ライブラ国立ワイズ学院は時計塔広場よりも東側の、広大な敷地を誇る建物群だった。
受付で博士の名前を出したところ、猫獣人のお姉さんが案内してくれた。尻尾可愛いよ尻尾。何だよあのふさふさっぷりは反則だろ。
俺の方がねこじゃらしを顔の前に突き出された猫のようで、床すれすれを揺れる尻尾を見つめながらむずむずして仕方ない。
飛びつきたい。ものすごく飛びつきたい。思いっきりふさふさしたい。
しかし前にも言った通り、この世界では獣人はれっきとした人族である。故に俺の行為は即痴漢行為となりかねないわけで、何とか自重。
猫のお姉さんによれば、つい数分前に博士を尋ねて二人組が訪れたらしい。俺が情報屋に行って帰ってくるまでそれなりに時間があったはずだが、あの二人は一体何をしていたのだろうか。
多分、ヴァレリアがまた人混みの中ではぐれたりしたんだろうな。
猫のお姉さんは一つの部屋の前に俺を連れてくると、大きな目を瞬きしながら深々と一礼した。長い髭が、弧を描くように揺れる。
「こちらがガウス博士の研究室になります」
「あ、ありがとう」
ああ触りたい、顎の辺りとか撫でたい。ぽっちゃりしたイメージの兎獣人と違って、猫獣人は動物のイメージそのままにしなやかな体つきをしているわけで、それもまた魅力的。
とはいえこれ以上じっと見つめていると変な風に思われるので、俺は無理やり猫のお姉さんから視線を外して、重たそうな木の扉をノックした。
かつかつ、という硬質な音。
中から低い、よく響く声で「入ってくれ」と言われ、俺はちょっとだけドキドキしながら扉を開いた。
「失礼します」
何か、職員室に入る時のような気分だ。
部屋はそこまで広くなかったが、所狭しと棚が置かれていて、書物に溢れている。異端研究者の研究室だというから鋼鉄狂の研究所やルーザがいた隠れ家みたいなのを想像していたが、視線の届くところに機械が置かれているわけではない。
そして、部屋の奥にある机の前に、テレサとヴァレリアが立っていて……奥に座っているのが、ガウス博士なのだろう。
ガウス博士は、もじゃもじゃとした白い髪に長く髭を伸ばした、小柄ながらがっしりとした体つきの爺さんだった。顔の色が全体的に赤みがかっているところを見ると、どうやらドワーフらしい。
そして、その博士は小さな目を俺に向け……明らかに驚きの表情を浮かべていた。
何だ? 俺の顔に何かついてんのか?
そう思ったとき、博士がぽつり、と言葉を落とした。
「レナード……?」
「は?」
レナード? 誰だ、それ。
聞いた事のない名前で呼ばれて、何と答えていいかわからない俺を見て、博士も我に返ったのだろう。
「あ、ああ、すまない。昔の弟子に似ていたものでな」
首をゆっくりと横に振るが、それでも俺のことをまじまじと見つめてくれている。
何なんだ、この反応は。
「彼は僕らの連れで、ルーザの知り合いですよ。しかし、レナードって……もしかしてレナード・アルクエル博士のことですか?」
俺と同じく博士の反応に驚きの表情を浮かべていたテレサが、珍しく早口で問いかける。っておい、テレサはその名前知ってるのか。博士は小さく頷くことで肯定の意を示してみせた。
「おい、何か知ってんのかよ」
俺は大股にテレサの横まで歩いていって聞いてみる。すると、テレサは軽く肩を竦めておどけた様子で言った。
「僕も知ってるのは名前だけで顔は見たこと無いけど、その道じゃかなり有名な研究者さ。しかし、レナード・アルクエル博士ってこんな顔だったんだね、初耳だよ」
テレサの目が、俺をじっと見つめてくる。相変わらず、吸い込まれそうな青色で、俺はやっぱり気恥ずかしくなってふいと視線を逸らした。
この博士の弟子である研究者、っていうことは多分異端研究者なんだろうな。そいつと、俺の顔が瓜二つだっていうのか。何かぞっとしねえ話だが……そうすると、何だ。
我らが鋼鉄狂は、もしかして「実在する人物」に似せてこの顔を作ったってことか? 聞いてねえぞ、何考えてんだあの眼鏡白衣。また聞かなきゃならないことが増えたじゃねえか。
「で、俺は、そのレナードさんとやらに瓜二つってわけか?」
ってやべえ、相手は偉い博士なんだよな、一応。それ以前に見た目からして爺さんだし。普通敬語使わなきゃだよな、テレサだってですます口調だったのだから。ただ、一度勢いでぞんざいな口を利いてしまったからには、もう訂正する気も失せてしまった。
……向こうじゃ絶対無理だな、こんな風に話すの。
博士はありがたいことに俺の口の悪さを気にしていないらしく、小さな目を瞬きさせて言った。
「ああ。若い頃の奴にそっくりだ。特に、目の辺りがな」
目の辺り、なあ。俺は自分自身じゃ自分の目を見えないとわかっていても、無意識に目を擦ってしまう。黒目がちで整った形の、向こうの俺とは似ても似つかない目。この俺は日本人じゃないから「黒目がち」という表現は変なのだが。実際俺の目の色は水色だし。
色々気になるところはあるが、ひとまず俺は博士に向き直って肩を竦める。
「悪いけど、俺はそのレナードさんとは無関係だぜ?」
「そうだろうな、声や話し方は全く違うようだ。気を悪くしたならすまない」
「いや、別にいいんだけど……俺、初めてそんなこと言われたからな。その、レナードってどんな奴なんだ?」
何となく、気になって聞いてみる。博士は何かを懐かしむような顔つきになった。もしかすると、俺の顔にレナードとやらを投影しているのかもしれない。
「レナードは私の一番弟子のようなものでな。普段こそ気は弱いが、一度こうと決めたら梃子でも動かん。ルーザと同じか、それ以上に私の手を焼かせる奴だったよ。結局、自らの研究の成果を見せるのだとレクスに渡って……」
それから先は、言葉にはならなかった。
流石に俺にもわかる。
レクス帝国に渡ったということは、戦に望んで参加したということ。そして、そんな異端研究者が今もなお、生きているとは思えない。
レナード・アルクエルという男は既にこの世にはいないのだ。
「すみません、悪いこと聞いちまったみたいで」
「いや、構わんよ。もはや奴もあの子も、レクスに渡った連中は誰一人としてここに戻っては来ない。全ては過ぎた話だ」
多分、この博士の下で学んだ連中は大体レクスに渡ってしまったのだろう。そして博士はここに一人残された……何か、やるせない話だ。ただやるせないと思うだけで、俺はそれ以上のことを考えることはできなかった。
想像していいものかも、わからなかったから。
「しかし、ルーザにヴァレリア以外の知り合いがいるとは初耳だな。見たところ、旅人のようだが」
博士は、俺やテレサ、ヴァレリアが話しづらそうにしているのを見て、あえて話を変えてくれたのだろう。俺は気を取り直して、言う。
「知り合いっつーか、何つーか、なあ……」
まさか斬り合った仲ですなんて言えないし。ちらりとテレサを見れば、テレサはにっこりと笑顔を浮かべ、言い放った。
「いや、知り合いというか斬り合った仲なんですけどね」
言ったー! 言ったよこいつ!
一体どんな反応をするのか、と思いながら恐る恐る博士に視線を戻すと……俺の頭の中に浮かんだ数種類の想像の全てを裏切って、深々と、明らかに「呆れた」溜息をついた。
「全く、奴はまた他人様に迷惑をかけおったのか」
また、ってことは……ルーザ、やっぱり今まで色々この人や他の連中にも迷惑かけてたんだろうなあ。何だよあのダメな大人。いやまあ、博士が見ていた頃のルーザはまだガキだったのかもしれないけれど。
「えっと、博士はルーザとはどんな関係なんだ? ヴァレリアからは師匠みたいなもん、って聞かされてたんだが」
「それは正確ではないな。私はあくまでルーザの後見人であり、師というわけではない」
どうも、博士は元々ルーザの父親……天才的な異端研究者シェル・B・ウェイヴの友人だったのだそうだ。そして、シェルが処刑される直前にルーザを託していったそうで。このシェルという奴も相当他人に迷惑をかけているような気がするのは気のせいか否か。
元々ルーザの母親はルーザが幼い頃に死んでいるため、託すことのできる相手もいなかったのだろう、と博士は付け加えた。
「だがルーザの学問はほぼ独学で、私は研究者としては何も教えてはいない。特に、禁忌の研究に関しては、な」
「アンタも異端研究者なんだろ、何で教えなかったんだ?」
「シェルの遺言だ。自分は禁忌に染まって命を落とすだろう、故に自分の子には同じ道を辿らせたくない、とな。実際、私もルーザには禁忌に手を出して欲しくないと願っていた……だが、奴は結局禁忌へ惹かれていき、最終的に異端研究に反対した私の元を飛び出したのだ」
かくして今の状況に至る、と。
何処でも親心というのは子供に理解されないものだな。そういう意味では俺も……いや、やめておこう。考えたら落ち込むだけだ。もう全力で。
博士は皺だらけの顔に力ない苦笑を浮かべて、言う。
「ルーザが完全にユーリスを敵に回した時には、女神を崇めぬ私でもユーリスに祈ったよ。あの馬鹿をどうか許して欲しい、とな」
もちろん、禁忌に手を出した地点で女神に願いなど届くはずはないのだが。
そう言った博士は笑顔なのに苦しそうで、俺まで何か苦しくなってくる。
今は見逃されているけれど、ルーザはいつかきっと殺される。禁忌を振りかざし、世界の歪みを突きつけようとする奴は、女神に、この『楽園』という世界に殺されるのだ。
もしかしたら、今度こそ奴を手にかけるのは「勇者」である俺かもしれないのだ。
そんなこと博士には言えるはずもなくて、俺はただ黙り込む。ルーザと一緒にいるヴァレリアはその言葉の重さを俺以上によく理解しているのだろう、目を伏せ、杖を持った手を胸の前で組み……祈りを捧げているようにも、見えた。
禁忌の奥の奥に踏み込んで殺されたシェル・B・ウェイヴ、結局禁忌の道に走ってしまったルーザ・ウェイヴ。そして自らの知識を生かすために帝国に渡って死んだ、俺と同じ顔だというレナード・アルクエル。
異端研究者と呼ばれる連中の道は、どう考えたって明るくはなりえないのだ。
何も言えない、何も考えられない。俺は、どうしても理解できない。『楽園』の仕組みを知らないとかそんなレベルじゃなくて……一番大切な部分が根本的に理解できていないような、そんな苛立ちに囚われる。
「それで、親心の理解できない馬鹿息子はどんな手紙をよこしたのですか?」
俺の横で、テレサが空気の読めない言葉を放つ。いや、テレサのことだ、空気を読みながらあえてこんなことを言ったのかもしれない。博士は溜息を混じらせて、言った。
「何、もうすぐここを発つという報せだよ。奴がライブラに渡ってきているということは初めにそこのヴァレリアから聞いていたからな。側に来ていながら挨拶できずにすまない、ということだったが……」
謝らなきゃならんのは、絶対にもっと別の場所だ。俺にだってわかる。わかっていたとしても、もし俺がルーザの立場だったら、やっぱりルーザみたいな手紙をよこしてしまいそうな気がするが。
博士はあからさまな呆れ顔で言いながら、手元で何かを書き記す。多分、ルーザへの返信だろう。本当に短い一文だけの手紙を折り畳み、封もせずにヴァレリアに押し付ける。
「何も言わずにあの馬鹿に渡しておいてくれ。頼んだぞ」
「は、はい……」
俺からは博士が何を書いたのかわからなかったが、ヴァレリアはその一文を見てしまったのだろう、何となく複雑な表情で頷いた。
「さて、用事も済んだことだし、僕らはこれでお暇しようか」
テレサはつとめて明るい声で俺たちに提案する。確かに、俺たちがここにいる理由はもはやどこにもない。それどころか、俺がここにいるだけで、博士には辛い思いをさせてしまいそうな気がして。
短く挨拶をして、部屋を出て行こうとした時。
「ああ、そうだ」
博士が、俺に向かって声をかけてきた。
「お主の名前を、聞かせてもらえないか」
わ、そういやぞんざいな喋り方をした上に名乗ってもいなかったのか、俺。
「シン、だ」
「シン……珍しい名だな。覚えておこう」
……珍しい、のか? 今まで誰からもそういう反応されなかったから、普通にある名前だと思ってたのだが。そうやって言われるとちょっと気になるが、ここで聞くべきことじゃないだろうな。
「それじゃ、お邪魔しました」
何か違う気もするが、そんな風にして俺たちはガウス博士の研究室を後にした、わけで。
広い学院の門をくぐって外に出ようとする時まで、俺たち三人は無言だった。ただ、門に差し掛かったとき、突然テレサが俺のことをじっと見つめてきたかと思うと、ぽつりと言葉を落とした。
「……もしかすると、意外と女性らしいのかも」
「は? 何の話だ?」
俺の聞き間違いじゃなければ、確かにそう聞こえたんだが。テレサは「独り言ー」とひらひら手を振るばかりで、全く取り合っちゃくれなかった。
何だ、誰の話だ。俺の話、じゃねえよな多分。俺の顔は確かに整っちゃいるが女らしいわけじゃない。あと、性格もちょっと女々しいかもしれんが「女らしい」かというと怪しいわけだし。
一体何だっていうんだ?
そんな風に思いながら門をくぐり、学院の外に出る。相変わらず外は人でごった返していたわけだが……そんな中、俺は見覚えのある人影を見つけた。この人混みの中では全く目立たない、金茶の髪に眼鏡。
鋼鉄狂だ。
何てナイスタイミング。奴には色々聞きたいことがあるのだ。何故か通りの端の方で立ち尽くしている鋼鉄狂に向けて、俺は大股に歩いていく。テレサが後ろで何かを言っていたような気がするが、人の声に紛れてよく聞こえなかった。
鋼鉄狂は近づいてくる俺に気づいたのか、視線をゆらりとこちらに向けた。どうやら今まで、学院の建物を見ていたようだが……とりあえず、その辺は俺には関係ない。俺は鋼鉄狂に一気に詰め寄って声を上げた。
「おい、鋼鉄狂、聞いてねえぞ!」
「……何だぁ、手前、藪から棒に」
「俺の顔が、誰かに似てるって言われたんだよ! もしかしてこの顔」
「あぁ、お前の顔はな、レナード・アルクエルっていう実在した博士がモデルだぜ?」
「あっさり言いやがった!」
「別に、大したことじゃねぇだろ。お前は何も知らねぇだろうから黙ってたんだが、レナードはお前よりずっと年上だったし、既に死人なんだぜ? まさか同一人物だと思われもしねぇだろよ」
さらりと言ってくれるが、そういう問題じゃない気もする。そういう問題じゃないのだろうが……むしろ俺は、別の部分が引っかかった。
『何故』、鋼鉄狂はあえてそいつをモデルに選んだ?
俺の疑問は、わざわざ声にして言わずとも鋼鉄狂に伝わったのだろう。眼鏡の下で細めた緑色の瞳が、珍しく微かに揺れたようにも、見えた。
「ひゃははっ、少しくらいいいじゃねぇか、血も涙もない俺様だって感傷くらいはあんだよ。自分で作ったモノの姿を、知ってる誰かさんに似せる程度の感傷は、なぁ」
鋼鉄狂は、それ以上は語らなかった。
聞いたらきっと答えてくれたのだろうか……こいつのことだから、答えてくれたのだろうな、とは思う。こいつは、聞かれたことに対し黙ってることも嘘をつくことも上手くないはずだから。
ただ、俺はこれ以上聞けなかった。それがよいのか悪いのかは、今の俺にはわからない。ただ、あえて似合わない「感傷」なんて言葉を使ってみせた鋼鉄狂を見ていると、これ以上は聞いてはいけないような気がしたのだ。
いつもニヤニヤ笑っている鋼鉄狂が、今だけは、何もかもを拒絶するような痛々しい笑い方をしたものだから。
俺はいつもそうだ、結局怖くてもう一歩を踏み出せなくて。
出しかけた足を引っ込めて、言葉を飲み込んで。
色々聞かなきゃならないことも全て忘れて、気づけば去り行く鋼鉄狂を見送っていた。
反転楽園紀行