反転楽園紀行

022:眠れる姫君

 扉の鍵穴に鍵をさして、回す。
 かちりという音が、指先を伝って耳に届く。
 何でだろう、少しだけ緊張してんのな、俺。別にテレサを起こしに行くだけなのに、本当に何を期待してるんだろうか。相手は、「あの」テレサなのに。
 ルクスやルーザに見られないように、少しだけ深呼吸。意を決して取っ手を握り、回して……
 って、あれ?
 ちょっと待て、開かないぞ?
 どっちにノブを回しても開かないとかおかしくないか!
「あ」
 混乱する俺に気づいたんだろう、ルーザが変な声を上げた。ぱっと振り向いた俺に、ルーザはいたって真面目な表情で言った。
「悪い、鍵、閉め忘れた」
「うぉおい! 何だよそれ! 何なんだよ!」
 全力でツッコミも入れてしまいたくなりますよ、そりゃあ。
 というかこの異端研究者様、実はものっそい天然ボケなんじゃなかろうか……クールっぽく見えるだけに、そのギャップに俺は頭を抱えて苦しみたくなります。これで、可愛い女の子だっていうなら俺は喜んでその子のフラグ回収に走るところだが、野郎じゃ萌えないどころか腹立たしいですともええ。
 と、とにもかくにも気を取り直してテイク・ツー。
 馬鹿馬鹿しくも一度は自分の手で閉めてしまった鍵を開けて、取っ手を回す。今度こそ音もなく扉が開いた。
 扉の向こうは階段だった。どうやら、遺跡をそのまま隠れ家にしているってよりは、誰かが住みやすいように改良していたみたいで、扉も遺跡の壁に比べたら新しかったし、階段にも手すりが取り付けられている。
 多分、ルーザじゃねえだろうな、とは思う。ルーザがここを隠れ家にしたのはそんなに昔ではなさそうだから。いくら遺跡と比べて新しいと言っても、つい最近取り付けられたというには少し煤けている。
 ルーザは多分、元々誰かが暮らしていたように思えるこの遺跡を見つけ、そのまま自分の隠れ家にしたのだろう。森に人を惑わす魔法をかけ、誰にも見つからないようにしながら、研究をしていたに違いない。
 まあ、その研究対象である機械はすっかりルクスに破壊されているわけだが。今もなお、ルクスが機械を破壊する音が背中から聞こえてくる。
 これからルーザとヴァレリアがどうするか、そいつは俺の知ったことではない。俺はテレサを助けて、ユーリスに渡れればそれでいいのだが。
 そういえば、ルクスがユーリスに渡る手段を考えてくれるって言ってたけど、本当に信じてよいものだろうか。その辺はテレサを起こしてから考えないとならないだろう。
 考えているうちに、階段が途切れて鍵のついていない扉が俺の前に現れる。やはりその扉も、取っ手に触れた瞬間に音もなく開いて。
 小さな部屋が、俺の視界に飛び込んできた。
 部屋の端に粗末なベッドが置いてあって、天井に仕掛けられた淡い魔法の光に照らされて、見慣れた奴が横たわっていた。
 絹の糸のような、細くてつややかな銀色の髪を広げて眠るのは、『ディスコード』を追いかけてここまで来てしまったテレサだった。寝ているってのに、頭に被った毛糸の帽子もそのままだった。
 それにしても、気持ちよさそうに寝ているもんだ。こいつ、俺がルーザと死に物狂いでドンパチしてたってのに、その間もずっとこうやってぐーすか寝てたってわけだ。
 そう、俺が自分のせいでテレサを危機に晒してしまったって一人頭を抱えている時も、多分とっくにルーザに捕まって眠っていたに違いない、わけで。
 ううん、何だかちょっと複雑な気分。
 結局、ぐだぐだ下らないことで悩んでいたのは俺一人ってわけか。ちょっと腹立つのは確かだったけど……まあいいか、とも思うんだよな。
 ルーザはテレサに手を出さなかった。テレサはこうやって俺の前で無事に眠っている。
 それでいいじゃねえか。結果オーライ、俺もテレサも少し寄り道した程度なんだ、って思うことにする。
 俺はテレサに近づいていって、試しに頬を軽くぺちぺち叩いてみる。本当に軽ーくだぞ、相手は何だかんだで一応綺麗な女の子だからな。顔に傷をつけるような真似、俺にできるはずもなく。
「おーい、テレサ。とっとと起きろー」
 ぺちぺち。ぺちぺち。
「迎えに来たぞー」
「んー……あと、五分……」
 む、完全に夢心地、目覚める気皆無だなこいつ。「あと五分」ってのは『楽園』でも共通の寝言なのだろうか、などというどうでもよいことこの上ない考えが脳裏をよぎったりもしつつ。
 俺は仕方なしに頬を叩くのを止め、腕を組んでテレサを見下ろす。無理やり起こすのも何だしな、どうするかとちょっとだけ思案する。
 テレサは目を閉じて仰向けになっているわけだが……どうしても、目が釘付けになってしまう。伏せられた長い睫毛も光に当てられてきらきら淡い青色に輝いているし、薄く開いたきれいな形の唇は、真っ白な顔の中で唯一微かにピンク色に色づいていて。
 本当、この唇から吐き出されるのが毒じゃなければ本当に可愛いのにな。こいつ、口を開けば俺に対してあてつけるような言葉ばっかりじゃないか。悪気は無いかもしれないけど、何か毎度毎度ちょっぴり落ち込むのよね、俺。
 出会ってそんなに経ってないってこともあるし、そう簡単に信じてもらえないってのもわかる。けれども、わかるのと、思うのは別。
 テレサはきっと気づいちゃくれないだろうが、今回だって本気で落ち込んだんだ。それがテレサの仕事だってわかっていても、テレサがルーザと『ディスコード』を追いかけていって、俺は独り取り残されて……
 って俺何しみじみそんなこと考えてんだよ!
 もうそれは終わった話、気にすることじゃないって何度も言い聞かせることにする。ネガティブシンキンはドツボに嵌るのわかってんだからとっとと止めたいんだが……そう簡単にも止められないのかもな。くそっ。
 改めて、テレサを見直す。
 俺が不毛な思考を脳内で繰り広げているこの間にも、テレサさんは規則正しい寝息を立てていらっしゃいました。
 本当に、さっぱり目覚める気配がねえなあ。どうするか。
 その時……俺の心の中の悪魔が囁きました。そう、これは悪魔の囁きだったのだろう。悪魔の囁きだとわかっていながら、思わず耳を傾けずにいられなかった言葉は、こう。
「お姫様ってのは古今東西王子様のキスで目覚めるもんだ」
 そいつがどれだけ馬鹿でアホな考えか、なんて考えずとも明らかな話だ。俺の心の中の悪魔にはっきり言おう、夢見るのは大概にしやがれと。
 しかし、だ。
 そいつがどれだけ甘美な誘いであるかも、考えずとも明らかなわけでな!
 俺だって別に女の子とキスしたことねえってわけじゃない。今は確かに彼女どころか三次元の人間とまともに付き合えない俺だが、それ以前にはきちんと彼女だっていた。ああ、引きこもる直前にこっぴどくフラれたわけだが!
 むしろその事件が微妙に俺の全力後ろ向き疾走引きこもり生活に拍車をかけたという話だが、ここでは関係ないので割愛。そいつが引きこもりの根本的な原因ってわけでもないし。
 それ以来画面の中にしか存在しない、あらゆる種類の二次元美少女にうつつを抜かしていた俺にとって、目の前で眠る三次元美女はとっても刺激が強くかつ魅力的なわけなのですよ、はい。
 何とか悪魔に抗おうとしている心の中、かろうじて残っていた理性という名の天使が囁くには。
「大丈夫、キスくらい、バレなきゃいいんだぜ!」
 あれ、天使かと思ったらこいつも悪魔じゃね? 俺、自分では結構冷静な方かと思ってたんだが、もしかすると既に理性振り切れてるのかもしれない。煩悩の塊ってのはこういうことを言うのかもしれない、なんて妙に冷めた考えが浮かんで、でも一瞬で蒸発する。
 まあ、さっぱり目覚める気配もないことだし、キスしたってバレやしないよな、絶対バレないよな、誰も見てないし!
 俺はゆっくりと顔を近づけていく。別に唇にキスしようってわけじゃない、頬に触れる程度なんだから構わないよな、と何故か自分自身に言い訳をしながら。
 顔を近づければ近づけるほど、テレサが無駄に美人であることを思い知らされる。しかも、ふと何かいい香りが鼻を掠めて、自然と胸がバクバク言い始める。うわ、息までちょっと苦しくなってきたんだけど。
 まさに顔が重なりそうになったその時、ばっちり目が合って、息が止まる。
 ……って、あれ?
 目が合うってことは、えーっと。
「え、えへっ」
 何で俺笑ってるんですか。しかも「えへ」は無いだろ「えへ」は。
 当然、言い訳の出来ない状況下に置かれた俺の精一杯の努力が実るはずなどなく。テレサは微妙に焦点の合わない目で俺を冷たく、そう、こっちの背筋が凍りつくほどに冷たく見据えまして。
 一瞬、俺の見間違いとしか思えない、満面の笑みを見せた後。
 
「このっ、変態ぃぃぃっ!」
 
 流石は「優秀な魔道士」であるテレサ様。呪文の詠唱も抜きで、遠慮なく攻撃魔法をぶっ放してくださいました。
 正面から魔法をぶつけられた俺の体は閉じてあったはずの扉をぶち破って階段まで吹っ飛ばされ、当然受身なんか取れるはずもなく、頭を階段の角のところに思いっきりぶつけた。
 かろうじて残っていた俺の意識は、その一発で闇の中に刈り取られていった。
 多分、俺が『楽園』にいられる時間も限界に来ていたってのもあると思う。
 意識が途絶える寸前、耳元でヒナが「不潔です」とか呟いてた気がするけど……それを認めると落ち込むから、気のせいだったことにする。
 
 
 一から十まで自業自得だってのは理解しているが、まさか初手で魔法食らわされるとは思わなかった。あの暴力女め、一瞬でも可愛いと思った俺が馬鹿だった。ああ馬鹿だったよ。
 でも、何でだろうな。
 不謹慎かもしれないが、こうやって闇の中にふわふわ浮かんでる俺は、それほど悪い気分でもなかった。この変な感じ、何て表現したらいいんだろうな。上手い言葉がすぐには思いつかないのだが。
 ああ、そうだ。
 ぶっ飛ばされて何言ってんだよって、誰かさんに笑われるかな。だけど、こんな風に馬鹿をやってみて、初めてわかった感覚。
 俺……ちょっとだけ、「楽しかった」のかもしれない。