段差を昇って、重たい白い扉を開ける。
からんからん、と聞きなれた音でカウベルが鳴る。カウンターの向こうにいるマスターが、薄い色の目を上げて「いらっしゃい」と笑いかけてくれた。鼻をくすぐる珈琲の香りに、ざわついていた心が自然と落ち着いていく。
今日も少しだけ時間が早いからだろう、客の姿は無い……と思ったら、今日も前に見たときと同じテーブル席に、前に見たときと同じ女が座っていた。俺も毎日来ているわけじゃないから知らなかっただけで、案外この店の常連なのかもしれない。
「で、今日は何にする?」
「いつものでお願いします」
いつも通りケーキセットを頼んで、出された濃い珈琲をすする。今日のケーキはミルフィーユだった。毎日日替わりのケーキが全てマスターの手作り、っていうのはなかなかすごいと思う。
前に聞いた話によれば、マスターは一時期外国にパティシエの武者修行に出たらしい。ならいっそケーキ屋になればよいのに、と思うものの、あくまで喫茶店にこだわるのがマスターの凄いところだ。
「そういえば、マスター」
今日はマスターが暇そうにしていたので、俺は何となく、ぽんと頭に浮かんだことを聞いてみることにした。
「マスターは、つぶあんとこしあんどっちが好き?」
「俺はこしあん派かな。何でだ?」
「や、何となく思っただけっす」
ちっ、マスターもテレサと同じか。俺につぶあん派の仲間はいないのか?
ヒナ……は食い物自体が食えないから仕方ないとして、後でヴァレリアか誰かにも聞いてみようかな、と思う。くだらないことを気にしているという無かれ、日本人に生まれたからには和の甘味の頂点たる餡子にこだわるのは当然だ。
実は俺は甘い物が好きだ。和洋ともに好きだ。
だからこの喫茶店の手作りケーキをこよなく愛している。隣ん家のお袋さんが作ってくれるおはぎも大好きだ。おはぎは当然つぶあんに限る。別にこしあんが嫌いってわけじゃないんだが、やっぱり餡子と言えばつぶあんだろう。
「そうだな、今度は和のケーキもいいかもしれないなあ」
「期待してますよ」
マスターは俺が餡子の話を振ったからか、ちょっとやる気になったようだ。
餡子とケーキの素敵なコラボレーション! 餡子って実は牛乳とか生クリームとも相性いいんだよな。完成したら確実にご馳走にならないと、なんて思いながらふと、ヒナを見る。
ヒナは、俺とマスターの話を聞いていたわけではなかったようで、天井近くで何となくきょろきょろと落ち着かなさげにしている。どうしたのだろう、と思っているとヒナがふわりと降りてきて俺に耳打ちしてきた。
「あの人、こっち見てませんか?」
――あの人?
と思って見れば、テーブル席の女がこちらを見て微笑みながら軽く頭を下げた。俺も反射的に小さく頭を下げて、すぐに視線をケーキの皿に戻す。俺には、偶然俺と女の目が合ったようにしか思えなかったのだが……違うのだろうか。
一度意識し始めてしまうと、こちらまで落ち着かなくなってくる。だが、ヒナのようにそちらばかりあからさまに気にしていても変に思われるだけだ。ミルフィーユの最後の一口を飲み込むも、その甘さが上手く舌に感じられない。
見られている。事実であれ俺の勘違いであれ、「見られている」という意識は俺の感覚を麻痺させる。温かいはずなのに指先から冷たくなっていくような、感覚。全身が強張って、節々がぎしぎし言い出すような、感覚。
……今日は、ここにいるのもよくないかもしれない。折角天気もいいのだ、外で時間を潰すっていうのもありだろう。
「マスター、ここってテイクアウトとかできるんすか?」
思い切って聞いてみると、マスターはにっこり笑って言った。
「まあ、普段はやらねえけど、頼まれりゃよろこんでやるぜ」
「それじゃあ一つ、頼んでいいですか。たまには、外で昼飯食おうかなと思って」
「確かに、今日はいいピクニック日和だもんな。ちょっと待ってろ」
言って、マスターは奥に引っ込んで行った。その背を視線で追いかけてから、俺はもう一度偶然を装って女に視線を向けた。女はもう俺の方など見ていなくて、手にした本に視線を落としていたけれど。
「……気のせい、だったのでしょうか……」
誰にも聞こえないヒナの声は、俺の耳に確かに響く。俺はすっかり味がわからなくなってしまった珈琲をちびちびやりながら、マスターが帰ってくるのを待っていることしかできない。
そういう時に限って、時間が過ぎるのがとんでもなくゆっくりに感じられる。壁にかけられた大きな時計の針の進み方が、段々おかしく見えてきて……頭が、ぐらぐらする。時計がぐにゃりと歪んでいるように見えるのは、俺の気のせいか?
そんな時、マスターが帰ってきた。俺の見ている光景も、正常に戻る。
「待たせたな」
いや、「待たせた」ってほど待ってはいない。何しろ昼食用の料理を作ってバスケットに詰めるのだ。しかも突然の注文である。一時間くらい待つ覚悟でいたのだが、マスターはものの十五分といったところでバスケットを俺の前に出してくれた。
受け取ったバスケットは思った以上に重い。なのに、マスターは普段のランチとほとんど同じ金額しか請求してこなかった。
「いいんですか?」
「いいのいいの、俺も好きでやってるだけだしな」
マスターはいつもそう言って、自分が言った以上の金を受け取ろうとしない。こんな商売でよくやっていけるよな、と呆れつつも俺はそんな人のいいマスターを好ましく思うわけで。この店がやっていけるのも、マスターの料理と人柄に惹かれる人が多いからじゃないかな。
俺はケーキセットと弁当の分、言われただけの金を払って立ち上がる。ヒナもふわりと俺の肩の辺りまで降りてくる。
「それじゃあ、ご馳走様です」
「おう、また来いよ」
ひらひらと手を振るマスターの声を背中に聞きながら、俺は店を出る。青い空に、ヒナの桃色のワンピースが柔らかなコントラストを描いている。
「これから、どうするのですか?」
「少し歩いたところに公園があるから、そこで食おうかなって思って」
「わたしと会った公園ですか?」
「いや」
ヒナと会ったのは俺の家に程近い、ベンチが一つと小さな遊具がいくつか並んでいるだけのどこにでもありそうな小さい公園だ。これから行くのは、町の中心近くにある、ほとんど一つの森としか思えないほどに広い公園。
いつもはこんな所に行かないのだが、『楽園』に行くようになってから夜中に走ったりも出来なくなっていることだし、体も鈍るから散歩がてら、ってやつだ。
少しだけ早足で歩いていく。道行く人も車道を走る車も、俺になんか目もくれず、当然俺の横に浮かぶヒナも見えていないのだろう。足音や車の走る音だけが横を通り過ぎていって、後には何も残りやしない。
『楽園』では、確かに道行く人は俺のことなんか見ちゃいなかったけれど……それでも、通りは常に心地よいざわめきに満ちていた。人がそこにいるという息遣いに満ちていた。
ならば、何故これほどまでに。
この世界は、静かなのだろうか。
実際にはこの世界もざわめきに満ちている。だが、俺の耳にはそれらは雑音にしか聞こえない。それらを意識の隅に追いやってしまうと、もはや何も聞こえなくなる。重苦しい静寂が俺一人を押しつぶそうとするような息苦しさに襲われる。
こんなに空は青いのに。
それすらも灰色に霞んで見えてしまうのが、この世界。
そいつは、俺の目がおかしいのか?
だけど俺の目がおかしいのかどうかを判断してくれる奴はどこにもいない。勇気を振り絞って訴えてみても、俺が本当は何を言いたいのかも理解されずに、笑われるか避けられるか見当違いの同情を寄せられるか。
皆が口をそろえて言うには。
おかしいのは、俺の目じゃなくて頭なんだってさ。
笑わせる。でも……全然笑えねえよ。
「……どうしたのですか?」
ヒナは多分、俺がぐだぐだ下らないことを考えて勝手に暗くなってることに気づいたんだろう、俺の目の前で顔を覗き込んできた。光を映さないブラウンの瞳は、俺の顔を映しこむこともない。
ヒナの存在が、『楽園』の存在が、夢とか妄想じゃないってのはわかってるつもりだけど。ふとした瞬間に不安になることくらいは許してほしい。
そして、そんな俺が虚勢を張ることくらいは、許してほしい。
「何、ちょっとした考え事だ。ほら、ついたぞ」
俺が視線を上げると、ヒナもつられてそちらを見る。
公園の入口は広い道になっていて、木々がまるでトンネルのように頭上を覆っている。ヒナは小さく「わあ」と声を上げてふわりと木漏れ日の中でワンピースを翻す。相変わらず、スカートの下はどういう角度でも見えないのが不思議だ。
「綺麗な場所ですね」
「新しい公園だからな。手入れもちゃんとしてんだろ」
舗装された道を歩きながら、俺も柔らかい光が差し込む頭上を見上げる。何故か、ルーザの隠れ家に行った時のことを思い出す。あの時は光もろくに差さない鬱蒼と茂る森の中をほとんど手探りで進んだものだったが……人の手によって一から作られたこの小さな森は、暖かな光に満ちている。
むせ返るような緑の香りもなく、ただ爽やかな春風の香りだけを感じて、やはり俺は何処となくよそよそしさを覚える。作り物独特の、よそよそしさを。
こんな風に思うのは、果たして俺だけなのだろうか。『楽園』っていうファンタジーな世界を体験してしまった俺だけの感覚なのだろうか。
自販で紅茶のペットボトルを買ってから、少しだけ奥に入ったところの、人があまり立ち寄らなさそうな小さなベンチを選んで座る。ヒナも俺の横に座った。普段から重力を無視してふわふわ浮かんでいるのだからわざわざ座らなくたっていいのだが、その辺は多分気分の問題なのだろう。
幽霊は昔からよく見ているが、人間以上に何を考えているのかわからない辺りは、ヒナも一緒なのかもしれない。
「お弁当、何が入ってるんでしょうね」
自分が食べるわけでもないのに、わくわくした表情を浮かべるヒナ。俺も実は結構楽しみだったので、早速バスケットの中身を確かめることにした。
中に入っていたのは、豪華な具が挟まった大きなサンドイッチに、緑色の野菜を中心にしたサラダ、可愛らしい容器に入った小さいグラタン、それにデザートとして苺とキウイ。何という豪勢さだ。普段のランチ以上じゃないか、もしかして。
「わあ……すごい、美味しそうです」
ヒナは目を輝かせたが、同時に少しだけ残念そうにしている。それはそうだろう、これだけ美味そうな飯を目の前にしておきながら、食えないのだから。
何となく申し訳ない気分になりながらも、俺は「いただきます」と言い置いてサンドイッチを頬張る。何だかでかすぎて具が溢れそうなんですけど。具が多いサンドイッチって得した気分にはなるんだが、食べるの難しいんだよな……
しかも、ヒナがこちらをじっと見ているもんだから、余計に上手く食わなきゃならんような気がしてくるわけで。食べてるところをじっと見られてるってのはかなり緊張するものだよな、うん。
何とか具をこぼすような失態もせず、見た目どおりとても美味だった一個目を平らげて。二個目を手に取ったところで、何気なく横のヒナを見る。
ヒナは本当に楽しそうに、にこにこ笑っている。ただ、横で俺のことをじっと見ているだけなのに。
「何か、楽しそうだな」
「はい、楽しいです」
即答かよ。ただ、俺がその答えに納得しないこともヒナは既に承知の上なのだろう、一息置いてから言葉を続けた。
「美味しいものを食べてる人は、とても幸せそうです。一緒にいると、わたしまで嬉しくなれるような気がするのです」
「そういうもん、なのか」
「ん……一緒にいるのがあなただから、楽しいのかもしれないです」
ヒナは俺を見上げて大きな目を細めて笑いかける。俺は、手にサンドイッチを持ったまま、ヒナに呆けた表情を向けることしか出来なかったに、違いない。
くそっ、やっぱり可愛い。
健気で可愛い女の子ってのは反則だ。存在が反則だ。そんな女の子にこんな風に言ってもらえる俺は、実は相当な幸せ者なのかもしれない。
でも、ヒナは幽霊で、俺は姿を見て声を聞くことはできるけれど、頭を撫でてやることも、指先を握ってやることもできない。
本当は、ここで聞いてみようかとも思ったのだ。ヒナは何故、幽霊なのか。どうして、わざわざ俺なんかを迎えに来て、『楽園』を救おうとするのか。ヒナは俺のことを少しずつ知ってくれているみたいだが、俺はヒナのことを何一つとして知らないのだ。
だけど、横に座って笑っているヒナを見ていると、どうしても言葉が出なくなってしまう。
怖かったのだ。
ヒナの口から彼女のことを聞いてしまうのが。
何故、「怖い」と思ってしまったのかは、俺自身にもわからない。ただ、聞いてしまったら何かが変わってしまうような気がする。こうやって、二人でベンチに座って他愛の無いことを話すことも、ヒナのふとした笑顔に喜ぶことも、出来なくなるような気がする。
こんな風に思ってしまう自分がわからない。だが根拠のない不安に抗うことも出来ず、俺は言葉を放つ代わりに二つ目のサンドイッチにかぶりつく。
いつかは……俺から聞かなきゃならないことだって、理解してはいるのだけれど。
今だけは二人で。
ゆっくりこうしていたいと、願った。
反転楽園紀行