この旅の始まりは、偶然という名の、必然。
白兎は青い少女に出会った。永久、の名で呼ばれながら小さく儚い少女。けれども、その瞳に湛えた青は、確かに強い意志を秘めていた。何処までも広がる太古の青い海のように、全てを包み込むことの出来る力。
そして、少女は言った。
『わたし、ラビットと一緒にこの星を見たいの』
それは……少女の決断の旅であり、同時に白兎の決断の旅でも、あった。
この星は全てがモノクロームで、空に輝く破壊の申し子、『ゼロ』が存在しなくともそう遠くない日には滅びるであろう世界。
しかし。
この星で紡いだ記憶の色は万色……無限の色彩をもって色褪せずに焼きついている。
失いたくないのだ。この、悲しく優しい記憶を紡いだこの場所を。二人で、また数え切れないほどの人と歩んだこの星を。
だからこそ、二人の旅はこの場所で、終わる。
「トワ、手を」
ラビットはゆっくりと立ち上がりながらビー玉を握ったままの左手を差し出した。トワは一瞬躊躇ってから同じように左手でラビットの手を握り、立つ。
『ゼロ』が歌う。
二人はそれを見上げる。
孤独な魂はその絶望のうちに全てを消し去ろうとしている。最低でもラビットはそう感じ取った。自らを否定しまた自らの立つ世界全てを否定し、最後には何も残らない。『ゼロ』はおそらく孤独なまま昇華できなかった心を束ね、一つの破壊の力にしてしまった、ある『心の形』。
自分も、こうなる可能性があったのだろうか。
本質が否定者であったラビットは、思う。自分もまた、完全に全てを否定したとしたら、空に輝く青い光のように何もかもを飲み込み無に帰してしまっていたのだろうか。
それはあくまで仮定に過ぎない。
ラビットはここに立っている。冷たくなり始めている手で、トワの小さい、それでいて暖かい手を握り締めている。自分をこの場所に繋ぎとめてくれた少女は、ラビットの手とその中にあるビー玉の感触を確かめながら、微笑む。
――――ありがとう。
もう一度、心の中で呟く。きっと、トワに届いていると信じて。
――――ありがとう。
その言葉が、自分を繋ぎとめてくれた全ての人に届くと信じて。
自分は、決して孤独などではなかった。そう思い込んでいたのは自分ただ一人。それが間違いだと気づかせてくれたのもまた、トワと、自分を見ていてくれた人々であったと思い出す。
大丈夫、もうわかっている。
心の中に炎が灯る。二度と会えない人は心の中で今も赤いドレスを身に纏い、心の海の奥深くで笑い続けている。今度こそその目に別れの悲しみはなく、こちらを見つめて心からの笑みを浮かべている。
――――だから、貴方にも。貴方方にも。
最後の思いは、『ゼロ』へ。
――――孤独ではないのだと、気づいて欲しい。
ラビットの左の腕から伸びるのは白い翼。ラビットの心の中に広がる悲しみと優しさ、そしてラビットが今まで出会った人々の思いを束ねて広がる翼。
それが、ラビットの『無限色彩』の形。
翼は、願いに向けて羽ばたく魂そのもの。ラビットの願いは、『理解すること』。無意識下に本来ならば決して理解することのできない人の心を求め、人の心が生み出す絶望の中になお希望を見つけようともがいていたラビット自身の象徴であった。
そして、今はその翼が、ラビットの思いを貫く槍となる。
「貴女一人では重すぎたとしても」
ラビットはトワに微笑み返してみせる。
「二人なら、絶対に届く」
「……うん」
トワはぐっと、強くラビットの手を握り締めて、空を仰ぐ。胸元から漏れるのは青い光。それが、波紋のように広がっていくのがラビットにもわかった。同時に、身体に一気に圧し掛かってくる、形容しがたい圧迫感。
トワの無限色彩を、本当の意味で目の当たりにしたのはラビットもこれが初めてだった。
今までも、トワが自らの内に秘めた力を使ったことはある。自在に空間を転移し、周囲の景色を捻じ曲げ、傷を癒す。だが、その無限色彩の全てをトワが開放して見せたことはなかった。
無限色彩保持者には、それぞれの無限色彩の形がある。それは無限色彩を開放したときにのみ、現実の世界に顕現する。ラビットの白い翼のように。クロウの無数の剣のように。ミューズの炎の帳のように。
トワの無限色彩の形は……
ラビットは、それを見て思わず息を飲む。
海、だ。
自分たちは塔の上にいるというのに、ラビットの目に……この視力もまた無限色彩によって与えられたかりそめのものだとしても……映るのは一面の、青い海。
ラビットの心の深淵にあった夜の底を思わせる暗い海ではない。光を含み、世界を包み命を育む原初の海、それがこの空間に再現されているのだ。トワの無限色彩を通して。
そうか。
それが、貴女の無限色彩の形なのか。
広がる海と同じ色をした目のトワは、ラビットの思いを受け止めて、頷いた。その動きに合わせて幻の海がざわめく。潮騒が遠くに聞こえる気がして、ラビットは目を閉じてその音に耳を傾ける。
それは、トワの限りない力の形であり、同時にトワの心の形。ラビットの無限色彩が翼を模った、あらゆる思いを束ね、目指すある一点に向けて羽ばたき続ける意志それ自体の力であるように、トワの海はきっと何もかもをあるがままの形で受け入れ、なお静かに打ち寄せ返す、青の魂。トワの、本質。
トワは、海を知らない。
地球の海は、灰色に枯れて久しい。
だが、彼女の心は海を知っている。寄せては返す波を、その音色を知っている。
それはもしかすると、この星を離れ旅立った人間の中に今もなお息づいている、この星の遠い記憶、なのかもしれない。
「ねえ、ラビット」
トワは唇を開く。
「もし、全部終わったらラビットはどうするの?」
多分、わかっていてあえて聞いているのだろうと、ラビットは思った。先ほども言ったことであるし、それに、こう手を繋いでいれば、お互いの感情は手に取るようにわかる。
だから、ラビットは迷わずに言った。
「帰るさ。私の、天文台に」
帰ってどうするのか、というところまでは言わなかった。成したいことは山ほどあり、同時に成さなければならないことも山ほどあると思う。ただ、それらを全て成すだけの時間がラビットに残されているかどうかも、わからなかった。
トワも、ラビットの思いを受け止めたのだろう。上目遣いでラビットを見上げる。
「……わたしも、全部終わったら、一緒に行っていい? ラビットの天文台に」
「ああ、もちろんだ」
ラビットは頷いた。
「そのために、私はこの塔に来たのだ。貴女に会いに、貴女と力を合わせるために、そして、貴女と一緒に帰るために」
それは、きっと本来ならば許されないことなのだろう。トワは、ラビットよりもずっと能力の使い方を心得ているが、それでも本来ラビットよりずっと強大な力を秘めた『青』。今だけは軍からも見逃してもらっているが、次があるという保証はない。
だが、ラビットの言葉が本心から出たものであることだけは確かだった。これがラビットのトワに対する思いの全てであり、トワもその全てを受け止めて、笑った。
「お願いがあるの」
トワは言った。初めて会った時と同じ言葉を。
微笑んでいるが、実際には恐れや不安も少なからず残っているのだろう。握った手は微かに震え、広がる海が波立つ。
「この手を、絶対に離さないで。最後まで」
「ああ。絶対に、離さない」
ラビットはもう一度握った手の暖かさを確かめる。
もし、自分たちの思いが『ゼロ』に届かなかったら、どうなるだろうか。
もし、自分たちの思いが『ゼロ』に届いたとしても、この手を離す時が来る。動かない右腕が、冷たくなり始めている身体が、そうラビットに告げているような、気がした。
それでも。この手を握り締めていられる間は、絶対に離すまいと思った。この手が紡いだ記憶、二人がこの星で刻んだ足跡の全てがここにあるから。
孤独だった白兎と、孤独だった少女が、旅の中で見つけた答えが、ここにあるから。
さあ。
二人の紡いだ物語を、何処までも広がる海のごとき思いを、この純白の翼に乗せて飛ばそう。今もなお孤独な光に向けて。
トワの生み出す海が、ざわめきを増した。それはやがて力の渦となり、二人を中心に青色の螺旋を描き始める。それだけで、ラビットの翼はあまりに強大な『青』の力に耐え切れず耳には聞こえない悲鳴を上げ始める。
まだだ。
ラビットは暴れだそうとする翼に呼びかける。今もなお、ラビットの翼は、『白』の無限色彩は決して主に従順だとはいえないけれど、ラビットはそれを意志で縛り続ける。
不信、拒絶、否定。あらゆる負の感情を抱き、完全にそれらを昇華することは未だ叶わないが、それでも前に進むと決めた心は、そう簡単には折れない。折らせは、しない。
強大な力に引きずられ、そのまま引きちぎられそうになる意識を無理矢理に寄り合わせ、ラビットは混沌に満ちた思考の中で一つの明確なイメージを形作っていく。
それは、橋。
天に伸びる架け橋。
『ゼロ』へと届く、唯一の道。
ラビットの想像は、そのまま創造に繋がる。ラビットの翼から細く、しかし真っ直ぐと伸びる一筋の光が『ゼロ』に向かって放たれ、結びつける。拒絶そのものである『ゼロ』はその橋すらも消し去ろうと光を増すが、ラビットはぎりぎりのところで橋を保ち続ける。
そして、トワがそれを見据える。
これが、二人の行く道。
手を繋ぎ、橋のかかった空を仰ぐ。本来無色である地球の空に、二人が描くのはどのような未来か。
「 『ゼロ』 」
ラビットは口を開いた。その声は、凛と乾いた空気の中に響き渡り、空にも届く。
「私の答えを、そして彼女の答えを、貴方方に。この星を愛した私たちの思いを、貴方方に……」
「だから、どうか」
トワは祈るように目を細めた。
『……届いて!』
二人はよく似た微笑を浮かべたまま同じ言葉を叫び、握った左手を天に、『ゼロ』に向かって突きあげた。
その瞬間、青い光の螺旋が『ゼロ』にかけられた白い橋を駆け上り、天に向けて放たれた。
それはトワの『心の力』であり、またラビットの『心の力』。
二人が左腕に束ねた思い。
悲しい『ゼロ』に向けた、白兎と青い少女のメッセージ。
海の色をした青い光は青く輝く『ゼロ』を貫き……
世界が、青く、染まる。
Planet-BLUE