Planet-BLUE

149 最後は笑顔で

 ラビットは病院の門で、被った黒い帽子を軽く持ち上げて病院の建物を見やる。
 分厚いサングラスに、黒い帽子に黒いコート。ラビットをよく知る者ならば、相変わらずだなと笑うだろう。クレセントと呼ばれていた頃から、彼は黒い服を好んだ……おそらくは、『白』と呼ばれる自分への反発だったのだろうとも、思う。今は日光に弱い身体を保護する意味も半分くらいはあるのだが。
 青空を背景にして聳える四角い白の建物は何も語らず、ただラビットを見下ろすだけ。ラビットは軽く会釈して、背を向けた。
『……またね、ラビット』
 ぽつり、と。
 突然ラビットの思考に生まれる、誰かの声。
 ラビットははっとして振り返った。それは、とても聞き覚えのある声だったから。だが、ラビットの目に映るのは、建物だけ。元より視力では常人に劣るラビットが、病院の中にいるのであろう声の主を特定することなどできるはずもなく。
 だから、改めて帽子を持ち上げて今度は深く、一礼する。
「今までありがとう、そして、またいつか……トゥール」
 そして、ラビットはトランクを片手に病院を去った。当たり前のように。


 地球からアークへと護送された『白の二番』クレセント・クライウルフが、セントラルの病院を脱走したという話はすぐに広まった。
 だが、その後の彼の足取りは掴めていない。


 ラビットが向かったのは、セントラルアークの軍港だった。おそらくシリウス・M・ヴァルキリーがあらかじめ手を回していたのだろう、あっさりと通ることが出来た。ただ、急がなくてはならない、と思う。
 意外と、その特異な外見ながらラビット=クレセント・クライウルフの外見は外部には伝わっていない。無限色彩保持者であるクレセントの存在自体が機密扱いであることもその理由の一つだろう。
 だからこそ、気付かれる前に全てを終わらせなくてはならない。カルマ・ヘイルストームにももしもの時のために約束は取り付けたが、なるべくならば彼の手を借りずに終わらせてしまいたい。
 ラビットはかつて軍を離れた時からさほど変化のない港を、迷いのない足取りで歩き続ける。港に並んでいるのは軍が所有している、もしくは軍の許可を得て停泊をしている個人の船。あらゆる色に染め上げられた船が並んでいるのは、ラビットの目にもわかる。
「変わらないな、ここも」
「そうだろ」
 声が、返ってくる。ラビットはそちらに目を向けた。赤い軍服に身を包んだ一人の男が、壁に寄りかかるようにして立っていた。
「……何も変わっちゃいないさ。見た目にはな」
 レイ・セプターは言いながら、ひらひらと手を振ってみせた。ラビットも手を振り返そうと思ったが、左手にはトランクを持っているし、既に右手は無いことを思い出して軽く頭を下げた。
 それから、サングラスの下で軽く目を細めて言う。
「何故、貴様がここにいる?」
 あまりに横柄なラビットの言い分に、セプターは思わず苦笑を浮かべた。
「お前さあ、何か昔より口悪くなってない?」
「前からだ」
 ラビットはさらりと流してみせる。実際には、単にセプターをからかっているだけなのだが。それに気付いていないわけでもないのだろう、セプターは笑って言った。
「シリウスから話を聞いてな。そろそろ上からも大目には見てもらえないと思うぜ、シリウスや他の皆に迷惑かける前に、さっさと病院に帰った方がいい……俺が笑っていられる間にな」
 ラビットは低い声で唸るように言う。
「最後通牒か」
「そう捉えてくれて構わねえよ」
 セプターは言って肩を竦めた。ラビットは赤い瞳でじっと、セプターの緑の瞳を見つめた。セプターもじっとラビットを見つめ返す。人の姿が見えない港で、二人はしばし沈黙し……同時に、噴き出した。
「ははっ、馬鹿か貴様は! 脅そうというなら、もう少し真面目な顔をして言え」
「お前もさあ、もうちょっと本気っぽく言ってくれないと面白くねえじゃん」
 少々不服そうなセプターに、ラビットはにやりと笑って言い放つ。
「いや、私は貴様が『冗談』という技術を覚えたこと自体に敬意を表し、付き合ってやったに過ぎんからな」
「あのさあ、お前どのくらい俺のこと馬鹿にしてる?」
「基本的に貴様は馬鹿。それ以上でも以下でもない。いや、以下の可能性は十分にあるか」
「……酷いだろう、いくらなんでもそれは」
 セプターは流石に歯に衣着せぬラビットの物言いにちょっとだけ傷ついたのだろう、軽く眉を寄せた。ただ、そこでやっと気付いたのか、目を丸くして言った。
「そういや、お前……そうやって笑ったの初めて見た」
「ああ、そうかもしれない」
 ラビットは微笑を浮かべたまま言った。長らく、自分も笑う事を忘れていたから。声を出して笑うなんて、長い付き合いであるセプターですら、「初めて見た」と言うのだから、きっと今まで……ラビットの記憶の中でも一度もなかったのかも、しれない。
 だが、今は。
「何故だろうな、妙に可笑しいんだ。本当は笑っている場合でもないのだと思うのだが」
 言って、ラビットは軽く笑みを歪める。セプターも笑顔ながら多少真面目な声で言葉を放つ。
「……どうせ、俺が何言ったってここを出て行くつもりなんだろ、お前」
「ああ」
「何処に行くんだ?」
 セプターは静かに問いかける。ラビットはしばし的確な言葉を見つけようと視線を宙に彷徨わせていたが、やがて左右非対称の笑みを戻して言った。
「 『彼女』のところに、だ」
 その答えを聞いて、セプターはやれやれとばかりに大げさに溜息をついてみせた。
「お前さあ、そんなことばっかり言ってるとあの世でミューズに怒られるぞ」
 流石にその言葉には、ラビットもあからさまに嫌な顔をした。
「せいぜい気をつけるとするよ。貴様はこれからどうするつもりだ?」
「どうするもこうするも、今まで通り。今までと変わったことといえば、セシリアもこっちで暮らすことになったってことくらいかな」
「結局、彼女は地球には帰らないのか」
「やっぱり、セシリアも俺の仕事のこと気にしてるらしくてさ。歌は何処でも歌えるから、って言ってくれたんだ」
 セプターは多少気恥ずかしそうに頭をかきながら、言葉を続けた。
「その、近々アークで式を挙げるからさ。その時には顔くらいは出してくれると嬉しい」
「そうだな。祝いの言葉はその時に。……まあ、実際にはアークに入れるかどうかも怪しいところだが」
「またシリウスにでも頼めば入れてもらえるって。ほら、セシリアもお前に会いたがってるしさ」
 その言葉は、ラビットにとっては意外なものだった。何しろ、セシリアはラビットを、クレセントを未だに恨んでいるものとばかり思っていたから。あれから少しは軋轢も和らいだかもしれないが、それでも彼女が自分からそう言い出すとは最低でもラビットは思っていなかった。
「セシリアが、私に?」
「まだ色々引っかかるものはあるけど、それでも、お前は大切な家族だから、ってさ。いつでもいいから遊びに来てくれ……俺もセシリアも、歓迎するから」
 家族、か。
 ラビットは口の中で呟き、苦笑する。ラビット……クレセントとミューズ。そしてセプターとセシリア。四人での不思議な共同生活はそう長く続いたわけではなかったけれど、自分の中でもそれを「家族」と呼ぶに相応しいものだと、思った。
「ありがとう、セプター。セシリアにもよろしく言っておいてくれ。それと……」
 一つだけ、お節介かもしれないが言わなくてはならないことがある。ラビットは口を開こうとして、セプターに遮られる。
「言わなくたってわかってる。お前、俺のこと心配してくれてるんだもんな、いつも」
 ラビットは驚いてセプターをまじまじと見つめた。セプターは明るい緑の瞳を細めて無邪気に笑う。
「俺さ、あれからちょっと考えたんだ。もう前線に立つの止めようかなってさ。お前が前に言ったとおり、セシリアに心配かけてばかりでよくねえな、って思ったんだけど」
 その双眸の中にあるのは、何処までも真っ直ぐな、光。
「俺、まだどうしても退けないみてえなんだ。今回のこと……『無限色彩』のことも、上のやり方も正直納得できていない。だから、俺はまだ退かない。で、退けないんだったら、俺のやり方で頂点を目指してやる。俺は馬鹿だから『上』にゃなれないけど、それと対等に近い場所にまでなら届くはずだ」
「……『軍神』か」
 『軍神』。
 この巨大な軍の中で……いや、おそらく我々が知る宇宙の中でも最も「強い」と認められた人間に捧げられる、称号。
 誰よりも恵まれた才能を持ち、誰よりも『軍神』に近い存在ながら、常に『軍神候補』でしかなかったこの男にただ一つ、決定的に足りなかったもの。ラビットはそれを前から知っていて、あえて言わなかった。
 言えば、危険も厭わず、本質を見失ったままにそこを目指すと思ったから。
 同時に、言わなくとも、いつかは自分で気付くと信じたから。
「だけど、お前が思うような、今までの『軍神』みたいな軍の殺人人形にはなれないし、ならない。俺は、俺のままで『軍神』を目指してやるって決めたんだ。『強い』ってのは、ただ人を殺すのが上手いだけじゃねえって、証明する」
「随分と大げさな事を言うな、セプター」
 今までのラビットならば、まず『不可能だ』と断じるところだっただろうが、あえて今はこういう言い方を選んだ。セプターはにやりと笑って、言い放つ。
「目指すだけならタダだろ? それに、辿り着くまでは俺は絶対に死ねない。辿り着いたって、死んでやるものか。ただのわがままかもしれないけど、俺は俺が納得するまで戦い続けようと思う。笑うか?」
「いや、笑わないさ」
 ラビットは静かに首を横に振った。
「……素直に、貴様がその答えに辿り着いたことを評価するよ。他の人間なら辿り着けない領域でも、貴様は馬鹿で天才だからな。いつかは辿り着けると私が保証する。ただ、一つ約束しろ」
「約束?」
「今貴様が言った通り、絶対に戦いの中で死ぬな。もし背中でも斬られて死のうものなら、末代まで笑いものにしてやる。最悪の方法でな」
 本当にお前ならやりそうで怖いな、とセプターは笑みを引きつらせた。実際、ラビットならば本気で言った事を実行に移すだろう。しかも、常人が考えうる「最悪」の斜め上を行くような形で。
「じゃあ、俺は戦いの中で死なないって約束するから、お前も、嘘でも二度とあんな事は言うなよ」
「あんな事?」
「 『生きている理由もない』ってさ」
 ああ、そんな事を言ってしまった気がする。ラビットは微かに苦い表情をした。本当ならば、ラビットとてセプターにそう偉そうな事を言える立場ではないのだ。
「わかった、二度と言わないと約束しよう」
「それじゃ、決まりだな」
 セプターは言って、左手を差し伸べた。そこには、一枚のカードキーが載せられていた。その表面には、決して上手くない走り書きで『ディバイン』と記してある。それは紛れもなくクレセント・クライウルフの筆跡であった。
「返すよ。長い間預かってたから、まともに動くかは保証しないけどな」
「整備くらいしておけ」
「それはお前の仕事だろ。俺は操縦専門」
「……そうだったな」
 軽く頭を抱えるような仕草をして、ラビットは鍵を受け取った。すると、「ああ、もう一つ」とセプターはポケットを探り、何かをつまみあげた。それは、青いビー玉だった。何故セプターが持っているのか、と不思議に思うラビットにセプターが説明する。
「塔に落ちてたんだよ。お前のだろ? 正確には彼女のものだっけ?」
「ありがとう。彼女に、返しておくよ」
「よろしく」
 ラビットはビー玉をコートのポケットの中に入れる。そこを居場所と定めたビー玉は、ころころとポケットの底を転がっている。その感触もどこか、懐かしい。
 鍵を左手に持ち直し、トランクを小指に引っ掛ける。黒いコートを翻し、ラビットはセプターに背を向けた。ラビットの目の先にあるのは、銀色の船。幾度となく修理を繰り返し、それでいて星の海の遥か先を幾度となく見つめてきた、記憶の船。
 一歩、また一歩。
 足音をたてて、船へと近づき、やがて磨き上げられた扉の前に立つ。何だかんだ言っていたが、実際にはきちんと手入れがされていた。おそらく、この日が来ることをセプターも理解していたのだろう。
 鍵を通し、扉が音もなく開く。
 ゆっくりと足をあげ、船に乗り込もうとした、その時。
「……クレス!」
 セプターの声が、響いた。
 ラビットは、ゆっくりとそちらを向いた。
 セプターは何処までも晴れやかに、笑っていた。
「じゃあな!」
 だから、ラビットも笑った。
 セプターすら知らなかった、ラビットにしかできない笑い方で、別れの言葉を告げる。

「じゃあな、セプター!」