クロウ・ミラージュとリーオン・フラットは、ディスプレイの向こうのカルマ・ヘイルストームと向き合っていた。カルマは相変わらず血の気の引いた顔色をしていたが、その笑顔を見る限り随分具合はよさそうだった。
『ごめんね、上が厳しくて、今まで繋げなかったんだ』
「……ううん、私も、同じ」
その名の通り黒いワンピースに身を包んだクロウは、変わらずたどたどしい喋り方で呟く。そう……ラビットの胸に剣を突き立ててみせたあの時の彼女とは全くの別人のようにも、見えた。
カルマは柔和な微笑みを浮かべたまま、言った。
『そっちは大丈夫だった?』
それは、勝手に地球に出て行き、力を振るった事を言っているのだろう。自分も、カルマも、『白の二番』クレセント・クライウルフほどではなくとも強大な力を持っていることには変わりないのだから。
だが。
「見逃して、貰った。多分……」
トゥールが、自分の行動を補助するために裏で動いていたということをクロウは知っている。結末を見越して、あらかじめあらゆる策を練っていた彼らしい。
『うん、僕も大丈夫だった。やっぱりトゥールさんはすごいな。まあ、これからは頼るわけにはいかないけどね』
明らかにカルマの笑みが翳った。クロウもほんの少しだけ眉を寄せた。
「カルマ」
『正直、信じられないんだよね、トワのことも、白兎のことも、トゥールさんのことも。全部全部、夢みたい……いや、奇跡だったのかなって今は思う』
「奇跡は……」
クロウは、口ごもる。元より喋るのが得意でないクロウが正確な事を言うのは難しかった。ただ、無限色彩を使わなくとも付き合いの長いカルマのこと、彼女の言いたいことは正確に伝わった。
『ごめんね。そうだよね……奇跡は奇跡だけど、偶然じゃない。それは、僕もわかってたんだけど、つい。ああ、それと、いつも思ってたんだけどさ』
何とか一瞬その場に流れた暗い雰囲気を払拭しようとカルマは一転いたずらっぽく笑ってみせる。
『何で、クロウってわざとそんな喋り方してるの?』
その問いには、クロウと、そしてその後ろにいたリーオンが目を見開いた。やがて、クロウが微かに笑った。本当に、微かでクロウのことをよく知る人間でなければ見分けることの出来ないほどの笑い方だったけれど。
「真面目に喋ったり考えたりすると疲れるからに決まっているでしょう」
淡々と。
一見小さくか弱い少女の唇から放たれた言葉に、カルマは一瞬呆気に取られて……そして笑い出した。
『あはは、クロウらしいや。あ、ごめん、お客みたい。それじゃあまたね』
「うん、また」
クロウは少女らしい仕草でひらひらとディスプレイの向こうに手を振った。そして、ディスプレイからカルマの姿は、消えた。
二人の無限色彩の会話をただ黙って聞いていたリーオンは、そこで初めて口を開いた。
「……クロウ、変わったな」
「何?」
「そうやって、笑って冗談を言えるようになるとは、思わなかったから」
言って、嬉しそうに微笑む。クロウは完全に冗談というわけでもないのだけど、と思いながらもリーオンを見上げて笑う。今度は誰が見ても笑顔だとわかるそれで。
多分、とクロウは思う。
自分がこう笑っていられるのも、一つの奇跡を見ることが出来たから。自分もまた、疎ましく思い続けた自らの力で奇跡を起こせるのかもしれないと信じられるようになったから。
――――そうでしょう、トワ、そしてラビット。
笑いながら、クロウは思う。奇跡の主である二人の顔を思い浮かべて……そして笑顔のままリーオンの手を引いた。
「行こう、リーオン」
「ああ」
黒い少女と赤い服の軍人。何処か歪な二つの影は部屋の影へと溶け込むように消えていった。
時間は少しだけ遡る。
ケイン・コランダムは長い長い病院の廊下を歩いていた。
今日も心を失ってしまった妹グローリアを見舞うために。
地球での任務が終わってから、帝国も『青』奪取に失敗したからだろうか、やけに静かだった。お陰でこうしてコランダムも毎日足しげく妹の元に通えるというわけである。
だが、コランダムは何かやりきれないものを感じていた。
無限色彩。『青』。そして『白の二番』。
強大な力を持った存在が世界に放たれ、混乱を巻き起こした一連の事件。そのほとんどが、軍の上の人間によって「無かったこと」となった。ただ信じられるのは自分の経験だけ、だがそれもまた夢のようで。
……考えるべきではないのだろう。
そう断じて、思考を閉ざす。コランダムは優秀な軍人だった。優秀であるということは、自らが認めきれない部分を割り切るのが上手いということでもある。それでも、胸の中に小さな靄は残り続ける。
おそらくそれは、どうしても消すことの出来ない無限色彩に対する「やりきれなさ」。
心を失った妹の姿に、もういないはずの弟の姿が重なって脳裏に映し出される。それも首を振って何とか振り払う。
そのような思考にふけっていたコランダムは、前から歩いてくる影に気付かなかった。
影は、コランダムに向けて軽く頭を下げ、それからコランダムの横を行過ぎた。それでコランダムも初めて気付いて頭を上げたが、その頃には影はコランダムの後ろ数メートルのところを歩いていた。
振り向けば、影は短く切った真っ白の髪をしていて、白い服を身に纏っていた。
……白兎。
呼びかけようとしたが、声は出ない。ラビットは何もなかったかのように、早足に歩いていく。この病院でリハビリをしているとは聞いていたが、あれから顔を合わせることはなかった。それに、ラビットは本来コランダムを故意に避けていてもおかしくないのだから。
ただの偶然だろうか、それとも。
「コランダムさん!」
突然、病院という空間には似合わぬ看護士の大きな声が、廊下に響き渡った。コランダムははっとしてそちらに顔を向ける。看護士は妹、グローリアの部屋から顔を出して、慌てた様子で繰り返す。
「グローリアさんが、グローリアさんが……っ」
「グローリアがどうした!」
コランダムも、一瞬この場所が病院である事を忘れて、部屋の中に駆け込んだ。
すると、『目が合った』。
ベッドの上に身体を起こし、じっとこちらを見つめる青い瞳と。自分とまったく同じ色をした、夜を映しこんだような深い青の双眸と。
「グローリア……?」
グローリアは、ゆっくりと瞬きをして、嬉しそうに笑った。
「おにいちゃん? おにいちゃん、だよね?」
小さな唇から放たれた声は擦れていたけれど、はっきりとコランダムの耳に届いた。コランダムはふらふらとグローリアに歩み寄り、その身体を強く抱きしめた。
「私がわかるのか、グローリア」
「うん……わかるよ、おにいちゃん」
グローリアも、長年意識を失っていたからだろう、腕に力はなかったが、それでもコランダムの身体を抱きしめ返そうとしているのは、わかった。
「でも、どうして……」
グローリアは、二十五年間、起きているとも眠っているともつかない状態で、自らの意思というものを失っていた。それが何故、今になって。
「わるい、ゆめをみていたの」
ぽつり、と。グローリアは言った。コランダムははっとしてグローリアを見つめた。グローリアは小さな子供のように……事実、彼女の時間は六歳のまま止まっているのだが……今にも泣き出しそうな顔で言った。
「こわい、ゆめだったの。パパとママが、こわいかおをしてライトをおこってる、ゆめ。わたし、それをドアのむこうでみてるの。それで、パパは、ママは……」
そうだ。
コランダムはやっと気付いた。グローリアはあの瞬間を見ていたのだ。一番近い場所で、無限色彩保持者であった双子の弟、ライトが両親に殺されそうになっていた瞬間を。そして、その弟ライトに心を壊されて今に至った。きっと彼女にとっては果てしなく長い、長い夢だったのだろう。
コランダムは余計に強くグローリアを抱きしめて、言った。
「それは、夢だ。悪い、夢だ」
紛れもない現実ではあったが、コランダムはきっぱりとそう断じた。グローリアはコランダムを見上げて、言葉を続ける。
「そんな、ゆめを、みていたの。ずっと、ずっと。そうしたら、こえが、きこえたの」
「声?」
「おはよう、って。パパがいつもいってくれるみたいに。めをあけたら、パパじゃなくて、おいしゃさんだったの」
グローリアは、必死にその時の事を説明しようと言葉を選ぶ。
「まっしろな、おいしゃさんなの。まっしろで、めがあかくて、うさぎさんみたいなひと」
まさか。
意識せずともコランダムの脳裏には先ほどの後姿が浮かび上がる。
もちろん「彼」の存在を知らないグローリアは一生懸命に続ける。
「わたし、ねむってたんだって、おいしゃさんはおしえてくれた。びょうきで、ずっと、ずっとねむってたって。そのあいだ、パパとママはいなくなって、いろんなことがかわっちゃったけど、それは、おにいちゃんがおしえてくれる、って。……もう、こわいゆめはおしまい、って。おいしゃさんも、いってくれたの」
「ああ、もう大丈夫だ。パパとママには会えないけれど、これからは、私がついている。何も怖いことはない」
「うん、ありがとう、おにいちゃん」
グローリアはコランダムの言葉でやっと不安を払拭したのだろう、嬉しそうに笑ってみせた。そして。
「ねえ、おにいちゃん。わたし、ねるまえに、やくそくしたよね」
「うん?」
「おにいちゃんと、ライトと。ゆうえんち、いっしょにいこうって……」
遊園地。その言葉にコランダムははっとした。
長きに渡ってコランダムの中に存在した、叶わぬ過去の約束。だが、グローリアが目覚めた今、それは決してただの過去ではない。
「おいしゃさんも、げんきになったら、おにいちゃんにつれていってもらいなさい、っていってくれたの」
グローリアの言葉は、コランダムの小さな疑問に対する完全な解答だった。コランダムは目に涙を溜めた。
「そうだな、グローリア……もう少しグローリアが元気になったら連れて行くよ。もちろん、ライトも一緒に、だ」
繋いだ小さな手の記憶。グローリアが、そしてあの時一番喜んでいたはずの小さな弟が、はっきりと覚えていたのだろうあの約束。今度こそ、叶えることができるのかもしれない。
「ねえ、おにいちゃん、ライトはどこ?」
無邪気に、グローリアは問いかける。コランダムは柔らかに微笑んだ。
今だけは、無限色彩に対する怒りを忘れて感謝を捧げ、また忘れられない小さな弟の姿と、奇跡の主である白い男の姿を思い浮かべながら。
「ああ、ライトは」
「階下ではグローリアさんが目覚めたって大騒ぎみたいだよ、クレセントさん」
カルマは楽しそうに笑いながら廊下の方を見やり、「ああ、今は『ラビットさん』って呼んだ方がいい?」と聞いた。カルマの部屋に訪れた「客」……ラビットもまた壁の向こうを見るかのように目を細めながら、軽く首を振った。
「別にどちらでも構わん」
「それじゃあ今までどおりで。で、クレセントさん、今度はどんな手品を使ったの?」
「貴方が聞くか、カルマ・ヘイルストーム」
ラビット、クレセント・クライウルフは微かに口元を歪めた。それが彼の笑い方だということは、カルマもよく知っていた。今回の事件で顔を合わせることはなかったが、本来ラビットとカルマは『無限色彩』の『白』同士ということもあり、長らく友人として付き合ってきた。
カルマは笑いながらもラビットに向き直り、金色に輝く瞳でラビットの赤い瞳を見据えた。
「僕でも、彼女の心は取り戻せなかったからね。まあ、唯一そんな奇跡が起こせるとしたらクレセントさんだけかな、っていう気はしてたけど」
「……何をしたというわけでもない。奇跡ですら、ない」
ラビットはぎいと椅子の背もたれに寄りかかり、窓の外を見る。青い空から、ラビットの目には眩しすぎる光が降り注いでいる。
「ただ、少しこの手で触れて、『思い出させた』だけだ……」
カルマは、そんなラビットの横顔をじっと見つめていた。ラビットの口端は歪んだままだったが、それは多少の痛みを伴っているようにも見えた。だから問う。
「あの時のこと、思い出すのは辛かった?」
「少しな」
「ごめんね、悪い事を聞いたかな」
「いや、いいんだ。いくら彼女を取り戻そうと、彼女の二十五年間を奪ったのも間違いなく私で、その罪は変わらない。こんなもの、償いにもなるまい」
ラビットは肩を竦めた。カルマは「相変わらずマイナス思考だなあ、クレセントさんは」と苦笑しながらも言葉を紡ぐ。
「だけど、過ぎてしまったものは変えられない。クレセントさんが取り返しのつかない罪を犯したことは僕も認める。罪っていうのはいつも取り返しのつかないものだ。ただ、償うチャンスを与えられただけでも、クレセントさんは幸せ者だと思うよ?」
「……そうかな」
「そうだよ、そう考えた方が、幸せになれるよ? それから、クレセントさんが幸せになれば、きっとグローリアさんも、お兄さんも幸せになれると思う」
カルマは何処までも、明るく言い放つ。だから、ラビットもまた、少しだけ笑った。それから、笑顔のままではあったが、決然とした声で言った。
「カルマ、私は、決めたよ」
「知ってるよ。前から決まってたくせに」
「ああ、全く貴方はいつもお見通しだな……協力してくれるか?」
淡々と放たれたラビットの言葉に、カルマはにやりと悪巧みを思いついた子供のような笑みを返した。
「もちろん」
Planet-BLUE