反転楽園紀行

008:二人で行く道

 気づけば。
 俺は……自分の部屋の天井からぶら下がる、小さな明かりを呆然と見ていた。
 何でだ。何で、戻ってきてるんだ。俺は『楽園』とかいう世界に旅立って、ロボットの体と機械仕掛けのナイフを貰って、今まさに変な毛むくじゃらのモンスターと戦ったばかりじゃなかったのか。
 薄暗い部屋の中で、俺は天井に向かって両手を伸ばす。貧弱な両腕、細長い指。そこに、先ほどまで見ていた緑色の血は、ついていない。いつも通りの「俺」の手だった。
 時計を見れば、午前九時……朝だ。とはいえ、雨戸も閉めてあるから外の天気もわからないのだが。
「何でだよ……」
 両腕で、目を覆って。声を出してみても、返事はない。
 目が覚めてみると、この手には何も残ってなくて、記憶だけが鮮明に脳裏に焼きついている。青い空、青い海、遠くに見えた巨大な樹。ナイフを握っていた感触、あっさりと肉を貫いた手ごたえ、体にかかった血の熱さ、むせ返るような匂い。
 覚えている、覚えている、けれど。
 ベッドの上で目を覚ましてみると、夢のようにしか思えない。
 ――いや、夢だったのか?
 俺を呼んでいた桃色のワンピースの幽霊少女、ヒナ。それが、もし初めっから俺が生み出した妄想か何かだったらどうする。今まで見ていたのは全部夢で、ふとした瞬間に目が覚めちまったんだとしたら、どうする。
 最初から最後まで俺は、よく出来たゲームみたいな夢を見ていて、それで現実から逃げた気分になっていたってことか? いい夢を見て、それで目が覚めちまった俺が今ここにいて。
 どうしようもなく、落ち込んでいる俺がいて。
「何だよ、夢ならそうと、さっさと気づけよ……」
 誰も聞いていないとわかっていても、呟かずにはいられない。呟いて、息苦しくなって、胸がぐっと締め付けられるような感覚に、襲われる。いつもの息苦しさ以上の、痛みにも近い何かが俺を責め立てる。
 勘弁してくれ、こんな苦しい思いをするのが嫌だから異世界に旅立ったのに、全部いい夢でしかなかったのか?
「そんなこと、ないですよっ!」
 ああ、幻聴が聞こえる。俺の妄想が生み出した、幻聴……
 って、え?
 目を覆っていた腕をどかし、体を起こす。すると、目の前に桃色のワンピースがふわふわ浮かんでいた。
「夢なんかじゃないです! 妄想でもないですってば!」
 ワンピースの幽霊少女は、腕を腰にあててものすごくわかりやすく怒っていた。何だか、今までぐだぐだ考えてた俺自身がバカバカしくなって、「あー」と間抜け声を出す。
「悪かった。突然戻ってきて、正直混乱してた」
 夢でも妄想でもない。ヒナはここにいて、俺はさっきまで異世界にいたんだ。いくら俺がギャルゲーとロールプレイングゲームを愛する生粋のゲーマーでも、あそこまでリアルな夢は今まで見たことないし、これからも見ることはないだろう。
 いやまあ、桃色ワンピースのふわふわ幽霊少女って地点で、俺の妄想っぽい気はしなくもないのだが。
「だーかーらー、妄想扱いしないでくださいですよ!」
「だから悪いって……ってか俺、妄想って言ってたか?」
「う、言ってないですけど……そういうことを考えてる顔してました!」
 顔かい。どれだけまずい顔してたんだ、俺。考えないようにしよう。
 それにしても、だ。
「何で、突然戻ってきたんだ? 突然体に力が入らなくなって、ぶっ倒れたとこまでは覚えてんだが」
 真面目に聞いてみると、ヒナは「えーと」と少しだけ困った顔をした。何から話していいかわからなかったのかもしれない。別に急かす理由も無いから、俺は黙ってヒナの言葉を待った。
「あのですね、まだ、あなたの心は向こうの世界と体に慣れてないのです。それで、ひょんな拍子に元の世界に戻ってくる力が働いちゃうのです」
「ああ……まあ、本体がこっちにあるんだもんな」
 俺は自分の胸を叩いてみる。向こうの世界でははっきりと感じられなかった心臓の鼓動を、感じる。俺はまだ、この世界で生きているのだと、否応なく思い知らされる。
「ですから、初めのうちは向こうにいられる時間はそんなに長くないのです」
「それ、初めに言っておけよなあ」
「ご、ごめんなさいぃ」
 ヒナは心底申し訳無さそうに頭を下げた。この調子だと、まだ俺の心と体について、言い忘れていることもありそうだが……追々、聞いていけばいいだろう。致命的でない限りは、後で知っても全く問題ないはずだ。いっぺんに色々言われても忘れてくだけだろうし。
「でもですね、慣れれば向こうにいる時間は長くなりますし、いつ限界なのかもわかってくると思います。突然倒れるってこともなくなると思うのですよ!」
「なら、いいんだがな。今回みたいに、突然倒れちゃたまんねえ」
 特に、今回の場合戦闘後だったからいいが、ラスボスの魔女さんとドンパチやってる途中で気絶するとか、マジで勘弁してほしいわけで。
 ともあれ、話を総合すると、慣れるまではこっちと『楽園』を行き来する生活が続くってわけか。こっちに戻ってきたところで、やることと言えば積んであるギャルゲーをやるか、買ってきたラノベを読むか、真面目に物理の勉強をするかってところだが。
「で。次はいつ、向こうに行けるんだ?」
「えっとですね、一度戻ってしまうと、向こうに行けるようになるまで少しかかってしまうので……それでも、今日の午後六時くらいには行けると思います」
 六時、か。大分時間があるな。
 それまで、何して過ごすか……と思っていると、ヒナが何気なく雨戸の閉まった窓を見つめていた。
「外、気になるか?」
「え……いえ、そういうわけじゃないです、けど」
 うっわあ、露骨に「気になる」って顔してやがる。可愛いじゃねえかよおい。
「わかった。出るか」
 実のことを言えば、ヒナがそういう顔をしなくても外に出る気にはなっていた。気になっていることが、あったから。
 蛍光灯をつけて部屋を明るくし、机の上に置いてあったラノベと参考書を適当にリュックの中に詰め込む。それから、ベッドの上に投げてあったジャケットのポケットから単車の鍵を取った。
 ああ、そういや、昨日思いっきりコケたせいで、ジャケットもぼろぼろだ。一応替えはあるが、気に入っていただけに勿体ないことをした。
 ……さて、と。
「あー、ちょっと着替えるから、外に出てろ」
「え、何故ですか? いたらダメなのですか?」
「だから俺は男でお前は女で……って昨日と全く同じこと言わせんじゃねえ!」
 正確には今日の話だったんだが。
 やっぱり俺の言っている意味を理解していないヒナを部屋から追い出し、手早く着替える。暗色系で統一した長袖のシャツに、濃い色のジーンズ。穿くまえに足の擦り傷に一応絆創膏を貼っておく。それから、新しいライダージャケットをクローゼットから取り出して、羽織る。
 適当極まりないが、こんなものだろう。リュックを背負い、部屋の片隅に投げ出しておいたフルフェイスのヘルメットを片手に、部屋の外に出た、その時。
 ちょうど、部屋の前にいたお袋と、目を合わせてしまった。
 何か、言われたような気がするが……その言葉は右から左に抜けて、さっぱり頭に入らない。真っ先に目を逸らし、追いかけてくる声を背中で受け流しながら、早足に階段を降りて玄関から飛び出した。
「どうしたの、ですか?」
「どうもしない」
 ふわふわと浮かびながら、ヒナは何か言いたげな顔で俺を見ていた。だが、俺はわかっていてあえて無視を決め込んだ。説明する理由もないし、今の俺がまともに説明できるかどうかも、怪しかったから。
 単車を引っ張り出し、一応簡単に傷ついた部分をチェックする。とはいえ、車体が多少凹んで削れた程度で、歪んだり壊れたりしている部分はなさそうだった。チェックしている間、ヒナが妙にしょげていたが、俺と愛車が危うくスクラップになりかねんところだったから、当然と言えば当然だ。
「よし、これなら動きそうだな」
「あの、これで行くのですか?」
「何か問題でもあんのか……あ、そうか。お前、乗れないのか」
 すっかり失念していた。ヒナはよく喋るしよく見えているが、あくまで幽霊だ。実体が無いから、単車の後ろに乗るなんて器用な真似は出来ないだろう。それに。
「流石に、時速六十キロじゃ飛べない、よなあ」
 そんなスピードで飛ぶ幽霊がいたら、ちょっと怖い。それは幽霊ってより都市伝説『ターボばあちゃん』か何かだろう。話としてはめちゃくちゃ古いが。
「と、飛べないです……なので、あなたが行ったところに出ていくことにします」
 どうも、ヒナは俺のいる場所は不思議とわかるようで、その場所にテレポートするという荒業までできるらしい。それ、時速六十キロで飛ぶよりすごいぞ、多分。
 ただ、一時的とはいえヒナを置いてまで単車に乗る気にはなれない。俺は単車のスタンドを外し、ハンドルを押していくことにした。行き先までは歩道も広いし、押していっても邪魔にはならないだろう。
「ほら、行くぞ」
「え、あの、乗らないのですか?」
「いいんだ。たまには歩いていく」
 言い放って、ヒナが何か言う前にさっさと歩き出す。ヒナが嬉しそうに笑ってるのがわかって、その顔を直視するのが、ちょっと、恥ずかしかったというのが本音。
 ゆっくりと、流れる景色を見ながら。俺は一歩一歩歩いていく。ヒナはもの珍しそうに辺りをきょろきょろ見渡していた。とはいえ、俺は足元だけを見て、ヒナをあまり見ないようにしている。
 ヒナの姿は、他の誰にも見えていない。声だって、誰にも聞こえていない。俺が一人だけあらぬ方向をみて、話しかけようものなら……いや、考えないようにしよう。俺が反応しなければいいだけの話だ。ただ、それだけの話。
「すごいですよね、いつも、四角い箱がびゅんびゅん走ってて」
 それは自動車っつーんだよ。お前の世界じゃ禁忌のトップクラスにありそうな物体だが。
「でも、その機械も速く走りますよね。初めて見たとき、びっくりしたのです」
 俺は車よりこっちの方が好きなんだけどな。風を感じるっつーか何つーか。それ以前にまだ自動車免許は取れないから、っていうわかりやすい理由があるのは気のせいだ、きっと。
「こうやって、ゆっくりこっちの世界を見るのは初めてです……いい、世界ですね」
「そうか?」
 俺は、ついに声に出してしまった。もちろん、周囲に人がいないのは確認してから、だが。ヒナは不思議そうに俺を見た。俺が何を言ったのかわからない、という表情だった。俺もいい加減感情が表情に出やすい方だとは思うが、この幽霊はそれ以上じゃないだろうか。
 俺はヒナに向かってにっと笑う。思いっきり不細工な笑い方になっていることは承知で、とびきりわざとらしく笑ってやる。
「俺はそうは思わねえ。まだ向こうのことは何もわからねえから、比べられはしねえけどよ。こんな世界、正直つまんねえんだよ。息苦しくて、息苦しくて仕方ねえ」
「何で、そんな風に言うのですか?」
「この世界にいる誰も、俺のことなんか見ていない。絶対に、理解してももらえねえ……一度世界から外れちまった奴は、もう戻れねえんだよ。こんなとこで生きてくくらいなら、勇者様をやってる方が、よっぽど有意義だ」
 ヒナは、何も言わなかった。
 ただ、俺のことを真っ直ぐ、光を映さないブラウンの瞳で見つめるだけで。俺も、一瞬はヒナの目を見たが、すぐにいたたまれなくなって目を逸らした。
 ヒナが、何故か知らないが、すっげえ悲しげな顔をしてたから。
 何でそんな顔するんだよ。それは俺個人の話で、ヒナには関係ない。俺は勇者様として向こうの世界で魔女を倒す、そうすれば最低でもヒナにとってはハッピーエンドのはずで、こっちの世界の俺の事情なんてどうでもいい。
 ――そのはずだろう、ヒナ。
 お互い、何も言えなくなって……気づけば、目的の場所にたどり着いていた。
 古風な時計を意匠化した看板が特徴的な、喫茶店。俺が毎日のように通っている場所だった。
 俺は単車を駐車場に停めて、喫茶店の扉を開けた。からころ、という澄んだカウベルの音と同時に、「いらっしゃい」という温かな声が耳をくすぐった。
 顔を上げると、マスターがグラス片手に、涼やかな青と緑の瞳を細めて笑っていた。
 その顔が、一瞬向こうの世界で白衣を纏っていた奴とだぶって見えて、俺は強く目を擦る。俺と一緒に入ってきたヒナも、少なからず驚いているようだった。
「ああ、特等席は空いてるぞ」
 俺の驚きを知るはずもないマスターは、笑顔で言う。まだ時間が早いせいか店内に人の姿はなかった。いや、一人だけ、テーブル席に座って紅茶を飲んでいる女がいたけれど、それだけだ。
 俺は『特等席』……一番端のカウンター席に陣取って、リュックと手にぶら下げたままだったヘルメットを下ろす。
「いつものでいいか?」
「はい、お願いします」
 俺がここに来て必ず頼むのは珈琲と日替わりケーキのセット。あと、ここでずっと時間を潰す時には昼飯も頼む。その辺の金は……気にしないことにしている。気にしていたら、こんな生活やってられない。初めからやってられないのは確かなんだが。
 見るともなしに、マスターの横顔を見る。見れば見るほど、鋼鉄狂とよく似ていると思わざるを得なかった。表情の作り方は全然違うが、顔のパーツ自体はそっくりだ。
「似てるよな」
 マスターには聞こえないように、ヒナに耳打ちする。
「はい、よく似ています……こんな偶然、あるんですね」
「まあ、この世界だけでも三人は同じ顔がいるっつーしな。向こうの世界と合わせたら六人、出会う確率は単純に二倍だが」
 一応そう言いはするも、偶然とは思いがたい一致だった。もちろん、観察してみれば細部はそれなりに違う。マスターの方がよっぽど顔立ちは凛々しいし、声に至っては全く似ていない。それに、マスターは長身だが鋼鉄狂は向こうの世界の俺より背が低かった。
 ただ、その程度の違い、なのだ。
 偶然か必然か。考えてみるが、正直どうでもいいことだと気づく。マスターがいくら鋼鉄狂に似ているといったって、鋼鉄狂本人ではない。マスターはこっちの世界の人間で、鋼鉄狂は向こうの世界の人間。俺やヒナじゃなければ、決して出会うことはない。
 だから、ただ似ているというだけで、それ以上のことを考えてもどうしようもない。
「何、俺に熱い視線送ってんだよ」
 マスターが、見られていることに気づいたのか、くすぐったそうに笑う。
「惚れたか?」
「まさか。その料理の腕前は確かに惚れますけどさ」
「嬉しいこと言ってくれるねえ。昼飯、オマケしてやろうか」
 褒めると調子に乗るのがマスターのマスターらしいところだ。この喫茶店とは随分長い付き合いになるが、そろそろマスターのツボのくすぐり方もわかってきたと思う。
 まあ、向こうの世界にきちんと行けるようになれば、この喫茶店に通うこともなくなるんだろうけど。
 そう思うと、ちょっとだけ複雑になって。俺は出された珈琲をブラックのままですする。
「それにしても……お前さん、ちょっと変わったか?」
 唐突に。ケーキの皿を差し出しながらマスターが変なことを言い出したものだから、俺は「へっ」と変な声を上げてしまった。
 変わった? 俺が?
 たった一日しか経っていないはずだが、何か違っただろうか。確かに昨日から今日までに色々あったのは認めるけれども。
「んー、ちょっと、明るくなったんじゃねえ? 女でもできたか」
「何言ってんですか。んなわきゃねえっすよ」
 俺はマスターの言葉を笑い飛ばす。笑い飛ばしながらも、考えずにはいられなかった。
 マスターは「女でもできたか」と冗談交じりに言ったけれど、実際似たようなものなのかもしれない。最低でも、俺のことを見ていてくれる人が俺のすぐ側に、そして向こうにいるっていうのは事実だったから。
 それを考えると、確かに少しだけ、自然に笑えた。
 こういうのを「明るくなった」と言えるかどうかはわからなかったけれど、悪い気分じゃないのは、確かだった。
 ちらりと、ヒナに目をやると……ヒナはまだ気になって仕方がないのか、じっとマスターを見ていて、俺とマスターの話なんかさっぱり聞いちゃいないようだった。
 ……ま、いいか。
 
 
 そして、その夜。
 俺はヒナに導かれて、再び『楽園』へ飛んだ。