反転楽園紀行

001:きっと夢も見ない

 誰かが、俺を呼んでいる。
 最近、いつもそうだ。目を閉じれば誰かが俺を呼んでいる。
 だけど、目を覚ませば何を言われてたのかなんざ忘れちまう。覚えているのはただ、俺のことを呼んでいたっていう事実と……闇の中に揺らめく、桃色の何か。スカートの裾のような、そうでもないような。
 それにしても、俺なんか呼んでどうしようってんだ。
 お前も、俺のことを笑いものにしたいだけだろ、あいつらみたいにさ。
 なあ、答えろよ。それとも、俺の声なんか聞こえてないってか?
 なあ……
 
 
 からん、という心地のよいカウベルの音で、俺は現実に引き戻された。どうやら、知らず眠ってしまっていたらしい。枕代わりになっていたラノベは、大体全体の半分くらいのところで開いたままになっていた。
「……疲れてるみたいだな。大丈夫か?」
 目覚めた俺の顔を、カウンター越しにマスターが覗き込んできた。日本人離れした瞳の色はともすれば冷ややかなのに、穏やかな色をしている。しかし、だ。今見た夢のことをそのままマスターに話す気にもなれず、俺は目を逸らしてがしがし頭を掻き、苦笑することしかできなかった。
「いや、ちょいと昨日寝たのが遅くて」
「何だ、また朝までゲームか?」
 マスターは手の中のグラスを拭きながら、からからと笑う。そんなに大声だと他の客がこちらを見るんじゃないかと慌てて辺りを見渡したが、珍しく客は一人もいなかった。先ほどのカウベルの音も、客が帰ったときに鳴った音だったらしい。
「まあ……そんなとこっす」
「ははっ、ゲームのし過ぎでバカにならないように気をつけろよ」
「ゲームでバカになるなんて、迷信だろ。自分の愚鈍さをゲームのせいにするのが悪い」
「確かに、間違ってはいねえな」
 もちろん科学的には、近頃の全視界型ゲームが脳に与える悪影響を無視することはできないといわれている。俺もそれを真っ向から否定してかかるつもりはない。
 だが、ゲームをしていたってバカじゃない奴はいくらでもいる。ゲームをしている人間全てを「バカ」という言葉で一括りにされるのはゲームを嗜む人間として腹が立つ。
 そう俺が主張すると、マスターはくくっとおかしそうに笑って言った。
「ゲームと人の間の問題は数十年前からずっと論じられてる問題だ。まあ、科学者もゲーマーも成長してないと言っちゃそれまでだがな」
 なるほど、それはそれで一理ある。結局のところどちらも自らの主張を譲る気はないのだ、それで平行線を辿るのは当然と言えば当然。
 マスターは人好きのする笑みを浮かべたまま、ティーカップを手に取り、いい香りのする紅茶を注ぎ始めた。俺はその慣れた手つきをじっと見つめながら考える。
 町外れの、妙に洒落た内装の喫茶店。
 口はちょっぴり悪いが料理の腕は抜群であるマスターは、遠慮なく毎日入り浸る俺の姿を見ても他の客に向けているものと同じ笑顔を向けてくれる。それどころか、客足が途絶えた時にはこんな風に気軽に言葉を交わす間柄になっている。
 それでも、マスターは常に俺をカウンター越しに笑顔で見下ろしながら、決定的なことだけは言わない。
 例えば、「学校には行かないのか」、とか。「勉強はしているのか」、とか。「親御さんが泣くぞ」、とか。
 言われなくたって、嫌ってほどわかってる。
 毎朝起きればお袋は腫れ物を触るように俺のことを扱うものだから、家にいるだけで息苦しくて、だからと言って学校には足を向けることすらできなくて。
 それでわざわざ学校と反対方向の、この喫茶店まで来ているのだ。
 俺が何も言わなくともマスターは事情を何とはなく察してくれているのだろう。そう、信じている。
 マスターは俺の前に、綺麗な花の模様があしらわれたティーカップを置いた。中は湯気を立てる紅茶で満ちている。
「ま、これでも飲んで目覚ませ」
「えっと……いくらです?」
「一杯三百万になります」
 思わず、カップに伸ばそうとした手が止まる。恐る恐るマスターを見上げると、マスターは妙に神妙な表情で俺を見つめていた。
「冗談、っすよね?」
「いやな、この店本当に潰れそうなんだよ。仕方ないから全体的に値段を一万倍にして、この危機を乗り切ろうとだな」
「嘘ですね」
「おう、嘘に決まってんだろ。奢りでいいぜ、お得意様だからな」
 あっさり言って、笑うマスター。思わず、俺も少しだけ噴出してしまった。こうやって笑ったのは、何日ぶりだろう。こんなマスターの人柄も俺がこの喫茶店に入り浸る要因なのだろうな、と改めて思い、砂糖もミルクも入っていない紅茶を啜る。
 ぽっと口の中に生まれた暖かさが、喉を通って落ちていく。紅茶のよい香りは心を休ませると同時に覚醒もさせる。一度は完全に止まっていた思考がゆっくり正常に回転し始める感覚が、とても心地よく思えた。
「美味しい」
 俺が素直に言うと、「そりゃそうだ、俺が丹精込めて淹れたウルトラスペシャルティーだからな」とマスターは笑う。俺も一緒になって小さく笑った。
 マスターはどこからどう見ても日本人には見えないが、英語圏の人間ではないらしく英語は苦手だ。
 いや、もしかすると英語が苦手なわけではなく、単にネーミングセンスが壊滅的なだけかもしれない。この前手作りのエクレアに名前をつけていたが、こちらが恥ずかしくなるほどに酷いものだったから。
 っていうかエクレアに「かみなりおこし」ってつけたらダメだろう。版権とか以前の問題で、それはもはや別の食べ物だ。
 そんなことを考えながら、ふと時計を見れば、午後三時過ぎ。
 一瞬寝てしまったからか、時間の感覚が鈍っていた。もうゆっくり紅茶を飲んでいる時間ではない。
「ああ、もうこんな時間か。帰るのか?」
 マスターも、俺の視線に気づいたのか時計に目をやって言った。俺は頷いてまだ熱い茶を一気に飲み干すと、ティーカップをマスターに返した。
「ご馳走様でした」
 小さく頭を下げて、寝る前に頼んであった珈琲とケーキの代金をカウンターの上に置く。
 そして隣の椅子を占拠していたヘルメットを手首に提げ、カウンターの上に投げ出していた単車の鍵を握った。不細工な兎のマスコットが、鍵と一緒に揺れる。
「おう、ありがとさん。また来いよ」
 マスターは金を受け取るとにっと笑って手を振った。
 ――また来いよ。
 素直に手を振り返しはしたが、マスターは普段から俺だけでなく、客の誰にでも同じように「また来いよ」と言っていることを知っている。会話を交わしている時には忘れかけているが、この瞬間だけは自分とマスターが客と主人の関係だったのだと再確認して、複雑な気分になる。
 マスターは、誰に対しても同じように笑って、同じように茶と料理を振る舞い、そうして生きている。
 それはいい。それがマスターの仕事だから。
 ただ……俺は、思うのだ。
 俺が二度とここに来なくとも、この喫茶店は在り続ける。マスターはいつものように笑って客を迎えて、笑って客を送り出す。そうやって、マスターの世界は変わらずに回っている。
 そんなのは当然の話。なのに、何故かもやもやとした気分になって、俺は少しだけ乱暴に扉を開ける。すると、「すみません」という声と共に俺の横をすれ違って、一人の女が店の中に入っていった。
「いらっしゃい、久しぶりだな。今日はどうした?」
「ふふ、今日はね」
 マスターと客である女の声が、俺の背中を追いかけてくる。俺はそれを振り払って、逃げるように店の外に出た。
 強い春の風が、伸びきった前髪を揺らす。遠くから、わいわい騒ぐ小学生の声が聞こえてきて、胸の中のむかつきが否応なく増す。
 だから、これ以上何も聞こえなくなるように、フルフェイスのヘルメットを被るのだ。
 まだ高校は下校時間ではない、クラスメイトに会うこともない。それに、会ったとしてもこのヘルメットではすぐに俺だとは判別できないだろう。もちろん、俺の顔を覚えている人間がいたら、という前提があっての話だが。
 狭い駐車場に押し込んだ兄貴の単車を引っ張り出して、エンジンをかける。今日もおんぼろ単車は調子が良くて、少しだけ安心する。
 こいつだけを家に置いておいて消えてしまった兄貴の顔は、すぐには思い出せない。俺の知らない場所で幸せにやってる、とこの前久しぶりにメールが来た。単車をどうすればいいと聞いたら、まだ残っていたのかと逆に驚かれた。
 売ってしまえとお袋は言った。
 俺は意味もなく手元に残すと言い張った。
 そうして、今に至る。
 俺を乗せた数世代前の単車は今日も軽快な音を立て、細い道を抜けて通りに出た。風を切る音だけを聞きながら、横を行過ぎる車の気配を感じて俺は目を細める。
 こうやって道を走っていると、心の半分は常に安全運転を心がけてはいるが、もう半分ではどうでもいいことをつらつらと考えてしまいがちだ。
 例えば。
 ここで、俺が事故って、死んでしまったとしようか。
 親父とお袋は泣くだろうか、それとも怒るだろうか。何処にいるかもわからん兄貴は駆けつけてくれるだろうか。バカな幼馴染は俺をバカだと笑うだろうか。かつて俺を笑ったクラスメイトは、棺桶の中にいる俺の出席番号が何番か覚えているだろうか。
 ……あのマスターは、店に来なくなった俺が死んだことに気づくだろうか。
 例えば。
 ここで、俺が事故って、死んでしまったとしても。
 俺を知らない下校中の小学生は、俺を運ぶ霊柩車を前にして他愛もなく親指を隠すのだろうし、ほとんどの大人は白地に黒文字で書かれた看板を見て早足にその場から立ち去るに違いない。
 ……あのマスターも、いつもの笑顔でさっきの女に紅茶を出しているかもしれない。
 そうして、俺一人いなくなったとしても、一部の人間を取り残しながらも世界は正常に回っていくのだろう。それが、正常な世界ってやつだし、今までずっとそうやって世界は回ってきたはずだ。
 回る世界は煮え切らない俺を置いていく。今、びゅんびゅん横を通り過ぎていく車と何ら変わらない。どんなに速く走っても、誰もが俺の追いつかない場所にいるような気がして、息苦しい。この苦しさは、ヘルメットを被っているからなんてちゃちな理由ではないはずだ。
 いつも俺は、ハンドルをぐっと横に切ってしまいたい衝動に駆られる。
 いつも俺は、口の中に含んだ紅茶の温かさを思い出して思いとどまる。
 死にたくはない。いなくなったって何も変わらないとは思いながらも、死ぬのは怖い。いや、自分がいなくなっても変わらない現実を直視するのが、怖いのかもしれない。死んでしまったら直視も何もないかもしれないが。
 これまで何度起こったかもわからない衝動を押さえ込んで、俺は左車線に寄ると、最後の交差点を左折する。
 
 その時。
 
 目に飛び込んだのは、桃色の「何か」。
 そう、いつもの夢よりも、はるかに鮮やかな桃色。
 それが桃色のワンピースだったと脳が判断する前に、腕はハンドルを切り、急ブレーキをかけていた。一度も体験したことのない異様なベクトルがかかって、俺の身体が放り出されたのは、わかった。
 体に伝わるのは、痛みも熱も伴わない、純粋な衝撃。
 ああ、これが死ぬってことか。
 あまりにあっけない終わり方に、こう思わずにはいられなかった。
 
 ――これなら、死ぬのも悪くない。
 
 桃色のワンピースがどうなったかもわからないまま、俺の意識は飛んだ。今度こそ、きっと夢も見ない、完全な闇の中へ。
 
 ……そうだったら、よかったのにな。