反転楽園紀行

021:それも一つの結果

 俺は、やっとのことで、体についた、そして床に落ちた血を自覚する。
 赤い、血。
 どうでもいいがこの世界、魔物の血は緑色なのだそうだ。何でも、魔力を強く含んでいると緑色に変色し物質としても変質するとか何とか。理由はよくわからないが、そういう仕組みがあるらしい。そういえば初めて研究所で魔物と戦った時には、鉄の錆びた匂いに混ざってアルコールに似た匂いを嗅いだことを思い出す。
 だが、動物や人間の血はやっぱり赤く、濃い鉄錆の匂いを放つ。
 ルーザが落とした血も、当然何処までも赤かったわけで。
 俺はその場に立ち尽くして、言葉も出なかった。ルーザも自分と同じ……いや、違うな。ここにいる誰とも同じ人間なのだと自覚した。「自分と同じ」って表現は根本的に間違いだ、この場にいる中で、俺だけがまともな人間じゃない。
 ……あ、ヒナは幽霊だな。
 ともあれ、俺はナイフを鞘に収め、ルーザを見下ろす。
「ルーザ」
 ヴァレリアの癒しの魔法は、ルーザの深い傷口を何とか塞いでいるが、流れた血を戻すことはできない。青い顔で、立ち上がることも出来ずにいるルーザは視線だけを俺に向けて、微かに笑う。
「 『ディスコード』は返そう。あと、これも」
 ルーザは、すっかり血に汚れてしまった『ディスコード』の鞘を俺に投げてよこした。ただ、俺はそれをすぐには拾えなかった。頭の中がぼうっとしていて、正しく目の前の状況を判断できていないらしい。
 思考と、体が、一致しないような。そんな感覚。
 ただ、ルーザがポケットの中から何かを取り出したのは、わかった。
「……鍵?」
「魔道士が寝ている部屋の鍵だ。お前が求めていたのは本来『ディスコード』ではなくこっちだろう」
 その通り。これを素直に渡してもらえれば、俺もこんな戦いをする必要は無かった……ってこともないのか。ルーザの目的を聞いてしまった地点から、俺はナイフを抜かざるを得なかった。それに、無事テレサが戻ってきてもいつかは戦う相手なのだ。全てに東の魔女が関わっている限り。
 何ていうか、考えれば考えるほど憂鬱になるな。最近こんな鬱展開ばっかりだ。
 俺は、足元の『ディスコード』を拾い、それからルーザの手から鍵を受け取った。ルーザの手は血に濡れていて、冷たかった。
 ルーザは、その間も俺のことをじっと見ている。だからじっと見るのは止めてほしい、俺はそうやって見つめられるのに慣れていないんだから。それに、見られるっていうのは元々あんまりいい気分じゃない。
 わざとルーザの視線を外すようにして、小さな鍵を握って呟く。
「ありがとな」
「何故、礼を言う? お前の邪魔をしたのは俺の方だ」
「何だろうな。とにかく言いたかったんだよ」
 俺は、思ったことを言った。ただ、それだけの話。
 けれどもルーザはそれが不思議だったのだろう。俺のことを不思議そうに見上げて、ふ、と息をついた。
「いいのか」
「何がだよ」
「俺は東の魔女……サンド・ルナイトと通じている。俺はもうお前と戦う気は無いが、少なくとも俺を放っておけば、サンドを倒そうというお前に不利になるのは間違いない」
「ああ、別にもういいよ。俺、元々アンタを倒しにここに来たわけじゃねえし」
 どうしようもないイカレだが、ルーザは根っからの悪人じゃないと今なら信じられる。しかも、負けを認めた相手にこうも素直に従っちまう辺り、素直すぎるっつーか何つーか、こっちが毒気を抜かれてるわけで。
 だから俺はがりがりと頭をかいて、ルーザからは目を逸らしたまま言うしかないのだ。
「それに、アンタの言ってることも間違っちゃいねえとは思ってる。俺も、この世界の常識が何か変だってのはわかるからさ。ただ、アンタや魔女のやり方が気に食わないってだけだ」
 やっぱり綺麗事だよな。
 しかも、こいつは『楽園』の問題であって、外部の人間である俺が言うことじゃない。でも、きっとこういう奴らを止めるのが今の俺の役目で。色々気になるところはあるけれど、俺は自分の出来る範囲でやれることをやるしかないわけだ。
 ルーザは、まさか俺がそんなことを言い出すとは思わなかったのだろう。あからさまに目を見開いて、それからまた、少しだけ笑った。
「本当に、不思議な奴だな、お前は」
「そりゃそうだ。俺は他の星から来てんだからな。エイリアンってやつだ」
 わざとらしく、肩を竦めて笑顔で言ってやる。当然、ルーザには通じていなかったのだろう、首をかしげている。横にいるヴァレリアも同じだし、ルクスも「一体少年は何を言い出すんだ」とでも言いたげな顔をしている。この場で俺の言葉の意味を知っているヒナだけが、笑いもせずに俺を見下ろしていた。
 冗談のつもりだが、あながち嘘というわけでもない。俺が異世界人であることは間違いないのだから。
 きょとんとするルーザに背を向けて、俺は強く鍵を握りしめる。
 とにかく、これでテレサが助けられるのだ。早く、アイツの元に向かわないと。
 そう思って一歩踏み出しかけた時、背後でルクスの声が響いた。
「ルーザ・ウェイヴ。少しばかり俺からの質問にも答えてもらっていいかな?」
 俺は、思わず一度は浮かばせた足を下ろして、ルクスに視線を向けていた。ルクスは口元にいつも通り胡散臭げな笑みを浮かべていたけれど……目は、笑っちゃいなかった。しかも、抜き身のままの剣をルーザの鼻先に突きつけている。
 止めるべきか、否か。
 考えかけて、「何故そんなことを思うんだ」と自分自身に問い直す。
 ルクスは『影追い』で、本人がそう言ったわけじゃないが、九十九パーセントルーザを殺しにここに来たわけだ。それをわかってて、俺はルクスを連れてこの場に来た。この結末は見えてたじゃねえか。
 動くこともできないルーザは、至極穏やかな表情で小さく頷きを返す。何で、そんな穏やかな顔してられんだよ、自分が今まさに死のうって時に!
「 『ディスコード』はそっちの少年が持ってるとして……『コンコード』は今、何処にある」
 ……『コンコード』?
 これまた聞きなれない単語だ。『コンコード=協和音』って名前からして『ディスコード=不協和音』と関係しているんだろうが。聞けば聞くほどテレサも鋼鉄狂も、俺に言ってないことが多すぎるんじゃないのかと思わずにはいられない。
 すると、俺の戸惑いを察したのか、耳元でヒナが囁いてくれた。
「 『コンコード』……『ディスコード』と対になるもので、『杖』とも呼ばれます。元々はレクス帝国に保管してあった禁忌の兵器で、代々の皇帝が管理していたのですが、前の戦争で皇帝が使用したとされています」
 禁忌の兵器、って言われるくらいだから多分、ものすごいシロモノなのだろう。ヒナの言葉だけじゃ全然想像つかないんだが。何せ、魔女を倒す禁忌の武器と言われてる『ディスコード』がよく切れるだけのナイフなわけだし。
「その後、行方は不明とされていますが、東の魔女に渡れば大変なことになると思います」
 もちろんルーザはルクスの言ってる意味をしっかり理解しているんだろう、ゆるゆると首を横に振って、言った。
「サンドはまだ『杖』を手にしてはいない。俺もだ。だが、既に存在する場所は知っている」
「それは何処だ?」
「……流石に言えないな。だが、『コンコード』の場所がすぐにサンドに知れることはない。知れたとして……彼女は起動と解放のコードを知らないはずだ」
 ならよかった、とルクスはちょっとばかり皮肉げに笑う。俺は、ただその場に突っ立って、そんな二人を見つめていることしか出来ない。
 止めるべきか、否か。
 今度は迷わず自らに問い直す。確かにいくら脅迫されていたからといって、ルクスを連れてきたのは俺だ。それに、ルクスに助けられたのも確かだ。ルクスがいなければ、間違いなくルーザを倒すことはできなかった。
 だけど、ここでルーザを殺させるわけにはいかない。
 はっきりと、そう、思うのだ。
 ベルトに差し直した『ディスコード』の柄をマントの下で握る。ルクスは、俺の動きに気づいたのかもしれない。深紅の瞳を不意にこちらに向けてきた。笑みの色を見せない、心の奥底まで見透かされてる錯覚すら抱かせる、深い、赤。
 だが、ここで目を逸らすわけには行かない。見られるのが嫌だって言っても、ここで目を逸らしたら負けだ。
 結局、先に目を逸らしたのはルクスの方で。その時、奴が俺に笑みを向けたのを俺は見逃さなかった。そいつは甘っちょろい俺に対する嘲笑なのか、それとも。
 ルーザは何も言わないまま、剣の切っ先を突きつけたままのルクスを真っ直ぐに見据えている。そして、ヴァレリアもまた、怯えの表情でルクスを見上げていた。
 そうだよな、ヴァレリアはルーザが異端研究者だってのは知ってただろうし、その辺はある程度は覚悟の上なんだろうが……ルーザが殺されたらヴァレリアはどうすればいい?
 いや、それ以前に。
 ヴァレリアは、どうして異端研究者のルーザと一緒にいるんだ?
 くそっ、何で俺の思考はこういつも現状の一歩後を行くんだ? 俺は結局流されるだけで、何も自分で考えちゃいないじゃないか。真面目に考えた頃には全て手遅れ、そうやって俺は毎度周囲に取り残されていくんだろ。
 そうやって、俺は、独りになったんじゃねえのかよ。
 そんな自分が嫌になってここに来たんじゃねえのかよ。
 何も変わっちゃいねえ。変わりたいって望まなきゃ何も変わらない。望んだって、変わるのは難しいのにな。
 いや、今は俺のことはいい。とにかく、今の問題はルクスがルーザをどうするか、だ。ルクスは突きつけた剣の切っ先を少しも動かさないまま、視線だけを何故かヴァレリアに向けた。
「それで」
 唇から放たれるのは、緊迫した空気にはそぐわない、やけに明るい声。
「お嬢ちゃん。君は、どうしたい?」
「え?」
 ヴァレリアは、まさか自分に話が振られるとは思わなかったのだろう。素っ頓狂な声を上げて、ルクスをまじまじと見つめる。ルクスは笑うだけでそれ以上は何も言わない。
 一体、この兄さん、何考えてるんだ?
 そう考えたのはルーザも同じだったのだろう。微かに眉を寄せ、怪訝そうな顔をしている。が、とにかくルクスはヴァレリアの答えを待っているようだった。
 ヴァレリアはしばし、口をぱくぱくさせていたけれど……その時間はさして長くはなかった。多分、答えは決まっていたのだ、初めっから。
 きっ、とルクスを見上げたヴァレリアの涙ぐんだ目に、もう迷いは無かった。
「私は、ルーザさんに生きていてもらいたいです。ルーザさんは、何もわからない私を助けてくれた人なのです。ルーザさんがいなければきっと生きていけなかったと思います。だから、ルーザさんが死ぬなんて、私は嫌です!」
「ヴァレリア……」
 まさか、ヴァレリアがそんな風にはっきりと主張するとは思わなかったのだろう。ルーザは呆然とヴァレリアを見つめる。そして、ルクスは。
 楽しげに笑いながら、馬鹿でかい剣を振り上げた。
「ちょっ、待っ」
 俺が慌てて駆け出そうとしたが、ルクスの剣の切っ先は、ルーザに振り下ろされることはなかった。次の瞬間、音を立てて両断されたのは、ルクスの背後にあった巨大な機械。
 ルクスは、剣を振るって部屋の中にある機械を次々と斬り払いながら、言う。
「俺は、ルーザ・ウェイヴを追いかけて、この隠れ家まで来た!」
 それは誰に言うでもなく、でもこの場にいる全員に「聞かせる」ための言葉。
「だけど、『俺が来た時にはルーザは既に逃亡した後だった。ただ、ルーザが集めたと見られる禁忌の機械を発見したため、これを破壊した』。間違いないよな?」
 ちらり、と視線が俺に向けられる。はた迷惑なイタズラを考え付いたガキみたいな顔で笑うルクスを見ていると、まともに構えていた俺が馬鹿らしくなってきた。全身から力が抜けて、何だか気の抜けた笑い声が唇から漏れていく。
 畜生、こいつ、鋼鉄狂の言うとおりだ。
 『影追い』だけど……本当に、「悪い奴」じゃねえんだ。
「ははっ、兄さん、ちょっと見直したぜ」
 まだ本当に気を許したわけじゃないけど、見直したのは本当だ。正直『影追い』としてそれでいいのか、とも思うけどな。
「可愛い女の子に頼まれちゃなあ。お兄さんはとっても心が広いのさ」
 ルクスは「ははは」と声を上げて笑う。
 まさか、『影追い』にそんなことを言われるとは思ってもいなかったのだろう、呆然とするルーザの体を、ヴァレリアが強く抱きしめる。
「よかった……ルーザさん、私……っ」
 笑顔ながらもぼろぼろと涙を流すヴァレリア。つややかな黒髪に指を通し、ルーザはすかした微笑みなんぞを浮かべてみせた。
「いつも、そんな風に考えていたのか……悪かった、ヴァレリア」
 けっ、お熱いことで。
 なーんて一瞬考えちまうのは僻みですかそーですか。
 どうせ、この扉の向こうに眠っているお姫様は、そんなお熱さとは無縁なんだろうけど……少しは、期待したいと考えてしまうのが、男の悲しきサガか。
 思いながら、俺はついに、テレサが眠る扉に手を伸ばす。