翌朝。
『楽園』に戻ってきた俺は、テレサと共に急いで港に向かった。
目指すは南、世界の中心でもある、世界樹と女神の国……ユーリス神聖国。
ルクスから英雄さん経由で渡されたチケットで巨大な帆船に乗り込む。
今回乗ることになった船は飛行船と同じく魔力で動く発動機と推進装置を持ち、かなりの速度を誇る船だという。ワイズからは離れたユーリス国の港町にも、その日のうちには辿りつけるとか。
かくして俺は向こうでも『楽園』でも初めてになる本格的な船旅に心躍らせていた。
の、だが。
「き、気持ち悪ぃ……」
ある意味予想通りと言えば予想通りの展開だった。
元々相当乗り物酔いしやすい俺が、ぐらぐら揺れる船の上に耐えられるわけがなかった。しかも昨日の酒がまだ多少体の中に残っていたりして、気持ち悪さに拍車をかけている。最悪だ。
そんなわけで俺は甲板の端っこにうずくまり、あーうー唸っていることしかできない。
横のテレサはけろっとしたもので、海からの風に青銀色の髪の毛を靡かせつつ俺を涼やかな目で見下ろしている。
「吐いてきたらいいじゃないか。楽になるよ」
「吐いた、吐きまくったさ! もう吐けるものがねえんだよ!」
なのにどうしてこんなに胃が中身を逆流させようとするのか。胃液すら絞りきっただろうが、さっさとこの揺れに慣れろ俺の体。次に鋼鉄狂に会った時には、乗り物酔い防止機能が無いのか真面目に聞いてみよう。
ただ……次に鋼鉄狂に会えるのがいつになるかも、よく考えたらわからないんだよな。ワイズを出る前に探して何か話しておくべきだったのかもしれない。とはいえ今のところは何も話すことなんて思いつかないし、連絡用の魔法石も預かってはいるが、大した用もない状態で使う気にはなれない。
ただ、ユーリスに渡ってしまったら鋼鉄狂も簡単には駆けつけてこられないはずだ。何せ鋼鉄狂はその名が示す通りの、生粋の異端研究者。異端研究者の中でも有名人であるルーザが一目置くほどの技術を誇り、ユーリス側からすれば脅威以外の何者でもない存在。
それが、鋼鉄狂という女だ。本当に女かどうかは未だに怪しいところだが、それはともかくとしても、奴が自ら敵地であるユーリスに足を踏み入れるはずもなく。
俺も、気を引き締めてかからなきゃまずいんだろうな。ルーザと戦った時のように、倒された後に助けてもらえるとは限らないのだ。事実、あの時だってその場に居たのがルクスじゃなければ俺は二度と『楽園』に戻ってこられなかったかもしれないのだ。
テレサにも「緊張感が無い」と怒られたことだし……俺は俺で、真面目にやっているとは思うんだがな、どうしても意識の相違は拭えないでいる。
俺は床に座り込んだまま、空を見上げる。所々に白い雲が浮かぶ真っ青な空に飛行船が飛んでいるのを何となく視線で追いかけていく。
どこまでも続く海、潮の香り、波の音。ああ、これで揺れさえなけりゃ最高だったのに。うわ、また気持ち悪いのがぶり返してきた……
「なあ、テレサ。船酔いに効く魔法とかないわけ?」
「無いわけじゃないと思うけど、僕は知らない。必要なかったしね」
くそっ、この攻撃特化型魔道士め。
回復魔法に頼ろうにも、今日も回復系魔法使いであるヒナの姿は見えないし。こういう時に一番いて欲しいってのに、今日は何処をふらふらしているんだろうか。最近、こっちに来るとヒナがいない時の方が多いよな。何でだろう、今度向こうで聞いてみてもいいかもしれないな。
すると、テレサはぽんと手を打って、言った。
「頭から水でもかけてあげようか? そうすればスッキリするかもしれないよ」
「水、って」
「周りにいくらでもあるじゃないか」
「海水はやめろ! せめて真水で! ってかまず水をかけるな!」
そんなもので楽になれるか、という俺の訴えに、テレサは微かに眉を寄せて不満げな表情を浮かべる。
「君はワガママだね。僕が折角考えてあげたのに」
「もうちょっと現実的なものにしてくれ、頼むから」
「後はこうやって下らない話でもしていれば気が逸れるんじゃないかな」
確かにそうかもしれない。一人であーうー唸っていても気持ち悪さを自覚してまた吐きたくなるだけだ。俺はゆっくりと立ち上がって、テレサの横に寄りかかる。
今は気持ち悪さの波がちょっと去っている、何とか大丈夫そうだ。
「じゃあ、何か話題出してくれよ」
俺が言ってみると、テレサはとんとんと自分の頬を人差し指で叩く仕草をしてから、「それじゃあ、一つ気になってたんだけど」という前置きをして……とんでもないことを言い出した。
「シンは、どういう女の子が好きなんだい?」
「は?」
えっと、それは言葉通りの意味か。言葉通り以外にどう取っていいのかもわからないからな、言葉通りだろう。って何でテレサが唐突にそんなこと聞いてくるんだ!
テレサはしれっとした表情で俺のことを見ているし。一体こいつ何を考えてこんな質問をしたんだ、と考えようとしてもこの表情からは何も読み取れやしない。
だが、沈黙はよくない、それだけはわかる。この質問を変な風に意識している、なんてテレサに思われてしまったら俺は恥辱死できるぞ多分。
なので、全力で話を逸らす方向に持っていくことにした。
「好きって、萌えってことか?」
……って、俺はこんなことを言いたいんじゃねー!
案の定、テレサは不思議そうな顔をして首を傾げた。
「萌えって何だい?」
そりゃそうだ、この『楽園』にはそんな概念が存在しない。
しかし聞かれてみると説明が難しいな。「好きか嫌いか」とはちょっと離れた概念なのは確か。「好き」に近いんだろうが、それにまた別の感情がいくつか入り混じったようなものだ。人によって感じ方はちと違うとは思うが。
ただ俺の場合で言えば萌えってのは現実じゃなくて二次元の仮想美少女達にのみ与えることを許されている言葉だ。三次元になると萌えってよりは好きか嫌いかで判断するようになるし。
ああ、でもヒナは萌えかもしれん。あのどこか現実離れしたふわふわした雰囲気とか、可愛らしい仕草とか。これは恋愛感情ってよりは萌え感情。
テレサは萌えではないから、多分純粋な好意なのだろうとは思うのだが……だから何真面目に考えてるんだ俺はっ!
とにかく、遠まわしにぽつぽつ、「萌え」についての俺なりの考え方とその例を出して、またテレサから聞きかえされたりして。ほとんど頭がオーバーヒートしている状況でそんな会話をしていたものだから、最終的には。
「つまり、魔法少女は萌えなんだよ!」
と叫びだした俺。もはや何故そんな話になったのかは覚えていない。頭の中から既にデリートされている。
「魔法少女、というのは『魔法を使える少女』のことでいいのかな」
「違う! 単に魔法が使えるだけじゃダメなんだよ、それ相応の外見と性格を有していなければ萌えにはならねえんだ!」
頭の片隅にほんの少しだけ残された俺の冷静な理性が「何言ってんだよお前」と冷ややかな三白眼の視線を向けているが、俺は止まらない。止まれなかったとも言う。対してテレサは何故か真剣に俺の話に食いついていた。
「ふむ……僕は少女とは言えないからねえ、それじゃあヒナはどうなんだい」
「ヒナはいい。俺の中では理想的な魔法少女だ」
「なら、ヴァレリアは?」
「ヴァレリアはなあ……好きな奴は好きだろうが、俺は天然ボケよりもちょっとツンデレ気味の方が好きだな。ああ、ツンデレってのはな」
すまんテレサ、俺はそんなことを教えたいんじゃないんだ。
ただ話し出すと止まらないってのがオタクのサガである。特にこだわりのあるジャンルならば尚更だ。しかも俺なんかの話を相手がきちんと聞いてくれていると思うだけで、こう次から次へと言葉が出てくる。
テレサは俺の言葉が切れたところで、ふむふむと頷きながら言った。
「つまり、今までの君の話を総合すると『ふわふわしててちっちゃくて、でもちょっぴり素直になれない魔法少女』がシンの理想の『萌え』なわけだな」
「ま、まあそういうことだな」
改めて纏められると何だか俺が相当ダメな人間っぽいぞ。いや、わかっている、俺は誰もが認めるダメ人間だ。ただ、向こうの俺を知らないテレサにまでダメ人間というレッテルを貼られたような気がして、ちょっと落ち込む。
別にテレサには他意はなく、ただ単に俺が話した言葉を纏めてくれただけなのだろうが。
「君は実に難解な好みを持っているね」
「難解で悪かったな」
「いや、興味深い内容だった。参考にしておくよ」
……何の参考になるんだ、それが!
俺は全力でツッコミを入れたいところだったが、その言葉は俺の喉から出ることはなかった。背後から誰かが近づいてくる気配を感じたからだ。
ゆっくりと振り向けば、目に入ったのは鮮やかな赤……
「やあ」
昨日出会った赤い髪の『英雄』、ウィリアム・インクレイスがそこにいた。
相変わらず気の抜けた笑顔で、俺とテレサに向かってひらひらと手を振っている。
こいつもこの船に乗っていたのか。ユーリスの人間だっていうから別に不思議じゃないのかもしれないが、こいつの目を見ていると何だか背筋がざわざわする。
この『楽園』における俺の感覚は、向こうの俺よりもはるかに鋭くなっている。体に依存する五感もそうだし、俺の「目」をはじめとした「第六感」みたいなものも。だからこの背筋に伝わる感触も、単なる思い過ごしとは思えないでいる。
「大丈夫? すごい顔色だけど……船は苦手?」
「あ、ああ。でも今は随分楽になった」
俺は何となくやりづらさを感じながらも、親しげに話しかけてくる奴を邪険に扱うこともできずに適当に言葉を返す。英雄様はにこにこ人好きのする笑顔を浮かべながら、俺のことを真紅の双眸でじっと見つめている。
「ああ、そうだ。よかったら君たちの名前も教えてもらえないかな。実はルクスの奴、君たちの特徴だけ言ってさっさとユーリスに渡っちゃったからさ」
「俺はシンでこっちがテレサだ。アンタはウィリアムさん、だよな」
「ウィルでいいよ。よろしく、シン」
そう言ってウィルが手を差し伸べてきたものだから、仕方なくその手を握り返す。
その瞬間、ぐらりと視界が揺らぐような感覚に陥って、俺は反射的に振りほどくように手を離して、頭を押さえた。その瞬間、視界の揺らぎは何事もなかったかのように綺麗さっぱり消え去った。
何だ。魔法をかけられたのか。
否、鋼鉄狂の言葉を信じるならが、脳に直接作用するような魔法は俺に通用しないはずだ。
「あれ、どうしたの?」
「や、悪い。ちょっと、ふらっと来ただけだ」
「それ、本当に船酔い? 具合が悪いようなら寝ていた方がいいんじゃないかな」
心底心配そうな表情でこちらを覗き込むウィルを見る限り、こいつが何かしたって感じでもない。ただ、体調不良って感じの眩暈でもなかった。船酔いの気持ち悪さは相変わらずだが、それとこれとは無関係だという自信がある。
そういえば前にも同じようなことがあったような気がする。あれはいつのことだっただろうか……思い出せない。
「大丈夫だ、心配かけて悪い」
「そっか。それにしても、どうして君たちはユーリスに?」
ウィルは微笑みを浮かべたまま俺たちに問うてきたが、俺は一瞬この男に目的を言うべきか悩んだ。助けを求めるようにテレサに視線を走らせると、小さな溜息を混ぜながらもテレサが口を開く。
「僕らはレクスへの渡航許可を貰いに行こうと思っているんだ」
「レクスへ? 魔女退治かい?」
ウィルの表情が少しだけ硬くなる。いいのか、とテレサに目配せするとテレサは小さく頷いた。おそらく、ウィルに対しては隠すのも無為だと判断を下したのだろう。テレサがそう決めたのなら、俺は口出ししない方がいい。
「そういうことになるね」
「本当は、俺の立場からしてみればあまりお勧めしたくないんだけどね」
「何故だ?」
俺が問うと、ウィルは浮かべていた笑みを苦笑に変えて言う。
「本来、魔女討伐はユーリスに所属する俺や騎士たちの仕事だから。早く動かなくてはならない俺たちが今のところ役に立てていないのも確かなんだけどね……」
なるほど、ウィルの立場からすれば勝手にレクスに行って勝手に死んでいる『勇者候補』は当然好ましいものではないわな。ただ、動かなくてはならないユーリス側の動きが遅い、故に『勇者候補』にも頼らざるを得ない、何ともユーリスの英雄であるウィルにとっては歯がゆい状態なのだろう。
俺が何も言わずにいると、ウィルは慌てて両手を振った。
「ごめんね、君たちにそんな話をしたいわけじゃないんだ……ただ、無理はしないで欲しいと思ってね。もう、誰かが死ぬのを見るのは嫌だから」
「ま、俺も死ぬ気はねえからその辺は心配いらねえよ」
「なら、いいんだけどね」
ウィルの表情はどこか冴えない。それはそうだろうな、ウィルは戦争の英雄だというが、それって結局戦争の中で一番人を殺して、最後まで生き残ったってことだからな。色々な形の死も見てきたのだろう。
俺みたいなことを言って死んでいった連中も大勢見てきたのだろう。
六畳間で雨戸と扉を閉め切り、膝を抱えて過ごしてきた俺とは全く違うのだ。
そう思うと一瞬だけ、ウィルに対する違和感や恐怖感を忘れていたことに気づく。こういう甘っちょろいことを考えるから、テレサに「緊張感が無い」って怒られるんだろうな。
ウィルはへらへらと笑う。何となく重たくなってしまった空気を溶かそうとするかのように。
「ごめんね、湿っぽい話になっちゃったかな」
「いや、別に。気にしちゃいねえよ」
「そっか……ああ、そろそろ見えてきたね」
見えてきた?
俺はつられてウィルの視線を追って、息を飲んだ。
遠くに見えるのは、ライブラ国からもかすんで見えていたもの。
しかし、ここに来てそれは霞んだ像ではなく、はっきりとした色と形を伴って俺の前に現れる。
いくつもの樹をねじり合わせたような形をしていて、雲を貫き宇宙まで届くのでないかと錯覚するような、緑の大樹。
世界樹。
遠くに見えるユーリス神聖国の大地の上に。
この世界の礎である樹が、天高く聳えていた。
反転楽園紀行