廊下に出た時には、白衣の後姿はもう見えなくなっていた。
とはいえ、ヒナは鋼鉄狂が向かった場所を知っているらしく、俺の前にふわふわ浮かんで先導してくれている。ヒナの桃色のワンピースの裾を目の端に捉えながら、廊下の窓の外を見る。
何処までも、何処までも続く空の色は、青。心なしか、俺がいた世界から見る空よりも明るい色をしているようにも見えた。空の色が違うのか、この目の色の捉え方が違うのか、それとも、単に、俺の意識の問題か。
向こうにいるときは、空を見上げても、何を見ても、薄灰色のフィルターがかかっているようだった。どいつもこいつも、拒絶するような色で俺を見下ろしていて……つい息苦しさを思い出して、深呼吸。
しかし、随分長い廊下だな。壁や床を見る限り、古くて寂れた病院みたいだ。あちこちに埃が積もっているところを見ると、まともに掃除をしていないどころか、普段は使っていないように見える。
「……ここ、何なんだ? 病院か?」
「元々は、ライブラ王国の研究者が使っていた研究所だったって聞いたよ」
ヒナに聞いたつもりだったんだが、答えたのは横を歩いていたテレサだった。俺は反射的にテレサを見上げる。
それで、改めて気づかされたんだが。
テレサ、俺より、思いっきり背が高いんだが。
頭一つ分とは言わないが、十センチくらい違うんじゃないか、もしかして。この体の背が低いのか、テレサの身長が高いのか。どちらにせよ、納得いかない。
「ただ、先の戦争でここにいた研究者はほとんどレクスに移ってしまって、そこに鋼鉄狂が住み着いた、と聞いてるけど……どうしたんだい、変な顔して」
青の瞳が俺を見下ろす。変な顔、って言われたのも腹が立つが、それ以上に見下ろされるというより見下されているようで、気に食わない。その余裕綽々の笑い方が余計にそう思わせるんだろうが。
本当に、黙ってりゃ可愛いのに、って思うことくらいは許して欲しい。
「何でもねえよ。ここに暮らしてんのはアイツだけなのか? お前はここの奴じゃないっぽいよな」
「そうだね。ここに住んでるのは鋼鉄狂だけだと思う。僕は鋼鉄狂に頼まれて、テレイズのとある場所から『ディスコード』を運んで来たんだ。ああ、テレイズはさっき聞いてたからわかるよね」
「四大国の一つだよな。小国が集まってできた、っていう北の大国」
鋼鉄狂の話によれば、領土自体は大きいが寒冷な地域のためそこまで栄えてはいないらしい。また、小国が寄り集まってできたという性質上、どうもまとまりに欠けるという致命的な弱点があるようだ。前の戦争では一応傍観の姿勢を保ったというが、次に戦乱が起きるようなことがあれば真っ先に滅びそうな場所らしい。
「魔道士っつってたけど、普段は何してるんだ?」
「ん、エラい人から色々雑用を仰せつかるような仕事をしているよ。例えばこんな、物運びの仕事とかね」
俺は鞘に入った『ディスコード』を見やる。これを持ってくることも一応こいつの仕事のうちだったのか。遠路はるばるご苦労なこって。
「じゃあ、仕事はもう終わりってことか」
「いや、それがそんなに簡単な話じゃなくてね……」
テレサが何かを言いかけたところで、ヒナの声が飛ぶ。
「足元、気をつけてくださいっ」
「うおうっ」
気づけば、俺たちは下り階段の前にいたが、その一段目がぼろぼろに朽ちていた。危うく足を踏み外しそうになって慌てて足を引く。こんな所で階段を転がり落ちたら、末代までの恥になりかねない。
慎重に一段飛ばして、階段を下っていく。階段は廊下以上にぼろぼろで、先ほどの一段以外にも下手に足を乗せれば崩れ落ちてしまいそうな場所がいくつも見られた。しかも、階段は地下に向かっているようで、段々と闇が辺りを支配し始める。
「それで、僕らはどこに連れて行かれるんだい?」
手すりを掴んで慎重に歩くテレサが前を浮かぶヒナに問う。ヒナの姿も、今にも闇に溶けて消えてしまいそうに揺れていた。
「あと少しですよ」
「そっか。それにしても暗いね。明かりくらいつけておいて欲しいものだよ」
ぶつぶつ言いながら、テレサは指輪を嵌めた指を鳴らした。軽い音と同時に、テレサの前に音もなく青白い光の球が生まれる。魔法だ。
初めてこっちに来た時に鋼鉄狂がよく似たことをしていたから、めちゃくちゃ驚くってことはなかったが……やっぱり光を見た拍子に足を踏み外しそうになったのは、内緒だ。
それにしても、浮かんでいる青白い光は熱を放つわけでもなく、ただ空中にふわふわ浮かんでいる。何とも不思議な光景だ。
「魔法って、んな簡単に使えるもんなんだな」
「あ、でも呪文を唱えなきゃ普通は無理だよ? 僕はちょっとだけ人より魔法が得意だから、呪文抜きでもこのくらいの魔法は使えるけどね」
「テレサはわたしが知ってる中でも腕利きの魔道士さんですからねー」
ヒナはのほほんとした表情で言うけれど、ぱっと見る限り、テレサが「腕利きの魔道士」ってのはあまりに似合わない。何しろ、年齢も俺より少し上って程度みたいだし、何よりお洒落なジャケットにロングのスカートという姿を見る限り、綺麗な顔と長身も相まってモデルのようだ。こいつがファッション雑誌の表紙にいたら俺は買う。迷いなく。
そんな、どうでもいいことこの上ないことを考えていると、階段が途切れ、ものものしい鉄の扉が俺の目の前に現れた。この向こうに鋼鉄狂がいる、のだろうか。というか、俺何のためにここまで来たんだっけ?
『ほら、さっさと開けやがれや』
何処からか、鋼鉄狂の声が聞こえてくる。マイクか何かを通しているような、微かにハウリング交じりの声。姿を見ずに声だけ聞くと、結構高い声してるよなあと思う。そういや俺、鋼鉄狂が男か女かもまだ知らないんだよな……
俺は無造作に扉に手をかけて、引く。重そうな外観に反し、するりと扉は開いた。
扉の向こうに広がっていたのは。
「……何だ、この悪の組織の秘密基地」
思ったことが、今度こそしっかり口をついて出てしまった。こんなこと言ったって、この場にいる全員が理解できなかっただろうが、とにかく視界いっぱいに広がっていたのは地下とは思えないがらんとした空間。高い天井には、いくつものランプがぶら下がっていて、これまた魔法でつけたと思しき青白い光が灯っていた。
『さて、お待ちかね、最終調整のお時間だぜぇ』
声は、部屋の四隅に取り付けられているスピーカーから放たれているようだった。俺は呆れて天井に向かって声を出す。
「お待ちかねてません。ってか最終調整って何だよ」
『手前が「ディスコード」をきっちり使えるかどうかのテストだ。一通り使いこなせるように調整したつもりだが、その辺は手前がやってみなきゃわからねぇからな』
手の中には『ディスコード』とかいうナイフ、そしてそれを使うためのテスト、となると。
『ま、一番簡単なのは実践にして実戦、ってな』
「やっぱりか! っておいちょっと待て俺は」
俺が訴えようと声を張り上げたところで、音を立てて背後の扉が閉まる。閉じ込められた、と思った瞬間、ちょうど俺らのいる場所の正面の扉が開き、その向こうから何かが現れる。
ぱっと見、雪男……のような。毛むくじゃらな、二足歩行の何か。しかも二匹。
おい、これっていわゆるモンスター、って奴じゃないか?
「おやおや、鋼鉄狂。魔物を殺さず捕獲しておくなんて、研究の宗旨替えかい?」
『魔物研究も昔齧ってはいたがって関係ねぇやなそりゃ』
「冗談だよ。しかし、初の実戦でルーンドベアは随分厳しくないかな」
『何、こいつらをあっさり屠れねぇようじゃ、魔女に捻り切られるのがいいとこだろ』
捻り切るって、何をだ。
マイペースに会話を進めるテレサと鋼鉄狂に対し、俺は足が震えるのを抑えることが出来なかった。
だって、相手二メートル近いし、何かすっげえ爪鋭いし、こんなので殴られたらそのまま体持って行かれるだろうよ。
「大丈夫ですよ、殴られても、捻り切られても、少し痛いだけですから!」
ヒナ、悪いけどそんなこと言われても全然嬉しくねえ。あと、さっきから「捻り切る」って何だよ。何処を捻り切るんだよ。とにかく、死なないって言ったって、殴られて体ごっそり削り取られたらどうなるんだ。いくら痛くないつったってトラウマになるぞ、それは。
『さあ、構えろ』
容赦なく、鋼鉄狂の声が飛ぶ。
何で俺がこんな目に遭わなきゃならねえんだ……と思うが、こうしている間にもゆっくりと毛むくじゃらのモンスターが近づいてくる。仕方ないから、どう構えればいいかもわからないまま、『ディスコード』を鞘から抜き放つ。
その瞬間。
体が、自然と動いていた。流れるような動きでナイフを構え、床を蹴って、飛び出す。
重力から解放されたかのように、体が軽い。相手の間合いに飛び込んで見上げれば、爪の生えた毛むくじゃらの腕が今まさに俺に振り下ろされようとしていた。だが、何故だろう。相手の腕がどのように振り下ろされるのかが、視界の中に描いてあるかのように予測できる。
描かれた予想図の通りに来た一撃をあっさり交わし、ナイフを必要最小限の動きで振るう。
確かな手ごたえ、空中に舞う緑色の液体。それがモンスターの血であると気づいたのは、一瞬後のことだった。
斬られた悲鳴を上げる毛むくじゃら。追い討ちをかけようともう一歩踏み込んで、『ディスコード』の柄を強く、強く握りこむ。
「 『ディスコード』 」
鋼鉄狂に言われたとおり、ナイフの名を呼ぶと、甲高い音が広い部屋中に響き渡った。その音を聞きながら、『ディスコード』の刀身をがら空きの胸に叩き込む。先ほどの一撃に比べて圧倒的に手ごたえがなく、外したか、と錯覚する。
が、ナイフを抜き放った瞬間、膨大な量の緑色の血がナイフを刺した場所から噴出して、今の一撃がきっちり心臓を穿っていたのだと理解した。何でも切れる、という鋼鉄狂の話は妄言ではなかったらしい。手ごたえを感じさせないほどに、あっさりと、モンスターの硬い胸板を刺し貫いていたのだから。
体に纏わりつく、むせ返るような血と……アルコールにも似た独特な匂いが、吐き気を催す。体はゲームの中にいるかのように軽いけれども、視覚と聴覚にしか訴えないゲームと違って、五感全体がフル稼働し、今まで体感したことのない感覚に頭がぐらつく。
だが、敵はもう一体、いる。
多分、俺がぐらついてたのはほんの一瞬のことだったのだろう。だが、血の匂いに興奮したもう一体の毛むくじゃらが、俺に向けて容赦なく腕を振り下ろした。視覚ではその軌道が予測できていても、体がとっさに反応しきれない。思考と伝達にほんの少しだけずれがある、そんな感じ。
――まずい。
来る衝撃を予測して、息を飲み、かろうじて『ディスコード』を体に引きつける。
ああこれ食らったら絶対体半分こそげるよなそれで俺動けんのかなうーん死なないとはいえ体がこそげたら動けないよな動けたら動けたでちょっと怖いんだけど何つーか新手のホラーゲームみたいないやんな俺様は見たくないってだからちょっと待てやめろっておい
なんて高速思考をかましていると、後ろから声が響いた。
「汝の名は、『水晶の盾』!」
すぐに、それがテレサの声だとは気づけなかった。耳の奥の奥まで響く、凛とした声。その声が届いた瞬間、俺の体をこそげ取るはずのモンスターの腕が目の前で弾かれる。よく見れば、俺の目の前には淡く光り輝く硝子のような壁が現れていた。
ちらりとテレサを見れば、テレサは指輪を嵌めた手を真っ直ぐ俺に向けて突き出していた。援護、してくれたのか。
俺は改めて甲高く鳴く『ディスコード』を握りなおし、迷わず一歩を踏み出して再び振り下ろされそうだった腕を切り飛ばす。緑色の液体が体に降り注いで、白い服を緑に染めるのも構わず、もう一歩。
毛むくじゃらの顔が、痛みと恐怖と怒りで歪んだ。
――悪い、な。
一瞬、罪悪感を覚えないわけじゃなかったけれど、とどめの一撃。
苦しまないように、せめて、心臓を一突きで。そんなことを考えられる程度の余裕は、あった。ナイフは吸い込まれるように心臓の位置へ、そしてバターを切るよりも簡単に、命を断ち切っていた。
音を立てて倒れるモンスター。その場に、体を緑色に染めて立ち尽くす、俺。
『ディスコード』は音を立てるのを止め、ただのナイフに戻っていた。やはり緑の血に塗れていた『ディスコード』は、今もなお羽のように軽くはあったのだが。
正直、少しだけ、怖かった。
ゲームなら、体にかかった血も、モンスターの死体も、何もかもがすぐに消えちまう。だけど、現実に血も死体もそのままで、あたりに漂うのは濃い血の匂い。その中で、やけに軽い体とやけに軽いナイフだけがゲームの世界の産物のように思えて、ぞっとする。
だけど、同時に。
「すごいです!」
俺の今の気持ちを代弁したのは、ヒナだった。ふよふよと俺の側に寄ってきたヒナは、満面の笑みを浮かべている。幽霊に空気なんて関係ないと思うが、笑うたびに肩の辺りまで伸びたふわふわの髪が揺れていた。
「ルーンドベアを二匹相手しても、全然平気じゃないですか!」
「まあ、ちょっと危なっかしいところもあったけどね」
テレサが、一言余計なことを言ったが……まあ、確かにあの援護がなかったら片腕くらいは飛んでたと思うから、テレサの指摘はどこまでも正しい。むしろ、
「ああ……ありがとな、助かった」
素直に礼を言っておくべきなのだろう、と思ったんだが。俺が礼を言った途端、テレサは目を丸くして俺をまじまじと見てきやがった。
「君、そんなに素直なキャラだったんだ。知らなかったよ」
「待てやこら」
手前、俺のこと何だと思ってやがる。いや、まあキャラじゃない、と言われてしまえば確かに否定できない気がするのは悲しいところだが。俺は『ディスコード』の血を拭って、鞘に収め、もう一度モンスターの死体を見る。
緑色の液体の中に倒れ、ピクリとも動かない二つの塊。これが一瞬前まで生きていたと思うと……何ともいえない気分になる。俺がやったのだと思うと、尚更だ。
「予想通り、攻撃と回避の処理速度は問題ないな。『ディスコード』を解放すれば、攻撃力も問題ない。あとは、中の意識次第か」
声と共に閉ざされていた後ろの扉が開き、どこにいたのかわからなかった鋼鉄狂が姿を現す。その手には、紙を貼り付けた板とペンが握られていた。きっと、どこかから俺の姿を見ていて、逐一記録していたに違いない。
鋼鉄狂は紙から目を上げて、にっと俺に笑いかける。
「ま、初めてにしちゃ上出来だ。気分はどうだ?」
その質問、さっきもされた気がするな。ただ、今の気分を素直に言うならば。
「すげえよ。勝手に、体が動くっつーかさ。次に何をすりゃいいのか、すぐにわかる」
「そういう風に調整したからな。経験の浅さと戦闘知識は、まあ後から補えるだろ」
「ただ」
「ただ?」
言っていいものか悩んだけれど、今言うべきだとも思う。だから、唇を、開く。
「……上手くいきすぎるのも怖い、ってのはわかった」
弱音を吐いていると思われるのは、嫌だった。だが、怖いのは事実だ。あっさり相手を殺せるこの体、この手の中のナイフ。軽いはずなのに、ものすごく重たい、武器。
鋼鉄狂は、目を細め、小さく息を吐いて笑う。バカにされたのかと思ったが、次の言葉を聞いてどうやら違うらしいと知る。
「はっ、まぁそう思っているうちは安心だな。手前の感覚は正常だ」
「え……」
「血を浴びて喜ぶような奴だったら、ぶち壊しても構わねぇと思ってたからな」
鋼鉄狂は笑ってこそいたが、目は真っ直ぐに俺を射抜いていた。ああ、そうか。そういう意味でもこいつは俺を試しやがったのか。気に食わないのは確かだが……安心したのも事実。
俺の横に浮かんでいるヒナも、穏やかな笑顔を投げかけてくれていて。
ほっとした瞬間、何故か突然全身から力が抜けた。膝が崩れ、視界が揺らぐ。
「……どうしたんだい?」
テレサの声が、妙に遠くから聞こえる。あれ、俺、どうした。立ち上がろうとしても、立ち上がるどころか体が床の上に転がって。
意識が、
遠く――
反転楽園紀行