Planet-BLUE

146 目覚め

 眩しい。
 カーテン越しの柔らかな日光でも、色素を失った彼の目には眩しい。
 ……光?
「目が覚めたか」
 聞き慣れた声が降ってくる。身体は上手く動かないため、目線だけをそちらに向ける。それは彼の目にはただの影のようにしか映らなかったが、そこに立っているのが誰なのかはすぐにわかった。
「シリウス……?」
 無意識に声に出してから、やっと彼の意識もはっきりした輪郭を帯びていく。ここは何処だ。どうして貴女がここにいる。いや、自分はどうなったのだ。それに、トワは。
 実際に口には出さないものの、彼の頭の中に浮かぶ無数の質問を、横に立つ女……シリウス・M・ヴァルキリーは当然のもののように了解しているようだった。小さくくすりと笑いを漏らし、言った。
「目覚めたばかりで長話を聞かされるのは辛くないか?」
「構わない。聞かせてくれ」
 擦れる声で、彼は呟く。ヴァルキリーもそう言われることを十分予想していたのだろう。小さく咳払いをしてから、淡々と喋り始めた。
 その内容は、かいつまんで説明すれば以下の通りである。

 彼……ラビットが現在いるのは、星団連邦首長星アークの首都、セントラルアーク。ラビットもかつて何度か世話になったことのある、大きな病院の一室である。
 地球に迫っていた『ゼロ』は消滅し、『子午線の塔』に一人で倒れていた昏睡状態のラビットを、レイ・セプターが救助した。その後、アークに引き返しラビットが病院に搬送されてから今目覚めるまで二ヶ月が経過している。昏睡の原因は不明。
 その間、聖とマーチ・ヘアも一時的にアークで聴取を受けていたが現在は解放され、その後の行方はヴァルキリーの知るところではない。

 また、ラビットと共にいたはずの『青』……トワの行方は依然として、不明である。

「……トワ」
 目を閉じ、小さく呟いたラビットの声が聞こえていなかったはずはないが、ヴァルキリーは意図的にラビットの言葉を無視して言葉を続ける。
「それと、お前が寝ている間にいろいろと調べさせてもらったよ。……そう嫌な顔をするな、研究所に渡さなかっただけでも感謝して欲しいものだな」
 人としてその扱いはどうかと思うが、しかしラビットも自分の立場を思い出して微かに眉を顰めるだけに済ませた。ヴァルキリーの言うことももっともで、いつ研究所に送られてもおかしくないのは確かなのだから。
 ヴァルキリーは一つ、溜息をついて言葉を紡ぐ。
「ともあれ、いくつか性質の悪い病気を併発していることがわかった。まあ、その中でも厄介なのはお前も自覚があるだろう、石化肢侵食症だな。あんなもの、普通ならば発症にも至らないものだが……一体どんな生活をしてきたんだお前は」
 ラビットは軽く目を逸らした。全て自覚はしていたが、改めて指摘されるとやはりいい気分ではない。
「他の病気はともかくとしても、石化肢侵食症についてはすぐに処置をしなければ命に関わる状態にまで及んでいた。お前がここまで放置しておいた理由もわからないでもないが、私の独断で手術を決行した」
 その「独断」という辺りがなんとも彼女らしい。彼女をよく知るラビットは今さらヴァルキリーの勝手な行動を恨む、ということもないのだが、失敗したらどうするつもりだったのだろうか、と思う。
 石化肢侵食症の手術は成功率で言えば五分。また失敗した場合のリスクはかなり大きいと聞く。今こうやってヴァルキリーの話を聞いていられるということは、手術が失敗したというわけではなさそうだが。
 ラビットの沈黙をどうヴァルキリーが受け取ったのかはわからないが、相変わらず淡々とした口調で続ける。
「手術自体は成功したが、既に機能を停止していた右腕の機能は戻らない上、肩口に負った傷の治癒が不可能なため、切除に至った。まあ、なくしかけた命を右腕一本で買ったと思えば、安いものだろ」
 ヴァルキリーはやる気のない言い方をしてひらひらと手を振ってみせる。なるほど、今までもろくに動かないから深く気に留めていなかったが、妙な身体の動かしづらさは右腕を切除してしまったことにも起因しているのだろう。
「……確かに、安い買い物だな」
 普通ならば「何処まで勝手に人の身体を」と怒ってもいいところなのかもしれないが、そんな気力がラビットにあるはずもなく。ただ、ついこの前まで無為に命を捨てようとしていた自分が悪いのだろうと思うことにした。
 それに。
「まあ、何だ」
 ヴァルキリーは言いづらそうに言葉を選びながら、微かに笑って言う。
「生きていてくれて、よかった」
 そう、今こうして生きていることの方が、重要なのだろう。
 ラビットもほんの少しだけ、笑った。笑えていたかどうかはわからない。ただ、ヴァルキリーの雰囲気を感じ取る限りは、自分もきちんと笑えたのだろうと思う。
「すまない。いろいろ、迷惑かけた」
「何、お前が私に迷惑をかけなかった時があるか。私に迷惑をかけるのがお前の仕事のようなものだろう」
 ……なるほど、それもそうかもしれない。
 ヴァルキリーの言い方が何となくおかしくて、ラビットはまた少しだけ、笑った。ヴァルキリーが穏やかな笑みを浮かべたまま、問う。
「それで、一つ、聞かせてほしいのだがな」
「何だ?」
「結局のところ……『ゼロ』とは何だったんだ?」
 ラビットは息を飲む。ヴァルキリーが真っ直ぐにこちらを見据えているのが、『わかる』。ヴァルキリーは疑っていないのだ、ラビットと、そしてトワが『ゼロ』を退けたことを。たった二人の無限色彩保持者が、結果的に一つの星を救ったのだと。
 それは、ある意味事実で、ある意味では間違いでもある。ラビットはそう思いながら、乾いた唇を開いた。
「未だに、私にもよくわからない。『ゼロ』はあまりに大きくて、正直自分があれと相対したことすら夢のようで、全てが理解を超えていた。ただ……『ゼロ』の光の中で、私は」

 忘れもしない。
 あのヴィジョンは……

「かつての自分を、見たんだ」
「かつての、自分?」

 笑う少年。黒い髪に青い瞳は、彼が時間を止めた瞬間の、「自分自身」。

「彼は、言っていた。『貴方の痛みは私の痛み。気づいてくれてありがとう』、『もう、独りじゃない』、『一緒に帰ろう』と」
 その時、忘れようとしていた彼自身の名前が呼ばれたのだけれども、それをヴァルキリーに言うことはやめた。
 ヴァルキリーはラビットの言うことを理解しようと微かに首を傾げていたが、やがて言う。
「 『ゼロ』は、つまりお前自身だったということか?」
「……だから、わからない、と。考えることはできるけれど」
 ラビットは、カーテンを細く開けた。ラビットの目にはただの明るい空間としか映らないが、空を染め上げる色は青なのだろうと思う。地球では失われてしまった、青い空。
「私は、『ゼロ』に妙な同調を覚えていた。それは、きっと『自らを否定するがゆえに全てを否定する』という姿勢そのものに対する同調だったのだと思う。『ゼロ』は触れたもの全てを消し去るものだったから。だが、『ゼロ』には実体がない。つまり、否定する『自己』は存在していない……ならば、『ゼロ』が否定したかった『自己』というのは、何なのだろう」
 言いながら、とてつもなく馬鹿な考えだと思う。ただ、言わずにはいられなかった。
 何もかもを消滅させる破壊の力、『ゼロ』が目指した先は、ただ一点だったのだから。
「……『ゼロ』は、つまり、地球それ自体が生み出した『心の力』だったのではないか、と。私はそう考えている」
「地球、が?」
「星、というものがある意味で一個の生命体と考えられるのは貴女の知るとおりだ。なら、『心』があったとしても、おかしくない。そして、もし星自体に『無限色彩』のような力が宿っていたら。生命は死滅し、残った生命も星を離れ、後は滅びるのみとなった自らを否定してもおかしくない、と思わなくもない」
 もちろん、それはあくまで人間側に立った言い分だ。実際に一つの星が何を考えているかなど、人間の知り及ぶことではないのだろう。それでも、『ゼロ』が抱く否定の力は、ラビットがかつて抱いていたものとよく似ていたから。だから、そう思った。
「 『ゼロ』の中で私が見たヴィジョンは、私自身であり、また私以外の全ての存在の『気配』だった。『ゼロ』は見放されゆく地球の嘆きであると同時に……地球に今生きようとしている人々の願いでも、あったのかもしれない」
 そして、ラビットとトワの願いが『ゼロ』を貫くとき。
 無意識に『ただいま』と言ったのは自分だった。そして、『ゼロ』だった。
 『おかえり』と返したのは……
「難しいことを言うな、お前は」
 目を閉じて思案するラビットに向かって、ヴァルキリーはやけに軽い口調で言ってのけた。妖霊系圏人のヴァルキリーにとっては、多少感慨の薄い話であるということもあるし、ラビットが考えすぎているのを察したというのもあるだろう。
「難しいことを考えさせたのは貴女だろう、シリウス」
 わかっていながら、思わずラビットは口を尖らせた。その表情がおかしかったのだろう、ヴァルキリーはけらけらと笑う。
「まあ、面白い話を聞かせてもらったよ。トゥールは嫌いだろうがな、こういう話は」
 絶対に好きではないだろうな、とラビットも思う。トゥール・スティンガーは今までも何度か引き合いに出されてきたが、何しろ裏づけのない理論を何よりも嫌う男である。ラビットの言うことなど一笑に付すに決まっている。
「……そうだ、トゥールは?」
 話に出たついでに、ラビットは聞いてみた。ヴァルキリーは一瞬ためらってから、首を小さく振った。
 それだけで、ラビットも全てを理解した。
 ラビットは、目を微かに開いて言った。
「片翼、トゥールに、返しておいてくれないか」
 今自分の左手には、旅の中で彼とトワを守ってきた『翼』の名を持つ篭手はない。何処にあるのかは知れないが、ヴァルキリーならばわかるだろうと思った。ヴァルキリーは「わかった」と一言言って、席を立つ。
「しばらくは養生することだな。今のままではろくに動けんだろう。お前が動けるようになった頃には、お前の処遇も決まるだろう」
「私の、処遇……」
 そうだ。長い間逃げ続けてきたが、本来『白の二番』クレセント・クライウルフ……ラビットの身柄は軍に拘束されるべきものである。今度こそ、それは避けられないだろう。
 だが、ヴァルキリーはいたずらっぽく微笑んで言った。
「まあ、上が今のお前を拘束できるかは、わからんがな。それじゃあ、また来るよ」
 ひらひらと手を振って、軽い足取りでヴァルキリーは部屋から去った。呆然とそれを見送ったラビットは、残った左腕で大げさに目を押さえた。
「何を考えているんだ、シリウスは……」
 ヴァルキリーの言いたいことは十二分にわかった。わかったからこそ、ラビットは呆れざるを得ない。
「だが、そうだな。その通りだ」
 ヴァルキリーの案はあまりに単純で、決して許されるものではなく、だがそれしか方法はないのも確か。ラビットは思いながら、脳裏にヴァルキリーの笑顔を描いてみせる。
「最後のわがまま、になるか」
 最後にして、最大のわがままだが。
 ラビットはもう一度窓の外の空を見つめて、呟いた。
「……ありがとう、シリウス」
 その声は、何処までも広がる青空に吸い込まれて、消えていく。