反転楽園紀行

005:俺、勇者。

「おはようございます」
 俺の耳元で囁くのは、くすぐったい少女の声。
 前にやっていたゲームでは、毎朝隣の家に住んでいる幼馴染の女の子がわざわざ部屋まで来て起こしてくれるなんて嬉しいイベントがあったが、本物の幼馴染なんてそんな可愛いものじゃねえ。しかも俺の場合、隣の家の幼馴染って言ったら男だし。浪漫がないにもほどがある。
 とにかく、今俺の耳元で朝の挨拶を囁いてるのは一体誰だ。
 俺は恐る恐る瞼を持ち上げる。すると、目の前には光を映さないブラウンの双眸があった。
「おはようございます」
 もう一度、ブラウンの瞳の少女……ヒナが言った。俺は、やけに乾いた喉を鳴らして「おはよう」と答えた。耳につく声は、まるで自分のものではないようで、何だかものすごく変な感覚だ。
 前にも一度だけ見た、煤けた天井。天井から下がっているランプもそのままだが、明かりは灯っていない。その代わり、明るい光がカーテンの向こうから差し込んできているから、きっと昼間なんだろう。
 体も、前と違ってきちんと動くようだった。ゆっくりと体を起こして、部屋の中を見渡す。俺が寝かされていたのは、やっぱり手術室にあるようなものものしいベッドで、周囲には用途がよくわからない機械が並べられている。
 ここが、ヒナの言う「わたしたちの世界」なんだろうか。
 何かちょっとイメージが違うぞ。典型的な剣と魔法のファンタジー世界を想像していたが、この部屋の様子だけ見るとちょっと趣味の悪いサイエンス・フィクションだ。部屋の造りだけ見れば古風なのに、置かれた機械がアンバランスすぎる。
 俺が不安そうな顔をしているのに気づいているのかいないのか。ふわふわと桃色のワンピースの裾を揺らして空中に浮かぶヒナは、明るい笑顔で言った。
「ようこそ、わたしたちの世界……『楽園』へ」
「 『楽園』?」
 俺の問いは、しかしドアが開く音に遮られた。反射的にそちらに目をやると、そこには見たことのない女が立っていた。
 耳垂れのついた毛糸の帽子に、北方の民族衣装を思わせる、明るい色の糸で縫い取りされたジャケットと長いスカート。帽子から覗く、染めているようには見えない青銀色の髪が、否応なくここが異世界だと思わせる。
「やあ、勝手にお邪魔しているよ。鋼鉄狂はいるかい?」
「あ、はいー。鋼鉄狂なら下にいるですよ」
 ヒナにとっては見知った顔らしく、ヒナは気安い口調で女に対している。鋼鉄狂ってのがもしかしてあの眼鏡白衣のことなのだろうか、と思った時、女がふとこっちを見てきて。
 目が、合った。
 海の色に似た青の瞳が、よく出来た硝子細工みたいだ。目を縁取っている長い睫毛も青みがかった銀色だったが、色白の肌にはよく似合っている。真っ白な肌の中で、形のいい唇だけが淡い桃色で。
 まあ、要するに……三次元でこんな綺麗な人を見たのは初めてだった。
 じっと見られているとどうしようもなく恥ずかしくて、でも目を逸らすこともできなくて。言葉を放つことも出来ないまま間抜け面でその女を見ていると、女が微かに唇の端を持ち上げて、言った。
「なるほど。これが君たちの言っていた、魔女を倒す『手段』かい?」
「あ?」
 今、こいつ何て言った?
「剣を扱うための『手段』が完成したとは聞いていたけど……まさかこんな形だとは思いもしなかったな」
 まじまじと俺のことを見ながら言うんだ、『手段』ってのは俺のことなんだろう。だが、『手段』って何だ『手段』って。俺はモノか。モノ扱いなのか。魔女さえ倒せれば、俺のことなんてどうでもいいってことなのか?
 一瞬前までは見とれていたのが嘘のように、目の前の女のニヤニヤ笑いが癇に障る。外見がやたらいいだけに、腹が立って仕方ない。それは単なる妬みだって? ほっとけ。
「勝手なこと言ってんじゃねえよ。手前、誰だ?」
「ああ、僕かい?」
 僕っ子かよ! 手前のような僕っ子は萌えないからやめろと言ってやりたいところだ。僕っ子ってのは小さくて健気で可愛い女の子だけに許される特権であってだな以下略。
「僕はテレサ。テレサ・ノーザンロイドという。しかし、レディの名前を先に聞くとは、君もなかなかに不躾だね」
 す、好き勝手言いやがって。そう思いながらも言い返すことができない俺、情けないことこの上ない。女……テレサは見た目だけは綺麗な顔に優雅な笑みを浮かべて、俺の目を見つめながら言う。
「君の名前は?」
「あん? 俺は……」
 ――名前?
 別に、普通に名乗ればいいだけの話だ。だが、何となく本名を言うのは気が引けた。それに、折角元の世界を蹴ってこっちの世界にやってきたんだ。今までの俺を引きずって何になる。
 とはいえ、ぱっといい名前が思いつかないのも確かだ。
 まあ、仕方ないから。
「……シン、だ」
「シンっていうのかい?」
「ああ」
 普段ゲームで使ってる名前だなんてのは、口が裂けても言えない。ただ、突飛な名前をつけて自分の名前を呼ばれても返事できない、ってバカな状況になるよりは幾分マシだろう。
「シンって言うのですね! いい名前です!」
 そういやヒナにも名前は言ってなかったのか。一体何がいい名前なのかわからんが、そう言われると嬉しいは嬉しい。ただ、適当に名前をつけたことを後ろめたく感じないわけでもない。
「それにしても、君、随分華奢なようだけど、これで魔女とやり合えるのかな?」
 生ぬるい引きこもりを自称している俺だが、隠れて少しは運動しているから、運動能力は一般人並みのはず。戦う能力なんてこれっぽっちもないが、こっちじゃ死なないってヒナから聞いたし、大丈夫だと信じてはいるんだが。
 そう思って、自分の両手を見て。何かが変だと、気づく。
 俺の手、こんな形してたか? よくよく見れば、肌の色とかも微妙に違う気がする。両手をひっくり返して、戻して。うん、やっぱりおかしい。
「……何をしているんだい?」
 テレサの声が振ってくる。明らかな呆れを込めているのはカチンと来るが、今はそれどころじゃない。テレサとヒナに目を戻して、言う。
「鏡、あるか?」
「僕のでよければ使うかい?」
 あっさりと、テレサが鞄の中から鏡を出して渡してくれた。何だかやけに豪華な仕立ての手鏡だが、とにかく俺は恐る恐る鏡を覗き込む。
 鏡の中から俺を見ていたのは、微かに緑色のかかった、涼やかな水色の瞳だった。明るい茶色の前髪が目の上まで伸びていて、全体的に柔らかな雰囲気を作っている。一つ一つのパーツがどこか作り物じみてはいるが、かなりのいい男……って待てやこら。
「誰だ、これ」
「いや、君だから」
「誰だ、これ」
「いや、君だから」
 テレサの冷ややかな合いの手を貰いながらも、危うく、思考が堂々巡りに入りそうになって首を振る。試しに、鏡に笑いかけてみる。鏡の中の誰かさんも、にへら、と作りものじみた顔にはとことん似合わない、気のぬけた笑みを浮かべやがります。いや、もうわかっている。わかっては、いるのだが。
「ちょっと待てヒナ! 聞いてねえぞ、誰なんだよこいつ!」
 俺は鏡をベッドの上に投げ出し、反射的にすぐ側に浮かんでいたヒナの肩を掴もうとして、当然腕がすかっと空を切った。バランスを崩してベッドから落っこちそうになるが、それは何とか耐える。
「君は何をやっているんだい」
「アンタは黙っててくれ! とにかくヒナ、この体は一体何だ!」
「え、説明したじゃないですかぁ」
「されてねえっ!」
 確かに、肉体は俺の世界に置いたままで、心だけがこの世界に送られるとは聞いた。だが、誰かもわからない人間になるとは聞いてない。ヒナは「ごめんなさいぃ」と涙目になりながらも、真面目に解説してくれた。
「心だけでは、わたしみたいにふわふわして、普通の人には見えなくなってしまうのです。だから、あなたの心を入れる入れ物が必要で、そのために調整したものがその体なのです」
 俺は改めて自分の体を見回す。腕は元の世界の俺と同じぐらいの細さで、微妙に頼りない。テレサが華奢、と称するのもわからなくはない。それに、何だろう、この違和感。俺の体じゃないことに対する違和感なのか、それとも全く別の違和感なのかがまだわからないのだが……
「ま、その辺は俺様からも説明しようじゃねぇか」
 扉が開く音と同時に、聞き覚えのある声が聞こえた。そこにいたのは、昨日と全く同じ姿のマスターによく似た眼鏡白衣だった。テレサが「やあ」と片手を挙げて挨拶する。
「久しぶりだね、鋼鉄狂」
「おぅ、テレサも来てたのか。いいタイミングだ」
 どうやら、こいつの名前は鋼鉄狂で確定らしい。名前っていうか、多分あだ名か何かなんだろうな。それにしちゃ妙なあだ名だとは思うが。
 かつかつと足音を立てて俺に向かって真っ直ぐ歩いてきた鋼鉄狂は、にぃと笑みを浮かべながら眼鏡越しに俺の目を覗きこむ。
「よ、勇者様。気分はどうだい?」
「……そこのテレサとかいうのがいなけりゃ、まだマシだったかも」
 素直な感想を口に出すと、テレサが鋼鉄狂の横で「心外だなあ」と頬を膨らませた。その仕草が意外と子供っぽくて、悔しいがちょっとだけ可愛かった。鋼鉄狂は俺の返答に、満足げに喉を震わせて笑う。
「悪かねぇみてぇだな。ま、体に慣れるまではちょいと時間かかるだろうが、我慢してくれや」
「この体、一体何なんだ?」
 俺が問うと、鋼鉄狂の笑みが一際深くなる。
「何、俺様が改良した、機械仕掛けの人形だ」
「……は?」
 俺はもう一度自分の手を見る。見て、片手で片手の甲をつねってみる。じわり、という鈍い痛みと皮膚を摘む感触。痛みはともかく、感触だけ言うなら生身のようにしか思えないのだが。
「機械っつったって生体部品が多いから、ほとんど人間と変わらねぇよ。痛覚はちょっと鈍く設定してあるがな」
「話に聞いてはいたけど、一から十まで禁忌じゃないか。ユーリスに目をつけられたら終わりじゃないかい?」
「わかってて言うんじゃねぇって。毒をもって毒を制すってぇ諺があるじゃねぇか」
「まあ、禁忌抜きで魔女と戦うのが自殺行為だというのはわかるけどね」
 テレサと鋼鉄狂の言っていることはさっぱりわからなかったが……つまり、この体はよくできたロボットってことか。何かおかしいと思ってたが、人間の体じゃなければ当然だ。全力で剣と魔法のファンタジーから乖離しているような気がするのは、気のせいか否か。
「とはいえ」
 鋼鉄狂はテレサと喋るのを一端止めにして、再び俺に視線を戻す。眼鏡の下で、緑色の瞳が俺じゃない俺の姿を映しこむ。
「俺様が造ったのは剣を扱える器だけだ。異世界から来た精神があって、初めて魔女の討伐が叶う……そう、勇者様、手前がいなけりゃこの世界は救えねぇ」
 そう、言われたって。
 機械仕掛けの体に、腐りきった心しか持っていない俺。一体、こいつらは俺に何をさせようっていうんだろうか。何もかもがわからない、不安定な世界に一人きりで放り出されたような錯覚に陥る。だが、俺が黙っていてはどうしようもないということだけは、わかる。
 勇者とか何とか、実感なんてどこにもないけれど、ここに来てしまった以上、手探りでも何でも進んでいかなきゃならないのだ。
「鋼鉄狂、って言ったな」
「あぁ」
「俺は、この世界のことは何も知らない。こんな狭い部屋で勇者とか魔女とか言われたって、ピンと来ねえ。だから、まず、この世界について、聞かせてくれ」
「ん……質問の順番としちゃ悪くねぇな」
 鋼鉄狂はちらりとヒナに視線を走らせたようだった。ヒナは小さく頷いて「お願いします」とだけ言った。どうやら、鋼鉄狂に説明を任せるようだ。
 側にあった椅子を引きずってきてベッドの横に座り、鋼鉄狂は腕を組んで俺を見やる。
「なぁ、勇者様」
「シン、だ」
 意識もせず、言い返していた。何となく、「勇者様」という呼ばれ方は好きになれそうになかった。何故なのかは、よくわからなかったけれど……この名前だって、ただの記号だというのに、言わずにはいられなかったのだ。
 鋼鉄狂は何故か、満足そうに笑って言いなおす。
「シン。手前の問いに答える前に、聞きてぇことがある。手前の世界じゃ、こいつらは普通に存在してんのか?」
 こいつら……というのは、部屋の中に並んでる機械のことか。見たことあるような形のものもあれば、全く用途がわからないものもあるから、一概には言えないが。
「普通に存在するどころか、機械がなきゃまともに生活できねえな」
 答えてから、質問の意図を考えてみる。今の質問を単なる興味本位として取ることも十分可能だが、それ以上にわかりやすい意図があったのではないか。そう考えてみれば、次に言うべきことは一つ。
「……この世界では、『普通には』存在していないんだな?」
 鋼鉄狂の笑みが、深くなる。当たりか。
 この部屋にあるものも、俺の体も、多分この世界じゃ普通じゃない。さっきの鋼鉄狂とテレサのやり取りも、話の筋こそつかめなかったが、きっとそういうことを言っていたのだ。
「物分りのいい奴で助からぁな。それじゃあ、質問に答えようか」
 テレサも、近くの椅子に腰掛けて俺たちの方を見ている。何か、監視されているような気分で落ち着かないが、ひとまずは鋼鉄狂の話に集中することにする。
 鋼鉄狂は、重たそうな眼鏡を人差し指で持ち上げて、言う。
「この世界の名は『楽園』……世界樹と女神ユーリスによって創られた、海の上に浮かぶ世界だ」