重たい瞼を開ける。
瞼の裏にちらつくのは、別れ際に泣きながら笑ってた、ヒナとかいう幽霊少女の顔だった。
気分が、悪い。
時計を見れば、午前一時……また変な時間に起きたものだ。家の中も静まり返っていて、物音一つしない。あまりに静かな世界の中で、俺は小さな明かりを灯したままの天井を見つめて思う。
どうせ、こんな所にいたって、何をできるわけでもない。
昼ごろに起きて、家から逃げ出すように喫茶店に行って、今度は高校の下校時間から逃げるように家に帰ってきて、朝日が見える時間まで何もかもを忘れようとゲームをして、夢も見ないように願って眠る。
そんな生活をするようになって、何日目なのかもう数えたくもない。
「留年した」とお袋が言っていたところから判断するに、まだ律儀に学費は払ってくれているらしい。感謝していいのか否かは微妙なところ。俺なんかにかける金があるなら、自分の楽しみのために使ってくれればいいものを、と考えなくもない。
俺のことなんて忘れてくれていいのに、なんて手前勝手なことを考えてみて。そんなこと、できないことだってわかっているのに。
お袋も親父も、俺がどうしてこんなことになってしまったのか、無理に問うたりはしない。直接言わなくとも本当のところを知りたいと思っているのは俺だってわかってる、だがそれを俺自身の口から言うこともできずにいる。
気遣ってもらえているのが嬉しくないといえば嘘になる。でも半端なく息苦しい。
だから俺は家からも逃げるが、結局行く場所もなく、帰ってくる。その繰り返し。
こんなに息苦しい世界で生きていて、何になるというのだろう。単車を乗り回していても、行きつけの喫茶店のマスターと他愛ない会話をしていても、好きなゲームの新作をやっていても、息苦しさは常に胸の奥について回る。
目を閉じて、胸の中にわだかまる何かを吐き出すように深呼吸して。
――わたしには、あなたが必要なの。
頭の中に、ひときわはっきり響いていた夢の言葉を唇から吐き出してみると、笑わずにはいられなかった。
「数ヶ月、遅えよなあ……」
自分のものとは思えない乾いた笑い声が、漏れる。全ては過ぎ去ってしまった話、考えたって仕方ないのはわかっている。ただ、あの時そう言ってくれる奴が一人でもいたならば、俺はもう少し上手くこの世界を渡っていけていたはずだ。
だが、こうなってしまった俺に聞きたかった言葉をかけてくれる人なんて、この世にはもはや存在しない。
そう、この世には。
わかっていたはずじゃないか。この世界が誰に対しても薄情だということくらい、ガキの頃には既に理解していたはずだ。誰も、俺の見ているものなんて信じない。誰も、誰かの言っていることを信じられない。
俺が、誰かの言葉を心の奥底では絶対に信じられていないのと、同じように。
いつも考えているうちに蘇るのは幼い日の葬列の風景、棺桶の周囲を取り囲む白々しい表情の人々、俺の手を繋いで涙を流すふりをしていた、親父。あの瞬間、誰もがもう、棺桶の中の人のことを思ってなどいなかった。
だから、いくらこの世が薄情で息苦しくて死にたくなるからといって、自分で自分の喉を掻っ捌いてやる気にはならない。ここで実行すれば、あの白々しい葬列がもう一度繰り返されるだけ。それは、悔しかった。何で悔しいのかもわからないけれど、悔しかった。
そんなどうでもいい思いを引きずりながら、だらだら生きているだけの人間が、今の俺。
不器用で、わがままで、生き汚い。
果てしなくかっこ悪いこんな俺を、必要としてくれる奴がいる。
今、この瞬間に。
目の中に涙を溜めて、俺のことを真っ直ぐ見てくれた奴がいる。
思い切ってベッドから飛び降りて、適当に着替える。そういえばぼろぼろに擦り切れた服のまま眠ってしまったのだったか。まあ、誰が見ているわけでもないから、ジャージでいいだろう。
足音を立てないように階段を下りて、家の鍵だけ持って玄関の扉を開ける。
春の夜は、少しだけ肌寒かった。冷気を振り切るように、アスファルトを蹴って駆け出す。こんな夜遅くだから車も人もほとんど通っていない。遠慮なく、全力で走れるというものだ。
目指すは、夕方、ヒナと出会ったあの公園。
少しだけ息が切れるけれど、いつも夜中にこっそり走っているから、そこまでキツい行程でもない。ただ、全身が鈍い痛みを訴えるのだけは、どうにかしてほしいところではあった。
角を曲がれば、そこはもう公園だ。
入口に足を踏み入れて、辺りに人がいないことを確認しながら、今日自分が座っていたベンチへ。腰掛けて、何気なく空を見上げる。よく晴れた夜空には、月を遮って、大きな鯨がゆったり飛んでいた。いつものことだから気にしないことにする。どうせ、俺の目にしか見えていないのだから。
いや……こいつには、見えているのだろうか。俺と同じ景色が。
そんなことを思いながら、呼吸を整えて。小さな声で名前を呼ぶ。
「ヒナ。いるか」
俺の声が虚空に溶けるのとほぼ同時に、声が聞こえた。
「いますよぅ」
そして、突如俺の視界に生まれる桃色のワンピース。ふわふわとしたスカートの裾に、ふわふわと波打つ髪。こうやって見ているだけなら、かなり俺好みな女子なんだが、いかんせん幽霊じゃなあ……いや、幽霊は幽霊で十分すぎる萌え要素かもしれないが。
そんなどうでもいい考えは頭の隅に追いやって。
俺は真っ直ぐにヒナを見た。自分から、誰かの顔を真っ向から見たのは、久しぶりかもしれない。
「話、詳しく聞かせてくれよ。俺は、お前の世界で何すりゃいいんだ」
「え……来て、くれるのですか!」
「話を聞かせてもらってからだ」
今にも躍り上がりそうだったヒナに釘を刺しておく。ヒナはさっき泣きそうだったのが嘘みたいに、やっぱりふわふわした笑顔を浮かべながら言った。
「あなたは、勇者様なのです」
「それは聞いた。具体的には何をするんだって」
「世界を混乱に陥れる、魔女を倒すのです。魔女を倒せるのは、あなただけなのです!」
勇者に魔女、なあ。聞けば聞くほど胡散臭い話だが……話しているヒナは一生懸命みたいで、腕を振りながら必死に喋っている。
「わたし、一生懸命勇者様を探してたのです。でも、ずっと、ずっと見つからなくて……やっと、あなたを見つけたのです。勇者様は、あなたしか、いないのです」
「って言われてもな。俺は剣も魔法も使えない、単なる一般市民だ」
今や人としてダメな一般市民以下な気はしているが、そこは無視。
「大丈夫です。あなたの能力があれば、わたしの世界でも戦えます!」
「俺の、能力?」
自分でも悪い癖だとは思うが、自然と声のトーンががくりと下がっていた。ヒナが、びくりと体を震わせて、俺を見た。まあ、十中八九嫌な顔をしていただろうなとは思う。
「それは何だ、俺の能力だけが目当てってことか?」
わかっている。バカなことを言っているのはわかっている。
それでも、言わずにはいられないのだ。
俺の周りにいた奴は、皆が皆俺のことなんか見ちゃいなくて、俺の『能力』だけ見ていた。向こうの世界でもそうだというなら、こっちと何も変わらない。俺にとって、息苦しい、空気の中で溺れていくような世界が待っているだけだ。
だが。
ヒナは、真っ直ぐに俺の目を見て、言った。
「確かに、あなたの能力は大切です。あなたのような能力を持っている人は、わたしの世界にも、この世界にもいないです。でも……その力を持ってるのが、あなたでよかったって、思っているのです」
何で、そんな目で俺を見る。
俺のことなんて何も知らないくせに、そんな目で俺を見ることができるんだ。
ああ、でも。
こういう風に見られるのは、決して嫌な気分じゃない。
「なあ、ヒナ」
「何ですか?」
「向こうは、危険じゃないのか。例えば……死んだり、しないのか」
俺がこっそり一番気にしていた問いに、ヒナは何故か胸を張って言った。
「それは大丈夫です! 実はわたしたちの世界とこの世界の間では、肉体は行き来できないのです。だから幽霊のわたしは自由に行き来できるのですが……あなたも、心だけでわたしたちの世界に来てもらうのです」
「言われてることがさっぱりわからないんだが」
「とにかく、あなたは死なないです。勇者様ですから!」
あ、説明を諦めて無理やり纏めたな、こいつ。だが、原理はよくわからないが死なないっていうなら安心だ。
「つまり、ゲーム感覚でいいってわけか」
俺は言葉に出して唇を歪ませる。いつもはギャルゲーばかりやっているが、本来俺の十八番はロールプレイングゲームだ。ヒナが俺に与えてくれたのは、古風ではあるが限りなくリアルなロールプレイングゲーム。
それだけの話じゃないか。
唇を笑みの形に歪めたまま、俺は少しだけ視線を上げてヒナを見つめて、言った。
「オーケイ。行ってやるよ」
別に、この幽霊少女のためなんかじゃない。ただ、この世界が息苦しくて、面倒くさくて、そんな俺にとってこの提案が最高の暇潰しだったから。困ってるなら、俺が必要だっていうなら、手を貸してやってもいい。そんな軽い気持ちだ。
なのに、さ。
「あ、ありがとうございます!」
ヒナが、ものすごく嬉しそうな顔するんだよな。真夏の向日葵みたいな、明るくて、眩しい笑顔。
「わたし、本当に、嬉しいです!」
今にも、俺に飛びつきそうな勢いで跳ね回るヒナの姿を見ていると、何だかすごくくすぐったい気持ちになる。胸の奥がむずむずするって言うか、何ていうか形容しがたい感覚だ。
うん、悪くない。
「それで、どうやって異世界に行くんだ?」
俺が問うと、満面の笑みを浮かべたままのヒナが言う。
「えっと、目を閉じて、わたしがちょっとしたおまじないをするのです。それでわたしの世界に行けます」
それだけでいいのか、簡単なもんだ。と、そういえば。
「そういや、俺が事故った時、変な部屋と変な奴を見たんだけど……あれが、お前の世界なのか?」
「はい。あの時はちょっと手違いで飛んじゃったんだと思います」
「手違い、って」
そんなものでぽんぽん異世界に飛んでちゃ世話はない。ヒナもあの事故は想定外だったようで、「ごめんなさい」と平謝りをしているからもう怒る気にもなれない。とはいえまた事故るのは嫌だから、単車の前には出るなと念を押しておくことにする。
ヒナはこくこくと頷きながら、俺の目の前に降りてきた。人間ならば、お互いの息がかかるくらいに顔を近づけて、言う。
「それじゃあ、目を閉じてください」
「ちょ、ちょっと待て!」
ヒナはさっぱり気にしていないようだが、ここは公園だ。まだよくわかっていないが、ヒナの言葉を言葉通りに取るならば、異世界に行くのは俺の心だけで、体は持っていけないのだろう。そうしたら、ベンチの上にだらんと俺の体だけが残される、わけで。
ちょっとぞっとしない。
「家に帰ってからでいいか? ここじゃまずいだろ」
「あ、そうでした。ごめんなさいです」
ぺこり、と頭を下げるヒナ。ばね仕掛けの人形みたいで、ちょっと可愛い。そう、何処までも可愛いんだよな、幽霊だけど。
俺はヒナをつれて、家へ戻った。
鍵を開けて、ヒナを玄関の中に入れて……俺は、一番重要なことに気づいた。
まずい。これはまずい。
「……ヒナ、ここで待ってろ」
「え、何故ですか?」
「いいか、俺は男で、お前は女の子だ。わかるか」
「はいー、わたしは女であなたは男の人ですね」
「わかってねえなその顔は! とにかく五分待て!」
ダッシュで(とはいえお袋を起こさないように音は立てないで)階段を駆け上り、自室の扉を開け放つ。そこに広がっていたのは、まさに、
魔界。
うーん、改めて見ると俺ってば半年以上引きこもってたんだよな、としみじみ思わずにはいられない散らかりよう。床に散乱しているのは脱ぎっぱなしの服、十八禁の美少女ゲーに最近はまってるラノベと漫画とちょっとアレな本、あと高校三年の参考書一式。何だこのカオス。
ひとまずギャルゲーとアレな本はベッドの下に入れて、見なかったことにする。服はまとめてクローゼットの中に突っ込んで、参考書とラノベは……机の上に並べておくか。こんなに真面目に片付けをしたのは久しぶりだ。
きっかり、五分経ったところで。
「あのぅ、大丈夫ですかぁ」
という、気の抜けたヒナの声が聞こえてきた。大丈夫、多分大丈夫。目に見えるところにヤバイものはない。
「大丈夫だ。入ってこいよ」
「はいっ」
にゅるり。
「うおう!?」
思わず変な声出しちゃったよ。
いやだってヒナが普通にドアをすり抜けてくるものだから。幽霊だからドアが開けられないというのはわかるのだが、心臓に悪い。今度はきちんとドアを開けて迎えるようにしよう。
ヒナは俺の部屋が珍しいのか……ってより、もしかするとこの世界自体が珍しいのかもしれなかったが……きょろきょろと暗い部屋のあちこちを見ている。あ、ちょっと待て、ベッドの下は見るんじゃねえ!
「えっと、裸に紐を巻いてる女の子が好きですか?」
声に出して言わないで下さい、頼むから。俺にしか聞こえてないとは思うけれども、色々と心臓に悪いです。見られただけで既にまずいのに、綺麗に追い討ちをかけないでもらいたい。
ひとまずヒナの意識はベッドの下から俺に戻ったようだった。俺はベッドの上に腰掛けると、少しだけ深呼吸。
ヒナは、暗がりの中にも桃色のワンピースを翻して、俺の視線より少し上のところを浮かんでいる。明るい笑顔で、俺を見下ろしている。
果たして今の俺はこんな風に笑えただろうかと、何気なく思った。
「それじゃあ、目を閉じてください」
ヒナの言葉通り、俺は目を閉じる。視界が、完全な闇に包まれる。次に目を開けたら、俺の知らない世界が広がっているのだろう。興奮しているのか落ち着いているのか、よくわからないふわふわした気分だ。
「ゆっくり、意識が体を離れていきます。そう、段々と……」
まるでヒナの声は子守唄のよう。優しくて、耳に柔らかく触れる声を聞きながら、俺の意識もまた、ゆっくりと真っ暗な海の中に落ちていった。
反転楽園紀行