のマントとバンダナの端を揺らす。南の町とはいえ、日が暮れ始めたころの風はやはり冷たい。
――宿に向かおう。
テレサの言葉に、俺は素直に頷く。
空を行く白い竜が、切り裂くように暮れ行く空を横切った。
反転楽園紀行