反転楽園紀行

016:足取りを追って

 宿を出る頃には、太陽は南東の空に高く浮かび始めていた。
 通りは相変わらず人でごった返していて、歩きづらくて敵わない。もちろん、そんなの浮かんでる上に幽霊であるヒナにゃ関係ないわけで、いつも通り桃色のワンピースをふわふわさせながら俺を見下ろしている。
 しかし、常に俺の斜め上に浮かんでるのに、スカートの中身が絶対に見えないってのは明らかに何か不思議な力が働いているとしか思えない。
「それで、これからどうするのですか? ルクスって人が教えてくれた情報屋に行くのですか?」
 ヒナが俺の顔を覗き込んできて、俺も我に返る。そんなこと考えてる場合じゃない、ぼうっとしている時間が長ければ長いほど、テレサが危ないのだ。歩き出しながら唇を湿し、声を低くする。
「ああ。あと、ヴァレリアに会おうと思ってる」
「ヴァレリア? どなたですか?」
「ルーザの連れらしい。昨日、迷子になってルーザを捜してたから、合流してなきゃまだふらふらしてんじゃねえかなと思って」
 俺が捜しているのは、ルーザではなくてテレサだ。『ディスコード』がどうとかいうのは正直俺にはよくわからんが、とにかくテレサが無事でいてくれなくては困る。
 ただ、テレサがルーザと『ディスコード』を追っていったという手前、ルーザの行方を追うのが間違いなくテレサを見つけるための一番の近道だ。
「ルーザの居場所を吐かせるんですか?」
「嫌な言葉を使うな。まあ……ある意味間違ってないけどさ」
 あのちょっと抜けてるっぽいエルフの姉ちゃんのことだから、ルーザに置いていかれてまだ時計塔広場辺りをふらついているかもしれない。そして、ヴァレリアならルーザがどこに逃げたのかはわからなくても、ルーザの拠点か何かは知っている可能性が高い。
 もし、ルーザのことを話さないようなら少しくらいは強硬手段に出ることも厭わないつもりだ。そうなる前に吐いてくれた方が俺の精神衛生的にもよいのは確かだが、そこは実際にやってみないとわからない。
「とにかく、まずは情報屋で情報を仕入れてからだ……って」
 あ?
 そういや今俺、普通にヒナと話してたけど。
 俺は反射的に周囲を見回す。俺の視界にいる通行人はこちらを見てはいなかったけれど、誰かが俺を見ていたんじゃないかと思うと、背筋が冷える。喉が渇いて、息が詰まる。あるかどうかもわからない「誰かの目」が、俺を笑っているような気がして――
「……大丈夫ですよ」
「え?」
「見えないものが見える人って少なくはないのです。特にこの町は精霊使いさんとかも多いので、変な目で見られたりすることはないですよ」
 そう、なのか。
 俺は内心胸を撫で下ろした。詰まりかけた呼吸もそれだけで楽になる。
 ヒナの言葉のニュアンスからすると、そういう人間は「少なくない」だけで「多くもない」のだろうが、精霊使いなんていうジャンルが成り立つってことは、そういう能力が少なくとも認められているってことだろう。
「ほら、あの人は精霊使いさんですよ?」
 ヒナが指差す先に視線だけ向けると、何かと笑顔で語り合っている背の高いエルフが見えた。エルフは、小さな妖精のようなものと楽しげに会話をしながら人の波の中に消えて見えなくなった。
「あの妖精みたいなのは、普通の連中には見えてないのか」
「見えないですね。シンには見えていますよね」
「そうだな……言われてみると、何か人じゃない奴らも結構多いよな、この町」
 言われるまであまり気にも留めていなかったが、人の波の中には、結構「人じゃない」ものも混ざっていた。人のような姿をしているけれど、人混みの中を悠々とすり抜けていく半透明のもの。根本的に人の姿すら取れていない、白っぽいもやもやしたもの。空を駆け抜けていく、翼のある何か……
 ヒナは俺の視線を追いながら、ぽつりと言う。
「彼らは危害を加えないので大丈夫なのです。狂った霊は危険ですし、倒すのも難しいんですよ」
 確かにファンタジー系のロールプレイングゲームでは、ゴースト系モンスターは魔法しか効かないとか銀の武器じゃないと傷つかないとか、厄介な奴らが多かったような気がする。この世界でも、そんなもんなんだろう。
「もし、俺がそういうのに出会っちゃったらどうなんだ?」
「逃げてください。狂った霊の魔法はシンには通用しないのですが、逆にこちらからの攻撃も通用しませんから」
「はいはい」
 ルクスが手紙の裏に書いておいてくれた地図を見ながら、俺は一つ気になることがあってヒナを見上げる。
「なあ、ヒナは精霊使いとかいう連中には見えてるのか? テレサや鋼鉄狂には見えてたけど」
「見えてないと思いますよ。今は、シンのようによっぽど強い『見る』能力を持っている人にしか見えていないはずです」
 それじゃあ、テレサや鋼鉄狂は俺みたいに「見る」ことが得意な連中なのだろうか。そう思っていると、ヒナはちょっとだけ困った顔をして言った。
「テレサはこの世界の人にしては『見る』能力が強い方ですが、本来鋼鉄狂はほとんど見えてないですよ。この二人には見えるように、わたしの方が調整しているのです」
「便利だな、それは」
「でも、どんなに誰にも見えないように調整しても、シンには見えるのですよ」
 ふわりと。
 無造作に空中に一歩足を進めたヒナは桃色のワンピースを翻して俺に向き直る。ゆるくウェーブのかかったブラウンの髪を肩の上で揺らして、微笑む。
「あなたは、わたしの特別なのです」
 「特別」、か。
 今までは、どうしても素直に受け取れなかったけれど、ヒナが笑ってそう言ってくれると、素直に嬉しいと思えるようになってきた。はっきり言って、ヒナが見える仕組みとかそういうのはさっぱり理解できなかったんだが。
 とにかく、今はそれでニヤニヤ笑ってる場合じゃない。今考えるべきことは、テレサを追いかけること、それだけ。
 軽く頭を振って、気分を切り替えて。地図を見ながらもう一歩進もうとした時、突然肩を叩かれた。あまりに突然なことだったから、勢いよく、それこそ弾かれたように振り向いて。
 そこにいる人間の姿を確認して、息を飲む。
「やあ、少年。もう歩いて大丈夫なのか?」
 綺麗な顔に間の抜けた笑みを浮かべてたのは、自称ユーリスの『首狩り』にして、『影追い』だという男……ルクス・エクスヴェーアトだった。助けてくれた相手ではあるんだが、事実を聞いちまうと流石に身構えずにはいられない。ヒナも、何処となく緊張した面持ちでルクスを見ている。
 とはいえ、ルクスにはヒナの姿は見えていないようで、深い赤色の瞳は真っ直ぐに俺だけを見ている。
 俺は体を硬くしたまま、何とか言葉を吐き出した。
「その……助かった。死ぬかと思ったから」
「いやいや、礼には及ばないさ。なかなか面白いものも見せてもらったからな」
 まずい。
 ルクスは目を細め、楽しげに笑みながら俺を見ているけれど。俺にはその笑みすら、獲物を見つけて舌なめずりをする肉食獣か何かのように見えた。
 何せこいつは、言外にではあるがはっきりと示したのだ。
『お前の体が禁忌のシロモノであることを把握している』
 ……と。
 これで警戒しない方が嘘だろう。しかもこいつは禁忌を追う『影追い』。いつ俺のことを後ろからばっさりやってもおかしくないわけだ。
 俺はじりじりと下がりながら、何とか無理やり笑顔を捻出する。絶対に超引きつった、見てる側の方が笑えるような笑顔になってるに違いなかったが、この際んなことはどうでもいい。
 この場から逃れられれば、それでいいのだ。
「わ、わざわざ情報屋の場所まで教えてくれて、マジ感謝してる! ってなわけで俺はこれで!」
「ちょーっと待ったぁ!」
 背を向けて駆け出しかけた俺のマントを、ルクスは全力で引っ張りやがりました。もちろん俺の首が悲鳴をあげるわけで。そりゃあ、ナイフより重いものを持てないこの体が、身の丈近い大剣を振り回すルクスに力で敵うわけありません。
 俺は全力でむせながら、「何だよ!」とルクスに向き直る。いきなりばっさりやられなかただけマシだが、これで逃げ出すチャンスを逸してしまった。まあ、すばしっこさなら俺のほうが上だろうから、隙を見て人混みの中に飛び込めば何とか逃げ切れるかもしれないな、なんて思い始めていた時だった。
 ルクスは俺のマントの端を掴んだまま、自信に満ち満ちた表情で言った。
「少年、ルーザの居場所はわかるのか?」
「あん? だから今から情報屋に調べに行くって……」
 もう、この男はとっくに調べて知っているはずだ。もしかして、その情報を俺に条件付きで売るつもりなのだろうか。それも、俺にとってめちゃくちゃ不利な条件で。この男が『影追い』ならばやりかねない。
 何せルーザは『影追い』からしても看過できない世界で最も有名な異端研究者。そして俺は世にも珍しい歩く禁忌、らしい。この男からすればいい獲物が二匹同時にかかったようなもので……
 と、思っていたら。
「うむ、それじゃあお兄さんも一緒に連れて行ってくれるといいと思うよ?」
 なんてぬかしやがった。
 あれ、こいつ、ルーザの居場所わかってねえのか? ってか、今情報屋で調べて帰ってきたところじゃないのか?
 色々気になるんだが、どうにせよこいつのためにそこまでしてやる義理は無いわけで。本当に俺が知りたいのはルーザの居場所じゃなくてテレサの居場所なわけだし。
「何で、わざわざ俺がアンタにんなことしなきゃならねえんだよ」
「おやおや? いいのかな、そんなこと言って」
 あからさまに眉を寄せて睨む俺に対し、にぃ、とルクスは意地悪な笑みを浮かべやがる。しっかり掴んだ俺のマントの端を、ひょいと持ち上げながら。
「このまま、憲兵に突き出してあげてもいいんだぞー?」
「う……」
 そいつはとても困る。そうだよな、後ろからばっさりやられることばかり考えてたが、この男が直接手を下さなくてもいいわけだ。
 特に、この男は『影追い』だってバレてることに気づいてないわけで、あくまで俺の前では『首狩り』として振る舞っているつもりなのだろう。なら、対応としては多分それが一番正しい。
 とにかく、こいつに見つかった地点で俺に選択肢は無かったわけだ。
 しかし、何でこいつはわざわざ俺に情報収集させようとしているんだろうか。自分で調べた方が早くて確実だろうに……って、まさか。
 俺はわざと大げさに溜息をついて、肩を竦めてみせる。
「まさか、とは思うが。アンタ、金ねえのか?」
「うっ」
「図星かよ!」
 あまりにわかりやすい反応に、俺は全力でツッコんでしまった。いやだって、鎌かけたつもりだったんだが、ここまであからさまだとツッコミ以外の反応のしようがない。
 遺憾なことに俺にスルー技能は存在しない。
 スルー技能があればとても楽に生きられるような気がしないでもないが、そこはもう仕方ないと思って諦めることにする。
「そ、そんなことないデスヨ?」
「何故そこで片言になる! ああもうわかった、行きゃいいんだろ行きゃ!」
「ははは、そう来なくちゃ。少年はとってもいい子だなあ」
 ――脅迫したのはそっちじゃねえか!
 そう叫びたくなるのをぐっと堪えて、飲み込んで。虚空に浮かぶヒナに目を向ける。ヒナは何となく不安げにルクスを見ているので、小さな声で話しかける。
「……どうするよ、これ」
 ルクスにも聞こえているかもしれないが、ヒナの言葉は聞こえないだろうから構わないだろう。ヒナは「うーん」と首を捻ってから、言った。
「鋼鉄狂の言葉を信じるなら、とりあえずは大丈夫だと思うのです。何だか、『影追い』にしては頼りなさそうですし」
 うん、まあ確かに。
 見れば見るほど、俺がイメージしていた「冷酷な異端審問官」としての『影追い』とはかけ離れた男だ。昨日もルーザにあっさりやられてたし。とはいえ、頼りにならない男を演じている可能性だって無いとは言い切れない。
「そうだといいんだが、な」
「危なかったらわたしも魔法で手助けするのです」
「助かる」
 俺は短く言って、再びルクスに向き直った。ルクスは何とも胡散臭くにこにこ笑いながら、俺が歩き出すのを待っているように見えた。
 だから俺はジト目をルクスに向け、はっきり言った。
「一緒に行ってやるから、マントは離してくれ。な?」