Planet-BLUE

150 地球―終章

 地球に近づいていた正体不明の天体『ゼロ』が突如として消滅した、地球暦三九九九年十二月十一日。
 その日、地球に住む全ての住民は、そして地球の様子を知るはずもない他星に住む一部の人々は、真っ青に染まった空と、また地球ではとうに失われた青い海の幻視を見たという。
 『ゼロ』が発生した理由、また突然消滅した理由が不明なのと同じように、やはりその現象の原因も不明。
 一つだけ確かなことは、地球が三九九九年十二月二十五日に定められていた消滅を逃れた、ということ、それだけである。

 あれから、三ヶ月が過ぎた。

 地球暦四千年、四度目の千年紀を迎えた地球は、変わらず緩やかな滅亡へと向かっている。星団連邦政府は地球への援助を再開したが、おそらくは『ゼロ』による急激な滅亡とは違うものの、そう遠くないうちに完全に人が住めない星になるだろう、という試算もはっきりと示している。
 それでも、地球には今もなお人が生きている。いや、『ゼロ』が消滅してから地球への移住を希望する者が急激に増えたとも言われている。
 人はかつて自らの手で灰色に染めた地球に、今何を求めているのか。それは、示された数値だけでは到底理解できないことである。
 これから、地球が誰の手で何色に染められるのか、それはわからないが。
 今、言えることは……


 ラビットは操作盤の上に指を走らせて、流れていた星間放送を切り、代わりにかつてダウンロードした音楽の情報を引き出す。流す曲は決まっている、弾き手は失われても、記録として語り継がれていくだろう天才、ミューズ・トーンが奏でる、『月の光』。
 高速自動航行を続ける銀色の船『ディバイン』は、もうすぐ目的地に着くということをディスプレイ上に示してみせる。ラビットはそれを確認し、座席に深く腰掛けなおす。
 流れるメロディは、懐かしく優しい思い出と、鈍い痛みとを呼び起こす。
 今、ラビットはここにいる。長くも短い旅を終え、辿り着くべき場所へと向かっている。
 だが、本当に全ては終わったのだろうか。胸の痛みは消えない、罪もまた、消えてはいない。
 少しだけ目を落とし、サングラスの下の赤い瞳で左腕を見つめる。
 長い間、悲劇だけを振りまいてきたこの左腕。白く、凶暴な翼を秘めた腕は、今は静かにラビットの左腕としてそこにある。だが、この翼がまた惨劇を振りまくこともあるかもしれない。それに、あの時に呼んだ悲しみは、絶対に、消えない。
 笑って、みせたけれど。
 ラビットは目を伏せる。
 笑って、よかったのだろうか。自分は、笑うことが許されているのだろうか。
 目蓋に映しこまれる赤い記憶。助けを求め伸ばされた腕。それら全てを押しつぶす白。
 絶対に消えない、罪。
「それでも、私は笑うよ」
 全ては過去の惨劇、今ではあの時見た誰にも届かないとわかっていながら、ラビットは左腕を伸ばしてみせる。目を開き、半ば盲いているその双眸で真っ直ぐに目の前に広がる漆黒の海を見つめる。
「全てを背負って、なお笑ってみせる」
 何もかもを見つめなおすことは、今のラビットにも難しい。いつか破綻する日が来るという確信にも似た予感もある。だが、その時にはきっと、また誰かが自分の背を押してくれると、思えるようになった。
 今はもう、孤独だと思い込むこともない。
 だから。
 星の海に一つ、小さな点が生まれる。それはやがてこちらに近づいてきて、かつての色を失った星の姿を見せていく。その球体は、コートのポケットの中の硝子玉と同じくらい、儚いものにも見えた。
 ……地球。
 星の海に浮かぶ数多い惑星の一つ。どんなにこの星の海に数多くの星があろうとも、地球はただ一つの存在として、孤独に漂い続けている。どの星も、きっとそうなのだろう。だが、真に孤独なのかどうかは、ラビットにはわからない。それは漂い続ける地球にしか、わからないことだ。
「そうだろう……?」
 ラビットは呼びかけてみせる。
 地球はそこに浮かんでいるだけ、何も答えはしない。ラビットが小さく笑ったその時、ベルを模した音と共に、澄んだ女の声が響き渡った。
『通信が入っています。認識番号は』
「ああ、繋げてくれ」
 伝えられるべき全ての内容を聞く前に、ラビットは軽く手を振って合図をした。すると、ディスプレイがもう一つ表示され、そこにノイズ交じりの人の顔が映し出される。
 髪を緑に染め上げた、猫のような目をした青年……聖だ。
『久しぶりだな、おっさん』
「貴方か。何処で、この船の通信コードを?」
『頼み込んで、姉貴を通じてレイ兄に教えてもらったんだよ。ほら、アークにいるうちは軍の監視下だし、おっさんに接触するのも危険だと思ってさ』
 それは賢明な判断だろう、とラビットも思う。聖がラビットとトワと同行していたことはヴァルキリーの話を聞く限り何とか大目に見てもらったようだが、それでも聖が軍の重要機密事項である『無限色彩』に対する情報を握っていることには変わりない。これ以上深入りすれば、軍側も聖を放ってはおかなかっただろう。
 今ここで通信を交わすことも本来ならばある程度危険を伴うが、軍の監視を抜けた部分のこと、後でラビットの方で誤魔化すことは不可能ではない。
 ラビットは今まで毎日顔を合わせていた聖とも、もう数ヶ月会っていなかったのか、と不思議な気分になりながら問う。
「そちらはどうだ?」
『ぼちぼちってところかな。近いうちにそっちにも何か持っていくから、その時は客になってくれよな。お前、何だかんだで金持ちなんだしさあ』
 そう、聖は元々星間行商人だったな、と今さらながら思う。彼が望んだこととはいえあれだけ振り回してしまったのだ、少しは彼の商売にも貢献するべきなのだろうなと思う。思うが、素直に答えるラビットではない。
「持ち込まれたもの次第だな」
『相変わらず妙にケチだよな、おっさんは。羽振りが悪いとトワに嫌われるぜ?』
「それは関係ないだろう」
『わかんねえぞ? まあ、そんなところだ。あと、ティア姉のことだけどさ』
 ティア・パルセイト……マーチ・ヘア。聖と同じく、あの時から一度も会うことのなかった人の名前に、ラビットは軽く眉を上げた。
「マーチ・ヘア……彼女はどうした?」
『あれから俺も会ってはいねえが、風の噂によりゃ、また別のところで荒稼ぎしてるらしいぜ』
「そうか、まあ元気そうで何よりだな」
 彼女の仕事は基本的には血生臭いもので、ラビットとしてはあまり共感できるものではないが、彼女の事情も知っているだけに、その程度の言葉で済ませることにした。
 聖は、ディスプレイの向こうで微笑しながら、言った。
『おっさんも、元気そうでよかった。それじゃあ、俺もちと忙しいからこの辺で。……トワによろしく』
「ああ、よろしく言っておくよ」
 当たり前のように言葉を交わして、ラビットは通信を切った。
 地球は、もう目の前にあった。
 空気の層が光を反射しているからだろうか、不思議な色を湛えた地球が、近づいてくるこちらをじっと見つめているような、気がした。
 ラビットも、じっと地球を見つめた。
 そして、耳の中に響く『月の光』に合わせて、口の中で小さく何かを呟いた。その言葉が地球に届いているかはわからなかったけれど……

『おかえり』

 という、小さな声が、聞こえた気がした。


 運命の時は過ぎ、全ては収束する。
 蒼き惑星だった、一つの星の物語が、終わる。