闇から意識が引き上げられた時、目の前にあるのは見慣れた天井だった。
俺の世界の、朝だった。
「あー……」
声を出してみると、妙に低く聞こえて……それから、これが「俺の声」だったと思い出す。何か変、と思うのは本末転倒だとわかっていても、今まで向こうで「シン」の声ばかり聞いてたんだから仕方ない。
それにしても、やってしまった。
向こうに戻るのもちょっぴり気が重い。情け容赦なく至近距離から魔法をぶっ放してきたくらいだ、あのテレサの怒りがそう簡単に収まるとも思えない。次戻ったらもう一度魔法ぶちかまされたりして。
冗談じゃなく普通にありえそうだから怖い。
でも別に、その気の重さだったり怖さだったりを「嫌だ」とは思わないわけで。
「えっと……早く謝った方がいいと思いますよ?」
俺の気持ちを汲んだヒナが、天井近くに浮かんで俺を見下ろしながら言う。
確かに、ものすごく反省はしている。でも全く後悔はしていない。男ならここは後悔しちゃいけないところだ、うん。
「考えとく。それで、次行けるまでやっぱりもうちょいかかるんだよな」
こっちに帰ってきてから、向こうに行くまでは必ず少し時間を置かなきゃならない。目覚めてすぐに眠る気にならないのは確かだから理に適っているのだろうが、なかなか不便なものだ。
「はい。あ、でもあなたの心も『楽園』と行き来するのに慣れてきた頃ですし、もうすぐわたしがいなくても行き来できるようになると思います」
「俺だけでも、寝れば自由に向こうに行ったりこっちに戻ってきたりできる、ってことか」
「はい」
それは、便利だし嬉しい報せだ。今までは向こうからこっちに帰ってくる時はともかく、こっちから向こうに行く時には必ずヒナの助けが必要だった。これならもしヒナに手の離せないような事情があっても俺一人で向こうに渡れる。
ヒナを待って、じりじりする時間を過ごしたことがある俺は、一際強くそう思うわけで。
とはいえ、今はまだヒナの力が必要だ。それに、俺だけで渡れるようになったとして、ヒナが必要ないわけじゃない……どうあれ、ヒナが側にいてくれなければ不安なことには変わりないのだから。
さて、時間があるなら、暇を潰さなければならないか。
やりかけのギャルゲーがあったような気がするけれど、今はやる気にならない。いくらディスプレイの向こうにいるのが愛する幼馴染美少女キララちゃんであろうとも、だ。
『楽園』でのやり取りに満足しているからかもしれない。結局のところゲームはゲームで、対人の面白さには敵わないわけだ。人と話すのは実は相変わらず怖かったりするのだが、それでも少しだけ楽しいって思えるようになったから、俺も少しは成長したんだろうな。
……だからといって、こっちでまともに人と言葉が交わせるかと言ったら、正直全く自信がないわけだが。
だが、ゲームをやらないとなると、他にすることもないわけで。ふとヒナを見てみると、ヒナはやっぱりわかりやすく雨戸の閉められた窓を見ていた。そういえば昨日帰って来た時にはそれどころじゃなかったからな。
「外に出るか。今日は平日だよな」
別にヒナに聞いたわけじゃないが、言いながら明かりをつけて枕元のカレンダーに視線を走らせる。五月一日、月曜日。問題はないはずだ。その代わり、明後日からはあまり外に出たくない……ゴールデンウィークは鬼門だ。特に今年、土日を含めりゃ確か五連休だったよな。何だか鬱々としてくるな。
雨戸を少しだけ開けて外を見れば、外もよく晴れていた。散歩日和ってやつだ。
「今日は、歩いて行くか……」
ヒナを連れて行くなら、あえて単車を持ち出す理由もない。ヒナは俺の呟きをきっちり聞き取ったのだろう、嬉しそうに顔をほころばせた。いつもいつも、本当に楽しそうな顔をしてくれるから、俺までちょっと嬉しくなるのだ。
とはいえ、その嬉しさを素直に表に出せる俺でもないわけで。
着替えるから、と言ってヒナを一度追い出して。自然と笑ってしまいそうになる自分の顔を引っぱたいてから、いつもと同じような服に着替える。脱いだジャージは籠の中に纏めて入れて、廊下に出しておくことにする。どうせ、お袋が後で洗濯してくれるだろう。
最後に、時間つぶし用のラノベを数冊鞄の中に突っ込んで、扉を開けた。
「それじゃ、行くか」
「はいっ」
待ってました、と言わんばかりにヒナが元気よく返事をする。
ふわりと、俺の横で桃色のワンピースが揺れた。初めはあれだけ嫌だと思ってたのに、今はこうやって横にいないと落ち着かないんだ、本当、世の中ってのはわからないもんだよな。
普段どおりにお袋の声を背中に受けて、外に出て行く。
朝十時の住宅街は妙に静まりかえっている。通勤も通学も終わったこの時間帯こそが、俺が外に出られるほぼ唯一と言っていい時間帯。静寂の中を、俺はヒナを連れて歩いていく。少しだけ考えてから、いつもならば真っ直ぐ行く道を一つ左に折れ、細い道に入る。
「あれ、いつもと道違いますよ?」
「たまには別の道もいいだろ」
当然向かう先はいつも通りの喫茶店。だが、今日は少し趣向を変えて、単車では通れない裏道を歩くことにした。この時間だから、どの道を通っても人は少ないけれど、裏道ならもっと人が少ないという狙いもある。
ヒナの言葉に答えるなら、人の目はゼロであるに越したことはない。
ヒナは見知らぬ道に期待を隠せないらしく、俺が目を離すとふらふらと気になる場所に飛んでいってしまう。流石に俺の目の届く場所からは離れないが。
建物と建物の間から見える青空を、大きな鯨が横切っていく……今日は少しだけ、高度が低いかもしれない。あれが他の連中には見えないのだと気づいたのは、確か幼稚園の頃だったか。指差されて、嘘吐きだと言われて、しばらくこの目に見えているもの全てが信じられなくなって。
ああ、今とさっぱり変わらないじゃねえかよ。
「どうしたのですか」
「どうもしねえよ」
言って、俺はヒナを見上げる。ヒナの桃色のワンピースの裾は、今日も初夏の日差しに半分ほど透けて見える。俺にしか見えない幽霊少女は、幽霊とは思えない笑顔を俺に向けてくる。
あれ、そういえば。
何で、ヒナって幽霊なんだ?
こっちには精神しか持ってこられない、という理屈はわかる。俺だって実際に向こうに行く時には精神だけなわけで、あの体がなければヒナと同じように幽霊としてふらふらしているのだろう。だけど、ヒナはこっちで肉体を持っている俺と違って向こうでも幽霊だ。
そっか。
俺……ヒナのこと、何も知らないんだ。
俺はヒナに色々聞きたいことはあるはずだけれども、上手く頭の中で纏められない。それだけじゃないのかもしれない。何だ、このもやもやとした感覚。
何で、こんな気分にならなきゃならねえんだ。
「わ、大きな鳥ですね!」
鯨が飛び去った後の空を指差して、ヒナが嬉しそうに顔をほころばせたのを見て、俺は一度思考を中断して同じように空を見上げる。ごう、という音を立てて空を飛んでいるのは、鳥ではない。
「あれは鳥じゃねえ、飛行機だよ。向こうにだって……ああ、あれは違うな」
向こうを飛んでいるのは、飛行機じゃなくて飛行船だった。まだ、翼を持たせて揚力で飛ばすタイプの飛行機は発明されていないのだろう。ヒナにとっては、あんな形のモノが普通に空を飛んでいるのが不思議だったんだろう。
「あれが、機械なんですか?」
「そう、でっけえ金属の塊だよ」
俺も未だにあんなでかい物がどうして飛ばせるのか不思議に思う。向こうの世界の魔法より、ある意味不思議かもしれない。そんな風に思っている間に、飛行機は建物の向こうに隠れて見えなくなってしまったけれど。
「本当に、色んな機械があるんですね」
「前に言ったとおり、俺らは機械がねえと生きていけねえからな」
「いつも乗ってる速く走る機械もすごいですよね。地面の上であんなに速く走れるなんてすごいです」
多分、俺の単車のことなんだろうな。そういえば向こうでは飛行船はあるけれど地面の上を走ってるのは馬車が限度のような気がする。多分、島ばかりっていう環境のせいで海や空の移動手段の方が先に発達したのかもしれない。
考えれば考えるほど、『楽園』という場所がこことは全然違う歴史を辿ってきたのだと実感する。ヒナの言葉一つ取ってみても、同じ現象に対する感じ方が全然違うのだから。
「こっちは地面の上の移動手段が多いからな。電車も速いぞ」
「電車?」
「線路の上を走る鉄の箱。あれが線路な」
俺が指差す先には踏切。本当はヒナに電車も見せてやりたいところだったが、ちょうど今の時間は電車が来る気配は無いから、ヒナを促して先に行くことにする。
俺は普段から単車で移動するため電車なんて使わない。元々高校だって徒歩圏内なんだ、電車を利用するのはそれこそ買い物に出かける時くらい。いっそ高校も遠ければよかった、と今更ながらに思う。
それじゃあ根本的な解決にはならないことも、わかっちゃいるが。
「あれは、何ですか?」
油断するとすぐにどん底に落ち込みそうになる思考を引き上げてくれるのは、ヒナの明るい声だけ。俺は即座にヒナの指差す先に視線を走らせる。家の窓のところにたなびいていたのは。
「……ああ、そっか。そうだよな」
思わず、声が漏れた。
機械とは違うが、ヒナには絶対に理解できないものだ。というか、ヒナならばぱっと見ただけでは、あれが何を模しているかもわからないかもしれない。
「こいのぼり、だ」
「こいのぼり?」
「この国では、端午の節句っていう日があってな。基本的に男子の成長を祝う日だ。で、あれは『こいのぼり』って言って確か立身出世だったか、まあそんな言い伝えがあって飾ってるわけだ」
超うろ覚えじゃねえか、俺。説明になってねえよ。元々そういう行事には興味ないからなあ……よっぽど飛行機が飛ぶ仕組みの方が興味あるよ。
ただ、ヒナはこの魚の形をした吹流しに少なからず興味を引かれたんだろう、ふわふわとこいのぼりと一緒にワンピースを風に揺らしながら、笑いかける。
「それじゃあ、あなたのお家でも飾るのですか?」
「いや……そりゃねえな。もう俺もそういう年じゃねえし」
家のこいのぼりがどこにしまわれてるかなんて、俺は知らない。知りたいとも思わない。兄貴が家にいた頃は、よく一緒に青空にたなびくこいのぼりを見上げていたけれど……いつ頃からこいのぼりを飾らなくなったんだろうか。そんなことも思い出せないのか、俺は。
でも、別にそんなこと思い出せなくても困りはしない。兄貴はここにはいなくて、親父もお袋も二度と俺のためにこいのぼりを引っ張り出すことはない。過去のことばかり考えてたって仕方がないのだ。
今はヒナと二人、同じ空の下で同じものを見上げている。
それだけで十分。
今真っ先に俺が考えるべきことは、向こうに行ってからテレサに何て謝るか、だ……ああ、思い出すとそれはそれで落ち込むなあ。これだけは回避しようのないものだと、わかっちゃいるんだが。
とにかく、逃げたらだめだよな。最低でも向こうでは逃げないと決めたのだから。向こうでは、今の俺みたいにはなりたくない。心からそう思う。
ここでも向こうでも、「俺」であることには変わりないのにな。
「あ、見えてきましたね」
ヒナがこいのぼりから意識を離して、道の先にある小さな店に目を向ける。古い時計を模した看板を見て、俺は何となく安心する。いつもそうだ、ここに来る前にどんなに苛立っていても、あのお洒落な看板を見れば少しだけ心が落ち着くのだ。
多分、あの看板の下ではマスターがいつも通りの笑顔で俺を迎えてくれるってわかるから。いつも通りであるってことは、それだけで安心するものだ。
「……さ、行くか」
「はい」
こいのぼりの前に立ち止まっていた俺は、ヒナと共に早足に歩みだす。
頭の片隅に引っかかっていた、二度と戻れない過去の記憶を振り払うように。
反転楽園紀行