もう二度と夢は見ないはずなのに。
誰かの囁く声が、俺を呼ぶ声が、遥か遠くの闇の中から聞こえる。
呼び声は段々と近づいてきて……それから。
――眩しい。
まず、思ったのはそれだった。
俺は死んで、意識は闇の中に溶けて消えたはずなのに、妙に眩しい。瞼の上に光が投げかけられているのか、目を閉じているのに明るい。
まさか、ここが死後の世界ってやつか?
死んだ後の魂がどうなるのかなんて今まで死んだことのない俺にはわかるはずもないから、ここが生きた人間の世界なのか、死んだ人間の世界なのかもわからない。ふと鼻のあたりを掠めた消毒液のような匂いが、やけにリアル。
ゆっくりと、瞼を開ける。すると、痛みすら感じさせる光が目に刺さった。俺は反射的にもう一度瞼を閉じ、手で目を覆おうとするが……腕が動かない。それどころか、身体全体が金縛りに遭っているかのように固まっている。
何でだ。
痛みすら感じないのが、余計に不気味で。
声も出せずに喉からひゅっと息を吐いた、その時だった。
「あぁ、起きたか」
声が、耳に飛び込んできた。
同時に、目の上から光が消えた。どうやら、ライトのようなものを目の上にかざされていたらしい。恐る恐る目を開ける。さっき光に当てられぼやけていた視界が、ゆっくりと焦点を結んでいく。
まず、認識したのは煤けた天井だった。そして、俺の真上に手術台の上にあるような仰々しいライトが取り付けられている。俺は手術とかしたことねえからこれが本当に手術台のライトかどうかはわからなかったが、とにかくこいつがさっきから俺の目の上に光を投げかけていたんだろう。
病院? それにしては、やけに小汚い天井だ。蛍光灯の一つもなく、代わりに天井からぶら下がってるのは時代錯誤のランプ。そいつが、火の色とはまた違う青白い光を俺の上に投げかけていた。
何だ、ここは。
もう少し周囲を見渡したいのに、首すらまともに動かない。できることと言えば瞬きをすることと、口をぱくぱくさせることくらいじゃないか。
「……気分はどうだ?」
横から聞こえてくる声に、俺は口を歪めて答えてやった。
「最悪」
「はっ、そりゃ悪かったなぁ」
息を吐いて笑う声。男とも女ともつかない、変わった声だ。そう思っていると、そいつが横からこちらの顔を覗き込んできた。
俺は、反射的に上ずった声を上げていた。
「……マスター?」
そう、そいつの顔は、さっきまで俺が会ってた喫茶店のマスターとそっくり同じ顔だった。だが、そいつは俺が放った言葉の意味がわからなかったのか、不思議そうな顔をする。
「や、俺ぁ確かに『創造主』だが、手前に『ご主人様』って呼ばれても嬉しくねぇぞ」
む、全く話が噛み合っていない。俺だって初めて見た奴を『ご主人様』とは呼びたかねえよ。
気を取り直して見てみれば、こいつはマスターより少し柔らかな顔立ちをしているし、ずっと若く見える。それに、こいつの目の色は両方とも明るい緑色をしているが、マスターの目の色は片方だけ青かった、はずだ。
はずだ、というのは、現在進行形で俺の正気そのものを疑っているから。
考えてもみろ、病院とは到底思えない消毒液の香り漂う煤けた部屋に、動かない体のまま転がされてる俺。しかもそんな俺を見下ろしているのはマスターによく似た白衣で眼鏡の変な奴。
これを夢と呼ばずして、何と呼べと。
それともこれが死後の世界だとでも言うのだろうか。死んで目が覚めて突然これじゃあ、死んだ奴もいい加減浮かばれないなと自分のことを棚に上げて考える。とはいえ、考えてるだけじゃどうしようもないから、俺はまず、聞いてみることにした。
「なあ、俺、死んだのか?」
すると、白衣のそいつは一瞬眼鏡の下の目を真ん丸く見開いて、それから爆笑した。憮然とする俺の肩をばんばん叩きながら、そいつは言う。
「おいおい、手前、何言っちゃってんの? 手前が死んでるわけねぇだろ、死人に口なしって言うじゃねぇか」
それは正論。だが、そうすると俺は死にぞこなった、ってわけか。ここで死んでれば、ちょっとは気が楽だったのかもしれないのに。
で、ここが死後の世界でないとわかれば、もう一つ疑問が生まれるわけで。
「じゃあ、ここは何処だ?」
当然の問いだ。なのに、そいつはおかしそうに笑いながら俺の肩を叩き続ける。
「バカなこと聞くんじゃねぇよ、もう向こうで聞いてきたんだろ?」
「聞いて……って何をだよ」
さっぱり話が見えてこない。こいつ、何か致命的な勘違いをしてるんじゃなかろうか。
「俺はいつもの喫茶店の帰りにバイクに乗ってて、事故って吹っ飛ばされて、気づいたらここに寝かされてたんだ! いつ誰がこの状況を説明する余地があったんだよ?」
すると、そいつはやっと俺の肩を叩くのを止めて、ちょっとだけ神妙な顔で俺の顔を覗き込んできた。
近い! ちょっと顔近いから! 鼻とかくっつきそうな距離なんだけど。
「喫茶店とかバイクとか何とかは俺様にゃよくわかんねぇが……説明抜きでこっちに来たってことか?」
「だから、何も聞いてねえって言ってんだろ」
自然と俺も喧嘩腰になる。まあ、体が動かないこの状態じゃ、喧嘩を売ったとしてもぼこぼこにされて終わるだけだろう。
「なるほどなぁ、まだ調整終わってないのに来るなんて、おかしいたぁ思ったんだ」
「何言ってんだ、アンタ。とにかく、質問に答えろよ!」
目の奥の奥まで覗き込みそうだったそいつの目が、離れた。
にぃ、と。薄い唇の端を思い切り吊り上げる笑い方は、マスターとよく似た顔なのに、マスターの笑顔とは似ても似つかなくてぞっとする。
そして、次の瞬間そいつの口から放たれた言葉は、俺の背筋を凍らせた。
「ここは何処か、ってか。ここは手前のいた世界とは違う世界。まあ、手前からすりゃ異世界ってやつだ。わかる? 異世界」
異世界?
何だ、その古い漫画かゲームみたいな設定。
今更流行らないにも程がある。
「何、わけわかんねえこと言ってんだ? お前、頭おかしいんじゃねえか?」
「まあ確かに俺様の頭は半分以上狂っちゃいるな」
「狂ってんのかよ!」
ダメだ、このままじゃ話にならねえ。こいつじゃなくて、もっと話の通じる奴を連れてきてもらわなきゃ困る。こんなやり取りしているうちは、これが夢か現実かすらも判断しきれないだろう。そうか、悪夢か。悪夢なんだな、これは。
とにかくさっさと他の奴呼んで来い、と俺が口を開こうとしたまさにその時、そいつが口を開いた。
「だが、手前がその目で見ているものは、全部紛れもない現実だ。俺が狂っていようとも、手前が疑おうとも、そこだけは揺るがねぇ」
唇では、笑っているのに。
そいつの目に見つめられると、言葉が出なくなる。ああもう前言撤回、マスターに似ているなんて大嘘だ。似ているのは顔立ちと色だけで、マスターはこんな、人を射殺すような目で睨んでくることなんて、絶対になかった。
見られている、ただそれだけだというのに……心臓を握られているような、嫌な気分だ。
自然と乾く喉に、唾を流し込んで。
俺は、無理やり声を絞り出す。
「……証拠は」
「あん?」
「ここが、異世界だって証拠はあんのか? この天井だけじゃ、わかんねえよ」
俺の言葉に、そいつは虚を突かれたようで目をまん丸にしてかくんと首を傾げた。その仕草はちょっと意外で可愛い……って何考えてんだ俺。こいつが男か女かもまだわかっちゃいないってのに。
少しだけ、そいつは真面目に考え始めたのか、部屋の中に沈黙が流れる。俺の視界に入らないどこかに時計が置いてあるのか、かち、かちという針の音が妙に大きく聞こえた。
針の音を数えること約三十回、金茶の髪をがしがし掻いてそいつは言った。
「あーっと、手前の世界に、魔法はないよな」
魔法? これまたやけにファンタジーな話になってきやがった。何だ、剣と魔法の異世界ファンタジーってやつか。何十年前のゲームだそれは。
「じゃあ、こいつで信じる気になるか」
いや、魔法なんて物語の中の話じゃねえか……って思った瞬間。
そいつが短く何かを呟いて、指を擦っただけで唐突に真っ赤な火が灯りやがった。ゆらゆらと指の上で揺れる火は、確かな熱を持っていた。
とはいえ。
「……手品か?」
と、聞かずにはいられない。そいつも俺の反応は十分予想の範囲内だったんだろう、指先に火を灯したまま唇を引きつらせて苦笑する。
「言うと思ったぜ。まあ、こういう手品を俺らの世界では『魔法』って呼ぶわけ。一応種も仕掛けもあるにはあるからな。詳しい説明は面倒だから放棄の方向で」
あっさり放棄しやがったよこいつ。しかも「面倒だから」って何様だ手前。
ただ、「手品か」と聞いたは聞いたが、俺の目には種も仕掛けも見えない。手品にありがちなアルコールか何かを燃やしている感じじゃないし、熱を感じるから幻でもなさそうだ。
俺が憮然として黙り込むのを見て、そいつは高らかに指を鳴らし、炎を消して笑う。
「ま、その辺は俺がぐだぐだ言うことじゃねぇ。どうせ、後でヒナが説明してくれるさ」
「ヒナ?」
またわけのわからない単語が出てきたぞ。どこまでも人の都合を考えずに喋る奴だなこいつは。
「手前をここまで連れてきた奴だ。説明はされてねぇかもしれんが、声くらいは聞いてたんじゃねぇか?」
声……?
そういえば、最近毎日のように夢を見ていた気がする。夢の中では必ず誰かが俺を呼んでいて、必ず聞き覚えのない女の子の声だった。
うん、聞き覚えはないはずだ。キララちゃんでもマリンちゃんでもなかったはずだ。女の子の声と言って一発で思い浮かぶのが全部ゲームの中の二次元彼女ってあたりでちょっと首吊って死にたくなる。本当、一思いに死なせてくれ、頼むから。
俺の切なる願いなんて知ってるはずもないそいつは、にやにや笑いながら言葉を続ける。
「詳しいことは全部そいつが話してくれらぁな。さ、そろそろ時間だな」
そいつの視線が、あらぬ方向に向けられる。俺の視界からちょうど外れているから、何を見ていたのかはわからないが……「時間」って言うくらいだからきっと時計か何かだろう。何のことだ、と問いただしたかったが、口を開く前に強烈な眠気が襲ってきた。
目を開くことも、言葉を放つこともままならない。
ただ、耳だけは、そいつの放った言葉をかろうじて捉えていた。
「まだ……不安定……体と精神の調整……」
うん、捉えたところで何が何だかわかんねえ。
そんなことを思ったところで、俺の意識は再び、闇の中に落ちていった。
反転楽園紀行