目が覚めて、すぐに体を起こす。
起こしてから、自分の体に何も異常がないことを確かめた。ないのは当然だ、これは「俺の体」であって、「シンの体」じゃない。わかってはいるんだが、どうしても確かめずにはいられなかった。
何しろ、俺は、死んだのだ。
ルーザとかいう野郎にばっさり斬られて、血溜まりの中に倒れて。奴の目の中に映った俺がひっでえ顔をしていたことも、俺を見下ろしたルーザが手の中の『ディスコード』を奪ったことも、はっきり覚えている。
それで……どうしたんだ?
記憶は『ディスコード』を奪われた地点で途絶えていて、俺が、テレサが、何故かそこにいた見知らぬ首狩りの兄さんが、そしてルーザがどうなったのかは、わからないままだということに、気づく。
頭から、血の気が引く感覚。
早く、早く戻らなくては。ベッドの上で呆然としている場合ではない。一刻も早く、もう一度眠りについて楽園に戻らなくてはならない。戻って、俺は。
――戻って、どうするんだ。
ルーザは強かった。半端なく強かった。こっちは援護してくれるテレサを含めて三人で、相手はたった一人だったのに、結局隙をついて俺が放った一撃はその脇腹を掠めただけ。逆に、ルーザは俺の腹をばっさりと斬り裂いていったのだ。
今、戻ったとしても、もう一度負けるだけ。
だが、いくら勝てないってわかってても、こんな薄暗い部屋の中でうだうだ考えているなんて耐えられるか。耐えられるわけない!
その時、場違いにのんびりとした声が部屋の中に響き渡った。
「大丈夫ですか?」
「ヒナ! 手前、今まで何やってたんだ!」
突如として虚空に現れた桃色のワンピース……ヒナの姿を見た瞬間に、俺は叫んでいた。
ヒナはびくっと体を震わせて「ごめんなさいっ」と反射的に謝ったが、よくよく考えてみなくともわかる。ヒナに非はない。確かにあの場に居合わせていなかったのはまずかったかもしれないが、ヒナにもヒナの事情があったはずで……とまあ、色々な考えが頭の中を渦巻いているものの。
俺は単に、行き場の無いイライラとした気持ちを、ちょうどこのタイミングで現れたヒナにぶつけてしまっただけなんだと思う。
女の子に見当違いの理由で当たる俺、マジかっこ悪い。
「……悪い」
ぽつり、と。呟いて俺は目を覆うしかなかった。きっと現状を理解していないのだろうヒナが、慌てて早口に問うてくる。
「あのっ、一体何があったのですか?」
「ルーザって奴にやられた。『ディスコード』も奪われたと思う」
「……っ!」
ヒナの顔色が変わる。多分、普段の俺なら「幽霊なのに血の気が引くとかおかしくないか」と茶化すところだったが、今はそれどころじゃない。俺がやられ、魔女に対抗できる唯一の手段である『ディスコード』を奪われたという状況は、ヒナからしたってヤバイ状況には変わりない。
「そ、それはまずいですよっ」
「ああ。頼む、今からあの後何があったか調べてきてくれ。それから、可能なら俺に、すぐに教えてくれ」
「はい、わかりました!」
ヒナはそういい残して消えた。多分、楽園に帰ったのだろう。
その間、俺はどうすればいい。部屋の中を見渡すと、机の上に積んであった読みかけの本とか、多分プレイ中のソフトが入りっぱなしのコンピュータとかが目に入るけれど、それらを手にする気にはならない。
もし手にしたとしても、さっぱり頭に入らないし楽しくもないだろう。
こうしている間にも事態は動いているに違いない。
楽園とこの世界を行き来していてわかったのだが、時間の流れは向こうもこっちもほぼ一緒。また、一日の長さもほぼ一緒だ。ただし、俺が夜寝ている間向こうは昼で、向こうで夜寝るとこっちの朝に戻ってくるから、昼と夜はぴったり逆転しているみたいだったが。
時計を見れば、午前七時……普段の俺なら絶対に起きない時間。
ああ、もう一度目を閉じたら向こうに戻れるんだろうか。いや、無理だ。ヒナに導いてもらわなければ戻れないことくらいわかっているじゃないか。
正直、ルーザとか『ディスコード』とかは、どうでもよかった。
まだ俺が勇者だって実感もないし、『ディスコード』が無ければ魔女を倒せない、なんて話だって完全に信じられたわけじゃない。ルーザが何故『ディスコード』を欲したかなんて、俺の知ったことじゃないわけで。
だけど、さ。
あそこに取り残されたテレサがどうなったのか、それだけは知りたかった。俺が倒れて、勇者のくせに不甲斐ないって笑っているかもしれない。あの女だったら絶対そうする。ただ、魔法抜きでテレサがルーザと対等に戦えるとも思えなかった。
ルーザがテレサをどうしようとしているのかはわからないが、テレサは果たして無事なのか。それだけは、知りたかった。
ベッドの上に倒れこんで、天井を見上げて。
相変わらず薄暗くて静かな部屋の中、俺一人。当たり前のことなのに、静かだ、と思う自分が何となく奇妙だった。
そうか、そういえばここ数日は、ほとんど一人でいることなんてなかった。向こうでは必ずテレサが側にいたし、こっちに戻ってきたってヒナがいてくれて。誰かが側にいることなんて、半年くらいなかったことだったのに……たった数日誰かと過ごしただけで、独りでいるのに不安を覚えている自分に気づく。
今になって、俺のことを必要としてくれている人がいるというのに、その場にいられない自分に苛立っているのだと、気づく。
時計の針の音が、無情に響く。
何時間くらい、待っただろうか。その間、ドアの外に置かれた飯も食わずに、ずっとベッドの上で見るともなしに天井を見上げていただけだったけれど。
ヒナの姿が、不意に天井の側に現れて、俺はぱっと体を起こす。
「どうだった!」
ヒナは、ふわふわと空中に浮かびながら、今までに見たことのないような表情を俺に向けた。そいつは、不安とかそういうのを全部通り越して、絶望、と言ってもいいくらいの表情だった。
「……『ディスコード』は、間違いなく彼に持ち去られたみたい、です」
「そう、か」
やっぱりか。多分、あの後はテレサでもルーザを止められなかったのか。それならば。嫌な予感が脳裏を掠めて、俺は渇いた喉に唾を流し込む。
「テレサは、どうした」
「テレサは……一人で、彼を追いかけていったようです」
「は?」
何、だって?
「わたしも探してみたのですが、テレサの姿がどこにも見つからなかったのです。多分、『ディスコード』を取り返すために、彼の元に行ったと思うのです」
「待てよ、アイツは……」
「テレサの役目は、あくまで『ディスコード』をあなた以外の人間の手に渡ることを防ぐこと、なのですよ。テレサは多分、そちらを優先したのだと思います」
がつんと、強く頭をぶん殴られたような、気がした。
そうか。いや、何となくわかっていた。テレサはそういう奴だ。いつもふざけちゃいるが、自分に与えられた役目はきっちりこなす。だから俺と『ディスコード』のお守りを託されたわけだろうし、『ディスコード』が奪われたってなら、追いかけていくのは当然なのだろう。
テレサは何処までも正しくて、あの時だってあいつの言葉に従ってりゃ、こんな事態にもならなかった。それは、わかる。
テレサの制止を振り切って、勝てない相手の前に飛び出したのは俺。
折角の逃げるチャンスをふいにしてこの結果を生んだのは、やっぱり俺。
全部の原因は俺にある。そいつはわかっているけれど。
脳裏にちらつくのは、青みのかかった銀色の髪。俺に背を向けたテレサが、こちらを振り返ることもせず長いスカートの裾を捌いて駆け出していく、そんな想像が浮かんで、消える。
何故か、独り、ぽつんと取り残されてしまったような気がして。俺を残してルーザを追いかけて行ったテレサの背中に、俺は「どうでもいい存在」だと言われた気がして。
こんな感覚、とっくのとうに捨てたつもりだったのに、すっげえ辛い。
ヒナが心配そうな表情で俺の顔を覗き込んでくる。光を映さない大きなブラウンの瞳は、俺の姿を映しこむこともなくて、それで少しだけ安心する。きっと今の俺は、とんでもなくみっともなかっただろうから。
「……苦しいの、ですか?」
「違う。気にすんな」
吐き捨てるように言って、首を振る。
考えても、仕方ないことだ。テレサはルーザを追いかけていって、俺はまだテレサの背を追いかけることすら出来ない。そこは紛れもない事実であり、それ以上でも以下でもない。
「ヒナ、あとどのくらいで行ける!」
「えっと、午後四時くらいには……けど、いくら早くしても、体の損傷も激しいですから、すぐには動けないですよ」
四時。それまで、待たなきゃならないのか。俺は自然と歯を噛み締めていた。ヒナは不安げな表情を浮かべたまま、天井近くから俺を見下ろしている。
ヒナは何も悪くないのに、目の端に映る桃色のスカートの裾を見ているだけで苛々する。
俺は何で自由に行き来できないのか。機械の体ならば、胴がぶった切られたって動けていいものじゃないか。あの程度で気絶して、こっちに戻ってきて。そんなんだから、テレサにも見捨てられるんじゃねえか。
ああもう、俺、何なんだよ。
勇者とか言われてるけど、結局のところ何なんだよ!
「あと、あなたの体はその時一緒にいた人が運んでくれたようです。今から、このことを鋼鉄狂にも報せてきますから、待っててくださいね!」
「ああ」
頷きはしたが、本当はヒナの言葉なんて半分以上頭に入っちゃいなかった。
ヒナの桃色のワンピースが、空気に溶けるように消えて、俺は再び独りになった。天井が重たい色で俺を押しつぶそうと迫っているような錯覚に陥る。いっそ押しつぶしてくれりゃいい。
暇潰しがてらに異世界に行って、何のしがらみに囚われることなく、ゲームみたいにナイフを振り回す。それだけのつもりだったのに、こうやってベッドの上に寝転がっていると否応無く浮かぶ、正体のわからないもやもやしたものに囚われる。
現実に感じる息苦しさとはまた違う、辛さ。
それを振り払うためにも、俺は早く戻りたかった。
だが、時間は残酷なまでに平等に与えられていて、指定の時刻まで俺は何をするでもなく、枕元においてあったボールペンを手に取り、ひたすらにノックする。
かち、かちという乾いた音が部屋の中に響く。
出ては引っ込むペン先を見つめながら、思う。
魔女とか、『ディスコード』とか、正直今はどうでもいい。ただ、俺に背を向けて一人で駆け出していったテレサを追いかけなくてはならない。
遠ざかっていく銀色の髪に届かなくなる前に、この手を、伸ばさなくてはならない。
そう、思うのだ。
ヒナが迎えに来るまで、俺はずっと、ぐるぐると堂々巡りする思考を抱えたまま、ボールペンをノックし続けた。
反転楽園紀行