反転楽園紀行

003:夢から覚めても夢の中

 まただ。また、あの夢だ。
 知らない声が、桃色の何かが俺を呼んでる……助けてくれって、俺が必要なんだって。
 やめてくれ。
 そんな言葉聞きたくない。期待をかけないでくれ。そうやって期待するだけして、俺が応えられなければ、見当違いの憐れみを向けてきやがる。
 そんな目で俺を見るな!
 もう嫌だ。何もかも嫌なんだ!
 
 
「……っ!」
 暗闇の中で、身体がずきりと痛む。
 俺は声に鳴らない悲鳴を上げて、瞼をぱっと開いた。
 そして、自分の目を疑った。
 そこは見慣れた、家の近くの公園だった。俺は木陰のベンチに座って、膝の上のヘルメットを抱え、呆然と沈みかけている夕日を見つめていた。
 ちょっと待て。俺は、さっきまで変な白衣眼鏡に何処だかわからない場所に寝かされて、異世界とか魔法とかよくわからないことを言われて……
 それからの記憶が、ない。
 どうして、今俺が公園のベンチにのん気に座ってるのかもわからない。
 先ほどまではなかった身体の痛みは一体何かと思って自分の両手を見ると、革の手袋が擦り切れていた。腕も何かに強く擦ったような痕がある。それどころか全身、何処かしらが擦り切れていて
 それで、はっと気づいた。
 俺は、確かに事故っていたのだ。それで、頭を強く打ったか何かで変な夢を見ていて、今やっと目覚めた。そういうことなのだろう。ベンチの横に無造作に停めてある、少し塗装がはげてしまった単車が、事実を物語っている。
 だが……記憶が正しければ、俺は飛び出してきた桃色のワンピースを避けるためにハンドルを切って、それから気を失っているはずだ。この公園には、俺が事故った場所からそう遠くないといえ足を踏み入れた覚えがない。
 記憶がないだけで、何とか自力で単車を引きずってここで落ち着こうと思ったのだろうか。それならあのワンピースはどうしたのだろうか。
 現実に起こったことと、妙にはっきりと記憶に焼きついている夢の出来事が混ざり合って、何が正しいのかもわからない。
 ただ、耳元を吹き抜けていく春の風の匂いは、先ほどの消毒液のような白い部屋の匂いとはかけ離れていた。俺は痛む身体で無理やり大きく伸びをして、深呼吸。気持ちのいい春風を胸いっぱいに吸い込んで、吸い込みすぎて小さくむせた。
 背中を丸めて、数度咳をして喉に張り付く何かを追いやってから、改めて夕日を見つめる。空は燃えるように、赤い。
 ――帰らなきゃ。
 家出はしょっちゅうだが、今日はこれから何処かに行く気にもならなかった。家に帰って、ベッドでゆっくり……夢を見ない深い眠りにつきたい気分だった。事故った上にあんな夢を見てしまえば、誰だってそう思うに違いない。
「いてて……」
 ゆっくりと立とうとするが、腰でも打ったのか結構痛い。が、逆に言えばそのくらいしか異常はなかった。骨をやっていれば、「いてて」で済んだものじゃないだろう。
「ったく、今日は厄日だな。とっとと帰ろ」
 誰が聞いているわけでもないし、いつの間にか指に引っかかっていた単車の鍵をくるくる回しながら、口の中でもごもご呟いたその時だった。
 
「待って、ください!」
 
 という声が、頭の中に響いた。
「……え?」
 俺が間抜け声を上げた瞬間、目の前に桃色が生まれた。
 いや、それはもっと正確に表現するならば、『桃色のワンピース』だった。
 頭の中に閃く、夢と現実と。何が何だかわからないまま、俺は叫んでいた。
「手前……っ!」
「ご、ごめんなさいぃ!」
 俺の剣幕に驚いたのか、謝って、頭を抱える桃色ワンピースの女子。年齢としては俺なんかよりずっと年下に見える。中学生くらいか?
 とにかく、こいつが諸悪の根源だ。安全運転を心がけていた俺が事故って全身打撲状態なのも、その後変な夢を見てしまったのも、全部こいつのせいだ。俺は反射的に腕を伸ばしかけて……気づいた。
 目の前に『浮かんでいる』桃色のワンピース。その、向こうが透けて見えていた。幽霊だか何だかわからんが、とにかくそういう類のものなのだと、わかった。
 そうか、こいつの姿は俺にしか見えていないのか。
 そう思うと、自然と心が沈んでいく。こういう奴に関わると、ろくなことがない。見えなかったことにして、無視して立ち去るのが一番だ。伸ばした腕を引っ込めて、幽霊少女に背を向けて、単車のスタンドを外す。
「あ、あの、待ってくださいですよぅ……」
「あーあー、聞こえねー。何も聞こえねー」
 うん大丈夫、何も聞こえてない。単車の状態は……ぼこぼこになっちゃいるが、動きそうだ。後できちんと確かめて、ダメなようなら店に持っていかなきゃならないだろうが。
「ま、待って……」
 無視。無視無視。
 流石にこの状態のバイクに乗っていくのは怖い。これで事故ったら今度こそあの世行きだ。もう一度死ねるかどうか試すのは悪くない実験かもしれないが、下手に死にぞこなったときの方が怖いとわかってしまったから、どうにもやる気が起きない。
 単車を押して歩き出す。それでも、背後に嫌な気配がべったり張り付いて離れない。
「すみません、話を、聞いてください……」
 無視しろ、俺。
「お願いします、本当に、お願いします、あなたしかいないんですぅ……」
 俺には何も聞こえていないんだ。だからもう黙ってくれ。俺しかいないなんて大嘘だろ、皆そう言って期待して期待させて、最後には皆して俺を落としにかかってくる。そんなのはもうこりごりだ。
「ううぅ……」
 頼むから泣きそうな声を出すな。俺が悪いみたいじゃないか。
 しかも、公園を出ようとしても一向に気配は離れようとしない。ぎり、と歯を噛み締めて。俺はついに後ろを向いてしまった。
 案の定、振り向いた顔のすぐ側に、幽霊少女の顔があった。
 長い睫毛を持つブラウンの丸い目が、俺の目を覗きこむ。なかなか可愛い顔をしているが、そんなものに誤魔化される俺じゃない。いつも誤魔化されてるなんてツッコミは全面的に禁止だが。
「……俺に、何の用だ」
「き、聞いてくれるですかっ?」
 今までの泣き出しそうな声はどこへやら、ぱっと表情を明るくする幽霊少女。う、うむ、危うく流されそうだがきっと気のせいだ。気をしっかり持て、俺。
 とりあえず、周囲を見渡してみる。誰もいないことを確認してから、公園の入口で単車のスタンドを立てる。片腕の重心を単車に預けて、視線だけで話の続きを促す。幽霊少女は俄然生き生きとした……幽霊だし生きてないんだから死に死にとか言うのか?……顔になって、俺を真っ直ぐに見つめて言った。
「初めまして、わたし、ヒナって言います」
 はいはい、ヒナね……ってヒナ?
 それは、夢の中であの眼鏡白衣の頭のおかしい奴が言ってた名前じゃなかったか。なら、これもまた夢なのか? それとも何もかもが現実だったのか? バカな。
 そんなことをぐだぐだ思った時、だった。
 幽霊少女のヒナちゃんは、頭を下げてとんでもないことを言い放った。
「お願いします、助けてください! わたしたちの世界を救ってほしいのです!」
「……はあ?」
 俺は自分の顔を見ることができないからわからないが、きっととんでもない間抜け面をしていたことだろう。が、俺の顔も内心も綺麗さっぱり無視してヒナは続ける。
「あなたは、わたしたちの世界を救えるただ一人の勇者様なのです! お願いします、わたしたちのために一緒に来てください!」
 必死の形相で俺に迫ってくるヒナ、だったが。
 俺の心はヒナの必死さに反比例するかのように、急速に冷めていく。元々熱くなっていたわけじゃないが、零度を超えて凍りつくような、そんな感覚。
 『わたしたちの世界』? 『勇者』?
 冗談じゃない。夢物語はさっきみたいに夢の中で言ってくれ。それに。
「そんなの、どうせ俺じゃなくたっていいんだろ?」
「違っ」
「助けてほしい、とか、ただ一人の、とか言えばいいと思ってんのか? バカにすんじゃねえ」
「嘘なんかじゃないです、話を聞いてください!」
「聞いてるじゃねえか。嘘だとも言ってない」
 ただ、信じられないだけだ。こんな話、信じる方がどうかしている。信じたところで最後に俺がバカを見るのはわかっているんだ、これ以上聞いてやる理由もない。俺は再び単車のスタンドを外して、歩き出す。
 後ろでヒナが泣きそうな声で喚いている。今度こそ立ち止まらないようにして、ゆっくりと足を進める。本当は早足に立ち去りたいのに、体が言うことを聞いてくれない。さっきコケたせいで全身が痛みを訴えているからか、それとも。
「……来て、くれないのですか?」
 ――しつこい。
 そう言おうとしたが、流石に無理やり飲み込んだ。ヒナの声は湿っていて、そんな相手にこれ以上意地の悪いことを言う気にはなれなくて、代わりに言葉を選んで言った。
「考えとく」
 まあ、言ったところで考えるまでもなく答えは出ている。もちろん、却下の方向で。
 だが、幽霊少女には人間にとって当たり前の社交辞令はどうも通用しなかったらしく、少しだけ明るい声になって言った。
「もし、わたしの話を信じてくれるなら、わたしのこと、呼んでください」
 振り向くまい、と思ったのに。つい、俺はヒナの方を振り向いてしまった。
 ヒナは、大きな目の中に涙を溜めて、今にも泣き出しそうな顔で笑ってた。
「わたし、すぐ駆けつけます」
 
 そのヒナの笑顔に、何も言えないまま。
 俺は、気づいたら家の前まで単車を押して帰ってきていた。
 
「おかえり」
 玄関の扉を開けた時にお袋の声が聞こえたけれど、無視して早足に階段を昇る。部屋の扉を開けて、即座にベッドにダイブ。体中が痛い。ぐしゃぐしゃになって端っこに寄ったままの布団を抱き寄せて、見慣れた天井を見やった。
 ――今日は厄日だ。
 事故に遭って、変な夢を見て、何かおかしな幽霊に出会って。
 異世界とか勇者とか、頭の悪い単語ばかり聞いた気がする。それこそ、ゲームのやりすぎだとあの喫茶店のマスターに笑われてしまうかもしれない。マスターには、こんなこと言えるはずもなかったけれど。
 そういえば、ゲーム。まだ途中だったっけ。
 電源の入っていないパソコンを見やる。投げっぱなしのバイザーディスプレイが目に入るけれど、手を伸ばす気にはなれない。ディスプレイの向こうに愛するキララちゃんがいるのはわかってるけれど、今日はそんな気分じゃない。
 何もしないまま、ただ、静かに眠りたかった。
 目を閉じる。世界が、闇に閉ざされる。
 夢の中で俺をずっと呼んでた声、あれもヒナの声だったのだろうか。何となく似ているような気はしたけれど、夢の中のことだったからよく覚えていない。
 夢といえば……あれは結局、夢じゃなかったのだろうか。マスターに似た、眼鏡に白衣の男だか女だかわからない奴。暗闇の中に響く声は思い出せないのに、そいつと話した内容は一つ一つはっきり覚えていて、余計に不気味だ。
『手前がその目で見ているものは、全部紛れもない現実だ』
「……って言われても、なあ」
 あまりにおかしなものばかり見ていると、自分の目の方が信じられなくなる。元々信じてなんかいなかったけれど。
 ああ、何もかもが面倒くさい。何もかもを忘れて眠りたい。
 なのに、眠るといつものように、声が聞こえてくる……今にも泣き出しそうな、声が。
 
 
 助けて。
 あなたしかいない。
 わたしには、あなたが必要なの――