バルバトス・スティンガーは、ヴィンター・S・メーアと向き合っていた。
スティンガーはこの状態が何よりも不可解だと認識している。まず、あの瞬間に死んだと思っていた自分がセントラルの病院で目を覚ましたことも、全ての行動を失敗という形で終えた今もなお、この場所にいられることも。
そして、誰よりも自分を恨んでいるはずのメーアが、奇妙な表情で目の前に立ち尽くしていることも。
「残念でしたね、バルバトス・スティンガー」
ふと、メーアが口を開いた。スティンガーはベッドの上に腰かけたまま、軽く自嘲気味な笑みを浮かべて応えた。
「ああ……だが、何故だろうな」
トゥールに全てが暴かれてから、もはや敵わないと割り切って考えていたからか。
それとも、初めから無意識下でこのような形で終わることを予感していたのか。
そのどちらかはスティンガー自身判断できなかったが、ただ。
「今では、これでよかったと思っているよ」
白兎が放った炎に包まれる直前に見た『青』の目の色は、スティンガーの脳裏に焼きついて離れない。鮮やかな、光を含む海の色。それはスティンガーにとっての始まりであり終わりだった青。
遠い空に消えた、愛する者リコリス・サーキュラーの青。
「質問に答えていただきます。拒否権が無いのはわかっていますよね」
「ああ。何でも答えよう」
ここで首を絞められても、胸を穿たれても文句を言えない立場のスティンガーは、リコリスの弟であるフォレスト・サーキュラー……メーアを見た。メーアは柔和でありながら冷徹な笑みを無理に浮かべようとしていたが、それは多少歪んで、見えた。
「貴方の目的は大体のところ理解しているつもりです。しかし一つだけ、解せないことがあります。貴方は、何故、最後に『青』を殺そうとしたのです?」
そう。
メーアも気付いていなかったのだろう。スティンガーもメーアも、愛するリコリスと『青』を重ねていたのは同じ。
だからこそ、メーアは同類であり、それでいて『青』の幸福を奪おうとする敵であるスティンガーの目的も九十九パーセントまでは理解し、裏でスティンガーを牽制する形で動いていた。また、スティンガーも元よりメーアの正体に気づいていたが、そこまで手を回せずにいたのも事実。
だが、スティンガーの目的は、あくまで『青』の奪取、封印であり、それ以上ではない。そう、メーアは判断していたのだろう。だからこそ、そう問うのだ。
とはいえ。
「わからないわけではないだろう、メーア。私は、ただ、恐ろしかったのだ」
スティンガーは真っ直ぐに、鋭い瞳でメーアを見据えた。
「リィと同じ目をして、それでいてリィを殺し私を破滅させた、『青』という存在が」
「姉さんは『青』に殺されたわけではありませんよ」
「同じことだ。そう、同じことだと思っていた」
思っていたのだ。あの塔の頂上で、『青』と相対するまでは。
リコリスとそっくり同じ色をした、あの目を覗きこむまでは。
メーアを見据えながら、スティンガーは力なく笑う。
「私はリィを守りたかった。『青』……サフィも守りたかった。二つを救うには、『青』という力そのものを消してしまえばよいと思っていた。むやみに大きく、サフィの肩には重過ぎるそれを消すためには、サフィを消すしかないと、思い込んでいたのだ。それがサフィにとっての救いだと」
馬鹿だろう? 私は。
乾いた笑い声を立てながら、スティンガーは言った。
「無限色彩は悲しみの連鎖を引き起こす。クレセント・クライウルフの、あの臆病な『白兎』の例を見ずとも明らかだ。それでも奴は最終的に辿り着いた……自らの無限色彩を、そして自らを認める領域に。そして、サフィも決して『青』に振り回されているだけではなかったと、気付かされてしまった」
それが、『子午線の塔』の頂上で見た、瞳の色。限りない不安で翳りながらも、真っ直ぐな意志を込めた、青い瞳。
スティンガーを迷わせた、最後の一瞬。
「……愚かですね」
メーアは大樹の色をした目を細め、吐き捨てるように言った。
「もちろん、私が言えた義理でもありませんが」
結局のところ、『青』に姉の姿を投影したメーアが目指した『青』の幸福も、スティンガーが目指した『青』の幸福も、『青』本人にとっては見当違いの方向だったといえる。そういう意味で、メーアは言ったのだろう。
どちらにしろ、『青』の幸福を願うのも、結局は自分のためでしかないのだから。
「貴方の意志は理解しました。だから何になる、というわけでもありませんがね」
「それで、私はこれからどうなる?」
スティンガーはあくまで静かな声で問うた。この病院に入れられてから二ヶ月以上が経過しているが、それについては誰もまだはっきりとしたことを伝えていなかった。
自らの子飼いであった『駒』……シュリーカー・ラボの人口無限色彩保持者たちはトゥールとメーアの助けにより自由になったという話はヴァルキリーから聞いているが、自分はどうなるというのか。
メーアは多少感傷を込めた声から、普段どおりの淡々とした声に戻して告げた。
「それは私が判断することではなく上が判断することであり、何しろ奇妙な顛末だったため、現在もなお検討中ですが……当然貴方が今の地位にいることは出来ないでしょう」
「それはそうだろうな」
帝国と内通し、『青』を殺害しようとした。それだけで、ここにいられるはずがない。秘密裏に消されていてもおかしくないくらいの、罪状だ。
しかし、メーアは軽く苦い表情を浮かべて、言った。
「ですが、連邦軍が貴方を手放すことも無いでしょう」
「何?」
その言葉には、スティンガーの方が驚くことになった。
「利用価値がある、ということですよ。貴方は確かに帝国と繋がっていた、だがそれは逆を返せば帝国の情報を持っているということでもある。貴方が帝国と手を切ったということは帝国側も認めていますしね。そして、何よりも貴方の武器は、我々連邦、そして帝国双方を欺き通すほどの高度な情報戦能力」
ああ、そういうことか。
スティンガーはメーアから目を離し、天井を仰いだ。天井は染み一つ無い、白だった。じっと、その白を見つめながらぽつりと、一つの事実を呟く。
「トゥールの抜けた穴を、埋めろということか」
トゥール・スティンガー。弟であり、また全てにおいてスティンガーを数段上回る天才だが、情報収集、改竄能力に置いてのみ言えば同等、もしくはスティンガーの方が上だった。トゥールもそれを理解しているからこそ、常に一人ではなく数人で行動し、死人でありながらこの連邦の情報を司る存在として君臨していた。
そのトゥールがいなくなった今、その役割を負え、と言われているのだ。
「その通り。当たり前のことですが、彼よりはずっと不自由をする羽目になりますよ。貴方が裏切者であることは覆せない事実ですから」
スティンガーは軽く目を伏せ、小さく笑った。
「随分と甘い措置だな」
「私もそう思いますが、前後の事態があまりに特殊すぎて、上も混乱しているのでしょう」
言ってメーアもやけに大げさに肩を竦めてみせた。その仕草は今まで見てきたメーアらしからぬものだったが、何故かスティンガーはそこに初めて「メーアらしさ」を感じた。
もしかすると、スティンガーもそう何度も顔を合わせることの無かったフォレスト・サーキュラーという男は本来もう少し「メーア」とは違った気質の持ち主だったのかもしれないと思う。今更だが。
「それでは、長々と失礼しました。出来ることならもう会うことが無ければよいのですけど」
メーアは席を立つと、相変わらずの少々嫌味を利かせた言葉を投げかけて背を向ける。スティンガーはその背で揺れる茶の髪を見つめながら、小声で呼びかけた。
「……メーア」
メーアは軽く眉を寄せて振り返った。
「何ですか?」
「今回の措置、何処までがトゥールの指示だ?」
スティンガーの問いに、メーアは微かに表情を歪めて答えた。
「全てです、そう、全てですよ。悔しいことに。貴方もわかっているでしょう」
そのまま、メーアは部屋を出ようとして……一瞬足を止める。
「ああ、貴方にお客様のようですよ? では私はこれで」
投げかけるように部屋の中に言ってから、メーアは立ち去っていった。客? とスティンガーが不思議そうな表情を浮かべていると、メーアと入れ違いで一人の男が入ってきた。
スティンガーは、思わぬ来客に目を丸くした。
そこに立っていたのは、白い髪に赤い瞳の……そう、最後の最後でスティンガーの敗北を決定付けた『白兎』。白い病人服に身を包んでいるとそれこそ幽霊のように見えて背筋が冷えるが、それ以上に彼がこの場にいることそれ自体にスティンガーはぞっとさせられた。
確かにあの事件の後この病院に搬送されたと聞いていたが、まさか自分の前に姿を現すとは思ってもいなかったのだから。
「……邪魔をする」
ラビットは言いづらそうに口端を歪めつつぽつりと言葉を放つ。
「あ、ああ。何の用だ?」
スティンガーも彼らしからぬ動揺を顕にしていた。何しろ、自分はラビットが守るべき『青』を殺そうとした張本人である。事実あの瞬間ラビットは迷いなく自分に向かって敵意の炎を向けてきたではないか。その炎に焼かれた右手は今やほとんど使い物にならない。
なのに、何故。
目の前の白兎は妙に静かで、またこちらに何ら敵意を抱いているようには見えないのか。
「用という、程でもない。ただ……」
そこで、ラビットは傷ついたスティンガーの右手に目を向けて口ごもる。
スティンガーも、その仕草でやっとラビットの考えに気付いた。
「聞いたのか、ヴァルキリーに」
口を開かないラビットに向けて、スティンガーは短く問うた。ラビットは小さく、俯きがちに頷いた。それからのろのろと喋りだした。
「別に、全てを聞いたわけではない。軍の考えに興味は無いから」
元よりラビット、『白の二番』クレセント・クライウルフの軍嫌いは今に始まったことではない。ほとんど面識が無いといえトゥールから嫌というほど話を聞かされていたスティンガーもラビットがそう言うことくらいは予測できた。
「ただ、あの時……何故貴方が塔にいたのか、トワに銃口を向けたのか、理解できなかった。だから、シリウスからその理由を聞いて、それで貴方に会いたいと思った」
ぽつり、ぽつりと。子供のように、断片的な言葉を吐き出すラビットの姿は、この右手を炎に包んだ、凛とした意志を力として振るう無限色彩保持者とは全くの別人に見えた。
「会って、何をしようと?」
「わからない。ただ、会いたいと思った。何をしたいというわけでもない……その、迷惑ならすまない」
ラビットは小さく頭を下げた。多分、ラビットもまだ少なからず混乱しているのだろう。スティンガーの認識が一面的であるように、目の前の白兎が見ていた今回の事件もある一面に過ぎなかったのだ。自分の認識と全く違う一面を知って混乱するのは無理もない。
「謝らなくてはいけないな」
黙りこんでしまったラビットに向かって、スティンガーは静かに告げた。顔を上げたラビットは、不思議そうな目をしていた。
「私は間違っていたと思う。それはお前が正しいということではないのかもしれないが……正直、今はお前に感謝している。そして、私はお前に謝らなくてはならないと思う」
「違う、それは違う」
ラビットは困った表情で首を振った。
「私が決して正しくないように、貴方も間違っているわけではなかった。私は貴方を許せなかったように、貴方は『青』を許せなかった。結果はどうあれ、その時抱いていた意志自体は紛れもない貴方の真実だ。だから、貴方は謝ることはないと思う。最低でも、私には」
スティンガーは再び目を見開いてしまった。
ラビットが、無理にそう言っているようには見えなかった。ラビットは真剣に、守る対象である『青』を殺しかけた自分に向けて、心からそんな言葉を投げかけたのだ。
「今も貴方を許せないのは確かだ。だから私は貴方に謝ることは何もない。理由はどうあれ貴方はトワを殺そうとした。だが、その意志を失った今の貴方には、何も言えない……」
ラビットは呟くようでありながらはっきりと、そう言った。戸惑いと確固な意志という両極端な要素を言葉に乗せて。
スティンガーも何も言えなくなっていた。何という奴だ、という思いが胸を満たす。
「ただ、いつか、トワには謝って欲しいと思う。後、貴方の愛した人にもだ。彼女らは貴方を許さないかもしれない。……それでも」
「ああ、わかった。そうだな、謝るべき相手を間違っていた」
スティンガーは穏やかな表情で言った。本来ならば、自分はそんな表情を浮かべるべきではないのかもしれないが、目の前のラビットを見ていると、淡々としていながら深く響く声を聞いていると、静かで穏やかな気分になれた。
そういうものを何と形容すればよいのだろうか。しばし考えてから、スティンガーはラビットに向けて一つの言葉を投げかけた。
「お前は本当に『優しい』な、ラビット」
ラビットは一瞬表情の薄い顔に微かな驚きを浮かべて……やがて、何も言わずにただ苦笑した。その苦笑の意味はラビットを深くは知らないスティンガーが知るところではなかったが。
スティンガーはラビットの、兎のように赤い目を見つめて考える。
これが今まで続いてきた茶番の終わりであり、また、確かな始まりであると。
自分の物語はまだ、決して終わってなどいないのだ、と。
Planet-BLUE